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日本人は 死んだのでしょうか
話し合いが出来ない。 話をしていても 知識とそれをめぐる意味のない言葉とを並べるだけである。 意味のある話をすると 逃げて行く。あるいは はぐらかしをしながら 話のすり替えの術にかけては 玄人裸足だと言わんばかりになっている。 もう死んだのでしょうか? こうやって 死んでいくのでしょうか? 生きている人は もう いないのでしょうか?
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- w1k2g3
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初めましておはようございます。 上の質問で気になる点がありましたので逆に質問になってしまうのですが…。 △話し合いが出来ない。 というのは具体的にどういうことなのでしょう? △意味のある話、意味のない話 これも具体的にそれぞれどんなことでしょうか? 意味の存在については私はかなり気になっています。ので特に教えていただきたいです。 このあたりを教えて頂けないとけっこう私とのズレがあると思いますので、全く見当違いな回答を私がしかねません…。 それはちょっと恥ずかしいじゃありませんか。 そして死んだ人生きてる人というのも感じとしてはなんとなくわかるんですが質問で肝心なところだと思いますので詳しい感じで教えて頂きたいのですが…。 死んだ人=話のすり替え術で本質をつかむ面倒な作業を放り投げる人 みたいなことなんですかね? 面倒かもしれないですがご説明を…。
- andrear
- ベストアンサー率50% (1/2)
おはようございます。 コミュニケーションの話で思い出したことが二つあります。 一つは妊娠中絶の是非についての問題と議論。 もう一つは寺山修司の言葉です。 中絶は妊娠後何カ月までならば許されるのか、ゼロか、はたまた十月(とつき)九日までか。 他者とのコミュニケーションを欲していないのであれば人間ではない、すなわち死んでいるとしたならば胎児のそれについては一体どう判断するか。 当然人によって様々に意見が分かれることでしょうし、今回のこの話題がこういった議論などと関係あるのかどうかを抜きにしても現実に価値観の対立は起こっているようです。(身近なところで言えば私はこの問題に関して意見が食い違い破局したカップルを直接知っています) 次に寺山修司の言葉と述べましたがこれは私が直接作品を読んで目にしたというわけではなくどこかでたまたま聞いただけであるため正確に記憶しているのか、また寺山さんの意図したことを誤解なく適切に捉えられているかということについては全く自信が持てません。 しかしここ「教えて!」にも質問として引用されていた方がいらっしゃいました。 「不完全な死体として生まれ完全な死体となる」という言葉です。 これを強引かつ短絡的に先ほどのコミュニケーション論と結んでしまうと「人間はそもそもコミュニケーション不全の状態で生まれやがてコミュニケーション不能となる」と言えるのではないかという結論に考え至りました。 もちろん勝手な妄想です。暴論です。しかしこれによって逆転の発想が生まれました。 つまり「人間は、はなから死んでいる」そしてしかも「生きようとすらしていない」ということです。 ひょっとすると「生(コミュニケーション)」の泥臭さが性に合わない人もいるのかもしれません。自分もそんな中の一人のような気がしますし。 そしてどういうわけか自分はここにきて「生きているのに生きていない」という考え方に狡猾さとお得感、そして並々ならぬ知性を感じてしまい、「ますます生きていたく」なってきました。
補足
andrear さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 斜に構えたご評言ですね。質問者からの情報交換としてお答えしてまいります。 ★ 妊娠中絶の是非についての問題と議論。 ☆ 【Q:水子思想と無明と覚り】(その質問者= noname#80116 は わたしです)を質問しているくらいですから ○ 基本的に 妊娠があれば産むという原則です。 ○ あとは 母子ともにとっての生命の安全を期して 具体的にどういう判断をすればよいかを決めなければならないという事態が起こるとも考えます。 ○ それは 経験合理性に照らしての判断ですから おおざっぱに言えば どの判断も相対的なものだと考えます。 ★ 中絶は妊娠後何カ月までならば許されるのか、ゼロか、はたまた十月(とつき)九日までか。 ☆ ゼロでも出産直前でも 殺人であることに変わりありません。 ★ 他者とのコミュニケーションを欲していないのであれば人間ではない、すなわち死んでいるとしたならば胎児のそれについては一体どう判断するか。 ☆ 潜在的な可能性において ふつうの人間として相い対するのがよいでしょう。 ★ 寺山修司の言葉 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 昭和十年十二月十日に ぼくは不完全な死体として生まれ 何十年かかゝって 完全な死体となるのである ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづ寺山修司じしんについては 勝手にやってくれと言っておきます。そうではなく これの解釈として ★ 「人間はそもそもコミュニケーション不全の状態で生まれやがてコミュニケーション不能となる」と言えるのではないかという結論 ☆ について取り上げます。 ★ コミュニケーション不全の状態で生まれ ☆ につきましては 上に触れたように 《潜在能力》を見て欲しいです。 ★ やがてコミュニケーション不能となる ☆ わたしの考えでは 二つの側面があります。 (α) コミュニケーションが不可能だと見られる側面 1. ひとは おのれが一体何を考え何を求め何であるのか その経験合理性によっては ついぞ分からない存在である。 2. ましてや 他者について いったいどういう存在であるのか分からない。 3. 人間そのものとしての意思疎通・対話は 最終的な判断において(つまり 分かり切ったという判断を持つのは)無理である。 (ω) コミュニケーションは われわれが 自由におこなって行けるし 行なっていけばよいという側面 4.生きるというのは 煮詰めて言えば 《いま・ここ》のことです。またその時空間としての《わたし》です。 5. いま・ここなるわたしは つねに 動態です。何かを考えているか・行なっているか もしくは 休んでいるかです。 6. このわたしの動態どうしとして ひとは みづからの意志を――したがって その動態の内容に応じて 具体的に――表示し疎通し合う。 7. このように具体的な過程における互いのコミュニケーションは その内容に応じてであっても一般に かなりの程度 通じ合うものです。 8. この意志行為の自由と その行為の互いの交通の自由 これは 単純にわたしたちが 生きることとして 享受していけるものである。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 逆転の発想が生まれました。 つまり「人間は、はなから死んでいる」そしてしかも「生きようとすらしていない」ということです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この逆転した結果と いま上にわたしが述べた考えとは 矛盾しているとは思いません。斜に構えると言いますか 構え方の問題であって 生きることに変わりはないでしょう。現にこうして 対話が成り立っています。 ○ ひとは 生まれたときから 百年・二百年あとの死に向けて 死につつある存在である。 ☆ どのように生きるかは それぞれ自由です。 ★ 「生(コミュニケーション)」の泥臭さが性に合わない ☆ と思っているのも 自由です。 ★ 「生きているのに生きていない」という考え方 ☆ これは 二つの《生きる》という言葉の意味が それぞれ違っているのは 自明です。ただしそれも 表現の問題ではあります。修辞論にしか過ぎません。しかも ひとはこの表現に反応しあいます。つまり コミュニケーションが取れるようですよ。現実の動態もしくは情況ということではないでしょうか?
- owlsjp
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魂レベルの根源的なところまで深くさかのぼれば「何も問題はない」と言えるのは当然と言えば当然.しかし、人間は死ねば振り出しに、「元の自然に戻る」のですか? 個としての完成、新たな世界の創造を目指すのであれば話は別、と考えます. 自らの嘘や偽りにより墓穴を掘り、勝手に自分で傷つく、というのはすべてにおいて当てはまるものではないと考えます.
補足
owlsjp さん わたしが勝手に突然言い出したことにおつきあいくださって ありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 魂レベルの根源的なところまで深くさかのぼれば「何も問題はない」と言えるのは当然と言えば当然.しかし、人間は死ねば振り出しに、「元の自然に戻る」のですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《社会的な活動にかんして その外からの力の影響で 無力にされていること》と そして《じっさいに死なしめられること》とは 別です。 後者のばあい 抵抗をしますし 時には緊急避難として 最後までの抵抗をすることもあり得ます。後者の場合には 或る程度 その力が見えて来ているはづですから。《敵》をはっきり特定できるような情況でしょうから。 ★ 人間は死ねば振り出しに、「元の自然に戻る」のですか? ☆ むつかしいことをお訊きになる。 ★ 振り出し・元の自然 ☆ ではないでしょうね。たぶん その死は その死をもたらした相手の人間がすくわれるためのものでしょう。それ以外には ちょっと考えられません。死を死んだものは そのようにして 死を克服したかたちで みづからの意志の休息を得ているでしょう。わが人生に うれい無しでしょうね。悔いがあっても すべて 包まれていくでしょう。旧い言い方では 大往生といったところでしょうか。 ★ 個としての完成、新たな世界の創造を目指すのであれば話は別、と考えます. ☆ 挫折あるいは犠牲の問題ですね。これは かなり考えました。けっきょく 一人ひとりの主観に行き着きます。他人が詮索する余地がないように考えます。――これは ずるい結論であるかも知れません。そして ずるいという以上に 分からないことなのです。 ★ 自らの嘘や偽りにより墓穴を掘り、勝手に自分で傷つく、というのはすべてにおいて当てはまるものではないと考えます. ☆ いえいえ 表面での心理的な動揺や不安あるいは恐れなどといった波風ではなく そうではなく 《精神が傷つく》のは 自分が自分でそうするのだと思いますよ。うそや偽りや自暴自棄やによるのだと。それ以外に 考えつかないです。 たしかに 外からの力で その存在が傷つけられ 生命を奪われることすらあります。この場合は 《精神が傷つくことはない》と言っても もう始まらない事態です。――これも その人なりの主観の問題として なんらかの形で 物語を完結させているのではないかとは推し測られます。 だから 文句を言うなという意味ではありません。文句を言っていくことで そのような不条理を無くしていけるかと思います。 まちがいがありましたら どしどし ご指摘くださいますようお願いいたします。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
どのような記号を用いようと相手の文章の一字一句を切り取ってそれについて述べるのは本来、主義ではありませんので. どのような状況においても根源的な部分での魂とでも言うべきものは保存、守られていて、支配を受けないから大丈夫、だという主旨と受け取りました.だから大丈夫、とまでは言ってないかもしれませんが. そうは思わないし、仮にそうだとしても、たとえ磔にされ、人々から侮辱されようとも魂は傷つかないからほっとこうとは思えませんね.
お礼
owlsjp さん ご回答をありがとうございます。 ちょっと ねじれて来ましたね。どうも わたしが突然 変なことを言い出したことから発しているようです。 ★ たとえ磔にされ、人々から侮辱されようとも魂は傷つかないからほっとこうとは思えませんね. ☆ (1) 《侮辱》には いついかなる時でも――生命の危険を賭すかどうかには考慮の余地を残しつつ――抵抗します。無条件にです。理屈なしにでも いいくらいです。 (2) 《磔にされる》ことは それなりに事情や情況があることでしょう。一概に どうこう言えないかも知れません。ただし 上の《侮辱》と同じ意味合いにおいては やはりつねに抵抗します。時には 正当防衛にまで行くかも知れません。 (3) でも たとえ無力にされ 侮辱を受け磔にされることがあっても 魂は傷つくことはないとは 考えます。これは 揺るがない現実です。わづかに みづからの偽りによって傷つくことがあります。 つまり 質問に即して言えば こうです。 ○ 外からの力の影響をこうむって 無力にされていても わが精神は無効になったわけではない。 ○ 無力として いわば部分的に死んでいる。けれども わたしは その死からは もし自己がみづからの偽りと腐ることとをまぬかれているなら よみがえる。 ☆ といったようなことを どうも わたしは求めていたようです。これが 突然 言い出したことです。 自由にあつかってください。無視してくださってもかまいません。
オコリザルです。 A26に続きます。 bragelonneさんの見解には言う事なしです。 実践においては大して変わらないのに考え方や理解が少し違うのでしょう。 日本人は 死んだのでしょうか でしたね。 精霊の話も出しましたが、神様と同居するような夢を見る暮らしから目が覚めつつあるのかもしれません。
お礼
primeape さん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ bragelonneさんの見解には言う事なしです。 実践においては大して変わらないのに考え方や理解が少し違うのでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ありがとうございます。《利己》とか《自我》には 苦労します。ぜんぶ 《わたし》で言い表わせればいいのですが。 ★ 精霊の話も出しましたが、神様と同居するような夢を見る暮らしから目が覚めつつあるのかもしれません。 ☆ そうですか。それは――わたしの立ち場からは――ようございました。日本晴れでしょうか。そろそろ梅雨ではありますが。 では。
- owlsjp
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誤字訂正: という趣旨であるように受け取りました 趣旨⇒主旨 その真理が些細な行為振る舞いの要因であり 真理⇒心理 >まづは このわたしたちの心を互いに確認してからではないでしょうか そのとおりだと思います.それがしづらいのが現状ですよね.
お礼
つづいてですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >まづは このわたしたちの心を互いに確認してからではないでしょうか そのとおりだと思います.それがしづらいのが現状ですよね. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ありがとうございます。直前でも書きましたが ○ 無力にされていることと 有効でなくなったこととは 別だ。 ☆ と考えます。みづからが腐ってしまっては 有効でありつづけるものも 無力になったばかりか 無効にまでなってしまうのではないでしょうか? つまりは 精神ないし心は 外からの圧倒的な力によって無力にされるまでの影響を受けたとしても 無効になるとは考えられない。むしろ 無効になるとしたなら それは 内からの自己放棄あるいは破れかぶれによって 心をみづからが腐らせてしまうことによる。 つまりは 心は 大海のごとくであって 外からの攻撃によって その表面において心理的に影響を受けることはあっても 傷つくことはあり得ない。傷つくとすれば それは みづからが 偽ったり勝手に腐ってしまったりすることによる。と考えられます。いかがでしょう?
- owlsjp
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基本的には同意だが、気持ちの持ちようが大事であり、精神の根源的レベルにおいては外界の影響を受けない、という趣旨であるように受け取りました. 気持ちは環境を変え、環境は気持ちに影響を与えます。どちらが先でも後でもないはず. >単にわたしたちに心理的な影響のみを与えているに過ぎないと考えます その真理が些細な行為振る舞いの要因であり、戦争を起こす根本原因にもなり、文化芸術を創っていく最初の動機になるのでは. >心理は その心の大海の表面での波風に過ぎないと言うべきでしょう たとえが適切であるとは思えませんが、表面の波風が深いところにも影響すると考えられます. 外界のルール、規則が行動を制限し、制限された行為振る舞いが精神の深いところにも影響を与えていくと考えます.
補足
owlsjp さん ご回答をありがとうございます。 No.25お礼欄のわたしの文章に関しては ★ 基本的には同意だが、気持ちの持ちようが大事であり、精神の根源的レベルにおいては外界の影響を受けない、という主旨 ☆ と受け取られても仕方のない表現でした。じつは 舌足らずと言いますか 表現不足でした。 ○ 《精神の根源的レベルにおいては 外界の――影響ではなく つまり心理的な影響を受けるのだが ただし――支配を受けはしない》 ○ 精神も 心理的な影響を受けて きわめて無力にまでなるが 支配されきるところまでは行かない。無力のままでも 有効でありうる。 ☆ と言おうとしたのでした。ただし これは 精神論ではありません。無力をも受け容れていますから。 ★ 気持ちの持ちようが大事であり、 ☆ は この場合 別としてください。あまり合いません。 ですから ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >単にわたしたちに心理的な影響のみを与えているに過ぎないと考えます その心理が些細な行為振る舞いの要因であり、戦争を起こす根本原因にもなり、文化芸術を創っていく最初の動機になるのでは. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ は おっしゃるとおりだと考えます。そして 《いい影響》もあるとなりますね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >心理は その心の大海の表面での波風に過ぎないと言うべきでしょう たとえが適切であるとは思えませんが、表面の波風が深いところにも影響すると考えられます. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この場合は たとえがそのままでいいとすれば それほど言い間違えてはいません。ただし 表現の問題ではあります。つまり ★ 表面の波風が深いところにも影響する ☆ というのは 心理的に弱ったりへこんだりしたとしても 精神じたいが――影響を受けている限りで そのぶん死んでいたとしても―― どうにかなってしまうというものではないという意味です。むしろ ★ 深いところにも影響する ☆ とすれば それは 上にも見たように 《文化芸術を創っていく最初の動機になる》という《いい影響》のほうが大きいのではないでしょうか? 心理的な悪影響が 精神の全体を蔽ってしまったとしても つまり精神が無力になってしまったとしても その無力の精神は 有効でありつづけるという意味です。言いかえると 無効になったわけではないという意味です。現実の社会力学上の有力に対して こころは無力に落としめられますが 無効になったわけではないというやせ我慢のことです。 もしこの考えで話をすすめてよければ ★ 外界のルール、規則が行動を制限し、制限された行為振る舞いが精神の深いところにも影響を与えていくと考えます. ☆ という事態は 《いい影響》が現われるのに時間がかかるということを言っているのだと思います。 社会の構造としてのお二階さんの改革には 時間が――長い歴史の時間が――かかるということではないでしょうか? そのあいだに 部分的な死が 全体としての死に成りきってしまったなら 話は別です。 考えてみれば そういう問題をあつかおうとしていたようです。この質問でです。
オコリザルです。 A24についてです。 ○ 損得勘定の扱い方 あるいは 利己と利他との調和 正しくは利己と利他の均衡ではないでしょうか。 交流はそのつど明朗な現金決済です。 したがって収支の均衡です。 利他、またはもっと大げさに無償の愛なんて解釈されてしまっては、高利貸しを装うことになります。
お礼
primeape さん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 損得勘定の扱い方 あるいは 利己と利他との調和 正しくは利己と利他の均衡ではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ じつは もともと言い表わし足りないところです。 ★ 交流はそのつど明朗な現金決済です。 / したがって収支の均衡です。 ☆ おそらく 取引のことではなく ふつうに一般の対話においてのことだろうと考えます。 一つひとつの発言を互いに受け取り消化し合って そのつど 誤解を正し共通の見解を確認し 見解の相違の部分についても認め合う。清算すると言いますか ★ そのつど明朗な現金決済です。 / したがって収支の均衡です。 ☆ とおっしゃるような内容だと思います。 ☆☆ 調和 ☆ と言いましたのは 《利己や利他》が出て来ているからです。そもそもは 利己とか利他といった倫理的な事項としては考えたくないのが わたしです。 でも 損得勘定はあると言っていますし 利己の要素があるのも一般です。それにもとづいて表現するなら わたしとしましては ○ 利己を突き抜ける。 ○ 利他は いちいちそれを意識するようには 考えない。 ○ つまり 利己を追求し そこを突き抜けるとき その利己が 他者にとっても 共通の心の基盤を捉えており表現しており そのことによって 主観を共同化させ得るならば 望外のよろこびである。 ☆ というような趣旨です。 ということは もし ★ 均衡 ☆ が 《調和》と同じように 動態ではなく必ずしも過程の内に捉えられなければ それにも 違和感を覚えるものです。ただし 《均衡》は あくまで過程の内における《そのつど》ですから たしかに そういう心配はないかと考えます。 そのような意味ですが どうでしょう?
- owlsjp
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生き返るためには駐留米軍の撤退と、日米安保条約の解消をしなければなりませんね。 そうすれば、些細なことで「警察呼ぶぞ」という人間も少なくなり、正直に生きられるようになるんでしょう。
お礼
owlsjp さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 生き返るためには駐留米軍の撤退と、日米安保条約の解消をしなければなりませんね。 ☆ これは 政治的な問題が 人びとに心理的に影響を与えているという事態であるように わたしは 受け取りました。 わたしたちのわたしたちによる世界に位置するわたしたちのための共同自治が 外の人びと(国家)に依存しているなら その自主性が損なわれているのであるから そのぶん 死んでいる。 このことは 次のご指摘とも 同じ類型の問題だと考えます。 ★ そうすれば、些細なことで「警察呼ぶぞ」という人間も少なくなり、正直に生きられるようになるんでしょう。 ☆ すなわち わたしたちの共同自治が 外のではないのですが その一部の人びと――もう少しはっきりさせるならば 社会として二階建てになっている国の家のお二階さんたち――によって牛耳られている。ならば 人びとは そのぶん 死んでいる。 警察も何も公共の職務は すべて わたしたちの共同自治のためにそのように設けたわたしたちのものです。 そういうふうに生活したいですし 共生を願いたいものです。 たぶん 外からの そして お二階さんという一部の人たちからの 横槍は 単にわたしたちに心理的な影響のみを与えているに過ぎないと考えます。精神(つまり こころ)は もっと大きくて 心理は その心の大海の表面での波風に過ぎないと言うべきでしょう。 つまり まづは このわたしたちの心を互いに確認してからではないでしょうか? と思いました。
オコリザルです。 A15の損得勘定についての話です。 自らに利益誘導しないでただ雑談に加わるだけで、さらに第三者でもない客観性です。当事者の片方として利益誘導をしないでさらに対面したもう一方の当時者が利益誘導を図るのを阻害、攻撃、いさめ、そのように対話することです。自らの主観で知解を進めるにあたって、唯識でいう平等性を発揮することでもあります。 自らの欲望を手放して利他を装うのなら、現実をゴミ捨て場にする輩と同質の言い分です。高次元の霊体がよくやるお互いに儲かるもうけ話です。 利他を放任したりアダムスミスを持ち出すようじゃあ、bragelonneさんも自らの欲望に気がつかない状態に、感染しているんじゃないですか。
お礼
primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 前回のわたしの反応は 《横からの評言》です。 ☆☆ (No.15) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 今回のお話は 一般化して扱うのは むつかしいでしょうし 個別にそのご友人のことについて述べるにしても 第三者のわたしには 無理でしょうね。そういう問題を取り上げておられる。――もしくは 問題のそういう取扱い方をしておられると思います。 ですから ぎゃくに思ったことを気軽にお話させていただきます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その上で ご批判をいただきましたので お応えしてまいります。 ただしこれも 前回で述べたことが 基本になっていると いま 読みなおして確認しました。 ご友人との間のことは 分かりませんので あくまで 一般論として けっきょく ○ 損得勘定の扱い方 あるいは 利己と利他との調和 ☆ の問題だと考えるのです。しかも ★ 自らの欲望を手放して〔* あるいは 棚に挙げて〕利他を装うのなら、〔* あたり構わず みづからの意識を排泄しまくって〕現実をゴミ捨て場にする輩と同質の言い分です。 ☆ この命題と 同じ主張だと考えるのですが どうでしょう?
補足
w1k2g3 さん はじめまして。ご回答への補足要求を寄せていただきありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 死んだ人=話のすり替え術で本質をつかむ面倒な作業を放り投げる人 みたいなことなんですかね? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 具体的な事例としては この質疑応答の場でのじっさいの体験にもとづいています。ここで この質問のこの回答者の場合だとも言えないですから 定義のようにして述べます。だいたい同じなのですが ○ 死んだ人: 話のすり替え術で 相手の問うていること・批判したり確認しようとしたりしていることに けっきょく答えない人です。 ○ しかも この答えないまま また次の対話の場に出てくるという場合を言います。ゾンビか幽霊かでしかないと思われますから 明らかに 死んでいます。 ○ 《本質をつかむ面倒な作業を放り投げる人》も とうぜん 入ると考えます。ただし《本質》を持ち出すと 話が長くなるでしょう。 ☆ つまりたぶん このおっしゃっている事例の場合には その証明のために長い議論を必要とするでしょう。《本質をつかんだかどうか》で 堂々めぐりに陥りかねないと思われます。 ですから そのことを嫌って どうしても取り上げる必要があるという場合でなければ いまは取り上げません。むろん 触れてもらう分には自由です。 そうして ★ △話し合いが出来ない // というのは具体的にどういうことなのでしょう? ★ △意味のある話、意味のない話 // これも具体的にそれぞれどんなことでしょうか? ☆ につきましては やはりここでのわたしの体験になるのですが まづ 抽象的に述べることになります。 ○ わたしの見解に対する批判を受けて わたしは その批判を包むような内容で応じたといった場合です。 ☆ 相手の批判の中の《意味》を含むという場合です。そうすると どうしても その相手にとっては 《意味のある話》だと受け取らざるを得ません。――しかも それでも 話を 途端にすり替えるという場合 これは 《話し合いが出来ない》ということになります。そしてこれを 《死んだ》と表現しました。 これまでのわたしの質疑応答の経過については No.21の rongostudy さんへの補足欄にて どこにそれがあるかを示しています。横着な説明の仕方になりますが 適当にどれかを拾って 興味のおありのところで ここはおかしいぞ ここはどうなんだとかご指摘いただければさいわいです。 《話し合いが出来ない》具体例は さらにほかのわたしの設問のほうで起きているのですが このいまの質問を問うに到った経過は 分かっていただけるのではないかと思います。