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「空気を読む」ことの功罪
「空気を読む」という言葉は、逆の意味である「KY」の使われ方をみると、否定の否定は肯定という意味で、比較的良い属性として捉えられることが多いように思います。 ところが、知事の一言に反応してヤラセという行動を起こしたり、マスコミが騒ぐのに乗せられてある人物を集中的にバッシングしたり、学校で特定の子供を集団でいじめたりするのは、「空気を読む」ことの悪い面が出る例ではないかと思われます。 結局のところ、日本人特有といわれる「空気を読む」という行為は善なのでしょうか?それとも悪なのでしょうか?
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空気を読む=集団主義は方法論であり、それ自身に善悪はありません。 深い認識による自律的社会性が伴えば、協調性に充ちた助け合いとしての社会になり、そうでなければ、情動的なファシズムや(あなたのご指摘の)スキャンダリズムに堕す。
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”空気を読む” についての考察 空気は見えない 見えないものを読むとは これいかに。 この集団的事象に於ける”空気を読む”とは 周囲に合わせる という事であるが これは人々の欲望から発せられる空気で あるため 当然 自分の意志に沿わない場合もある。 そんなときには その場から立ち去るか 又は空気をかき回して 固まった空気をほぐさなければならないのだ。 はなはだ迷惑な空気である。 ただ これと似ているものに 伝統行事がある。 伝統行事に於いては作法が決まっているので それに従わざる をえないのだが これは”空気”とは別物である また ”空気を読む”という言葉じたいが間違っている と考えたほうがより良い結果を生むこともある。 なんでもかんでも新しい言葉に翻訳するのは グローバル化の 弊害である。むしろ柳田国男の遠野物語のような民族的表現が 心に伝わりやすいことも確かにあるのだ。 文法が適切で表現が明瞭であっても意味が伝わらない。 心に感じさせる文章なのか 身につまされる文章なのか 心と身の違いが分からないような翻訳は ”空気が見えない” とでもいうのだろうか。ああ 人間的 あまりに人間的な。 かつて言葉は神であった。そして言葉は愛であった。 今はどうだ 言葉は攻撃であり欲望の雄叫びであろう。 神仏なくして人は成らないのではないだろうか。 十全たる文化を失った日本に はたして輝きはあるのだろうか。 結果として やはり悪であると言わざるをえないのだ。 教養俗物的用語社会現象というべきか。
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哲学的な回答ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ 結局のところ、日本人特有といわれる「空気を読む」という行為は善なのでしょうか?それとも悪なのでしょうか? ☆ 或る程度 情況に応じて判断しなければならない問題で 複雑と言えば複雑であり 微妙なところもあるかと考えます。 1. 基本的に考えられることとしては: ○ もしそのクウキを読み得る情況にある当事者すべての人が その《クウキを読み 言葉によらないで互いの意志疎通を果たそう》という前もっての約束(あるいは ナラワシとしての黙契)がないとすれば 悪です。 2. ところが日本社会にあっては 一般に日本人どうしの集まりや組織においてこの《黙契》がナラワシになっていると見られています。 長い者には巻かれろ・寄らば大樹の陰あるいは 何ごともお上のお墨つきがあればことの運びがうまく行くといった慣習のもとで その場のクウキを読むということが ひとつの行為形式となっている。こう受けとめられています。 3. では 黙契があれば・あるのだから 悪ではないか? ――ところが一般に このクウキを読むというテダテを用いるのは けっきょく少々の悪を含む事案でもそれを皆に認めさせよう・通そうというときです。 4. ということは この暗黙の内に人びとの気持ちや思いやあるいは時にはきちんとした考えは その場の何となく出来上がって来ている雰囲気に合わせよう・従おうというかたち。このような集団としての意志決定の方式 これには 悪を許容する隙がある。ということを意味していると思われます。 5. それは 理由は かんたんです。一人ひとりの考えをしっかりと述べ合いその中から 皆が納得した内容をひとつの共同主観としようとして決めるのが 集団にとってもその意志決定の基本的に従わなければならない形式だからです。 この意見を述べ合うという民主制の手続きをはぶいてしまうなら それは それとして悪です。(自由意志による判断とその集約という言わば善を侵します)。 6. まぁ たとえば窮地に落ち入った同志たちが――あるいはふたりの恋人たちが―― なんとかその場を切り抜けようとして 互いの目配せだとかあるいは以心伝心によって考えと思いを突き合わせこれにこころを合わせて事に当たる。というようなクウキを読むなら たのしいのではないでしょうか。 7. よろしかったら どうぞ参考になさってください。 ○ 【Q: KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか】 ~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6117420.html 民主制には わざわざ空気を読む必要はなく 空気をかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。 KY というときの空気は このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。 いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程にいまひとつ別の手段を持ち込もうとするときの思潮のあやつり手段である。 さいわいこの国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)ならびにアマテラス予備軍症候群(アマテラス公民の無謬性神話を無条件に信奉する)》なる風潮がはびこっていて この風潮に乗れば KY としての空気も 上昇気流となること請け合いであるようだ。 たぶん その場合にも KY としての空気も読むことだけは読んだほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。 ~~~~~~~~~~~~~~ 8. 《 KY という現象を起こしたほうがひとは よりいっそう自由である》と言い直します。 クウキを読む および クウキを読めない( KY )とをともに超えて(つまり むしろ原点に戻って)さらに前へすすみましょう。 つまり 実際には《クウキ読み》と《 KY 》との弁証法的・らせん状の絡み合いの過程を経ての総合へと展開して行きましょう。
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空気を読むという性癖を集団催眠術に応用するのは為政者の常套手段ですね。 ありがとうございました。
空気を読むを利用して、考えを言わず自分の意のままに操ろうとする傾向は日本にはあると思います。 その結果、ある程度の客観的事実を適切に話す能力が落ちているような。 相手の気持ちがわからなくなった途端に もしかしたら自分に負のメリットがあるかもしれないと 人間は身を守ろうとする行動に走ります。 日本は、適切に話す訓練をしないといけないのではないかと 海外の友人と話していると感じます。
お礼
必ずしも日本人全員が空気という呪縛に縛られているわけでもないと思いますが、震災でデマに素直に従っている様子をみると、多いのだなと思います。 ありがとうございました。
- hekiyu
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空気を読め、ということは、他人の気持ちになって 他人の立場から見ることにはじまり その他人が大多数の場合に己の言動をその大多数の 他人に会わせるということだと思います。 他人の立場に立つ、他人の気持ちを考える、というのは かなり高度な知的作用で、外国人の中にはこういう 作業が苦手な人もいるみたいです。 私には中国人の知人友人が多いのですが、日本人と 比較するとホント、これを感じます。 私は、これは日本人の集団主義に基づくものと理解 しています。 その善悪ですが、これは善の場合もあれば悪の場合も あるだろう、としか言えないと思います。 欧米キリスト教文化圏では、個人は独りづつ神と対峙し 神との約束に律せられます。 だから他人が何といっても、世間からどう見られようとも それに同調せず己の意思を貫きます。 その為、偉大な人もでますが、もの凄い悪人も輩出する 訳です。 日本人はその逆でしょう。 勿論総てこうなる訳ではなく、あくまでもそういう傾向が ある、というに過ぎませんが。
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素直に読んでいただいて少し申し訳ない気持ちです。 ネットでも空気が読めるという例。 とにかく回答ありがとうございました。
お礼
KYな回答ありがとうございます。 見事な分析で感服しました。