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定型詩から考える日本語の寡黙性

日本の定型詩としては、俳句短歌の五七調が独占していると言う状況だと思われます。これは最大でも31文字と言う、かなりの寡黙な詩と言うことができるでしょう。それに対して西欧の詩は、韻を踏ませて何行にもわたって展開される、非常に饒舌なもののように感じます。 日常言語が詩に影響されるかは定かではありませんが、この「饒舌さ寡黙さ」というのを背景に背負った文化がありますので、日本は本質的には寡黙な民族、言語活動には西欧ほど重きを置かない、という特長にも影響を与える気がしているのですが、どうなのでしょうか。

みんなの回答

  • GATX103
  • ベストアンサー率37% (42/111)
回答No.2

面白い視点ですね。 私は上っ面だけで饒舌・寡黙というような2分化はできないと思います。 短歌や俳句はコンパクトにまとめられているだけで、その内容はかなり幅があり色々な考えや思いなど言いたいことがぎっしり詰まっています。31文字という短い言葉の中で、自分の思いをどこまで表現できるかというのを楽しむ遊びとも言えますね。 日本人はYesとNoだけでは答えられないほど多くのことを考えていますから、自動的に曖昧な表現が多くなりがちです。 ですから饒舌か寡黙かというと、本質的には饒舌なのだと思います。言語活動に重きを置かない、というわけではなく、あえてコンパクトにすることで言葉が意味している内容に広がりを持たせたり、それによって反駁や同調など様々な解釈が出来るような深みを持たせたりしているのではないでしょうか。

garcon2001
質問者

お礼

それって、すなわち「寡黙」なのではないでしょうか?沈黙っていろいろと憶測を生みますよね。表面上の寡黙は内面上の饒舌である、というのは真理だと思いますよ。ただ、いま問題にしたかったのは、やはり表面上の饒舌でして、そちらの方向で考えていました。言語活動、すなわち人間の発音器官から音波を発するという物理現象のエネルギーをより消費するかどうか、そして、そのことによる表面的饒舌さが人の内面にどう影響しているのか、と言うことを思いました。

noname#111034
noname#111034
回答No.1

あなたの文章は十分に饒舌です。

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