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韻を踏まない国語というものに関して
われわれ日本人は、「韻を踏む」ということを全くといっていいほどしません。また言語の性質上できません。このことは、詩作などの場面で、韻を踏むことができる言語と比較するとき、大きな意識上の開きがあるのではないでしょうか? つまり、「詩作」という行為は、韻を踏む原則がある場合、言ってみれば、「音声と内容の共同作業、調和」というような感動があるのではないかと。つまり、日本語の詩には、音節リズムだけあって、音声の制約や考慮が非常に弱いか、あるいは無制限だということ。 このことは、なにか西欧とか中国(ほかはどこがあるのか知りません)と、伝統的に、母国語に対する意識に差ができるのではないかという気がします。
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こんにちは とても鋭い感性をしていらっしゃるなあと感心してお返事をお書きしています。私も最近そのことをよく考えたりします。 確かに、英語、中国語、フランス語(くらいしか自分は知らないのですが)と比べ、日本語の韻に関する「制約」は小さいような気はします。しかし、作者が詩作上、韻に頓着していないというわけではないのではないでしょうか。むしろ、日本語のもつ母音と子音をうまくつかって、詩の雰囲気を作っていると言えるでしょう。 韻の使い方で有名なのは、百人一首の中にある後鳥羽院の 「人もをし人もうらめし あぢきなく 世を思うゆえに 物思う身は」 という和歌です。(例題が古くてごめんなさい・・・) 歌の内容がけだるく、脱力感にあふれていますが、実にこの三十一文字の中に、Mの子音が7回、特に後半部分に多くいれられています。Mの子音は発音する時、口を一度閉じてから発音する音で、音にこもりが生じ、この歌のけだるさを「音」でも表現しているといわれています。(特に韻を踏んでいるわけではありませんが) なるほど、そういった見方を勉強したのち、あたりを見回してみると、現代の詩や歌でもとても出来のよいものは音がそろっていたり、感覚的な韻・音の使い方ににアッと思わされたりします。 >伝統的に、母国語に対する意識に差 というのは、自分には難しくてわかりませんが、何かを考える一つのきっかけにでもなればいいなあと思い、お返事いたします。
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- serina55
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詩にはまったく疎いのですが、、、 たとえば建築の分野でも、法隆寺はもともと中国の典型的な寺院の構造を模して縦一列で左右対称につくられましたが、再建する際、横並びで左右非対称に造りかえられました。 西洋の伝統的な庭園は真上から見て美しくみえるよう、完璧なシンメトリーに造られるのに対し、日本庭園はシンメトリーとはほど遠い複雑なかたちに造られます。 私の私見ですが、中国や西欧などのかつて強国だった国は、言語(や思想、芸術など)で他を制圧する必要があったため、その言語も厳格な性質をもったのではないでしょうか。 逆に日本は閉鎖的ですが、あいまいなものを好み、よその文化をひんぱんに取り入れ、変化に対して寛容だと感じます。日本語も同じような性質をもっているのではないでしょうか。 まったく興味のない意見かもしれませんが、参考になれば幸いです。
お礼
確かに、日本庭園の非対称で移ろいをかじるような配置と、中国もそうだったんですか!西欧の対象性をこだわった幾何学的な庭園様式にも、なにかかかわりありそうです。あいまいさは権力的でないですからね。西欧中国などは、規則性というdnaも植えついているのかもしれません。
- danboald
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NO.1のかたが挙げていらっしゃるような和歌など日本の伝統的な「詩」と、英語やドイツ語、フランス語の「韻」に重きを置く「詩」はそれぞれにとても芸術的なものですが、日本語の「詩」とヨーロッパ言語の「詩」は全く違うのではないかと思います。(漢詩はよくわからないので…) 形だけ西洋の詩の形を真似た現代詩では事情が違います。日本の現代詩は西洋の詩を訳したものを土台にした制約の少ないつまらないものだと思います。英語で書かれた俳句がつまらないのと同じです。日本の伝統的な「詩」は確かに「音声の制約や考慮が非常に弱い」ですが、リズムと長さ(字数)に西洋の詩と比べると極端な制約を受けています。 西洋の詩は韻に、日本の詩(俳句・和歌)はリズムと長さに制約を受けてこそ輝く特殊な芸術なのではないでしょうか。 >伝統的に、母国語に対する意識に差ができる 差というか、違いはあるでしょうね。ただ日本人が「韻」を使いにくいからと言って嘆く人はほとんどいません。逆に英語圏の人は「I」以外の一人称が使えないと言って嘆かないでしょう。そういう言語的性質は普通に生活している時は気にしないものです。 詩を作る人しか気にしないのなら、何の問題でもないと言っていいと思います。
お礼
漢詩もやはり西欧詩に近いのではないでしょうか? なので、中国人は西欧的感覚に近いかもしれません。 思いますに、どうしても、翻訳という作業は、詩という分野においては、かなり冒涜的なものです。「意」を訳することはそれほど支障はないにしても「情」を訳することはできないはず。しかもしれが、形式とか雰囲気によっている場合。 西欧詩も、日本ほどではないですが、字数(音節数)の影響は受けますよ。それプラス韻ということで、強力だなあと思います。 私はどうも、「韻」を踏めないことで、やはり言葉の思い入れに対する度合いが弱くなるのではないかと。
- cabin504
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韻自体を知ってる日本人も少ないでしょ? 私も漢詩でしか使いませんが 西欧にもあるのですか? 韻自体も、漢詩の決まりとして 使ってるだけですが・・・。 中国語は四声ですからそれなりに決まりを作ったんだと 思っておりました。 日本語で読めば四声は関係ないですから 一つの決まりとしてしか見てないです・・・。 韻が母国語に対する意識に差が出ると言うところまで 行きますか? 私は英語学習に力を入れている、今の教育の方に 問題があると思います。
お礼
韻を知っていないのは、やはり伝統がないからです。 むしろ、世界的には一般的なのかもしれません。 言葉パズルのようなものですね。 そのパズルが伝統dnaになっているのではないだろうかt。
お礼
やはり、考える方は考えますよね。 韻がないって言うのは、かなり大きなことではないでしょうか。 それは、例に挙げられた、雰囲気的に音を考えるということより、はるかに強力な制約でありまた引力です。同音で区切られる、しかも、意味の破綻をきたすことなく!これは恐ろしいパズルじゃないかと。 例のようなことで、日本人のdnaには、なにか「雰囲気」は大事にするが、「論理性」とか「構築性」のようなものが育ちにくかったのではないかと。なので、一種の悲劇なのではないかと感じます。