• 締切済み

絶対的に正しい行為(絶対善)を定義してみた。

私たちは正しい(正義)と善は何か違うものように感じています。そこで善とは何かを考えてみました。 アメリカのエール大学などの実験で、あまり理性の発達していない生後数か月の赤ちゃんでも善悪は分かっていると科学的に証明されています。つまり善なる感情は生まれつき持っている本能的なものであると分かります。理性で考えられた正しい事、規範(信号を守る、税金を納めるなど)ではなく、本能から来る善なる感情は何なのか?と考えました。そこで多くの善なる行為を考えてみてピン!と来たのが「思いやり」だったのです。 例えば浜辺に打ち上げられたクジラを海に返してあげようと頑張っている人たちを見れば、何か暖かいものを感じ「善い人たちだな~」と思います。またカルガモが道路を渡れず困っているのを見て、みんなが車を止めてカルガモを渡してあげるのを見ているとなんだか心が暖かくなります。このような善なる行為を多く考えて、そのすべてに共通しているもの、内包しているものを考えていたら、それは「思いやり」であると気が付いたのです。 これは論理学でいう内包的な定義のやり方です。全ての要素に共通しているもの、内包しているものがその本質なのです。その本質を言葉で表したのが定義と言い、これが厳密的な定義になります。 つまり多くの善なる行為に内包していたのが「思いやりであり、私より公を優先する行為」だったのです。そこで私は善とは「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」であると定義しました。勿論、自分が考えたすべての善なる行為に「思いやり」が内包していただけですから、もしかしたら「思いやり」が内包していない善なる行為があるかもしれません。しかし私が考えた善なる行為の中にはすべて「思いやり」が内包していたのです。 私は哲学はまだ素人であまり自信がありませんので、賢い人たちの意見を聞かせてください。どこか間違っているでしょうか?よろしくお願いします。

みんなの回答

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10082/12630)
回答No.5

「お礼コメント」を拝見しました。ありがとうございました。 確かに、日常的な感覚や世界では「私より公を優先する行為、愛や思いやり」が美しいことは同感です。ただ、それは(私)個人の社会生活上での理念であって、これを絶対的善、あるいは最高善と見なしたり、決めつけたりすると問題が起こってくるかも知れない、と考えています。 1つには、「ある行為が私より公を優先した、愛や思いやりのある行為であるかどうか」ということを誰が判断するのかという問題です。特に現実の社会で、お互いが対立関係にある場合などでは、神の声が聞けるわけでもないですから、「どちらがより公を優先する行為、愛や思いやりある行為なのか」などについては、お互いの見立ては多くの場合一致しないでしょうね。それどころか、多くの場合対立するのではないかと危惧されます。 また1つには、「私より公を優先する行為を、愛や思いやり」が社会で極度に重んじられると、この風潮が「滅私奉公」や「全体主義」につながりやすいことは、歴史が証明しています。個体よりも種を尊重することによって、個人より集団・社会・民族・国家を優先し、自由主義・個人主義は圧迫されて、集団主義・国家主義が横行することになった結果による、とされています。そして、その集団主義・国家主義を標榜して他の民族や国家に戦いをしかけたのが、2つの世界大戦をはじめとする多くの戦争につながっていった結果であった、と言われます。 ですから、「私より公を優先する行為を心がけ、愛や思いやりの心を持つ」のは、自分自身の社会生活上の理念として持つ限りにおいて美しいのであって、それを他人に強制しないことや、普遍的に適用しないように配慮することが求められるのかも知れない、と私は考える次第です。

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 私は善は感情であり、善なる心、良心は遺伝子に書き込まれ本能になっていると思いますので、善は相対的ではなく、絶対的なのです。生後数か月の赤ちゃんでも善悪は分かっていると言う大学での実験で実証されています。下記HPをご覧ください。 https://www.cnn.co.jp/fringe/35045208.html 善とは基本的にその群れを守る為にあるものであり、他の群れを襲って支配しようなどという性質は持っていません。ですからヒトラーがどうのこうのと言われれば困るのですけれども、この問題でも善の定義で正しいあり方が分かります。 あなたは賛成できないと思われるかもしれませんが、私が見つけたのは絶対善です。全てに人に通用する定義です。私の善の定義であれば、どんな社会的問題も答えはひとつに収束できると考えています。 私は絶対正義と絶対善を見つけました。

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  • aokii
  • ベストアンサー率23% (5210/22063)
回答No.4

どこも間違っていません。人は人のために生きてこそ人です。

shinwood
質問者

お礼

>どこも間違っていません。人は人のために生きてこそ人です。< ありがとうございます。しかしそう肯定されると逆に不安になりますw あなたの他の答えはどんなものか、見てみましたが未公開になっていました。何故公開されないんですか。皆さんに読んでもらうことがみんなの為ではないでしょうか。

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10082/12630)
回答No.3

以下のとおりお答えします。 (興味あるご質問をありがとうございます。) ほとんど、おっしゃるとおりだと思います。《善なる行為の中に「思いやり」が内包されている》という観察・定義も素直で健全で、素晴らしいと感じ入りました。 以下は、その「ほとんど」以外の部分について言わせていただきますね。特に「絶対善」ということについて、「いちゃもん」、といいますか、ある意味「あげ足とり」のような格好になるかも知れませんが、どうぞ悪しからず。かっこつけて言えば、「反論」ということになるかも知れませんが、それほどご大層なものではありません。「ああ、そういう見方もあるか」くらいの感じで聞き流していただくだけでも構いません。 実は、「普遍的にあてはまる絶対善はない」、と言われます。例えば、通常殺人は絶対悪とされるように思いますが、戦時中などはこれが善とされ、表彰されたりしました。アタナシウス派が正しく、アリウス派が異端とされたのは、325年のニケーアの宗教論争という場に限定されたからでした。トラシュマコスは、「時の支配者が正義の何たるかを決める」と言いました。つまり、「善の概念は常に相対的で、定まっていない」ことになります。換言すれば、善悪の判断は「いつ、どこで、何のために(目的)」ということが決まらなければ、分からない、ということになるのだと思います。 「カルネアデスの板」というのがあります。大海中で小さな板にしがみついている遭難者が、それにすがろうとする別の遭難者に対してとる排除の行動について、倫理的側面からどう考えるかという問題です。《多くの善なる行為に内包されていたのが「思いやりであり、私より公を優先する行為」だった》というのはいいと思いますが、「そうでないものが必ずしも悪ではない」ことも合わせて意識に留めておきたいものです。高名なカントの用語を借りて言えば、《「常に同時に」善であるものはない》、ということかも知れません。 こうして見てくると、「絶対○○」と言えるものはなかなか見つかりそうもありませんね。せいぜい、「それに限りなく近い」というくらいでしょうか。例えば、「常に絶対的なものを求めようとする姿勢」、「『万物は教師』として周囲に耳を傾ける態度」、「自己変革や向上への意欲」…、このようなスタンスを称して「絶対的な善(行)に限りなく近い」と言えるかも知れませんね。そういう意味で、このshinwoodさんのご質問をうれしく思いました。

shinwood
質問者

お礼

真摯なご意見ありがとうございます。絶対善を定義したと言えば「頭がおかしい」と皆さんが相手にしてくれませんでしたが、あなたのように理解してくれたのは初めてです、ありがとうございます。 >トラシュマコスは、「時の支配者が正義の何たるかを決める」と言いました。つまり、「善の概念は常に相対的で、定まっていない」ことになります。換言すれば、善悪の判断は「いつ、どこで、何のために(目的)」ということが決まらなければ、分からない、ということになるのだと思います。< 善は今まで相対的であったから、いろんな善があったのです。それでは絶対的に正しいことは何も分かりません。そこで私は考えて絶対善を定義したのです。絶対善とは絶対的に正しい“行為”であり、それは「私より公を優先する行為、つまり愛や思いやり」なのです。これこそが絶対善なのです、今までの善は全て相対的なものだったのです。 >高名なカントの用語を借りて言えば、《「常に同時に」善であるものはない》、ということかも知れません。< 失礼ですがカントは善がいかなるものかは理解していませんでした。「カルネアデスの板」についても善の定義で考えればいいのです。もし板に捕まっていたのが老人で別の遭難者が少年なら老人は少年に板を譲るのが正しいのです。できるかどうか分かりませんが。しかし同じ老人同士ならどちらかが公の為になるとは決まらないので板を譲ろうが譲りまいが、自分の思いに従えばいいのです。また遭難者がとても世の中の役に立つ人物なら本来、その人に板を譲るべきなのです。このように「私より公を優先する行為」で考えれば正しいことが分かるのです。このように善は極限では非情なこともあります。しかしそれでもみんなの為になる方を選択するのが正しいのです。 >「絶対的な善(行)に限りなく近い」と言えるかも知れませんね。< その通りです、道徳的正しさは数学の様にすべて真、絶対というわけではないのです。例えば「人は必ず死ぬ」と言うのも絶対か?と言われれば絶対とはいいきれないのですが限りなく絶対に近いでしょう。 私が絶対善というのは「私より公を優先する行為、愛や思いやり」は生物たちが試行錯誤をして、群れを守っていくには「愛や思いやり」が最も優れているとして遺伝子に書き込まれ本能となり、数十億年もの試練、検証に耐え正しいとして生き残り、私たち人間にも引き継がれているのです。そして善は今後も未来永劫変わることなく生物が絶えるまで続いていくことでしょう。ですからこれはもう「人は皆死ぬ」と同じように絶対的ではなく絶対としてもいいのではないかと考え絶対善としているわけです。別に絶対的善でも最高善でもいいのです。

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  • SI299792
  • ベストアンサー率47% (793/1659)
回答No.2

 生後数か月の赤ちゃんで実験、  これは、人形劇をやりました。1つは人の手伝いをして、別の人形は仕事の邪魔をします。その後赤ちゃんはどっちの人形を好むか。やはり、人の手伝いをした人形の方を好みました。この実験だと思います。  ただ、同時にこのような実験もやっています。自分と同じ食べ物が好きな人形と、自分が嫌いな食べ物が好きな人形では、自分の好きな食べ物を好きな人形を好みました。  つまり、赤ちゃんであっても、差別、偏見といった感情は持っているわけです。赤ちゃんの行動で、絶対善の定義はできません。  また、皆が考える正しいことも、時代や状況によって変わります。奴隷が合法だった時代は、大抵の人は奴隷制度はいいものだと思っていました。戦争中は、ほとんどの人が敵を殺すのはいいことだと思っていました。  戦争に参加して、敵兵を殺すのも、「私より公を優先する行為」です。また、殺さなければ仲間か殺される、と考えれば「愛や思いやり」も成立します。  逆も考えなければなりません、 ・浜辺に打ち上げられたクジラを海に返してあげようと頑張っている人たち ・カルガモが道路を渡れず困っているのを見て、みんなが車を止めてカルガモを渡してあげる  これが善なら逆の行為、動物を殺す・食べるは悪なのでしょうか。私を含めほとんどの人がやっている事で、ほとんどの人が悪人になります。  これは私の考えですが、絶対善を定義するのは危険だと思います。代表例がイスラム教です。できた時はよかったのですが、時代に合わなくなっています。では、時代によって変化するのがよいのか、これも疑問です。キリスト教は金権教に変化しています。

shinwood
質問者

お礼

>赤ちゃんの行動で、絶対善の定義はできません。< どうしてですか?赤ちゃんは理性がまだないのに善悪を分かっているし、悪い人形には制裁を加えようとするんですよ。赤ちゃんは善悪は分かっているのです。つまり善は本能であり感情なのです。そのことは、はっきりと食べ物がどうのこうのとは別に分かるではありませんか。また食べ物の件も群れの協調という本能によるものでしょう。全ての本能は群れを保存するためにあるのです。生き残るためにしかありません。そのための本能です、本能はすべて善なのです生存するために必要だから本能になるのですからね。理性にこそ悪い理性と善い理性があるのです。悪さをするのは理性によるものです。 >また、皆が考える正しいことも、時代や状況によって変わります。奴隷が合法だった時代は、大抵の人は奴隷制度はいいものだと思っていました。< ですから正しいとは何かを知らない時代のことでしょう。絶対善が分かったのですから、これからは正しいことが分かるようになったのです。 >これが善なら逆の行為、動物を殺す・食べるは悪なのでしょうか。私を含めほとんどの人がやっている事で、ほとんどの人が悪人になります。< 条件が変われば正しいは変わるのです。動物を殺す必要にない状況なら助けるのは善となり、私たちが生きていくためなら動物を殺して食べるのは善となります。しかしそれが正しいかどうかは「私より公を優先してみんなで考えること」なのです。 クジラを助けるのが正しいとみんな思うから助けて、動物を殺すのがみんな正しいと思うから殺して食べるのです。善は条件により変わりますが「みんなの為」だけは変わらないのです。 核を持つのは反対という人もいる。核を持つのは賛成という人もいる。しかしどっちの人も「みんなの為」になるから賛成、反対と言っているわけです。常に正しいのは「みんなの為になること」なのです。 >これは私の考えですが、絶対善を定義するのは危険だと思います。< それはあなたがまだ絶対善を理解していないからです。また宗教は正しいからではなく、ただ教えを信じているだけです。どちらが正しいと言うことはないのです。宗教よりも絶対善で考えれば正しい判断が出来ます。

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  • togurin
  • ベストアンサー率45% (81/180)
回答No.1

すみません、哲学など全く分かりませんが内容が興味深かったのでコメントとさせてください。 月並ですがあなたの考え方に照らし合わせると偽善はどう定義されるのでしょうか。私は偽善だろうが「思いやり」が内包していないと行動には移せないと思います。それとも完全に利己的で「思いやり」が全くない偽善もあるのでしょうか。 私自身そういう意味での偽善というものは体験した事がなく、 例えば賛否あるタレントなどの善的な行動も偽善と言われる事があるかと思いますが、そこに「思いやり」が全くないとは思えません。 そのあたりうまく説明できると善への理解と言うか定義が深まるように思いました。

shinwood
質問者

お礼

>月並ですがあなたの考え方に照らし合わせると偽善はどう定義されるのでしょうか。< そうでしょうね、偽善にも多少の思いやりはあるでしょう、人間は本来善ですからね。性善説が正しいのです。 例えば就職に有利だからと言って、行きたくもないボランティアにいやいや参加したとします。その時みんなに邪魔にされ、みんなの為にならなかったなら悪です。しかしいやいやでもみんなと同じくらい働き感謝されればそれは本当の善ではありませんが善になります。偽善だと批判して参加しない奴よりよっぽどいいのです。またいやいや行ったボランティアの実績をもって就職に行けばそれは悪です。会社を騙す行為になります。まあ、偽善も善でしょう。 心でどんなに善いことを思っていても行動しなければ善とは分かりません。ですから善は行為なのです。

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