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日本人は 死んだのでしょうか

 話し合いが出来ない。  話をしていても 知識とそれをめぐる意味のない言葉とを並べるだけである。  意味のある話をすると 逃げて行く。あるいは はぐらかしをしながら 話のすり替えの術にかけては 玄人裸足だと言わんばかりになっている。  もう死んだのでしょうか? こうやって 死んでいくのでしょうか?  生きている人は もう いないのでしょうか?

みんなの回答

  • w1k2g3
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回答No.43

>今回のわたしの挫折は 《避けてしまう》どころか 二度三度 五度六度と同じ理屈で姿を現わすという事例だったのです。 成る程、かなりのご苦労がありますようで…。 しかしこういった事はなかなか…、そう簡単に改善されるものではございませんね、しかし私も五度六度はさすがにいやになると思います。 >★ あえて非合理をつきつけるべきではないでしょうか  ☆ この種のやり方は 検討してみる余地がありそうです。あまり考えていなかったからです。話が分散するかにも感じます。 非合理はインパクトはありますが確かに話が分散しかねませんね、このあたりの表現はとても難しいです。 あとはあえてユーモラスに笑いをこめてみるとか、なかなか私はいい表現が思いつきませんが…。 bragelonneさんの目的とは外れてしまうところがあるかもしれませんが真面目なテーマでの話し合いの中で無意味な表現というのはかなりの存在感があると思います。 機能的な場での無意味、遊びというのはとても目立つ。

bragelonne
質問者

お礼

 w1k2g3 さん ご回答をありがとうございます。  全体として おしえていただいた内容に沿ってすすみたいと存じます。  ★ 機能的な場での無意味、遊びというのはとても目立つ。  ☆ これは そう出来れば もう言うこと無しなのでしょうが たぶんそれは 或る程度馴染みになってきて 互いに間合いよく かけ合いのごとく質疑応答がすすむといったときに出てくるかも知れません。そして  ★ ユーモアと非合理と。  ☆ タモリが いいともの書道のコーナーで 師範のようになって添削をしたとき おまえは何さまだ!との投書が来たそうです。これを受けかれは そりゃあへこんだよと言って おまけにつけ加えた言葉は おまえは何さまだ? って言ったって お互いさまだよでした。  ユーモアは 受け身でしかも追い詰められたときに発したものは たしかにおもしろいと思います。まぁ 度量ですかねぇ。こちらは とぼしい限りです。いづわるは かなりうまいのですが。  まぁ これまで《挫折》のあいだ 一度も起死回生の逆転打は打てずじまいです。この場合は へこんだというのとも違いますけれどね。  この質問も おかげさまで かなり広くご回答を得られました。もうしばらく開いていて締めようかと思います。  積極的な方策のことなどですね 次の一手は。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.42

 >半ば独り言ですから――と分かる性格の発言ですから―― 反応も自由だと考えます。  これは少し苦しい言い訳かな(笑  >はじめから理論として賛同してくれたひとは 少なかったですね。  まあ、自分としては賛同というよりも自分で導き出した理念が、アマテラス スサノオを始めとする神話と対応していたというわけで、思想が先にあったんですけどね。記紀もそのような思想から作られたものだったのでしょう。  >人間の弱さを考慮に入れて 事実経過としては おっしゃるようなことなのでしょう。  転生にまつわる思想、理念を受け入れることのできない弱さ のある人にとっての世界は憎しみに満ち、どんな教育者、親の元で生まれようとそれは運のめぐり合わせであり、そういった人間がどんなに復讐しようとそれは自分の心に正直であるから 悪(不正)ではない という意味で「おっしゃるようなこと」だというのはもちろん、その通りです。  そのような世界においてはもちろん「善悪」などはありません。

bragelonne
質問者

補足

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。  ★ これは少し苦しい言い訳かな(笑  ☆ 苦しいも何も 言い訳である以上に 物言いですよ。自民党は もともと《ヨセ(寄せるべし 知らしむべからず)》の政党ですが 半ば放っておけば将来は明るい方向へどんでん返しすると分かっていますが 公明党のようなまともを装う政党が 政権に寄って行っているとなると 苦しい言い訳を重ねても 物言いを言いたくなります。小沢は二十年も昔のひとです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  まあ、自分としては賛同というよりも自分で導き出した理念が、アマテラス スサノオを始めとする神話と対応していたというわけで、思想が先にあったんですけどね。  記紀もそのような思想から作られたものだったのでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《思想が先にあった》――みなさんもそうであったなら 社会の三分の一は 旧い言葉で言えばすでに《同志》であると言えると思います。  ○ アマアガリ症候群 / アマテラス予備軍シンドローム  ☆ なども 言葉の問題だとすれば 現実を反映していると思ってよさそうです。  ★ 記紀  ☆ はご存じのように いわゆる体制の側からの史書であるという揺るがざる見方も 一方につまり主流にあります。でも古事記は 言葉で体制の側に合わせていますが 心意気は スサノヲ市民のものです。  ★ ・・・そのような世界においてはもちろん「善悪」などはありません。  ☆ この一文は 勇み足になりかねないと考えます。やはりどう考えても  ○ 悪は悪です。  ☆ 《イリ(自然と世界への入り)》というふつうの思想(生活態度)に立ち続けられなかったことは その存在形式からの逸脱です。  《いま・ここなる〈わたし〉としての存在》が それだけで《善》だとしますと 自分の・人間のちからだけで《イリ》歴史知性を超越しようとする《ヨセ》なるアマアガリは 病気であり 善からの逸脱として悪です。  勤勉思想と その勤勉を自己目的とする超勤勉つまりガリ勉キャピタリスムとは 別です。後者は 病気です。《自然と人間と社会》という世界へイリして その歩み( base =基礎)とともに歩むことが善だとすれば その善に損傷を与えることになるヨセは 善が欠落したぶん 悪です。  ★ 復讐  ☆ する心は 自分の心に イリなる《自然かつ文化》の歩みを築けなかったと告白しています。悔しいからと言って その心をつまり単なる気持ちを 実行に移していいかと言えば いけませんとなります。アマアガリ症候群です。  つまり われ考えるゆえにわれありの《経験思考とその努力 あるいはそれらの元にある理性》を神とすること またみづからがその神となること これが アマアガリという病気です。むろんアマクダリしてくるのは ことの必然です。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.41

 詳細な解説をありがとうございます。   ところで、補足とお礼欄にかいた思想は、主に記紀に書いてあったものを総合的に統合した思想でしょうか.  >初めから受け容れられたわけではありません。  受け入れる過程はどの様なものでしたか?始めからそれが正しいから理解しようとして受け入れることができたのか、それとも私のように実生活での人間関係とそれに基づいた思考洞察によって実感したものでしょうか.  >いわば仕返しの道に入った。  現代社会においても、このサイトにおいても、あらゆる分野にて超人のような知性を持っている人がいますが、そういった人達が仕返しの道に入ったのなら、それは当然の成り行きであり、善悪いずれでもないのでしょう。これは書物を読んでいても解らないことだと思いますが。  >人びとをおのれの知性により寄せてやれと。  ある意味、依存的であるが故に無智である人間を教育するために、自立独立を旨として生きてきた人間が復讐的な心情になり、その結果多数の信者、信奉者が集まるのは、多分、成るべくして成っていると言えるものであり、彼らが「社会のため」と言うのも、半分は正しいのです。その気持ちだけは理解できます、真ん中の道を歩いている人間として.  >はてさてこの先 日本人のたましいの行方は 如何あいなりましょうか?  この問いは、個人が発するものとして正しいですか.

bragelonne
質問者

補足

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  今回は きちんとした答えがないと思います。だらだらと世間話になるかと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >はてさてこの先 日本人のたましいの行方は 如何あいなりましょうか?  この問いは、個人が発するものとして正しいですか.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 半ば独り言ですから――と分かる性格の発言ですから―― 反応も自由だと考えます。  ★ ところで、補足とお礼欄にかいた思想は、主に記紀に書いてあったものを総合的に統合した思想でしょうか.  ☆ そのとおりです。  ★ 受け入れる過程はどの様なものでしたか?  ☆ たぶん 経過を振り返ってみますと このところのアマテラス公民側のちょんぼが いちばん受け容れられるのに影響しているのではないですか。ちょんぼは 昔からあったとすれば その受けとめ方が 変わってきたのでしょうね。年金の破綻がいちばん大きいでしょうか。  ですから はじめから理論として賛同してくれたひとは 少なかったですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >いわば仕返しの道に入った。  ◆ ・・・超人のような知性を持っている人・・・達が仕返しの道に入ったのなら、それは当然の成り行きであり、善悪いずれでもないのでしょう。    >人びとをおのれの知性により寄せてやれと。  ◆ ・・・多分、成るべくして成っていると言えるものであり、彼らが「社会のため」と言うのも、半分は正しいのです。その気持ちだけは理解できます、・・・。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ま 人間の弱さを考慮に入れて 事実経過としては おっしゃるようなことなのでしょう。社会としての――個人個人のための社会としての――観点から行けば 将来の課題であるでしょう。そのために わたしは アマテラス主導の《A‐S》連関体制ではなく そうではなく  ○ インタムライスム すなわち  ○ スサノヲ(S)圏つまりムラ(市町村)主導の《S‐A》連関制――要するに 民主制――  ☆ を提唱しています。これはあくまで ひとつの情報としてです。《日本人は 死んだのでしょうか》から引き出される課題と政策を問うた場合としてです。  その意味では 優秀な人たちも 第二階のスーパーアマテラス公民としてではなく 平屋建てのムラではたらく普通のアマテラス公民が 増えてくるでしょう。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.40

 >男女の規定をきちんとしなくても 構わないくらいだと思います。  そうですね、文献などあてにならないし、悟性で考えれば、光を発する という能動性を考えると太陽は男神であるとも言えますしね。  いずれにせよ、アマテラスさんには反省してもらわないと困ります.  スサノオはもうすでに十分悪役にされていて、反省を促されているではないですか.それでこそバランスが取れるというものです.

bragelonne
質問者

お礼

 木から木の実を採る仕事が 稲から米を育てる仕事に移るにつれ 今度は 木の実や稲の実のほうから ものごとを捉え考えるに到ります。あたまの中で 利潤が先行するわけです。  実りを 《まつり(かみとの共食)》において いただく生活から すでに二階建てになったその第二階にあって 《まつりごと(天の神との添い寝)》のもとに まつりごと(政治)をとりおこなう。ネコ市民はこれに従うという社会生活になった。やがて巨大古墳として《結実》しました。  《まつり》のときのふつうの和の生活を 《まつりごと》は やまと(大和)の国として 上から 号令することになりました。まぁ 高度成長もしましたし ゆたかになったわけですけれどね。  うんぬん。うんぬん。  このように ネコ市民が ヒコ(いや スーパー日子)公民に 道を一歩ゆづるというとき もっともネコ市民の中には もっぱらのヒコ公民に寄っていき ゆする・たかるという習性を会得したものもいるようです。  アマテラスの悪口ばかりではいけないとすれば このスーパー歴史知性は じつは じつに それはそれは並大抵の努力ではなく その心の光を身につけようと精進したものです。これでもかこれでもかと ますます人間的となるようみづからをきびしく仕付けました。いよいよ人間的になったというとき まわりを見渡すと だれもこのことに気が行っていない。がっかりして いわば仕返しの道に入った。自分ひとりでは その徳の高さ・思いやりの深さを保つことが出来なかった。ならば 人びとをおのれの知性により寄せてやれと。(あぁ これも悪口になってしまいました)。むろん自分たちとしては 社会のためという思いです。もっぱらの公民は みな初めの志には目を見張るものがあります。  はてさてこの先 日本人のたましいの行方は 如何あいなりましょうか?  * ヒトコトヌシ(一言主)のかみ:雄略ワカタケが葛城山で出会ったという。かれに対して 一言主の神は こう名乗ったとある。   《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言 言離   (ことさか)の神 葛城の一言主の大神ぞ》  《言離(ことさか)》は 言い放つの意という。《とおざかる(遠・離る)》∽《さく(離く)》(他動詞形)だそうです。ヒトコトヌシとオホモノヌシとは 同一であろうという見立てです。

bragelonne
質問者

補足

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。  またひとり日本人に出会えて うれしい限りです。  このわたしの《スサノヲ‐アマテラス》連関という視点は 初めから受け容れられたわけではありません。しかもまだきわめて少数の方々が賛同してくださったか まぁいいだろうと言ってくださった情況です。  いつも一言多いのが わたくしです。付録です。  大地の子――その意味で 《ねこ(根子)》――とみづからを呼んだ日本人は みづからの自然本性の中に 光り輝く能力を見出しました。こころ(精神)のことです。それゆえ 根子でありつつ同時に ひとは 《ひこ(日子)》でもあると自覚しました。  このネコとヒコとがそれぞれ スサノヲとアマテラスとにつながって行きます。  そして このいわば《ネコ‐ヒコ》連関としてのひとという存在は この世界に《イリ(入り)》して 世界観を打ち立てました。ネコ・ヒコのほかには 《モノはコトである( e = mc^2 )》と捉えていたようです。  §1 まづ ひとのあり方をどのように捉えたか。  心のあり方として こうです。狩猟・採集・漁労というように自然界にあるモノを そのまま取る作業に従事して生活するときには モノに取り憑いた心でした。《ヨリ(寄り・依り・憑り)》なる原始心性と言います。  やがて その心の中に 時間が流れ出します。稲であれば 野生の稲を採集するのではなく みづからが季節とともに栽培するようになった。育てるという作業とともに 時間の経過を伴なうことにより 歴史知性を獲得します。おそらく子どもを育てるという仕事が役立っているのでしょう。これを 《イリ》知性と言います。  その後 この歴史知性であれば 何でも出来るという超知性も現われました。  これら三つはまとめて 順番に    ヨリ原始心性(自然への寄り・依り・憑り)  →イリ歴史知性(自然と歴史への入り)  →ヨセ超歴史知性(イリ知性を嵩にきてその光り輝きに酔ってしまい    もはや如何なるものの下にも立つまいとする寄せの知性・痴性) というあり方です。  §2 イリ歴史知性は 世界をどう捉えたか。  モノおよびコトとして認識したようです。結論として こうです。  モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)  コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)   ↓       ↓            ↓  自然・社会・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ  この範式において 次の図式も得られます。  モノの木――――――ねこ(根子)――――――生命の木  日の移り行くコト――ひこ・ひめ(日子・日女)――日(光源)  モノは どちらかと言うと 質料・身体であり コトは エネルギ・精神にかかわります。  記紀には おほたたねこ(大田田根子)や みまきいりひこ(御真木入彦)が登場します。同時代の人物であり 後者は 市長を務め 前者は 一市民で オホモノヌシのカミの子であったと言います。《イリヒコ歴史知性》の古代人における霊性のしからしめる認識でした。  §3 ネコ・ヒコらの生活とその後  つまり オホタタ(田田)ネコが 田を耕し(田返し) イリヒコが その知性をもって 世界に《入り》するということは 精神を耕すというものでした。植林あるいは薬草による医学にも 精を出しました。  つまりは 一人のひとが 《根子(身体)‐日子(精神)》の連関から成る存在であり あるいは《根子(市民)‐日子(公民)》の連関構造なる社会的存在のことです。  やがて そこへ ヨセ超歴史知性が出現し――たとえば オキナガタラシヒメ(息長足姫=神功皇后)は 《神を帰(よ)せたまひき》とある―― 日子は もっぱらの公民として立ち そのスーパー歴史知性にものを言わせて やしろ(社会)を 二階建てとしたという歴史につながっていくわけです。《オホタタネコ(市民)‐ミマキイリヒコ(市長)》連関としてのいまだ平屋建て社会の上に スーパー日子が立つという構造です。一般市民=イリ歴史知性は かれらに道をゆづり 好きなようにさせました。

  • owlsjp
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回答No.39

 太陽は女神ですか。何を根拠に。「書物に書いてあったから」ですか?  >(3)は 女性で伝わっているようです  いつからですか?よく調べてみてください。勘違いではないですか.

bragelonne
質問者

お礼

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。  ★ 厳密を期せ  ☆ というところでしょうか。  研究史といったことについて触れるのは そしてたしかに 最近の情況についてなどは特に わたしにはむつかしいです。  ○ 問題は アマテラスとスサノヲが 血のつながった兄弟姉妹であるということです。  ☆ そして詳しいことを言えば その誕生は 複雑ではあります。  ▲ (古事記・上つ巻) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ここに 〔イザナキは〕左の御目を洗ひたまう時に成りませる神の名は 天照大御神(アマテラスオホミカミ)。  次に 右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は 月読の命(みこと)。  次に 御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は 建速須佐之男(タケハヤスサノヲ)の命(みこと)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ じつはすでに死んだ妻イザナミの逝った黄泉(よも)つ国から帰って来た男のイザナキが ひとりで上のように生みます。  アマテラスは スサノヲがこの国を追われて 暇乞いに来るというとき 男装をしたと書いてあるので 女性であるらしい。そして スサノヲのことを 《わがなせのみこと》と言っている。《な》も 《わが》と同じ意味のようで 《せ(背・夫)》は男性ですから スサノヲは男です。  あと その後 アマテラスは 天の岩屋戸に隠れる記事があり これは 日食のことだと考えられ 太陽のことを喩えたものだと捉えて差し支えないでしょう。  変なことをつけ加えますが この場合 兄弟姉妹であることが重要です。男女の規定をきちんとしなくても 構わないくらいだと思います。

  • owlsjp
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回答No.38

 アマテラスが女神だと、誰が言い始めたのか?アマテラスは男神でもあるはず。  母なる地球? 父なる地球でもあるはず。生命を生み出しているのは母性か? まったくそんなことはない。  まだまだ、欺瞞が見られます。

bragelonne
質問者

お礼

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。  批判は 大歓迎です。  少しでもよりよいものにしていきたいと願います。  ★ アマテラスが女神だと、誰が言い始めたのか?アマテラスは男神でもあるはず。  ☆ わたしの場合は イザナキとイザナミとの子供として 長女がアマテラス 長男がツクヨミ そして末っ子が スサノヲという古事記の記事にのっとって ものを言っています。  神話としては アマテラスは (1) 雷などの自然現象 (2) 太陽(つまり ツクヨミ〔月読み=暦=こ(日)読み(数える)〕との対比である) (3) 天皇←スメラミコト←オホキミの家系の祖先神であろうと見ます。  (1)は 男神と言いますか 性はないと言いますか。(3)は 女性で伝わっているようです。(2)は (3)に引き寄せられて女であるでしょう。  いづれにしましても アマテラスとスサノヲは 兄弟姉妹でしょう。  また 神話ではあるものの わたしの場合は 日本人の祖先という意味で つまり 人間として 引き合いに出しています。  つまり 万世一系は わたしたち一人ひとりが まったく誰も例外なく そうです。側室による血筋が多いか少ないかの違いはあっても 結局 同じでしょうし どちらの家系も イザナキ・イザナミ夫婦に行き着きます。神話の言い伝えとしてはです。  ★ 母なる地球? 父なる地球でもあるはず。生命を生み出しているのは母性か? まったくそんなことはない。  ☆ これはわたしは言っていません。ことばの綾ではないですか?    ちょっときざに言えば 夜明けを待ちましょう。少しはその扉を わたしたちの手でも開ける工夫も必要でしょうか?

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.37

 意見や意思を伝えることで現状を変えることができない場合、最悪でも自分の理念だけは守らねばなりません。自分が持っている真理を把持していさえ居れば良いのでしょう。そういう意味で、善を自負し、裁く神々たちが反省し、自ら気づくまで我慢し続けなければならない、というのは その通りだと思います。  しかし、それは「最低自分を守るため」の処世術であり、自分の目に見える世界を変え、創っていくならどうすればよいか、という事になると「話は別」と考えます。 >挫折あるいは犠牲の問題ですね。 ???これはよく意味がわかりません。考えすぎかも.  原初のエネルギー体ではなく、人格を持った神々に自覚してもらうためにはどうしたらよいのか。  その言葉と態度振る舞い、そして何より認識力と感受性が上がることで発露する感情を主には言葉でなく、心的態度、雰囲気によって波動として伝播させる。「態度で示し続ける」。特にそれを、直面している人間関係を通して伝播させる。善悪いずれにしろ、人間も神の一部ですから。いかがですか?  もしお二階さんたちがダダをこね、それをしぶしぶ認めることで混乱した社会になったのであれば、それは例えば目の前にいる人間を「精神が子供なんだ、ほっとこう」と思って自己処世術を自らに施すような腐母性社会の反映でしょう。「包み込む」ことによる優越感を得ている人間たちが多いのであれば、ぶった切って父性を現すことでバランスが取れるかも?と思います.しかし、それをするとスサノオのように新しい世界を作ったとしても、「悪い事をした」とされて後で裁きを受け、管理されることになるのでしょうか?それは日本の戦後とも重なり合います。これは暴れる父性の象徴でしょうか。しかし今は腐りすぎています。押さえ込まれた父性が暴発しているように見受けられる.平和と肉体生命の維持存続の名のもとに.  とにかく、No.25を理解するならそれだけで完結できるわけで、それ以上語ることで、結果として話が反れたり、ねじれることもないかと。  今までの文章も含めて書いたことが理解できない場合、バラバラに切り取って考えないで、ひとつのつながったものとして全体の文面から考えればわかると思います。  理解しようとするときはバラバラにして考えるのではなく、むしろ全体で考えればよいかと.  他の人の場合は知りませんが、私が書いた文章、発した言葉は私の体の一部分、分身です。それを分解して部分的に取り上げられるのは気持ちよいものではないし、なにより真に本質をつかむための妨げとなると思います.なにより分解されたものには興味がおこらず、理解できない(しづらい)ので、返答に困ります.

bragelonne
質問者

お礼

 ☆ こうするならば――そしてそのような新しい人びとの自由に集まる井戸端会議を活気ある日常の活動として実現させていくならば―― もうスサノヲの筋をとおそうとするものでありながらも暴走・暴発である実践方法から自由になって 一歩一歩しっかりと土台を踏みしめて固めていく方法で 都へときざはしの歌をうたってのぼっていくのではないでしょうか?  ★ むしろ全体で考えればよいかと  ☆ とおっしゃるのは そういう社会にとっての基礎・基盤のことだと考えます。  早るお気持ちは分からないでもありませんが たぶんこういう順序なのだと考えます。それは ひとつに スサノヲ(実際にはオホクニヌシ)は 姉のアマテラスに対して 国ゆづりをして まづは好きなようにさせてやったといういきさつがあるからだと考えます。  姉の側が行き詰ったのなら そのアマテラス公民の人びとがまづ ごめんなさい 弟よ 社会をおまえたちにゆづり返します わたしたちも心を入れ替えますと 言ってくるのが筋でしょうね。土下座などをしなくてよいのだから 旧き人を脱いで新しき人を着て欲しい。そうすれば  われわれも ねえさん 乱暴をはたらいてごめんなさい 姉さんたちのように人格を磨くことに億劫でいるなどという到らなさを反省しています。ともに手を取り あらためて このくにを たのしいくににつくり直しましょう。  と答え返すでしょう。いつでもその用意は出来ていると思います。そうぢゃないですか? みなさん!

bragelonne
質問者

補足

 owlsjp さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。No.25のご回答をいただいてから そこに持たれている実践への志向性というものはわたしも受けとめていましたが 今回はっきりと述べておられるようですね。  ただし それが No.25の実践的な提案に尽きるとおっしゃるなら それはまだ わたしには分かりません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  とにかく、No.25を理解するならそれだけで完結できるわけで、それ以上語ることで、結果として話が反れたり、ねじれることもないかと。  ★★ (No.25)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  生き返るためには駐留米軍の撤退と、日米安保条約の解消をしなければなりませんね。  そうすれば、些細なことで「警察呼ぶぞ」という人間も少なくなり、正直に生きられるようになるんでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 安全保障の問題ひとつ取っても そんな簡単なことではないでしょう。言い過ぎだと思いますよ。  ★ バラバラに切り取って考えないで  ☆ ではなく その問題ではなく 付随するいくつかの課題を一つひとつ取り上げてさらに対処策を考えていくという問題です。  わたしの場合 この質問の性格から 抽象的な事柄のほうへ議論を持って行ってしまいましたが それにしても 細部も重要です。そしてそれは おっしゃっているように 段階を踏む必要があります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【第一段階=つねなる基礎】 しかし、それは「最低自分を守るため」の処世術〔* もしくは 哲学・世界観ないし生活態度〕であり、  【第二段階=応用・実践】 自分の目に見える世界を変え、創っていくならどうすればよいか、という事になると「話は別」と考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこでまづ 次のわたしの発言は まだ曖昧なものだったことを確認しておきます。そのとおり《考えすぎ》でした。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     >挫折あるいは犠牲の問題ですね。   ???これはよく意味がわかりません。考えすぎかも.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 今回 新たに問題提起されていて回答そのものだと主張なさっている事柄は 人間の心意気や人びとの息吹きであるようです。わたしの解釈を勝手にはさんでいます。  ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原初のエネルギー体〔* に基づくならよいのだが そう〕ではなく、人格を持った神々〔* として人間の科学的な思考能力に絶大な自信を持ってしまった現代人たち〕に自覚してもらうためにはどうしたらよいのか。  その言葉と態度振る舞い、そして何より認識力と感受性が上がることで発露する感情を〔* 一般には言葉を通じて表現し訴えるのであるが〕主には言葉でなく、心的態度、雰囲気によって波動として伝播させる。  「態度で示し続ける」。  特にそれを、直面している人間関係を通して伝播させる。善悪いずれにしろ、人間も神の一部ですから。いかがですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん――わたしの考えでは―― それは自分自身の意図にはないのでしょうね。意識しておこなうものではないでしょうね。はからいは あまり気持ちのいいものではないように心得ています。  まして 安全保障が この心意気だけで解決がつくと――言ってはいないですが 誤解としてでも思われてしまっては―― 良策だとは思いません。  もしここで それならおまえの策を具体的に示せと言われるなら わたしはなお 最初のときのご返答を再確認したいという考えに傾きます。  ☆☆ (No.25お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   たぶん 外からの そして お二階さんという一部の人たちからの 横槍は 単にわたしたちに心理的な影響のみを与えているに過ぎないと考えます。精神(つまり こころ)は もっと大きくて 心理は その心の大海の表面での波風に過ぎないと言うべきでしょう。  つまり まづは このわたしたちの心を互いに確認してからではないでしょうか? と思いました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • w1k2g3
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.36

No.33です、成る程、かなりの数議論されていて難しいのですが、今回の質問はなんとなく理解できたような気がします。 掲示板の類ではかなり本題とそれているというかワザとそらしてる?みたいな人とかそういう人? 話というのは日常生活(人と人の生身の会話)も含めるということなんでしょうが私はあんまり日常生活ではそういう人見ないんでネット上での話し合いについてのことしかあまり経験がないです。 ですので勝手ながらネット上での経験交え、申し上げさせていただきます。 それで戻るんですが、掲示板上で痴話げんかが起こってるようなね、あれにはかなり怒りを感じる人がいるかもしれませんが、実は私、あの滑稽なやり取りみるのはそんなに嫌いじゃないんですが…。 でも問いかける側からしたら確かに迷惑かもしれません。 でもああいう人ってなんであんなことをするのか? 姿が見えないということと匿名性みたいなことも関係してるんですかね。日常生活より姿が見えない分余裕があるというか、でも姿が見えない、これってまさに幽霊ですね。 ほかに考えられることとしては自己喪失とか、今の時代かなり多いと思います。生活が標準化されてくるとおこる精神的空虚の最中にあるのではないでしょうか。 何がしたいのかわからないという不自由ゆえ何か鬱憤晴らしに他人をつつきたくなるとか、難しい概念とか質問がたくさん出てくると面倒だから避けてしまうとか…。 不自由は孤独で不安なので何か人とかかわりを持ちたいが難しくなると避けてしまうというようなところがあるんじゃないですかね。 でも面倒だからというのは私もけっこうありますね。 しかし、関わっといて途中で面倒になって投げるみたいなことはあんまりしないですよ。 あとどなたかもおっしゃってましたがbragelonneさんと同じレベルで話をしつつ、進めていくにはそれなりに知識とか必要でないと厳しいと思います。 そしてbragelonneさんのおっしゃる「死んだ」からその類の人を復活させるにはあらゆることを自覚させる必要があると思います。 自分を喪失してはこの手の話はまともに話すことは困難でしょう。 私もけっこう困難してます。 多分質問をたくさんなさっているし難しい話もたくさんでているので、かなりの意図、目的がありそうですね。 でも本当に自覚させるのであれば素朴な言葉を用いて合理的にわからせるのではなくあえて非合理をつきつけるべきではないでしょうか。 本質的な問いと答え(意見)は矛盾させることで浮き上がるでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 w1k2g3 さん ご回答をありがとうございます。  前向きで建設的なご見解を寄せていただき重ねてありがとうございます。  何か回答情況に関連して 変なことになっているかのようですが 質疑応答に徹します。  まづ  ★ あとどなたかもおっしゃってましたがbragelonneさんと同じレベルで話をしつつ、進めていくにはそれなりに知識とか必要でないと厳しいと思います。  ☆ これは問題にならないと思います。わたしに分からない分野がいくらでもありますし 知識の有無にかかわらず 基本的な考え方――たぶんそれは 基本的な生活態度から来る――の点で 多少の推理や直観を交えて答えを寄せてもらえば 何も問題ないです。これまでもそうして来ましたし そういう場合にも 時としてひらめきが授かるものです。またそれが哲学だと思います。それに 井戸端会議だとも言って来ています。  それにしましても とにもかくにも 話が通じないのであれば あれもこれも それもかれも すべて台無しです。  日本人は 案外 議論好きではないか。それなのに 話がかみ合わないのは なんだろう? ひとつには 《絶対》の概念を理解していないからか。あるいは 最近では 《独我論》の影響が大きいのか。などと進めて来ました。まだよく分かりません。  でもそうして 再出発というときに――すでにお伝えしたかと思いますが―― ふと 不吉な予感がよぎり この質問にあい成りました。いまでは 元気になったと感じつつ 答えは出難いようだとも思っています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  でも本当に自覚させるのであれば素朴な言葉を用いて合理的にわからせるのではなくあえて非合理をつきつけるべきではないでしょうか。  本質的な問いと答え(意見)は矛盾させることで浮き上がるでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはですね。面と向かってなら そうするかも知れないのですが ここでは むつかしいように感じています。たとえば 罵りを吐く回答に対して  ○ わたしのような大ばかになりなさい。そうすれば あなたのようなばかを包むことができる。  ☆ というようなことも書いたことがありましたが 効果半ばですね。そしてこの類いは そうざらには言えません。  ★ あえて非合理をつきつけるべきではないでしょうか  ☆ この種のやり方は 検討してみる余地がありそうです。あまり考えていなかったからです。話が分散するかにも感じます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  何がしたいのかわからないという不自由ゆえ何か鬱憤晴らしに他人をつつきたくなるとか、難しい概念とか質問がたくさん出てくると面倒だから避けてしまうとか…。  不自由は孤独で不安なので何か人とかかわりを持ちたいが難しくなると避けてしまうというようなところがあるんじゃないですかね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なのですが――そうなのですが―― 今回のわたしの挫折は 《避けてしまう》どころか 二度三度 五度六度と同じ理屈で姿を現わすという事例だったのです。  あと  ★ 掲示板上で痴話げんかが起こってるようなね  ☆ これは 放っときます。まったく相手にしません。のでだいじょうぶだと思います。むろん邪魔ですけれどね。  いやぁ ありがとうございます。そのつど 新しい段階の舞台に みなさんと共に駆け上がって またやり取りをすすめていければよいと考えます。たぶん それしかないのでしょうね。

回答No.35

maimai.susです。 まるで、ご自分の事を言っているような質問ですね。 んー、実例ですか?今までのbragelonneさんと私の質問回答ですかね。 でもそれって、日本人とか外人の問題ではないと考えますが・・・。

  • andrear
  • ベストアンサー率50% (1/2)
回答No.34

ああ、何か忘れた気がしたのですが自分の中でうまく整理がついていませんでした。 しかし簡単な話が、「我々は人間として生まれたのではないが人間になろうとするかもしれない」という仮説です。 つまり日本人でもなかった、したがって現時点ではどの日本人も死んでいない、死ぬことすらできないという感覚です。 中には人間になろうとする人、日本人やアメリカ人になろうとする人、いくつもの肩書きを得ようとする人だっている、しかしなろうとしない人もいる。 何かになろうとしている人の中にも、「なろうと見せているだけの人」や「実際になろうと努力している人」などがいる。 私の場合は「完璧に人間になったように見える人」になりたいということです。

bragelonne
質問者

お礼

 andrear さん ご回答をありがとうございます。  ★ ああ、何か忘れた気がしたのですが自分の中でうまく整理がついていませんでした。  ☆ どうも わたしに姿勢として隙がある もしくは わたしの理論に隙間がある といったところでしょうか?  たぶん 主題が――コミュニケ―ションとしてだけでも 広いでしょうし それは けっきょく人間観ないし存在論にまで広がりますから―― 広すぎる。ゆえに 隙だらけだろうと考えます。  それはそれでいいでしょうし その隙を突いてもらうのも 問い求めにとって有益でしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし簡単な話が、「我々は人間として生まれたのではないが人間になろうとするかもしれない」という仮説です。  つまり日本人でもなかった、したがって現時点ではどの日本人も死んでいない、死ぬことすらできないという感覚です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。どんどん 質問者の立ち場を明らかにするかたちですすめますが こういうことだろうと考えます。  ○ 人間である潜在可能性をもった存在として生まれる。  ○ ということは 厳密に言って   ★ 我々は人間として生まれたのではない   ☆ と言える部分があるのでしょう。すなわち 仮りに 《人間になろうとしない》場合ですが この場合には 放っておきます。ですから   ★ 人間になろうとするかもしれない   ☆ でもなく   ★ 人間になろうとする   ☆ 場合のみを扱います。《ならないでおく》場合 これも放っておきます。  ★ 日本人であるかどうか  ☆ これは いま問題ではありません。わたしが 外国の人びとに関して 生活感覚においては知らないので この質問では あくまで《人間》を問題にするのですが 残念ながら《日本人》に限っているというだけのことですから。  ★ 私の場合は「完璧に人間になったように見える人」になりたいということです。  ☆ その他《何何になったように見える》いろいろな場合を含めて けっきょくのところ   ○ 話し合いが出来るか出来ないか その意味で 死んでいないか死んでいるか  ☆ をここでは 問題にしています。という質問趣旨です。  よろしくどうぞ。

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