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大都市の道路から裸足が消えたのはいつ頃か?
- 大都市の道路における裸足の存在は、江戸時代の絵巻物『熈代勝覧』に描かれていることがわかる。
- 明治初期になると、道路の舗装が進み、裸足の人は減少していった可能性がある。
- しかし、裸足で歩く人が一切いなくなった時期は特定できない。
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新ネタではありませんが、再度失礼致します。 御教示の「裸足と走り」大変参考になりました!! 因みに、下記「近代日本の身装電子年表」によりますと、 1901(明治34)年5月29日裸足禁止による一ヶ月余りの間の 東京市内各警察署での処分者数は132名のようです。 ・国立民族学博物館>近代日本の身装電子年表> http://htq.minpaku.ac.jp/databases/mcd/chronology.html 「事件」・「現況」検索画面へ(年表形式)> ○1901(明治34)年/7月/事件 警視庁が5月に裸足を禁止して以来、これまでに市内各警察署での処分者数は、 浅草署104人、下谷署31人、本郷署25人、芝署12人、牛込署10人、日本橋署4人、 深川署2人の合計132名。 [報知7/7(3)] 以上 お騒がせしました^^
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- Kittynote
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再度お騒がせ、誠に申しわけありませんm(_"_)m No.3投稿、確認ミスによる訂正 誤:「処分者数は132名のようです。」 正:「処分者数は132名又は188名(=104+31+25+12+10+4+2)のようです。」 No.3投稿「近代日本の身装電子年表」○1901(明治34)年/7月/事件の記事に 関しまして、各署別人数(合計188名)と合計人数(132名)の相違が 新聞記事原本の問題か年表編纂時の誤記かは判断出来ません(><) 以上
- Kittynote
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〇『新聞集成明治編年史第十一卷/新聞集成明治編年史編纂会編/林泉社/1940』 ・明治三十四年五-六月(皇紀2561─西暦1901) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920419/154 <154/282>(260頁3段目) ○跣足(※ハダシ)嚴禁 廳令發布〔五・三一、毎日〕 跣足禁止令は豫記の如く、一昨日警視廳令第四十一號を以て左の通り發布せら れたり。 ペスト豫防の爲、東京市内に於ては住屋内を除く外、跣足にて歩行するを禁ず。 本令に違背したる者は刑法第四百廿六條第四號により、拘留又は科料に處す。 右理由は勿論主としてペスト菌の侵入を防ぐにあれど、 又風俗取締の上に於ても十分此必要があるが爲めにて、 廳令發布と同時に車力、人力車夫、馬丁其他職工等の勞働者に對し、 特に注意を與ふる筈なりと。 ・明治三十五年十月(皇紀2562─西暦1902) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920419/260 <260/282>(473頁1段目) ○跣足禁止の區域擴張〔一〇・一一、日本〕 警視廳に於ては從來跣足禁止令施行區域は市内のみに限りしが、 今やペスト患者、接續地の横濱市に續々發生するの現状なるにより、 其の區域を擴張し同令をして品川、内藤新宿、八王子、千住、南千住等の 市街地には之を適用し、ペスト豫防のため之れが勵行を爲す筈。 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく解りました。 明治になって「文明国だから裸はダメ」という命令が出たことは知っていましたが、「跣足」が禁止されたことは知りませんでした。 また、ペストの対策とは思いもよりませんでした。 明治34年(1901)になっても「車力、人力車夫、馬丁其他職工等の勞働者」の中には、裸足で働いていた人もいたのですね。 驚きです!! 質問した甲斐がありました。 一定のリズムで歩いたり走ったりする場合には、裸足の方が足の負担が軽くなるそうです。 「車力、人力車夫、馬丁」には、裸足の方がよかったのかも知れません。 裸足と走り http://konishidc.v4.g-1.jp/2012/03/ いつも素晴らしい資料を教えて下さって真にありがとうございます。 『新聞集成明治編年史第十一卷/新聞集成明治編年史編纂会編/林泉社/1940』は、どのページを開いても面白いですね。
- goncici
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江戸時代から裸足は少ないですよ。 旅人は「わらじ」を主に履いていました。 原材料が稲わらで豊富だったからです。 街道沿いにはちびた草鞋を積んでおく塚のようなものがあったそうです。 普段履きは草履や下駄もありました。 たしか、「大江戸リサイクル事情」という本で読んだと思います。 違っていたらすいません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに旅人は「わらじ」を履いていました。 町に住んでいる庶民の中には、裸足もあったと思っています。
お礼
再度のご親切な回答ありがとうございます。 こんな素晴らしいサイトがあるのですね。 これまた、面白い話の連続で読み出したら止まりません。 明治の雰囲気を肌で感じるような気がします。 脇道に逸れてしまいますが、同年5月に、大相撲幕の内力士26名の体格についての記事があります。 「身長順:大砲196.0 cm 体重順:梅ノ谷150.0 kg 」[ 時事]、とあって、尺貫法のはずですが、後で調べてみます。 本題に戻って、処分者数は、多分188名でしょうね。 署別の人数が正しいと思います。 それにしても一ヶ月余りでこれだけの違反者がいたということですね。 見逃した数の方が多いでしょうから、もっと多くの裸足の人が往来を行き来していたことになります。 改めて、洛中洛外図を見ますと、けっこう裸足の人を見かけます。 また、山本作兵衛氏のユネスコ記憶遺産「炭鉱画」には、裸足の鉱夫が描かれています。 大正・昭和の時代でも、炭鉱では裸足の労働者がいたことに驚かされます。 わらじ代が払えないという理由だけではなく、力仕事には、裸足が向いていたのかも知れません。 今回もお陰さまで歴史を楽しむことができました。 感謝申し上げます。