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全人類が滅んでも善は行われるべきだとは

”全人類が滅んでも善は行われるべきだ。”という言葉は誰の言葉でどのような文献・文脈の中で語られたものでしょうか。 それがどのような文脈の中で語られたとしてもこの言葉は、我々が日ごろ生活の信条としていること(人を思いやることが大切などなど)を全面的に否定する可能性を秘めた言葉であることは間違いないように思います。 地球環境の保全のための二酸化炭素排出規制技術にまい進しているエンジニアとて、その行為が否定される側面があると言っているわけですよね。人の気持ちがわかるひとになりましょうというスローガンなども。 それが善に照らしてどうなのかという点検を受ける必要があり、どのような行為でも否定される可能性があるということですね。 どのように考えるのでしょうか。

みんなの回答

  • hegelian
  • ベストアンサー率31% (5/16)
回答No.4

 「”全人類が滅んでも善は行われるべきだ。”という言葉は誰の言葉でどのような文献・文脈の中で語られたものでしょうか。」  という問いにだけ回答します。  これは神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の言葉(又はモットー)として知られています。  Wikipediaにもそうありますし、私は別のいくつかのソースからも見聞きしているので、世間一般の理解はそれで正しいはずです。  ただし、文脈は分かりません。本当にフェルディナントがそう言ったかもわかりません(歴史ではしばしば、言ってもいないことがその人の発言とされてしまうことがあるので。)。

参考URL:
http://en.wikipedia.org/wiki/Fiat_iustitia,_et_pereat_mundus
skmsk19410
質問者

お礼

回答、有難うございました。 実は私はカントではないかと思っていました。カントの哲学を推進する基本的な考え方らしいからです。カントは自らが創作しなくてもフェルディナント1世の言葉として引用したのかもしれません。 私は高校のとき世界史を選択したのでフェルディナントという皇帝の名前は記憶の片隅あるような気がしています。 また、もともとの発言は哲学に関するものですが、私自身は全く哲学の門外漢でチラッと鑑賞しているだけです。哲学というのは物騒な学問でチラ見だけでも危なっかしい領域に入り込むものだなという思いがあります。

回答No.3

とりあえず。 別なことを考えましょう。 滅ぶとか物騒ですよ。

skmsk19410
質問者

お礼

回答有難うございます。ご指摘の通り、この質問は物騒です。 ところで、人間に関して最も物騒で残虐的で忌まわしいことは何でしょうか。ナチスのホロコースト、スターリンの大粛清、始皇帝の焚書坑儒、どれが一番?なんて子供じみたクイズですが。これらはすべて人間の命を強制的に終了させられるという行為の量の大小ですね。しかし、人間は生まれて100年ぐらいしたら死ぬということに集約されるわけですから、(それこそ物騒な話ですが)比較的長い時間のホロコーストの中にいると言えなくもないわけです。そのようなことに耐えられないから、”考えるな、考えるな、見るな、見るな”、”もっとポジティブなことを考えよう”、”希望をもって頑張ろう”という耳障りのいい言葉で事実を隠蔽しているのかも知れない。そしてそれを認めたとしても次に出てくるのは(先回りするようですが)”そんなことやって何になるのか”という問いです。.... 哲学とはそういうことを考える学問ではないかと思います。すなわち哲学は物騒で常人はやれないものだなとも思えるのです。

  • zatousan
  • ベストアンサー率55% (156/282)
回答No.2

こんにちは、 イギリスのマーガレットサッチャー首相の言葉で、 アルゼンチンで起きたフォークランド紛争に介入するか否かと言う時に、 ~~~~~~~~~~~以下wikiより引用~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土とは国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命・財産の存在する根拠が失われるという意)と発言した。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC (引用元) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%B4%9B%E4%BA%89 (フォークランド紛争についてはこちら) こんな言葉がありますが、その後色々とこの発言が脚色されてか、サッチャー首相が、「正義は人命に優る。」と言っただとか、言われています。 <それがどのような文脈の中で語られたとしてもこの言葉は、我々が日ごろ生活の信条としていること(人を思いやることが大切などなど)を全面的に否定する可能性を秘めた言葉であることは間違いないように思います。> 全面的に思いやりを否定しているとは思いません。 <地球環境の保全のための二酸化炭素排出規制技術にまい進しているエンジニアとて、その行為が否定される側面があると言っているわけですよね。人の気持ちがわかるひとになりましょうというスローガンなども。> そうでしょうか? どうしてそのようにお考えになったのですか? <それが善に照らしてどうなのかという点検を受ける必要があり、どのような行為でも否定される可能性があるということですね。> どのようなスローガンでも使い方を間違えると、とんでもない意味になりえますが、 どのような行為でも否定されるって事とは関係ないと思います。 ご参考までに

skmsk19410
質問者

お礼

回答、有難うございます。フォークランド紛争のときのサッチャーが考えた正義が善かどうかの検討が必要かと思います。そして善だと判断されたら、それは人命に替えても実現されるべきかも知れないという道筋が開かれるのかも知れません。私は標題の言葉”全人類が滅んでも善は行われるべきである”に全面的に承認しているわけではありません。 もし、承認した場合、我々が正しいと考えて行動していること(地球環境問題への取り組みとか小さな親切とか)1つ1つが善に照らしてどうなのかをチェックしていくと、ことごとく善ではないと判定されるらしいのです。これはある先賢の説であり、そんなものかな?と考えているところです。で、それも承認してしまうと、その「善」以外の行為は、否定される「可能性」があるということが常に付いて回るはずだ、となります。このことの裏返しは、我々の行為の大部分は量の大小はあるものの「悪」が混入しており、「悪」を成さずには何事も成し遂げることができない、という説につながるらしいのです。 なお、「否定される」と言っているのではなく、「否定される可能性がある」あるいは「否定される道筋が見えてくる」ということです。現代の日本人が「否定されるはずがない」と思っている行為がです。

  • ap10
  • ベストアンサー率33% (453/1356)
回答No.1

善の考え方次第で、物事は全てどうとでも評価できます つまり、「どのような行為でも否定される可能性がある」というのは当り前の考えです 例えばある宗教Aにおいて人殺しは悪だとしても、別の宗教Bでは善と判断される場合がある そんなものです 酷い例であれば、神様の考えでは、人間の考える善や悪といったものは何の価値もないかもしれません

skmsk19410
質問者

お礼

回答有難うございます。 標題の文について考えるとき、当然、「善とは何か」ということとセットになっているわけですが、今回はそこまでは立ち入ることはしないでおこうと思っています。そこまでいくと私の意見というより、古今東西の先賢の見解をいうだけなので。 「どのような行為でも否定される可能性がある」ということは承認頂いたと思いますが、最近の日本の風潮では”否定されるはずがない”と思って行為し、発言する事例が多くなっているような印象を受けます。そしてその行為に抵触した人を見つけて、あきれかえり、厳しい言葉摘発し...という空気が支配し始めているように思えるのです。

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