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俳句の「目には青葉山ほととぎすはつ鰹」について

目には青葉山ほととぎすはつ鰹  素堂 この句は三段切れですが、歳時記なんかにも例句として載っています。 私達俳句を学習している者は、この三段切れは指導者から常に戒められているのですが、何故、歳時記などには、載っているのでしょうか。 この句が、優れていると言われているのは、どのような理由からなのでしょうか。 宜しくお願い致します。

みんなの回答

noname#213163
noname#213163
回答No.5

短歌は少し勉強しましたが俳句は門外漢です。 短歌も、余計な事を言わないことが大変大事とかで、俳句はもっと短いので短歌のほうが平易で取り組みやすいと伺いました。 さて「はつ鰹」というのはあまり耳慣れない言葉でしたが浜松で初めて某所でいただきました。案外地方によってないものであるのでしょうか。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.4

短詩型について興味・関心を持ってきました。 >この句が、優れていると言われているのは、どのような理由からなのでしょうか。 確かに「目には青葉山ほととぎすはつ鰹」は三段切れですし、さらには季重なりどころか、季語が三度も使用されていますから、まるで確信犯のように俳句の約束事を破ろうとして出来上がった句だと評しうるかもしれません。 でも、初夏を鋭利な刃物で思い切りよく大胆に三面カットしたら、こういう瑞々しい初夏の切断面があまりにも赤裸々に露呈したと言えなくもないですよね。 これに似た発想は、「枕草子」のいわゆる《ものづくし》の章段にも認められますが、やはり、くどい説明的な解析よりもはるかに直裁的で鮮烈な印象を与えてくれるような気がします。 古来、三段切れを禁じてきたのは、これが句の流れを阻害したり、句の重心の位置を不分明にしたりして、結果的に句の凝縮性を損なう恐れがあったからではないでしょうか。 しかし、このあまりにも有名な句の場合、目に眩しい「青葉」の印象、「山ほととぎす」の鋭い鳴き声、舌をうならせる「はつ鰹」のそれぞれが、強烈な視覚、聴覚、味覚を典型的な形で浮き彫りにしており、これを読んだ人の感覚も、否応なく初夏一色に支配されざるを得ないのではないでしょうか。 こういう、自然と人(感覚)と言葉とが寸分の隙間もズレもないほどに一体化、融合化した句を前にすると、だれしも三段切れや季重なりの戒めなどはもうどうでもいい、という境地に無意識のうちに導かれてしまうのではないでしょうか。

noname#88701
noname#88701
回答No.3

私はある人から俳句は、授かるもの、と聞いた事があります。 見たまま、あるがままに詠むという事でしょう。 写生が一番強い、とも聞きました。 あるがままなら誰でもできるという事で、私も俳句を楽しんでいます。

回答No.2

 原作は「目には」ですね。  「『めにはあおば』では字余りになるから、おかしい。『めにあおば』なら五七五のリズムに合うので原作もそうであるはずだ」と考えてしまうのでしょうね。  しかし、ここは、初夏の三つの景物が並んでいる。単純に三つ並べるよりも、「目には」と他と区別した方が、以下「耳には」「舌には」ということを言外の意味として含ませられて三つの感覚が対比されながらも一つにまとまって初夏の趣が醸し出される。仮に字余りがマイナスだとしても、それを補って余りあるプラスが「目には」という措辞にはある。素堂はそう考えたのでしょう。  「三段切れ」も同じだと思います。普通なら、句の内容がばらばらになり、まとまりを失った駄句になる。だからこそ初心者には金科玉条のごとく「三段切れは不可」と指導する。しかし名人の技は違う。原則を外れたところに普通では醸し出すことのできない味わいを作り出す。匠(たくみ)の技(わざ)、秘技・特技を身につけていない素人がうわべだけを真似ても、「顰(ひそ)みに倣(なら)う」ことにしかならない。  俳句ではなく小論文に関してでしたが、同じようなことを回答したことがあるので、そちらをご覧ください。素堂の句を名句として鑑賞するのは、王貞治の一本足打法の美技に酔うようなものでしょう。 「回答番号:No.4」です。 http://oshiete.2story.net/qa4589894.html

  • bakansky
  • ベストアンサー率48% (3502/7245)
回答No.1

「目には」ではなくて「目に」でしょうね。 私は俳句の素人なので、急遽「三段切れ」というのを調べました。 なるほど、3箇所で切れてますね。 「指導者から常に戒められている」というお言葉から判断すると、俳句を「学んで」おられる方なのでしょうが、それはその「指導者」の方の方針なのでしょう。 「指導」する上では禁じていても、それを用いた句はダメな句であると断定なさるかどうかは別のことではないでしょうか。 特に「優れている」とも思えない一茶の句だって、好む人がいれば受け入れられている。 優劣だけで論じられない面もあるのではないでしょうか。 (山頭火の句なんかは、俳句であるといえるかとうかがそもそも疑問なわけですが、それでも好む人がいるのなら、それはそれでいいじゃないですか、というのが私の考えです)。

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