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みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか
質問: 《わたし》は みづからという存在の固有の名称であるのではないでしょうか? 趣旨説明: (1) みづからの存在を指し示すとき それを 日本語で 《わたし》に代表させるとしています。 (2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。 (3) したがって 何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか? (4) 繰り返せば 《わたし》という固有の名称を代理する名称として《何の某》という名前が それぞれ つけられている。
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たびたび、すいません。 >《関係性》の側面が 存在には つきまとっているからだ。――というご趣旨でしょうか? どうも作為的な匂いがしますが、というのも別な質問に、レヴィナスの『実存から実存者へ』の(たぶんそうだと思いますが)解説がありますよね。再掲しますと、 ================================ 《存在することに疲れてしまう》とき 私は私の存在に遅れている。この遅れ 《遅延》がしかし本質的なのである。ただ《それがそこでもつ(イル・イ・ア)》 たんにある(イリヤ) のではなく 私が私の存在を所有する。私はこの所有に疲弊している。 この疲労が ある《隔たり》を つまり《存在すること( exister )》そのものからの距離をつくりだす。その距離によってこそ 《現在》そのものが《構成》される。かくてはじめて《存在するもの( l'existant )》 《私》という《一存在者》が誕生するのである。 ================================ この何を言ってるのかよくわからない表現を見ると、それだけで読む気を無くす著者だなと感想を持ちましたが、いったいどんな本なのでしょうか。それにふと、あれこれ考え合わせてみて、どうやら僕はその延長にいるのだな(違うでしょうか。それとも、気付くのが遅すぎるのでしょうか)と思った次第です。さて、 ○私は私の存在に遅れている――どうして、遅れているのでしょうか。 ハイデガーの論理はこうです。まず、存在と存在物は厳密に言えば異なる。例えば、仔猫は天井について、すなわち存在する「もの」については知っているけれど、その根底にある「存在」については知らない。存在というのは、言い換えればその空間の占有のことです。その場所が与えられること。同一空間に二物はない。 ですから、dasein(「そこ」で明らかになるの意)と表現するわけです。この場所の占有というのが、仔猫にはわからない(わからないから、落っこちる)。それが認識できるのは人間だけだ――というのが、あの長ったらしい『存在と時間』のご主旨だと思いますが、この場所の占有というアイデアにレヴィナスは強く影響を受けています。 その場所の占有について、レヴィナスは「眠り」という形容をします。生きて活動している「わたし」は、その場所に留まらない。けれど、疲れて眠るとき、「わたし」に「そこ」が与えられる。横たわる、それはまさしく実存を場所に、位置に限定することです。 意識化あるいは定位の前段では「わたし」は、実存者なのではない。 「雨になる」とか「疲れがある」と同じように、無主格の実存がそこにはあるだけであって、実存が実存者に変わるというのは、名詞が与えられ、「存在する」という名付け得ぬ動詞が実詞に変わる、まさにそのことなのだということです。 この実詞化によって、「在る」の基底の上に「存在者」が姿を現わす。その代わり、無名の存在は「在る」としての性格を失う。存在者は、存在するという動詞の主語であり、そのことによって存在をみずからの属性とし、その運命に支配を及ぼす。 そこには、存在を引き受ける「誰か」が居り、存在は今やその「誰か」の存在になっているということなのでしょう。自他はここで区別される。 「わたし」がその「誰か」すなわち他者へと眼差しを向けるとき、見られている「誰か」は、「わたし」の視覚の対象として与えられる限り、「わたし」の意識の一部となっている。すなわち、その誰かは「もの」ではなく、名詞らしくそれは「こと」に変わる。 たぶん、こんな感じだと思うのですが、どうでしょうか。
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。。。それはそうと 今日は「そこにある」について考えていました。 またwikipedia使いますけど、せっかくだから。 ラテン語の「adest」と ドイツ語の「Dasein」は関係ありますか? 存在と時間 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93 マルティン・ハイデッガー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC 「世界・内・存在」 プラトンのイデア論・・・ 本質存在と事実存在の区別 ジャン=ポール・サルトル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB 即自存在と対自存在
お礼
yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。 ★ 今日は「そこにある」について考えていました。 ☆ 《そこ》あるいは《ここ》とそして 《いま》とで 《わたし》の存在は 決まるのではないでしょうか。 ぎゃくに言いかえると その存在の固有の何かが 《わたし》という言葉で 言い表わされるということではないでしょうか。 人間存在について みな 同じ《わたし》という言葉では 識別がつかないので 仮りに 《何の某》という名前によって 区別するのだと思います。 ★ 世界内存在 ☆ は わたしは 《いま・ここなる〈わたし〉》と同じことだと思います。 さて 以上のことのほかには 明るくありません。あと ○ 実存は 本質に 先行する。 ☆ と考えます。 あなたは どうなんだよ? どう考えるのですか?
>エワは 人間ですよ。女神でもなければ 神でもないですよ。 私は「母親」を女神だとか呼んでいました。 でも、「人間」ですね。 私もそろそろ獣から「人間」に成れるといいんですけどね。。。
お礼
よろしいんぢゃないですか。 獣かよ!! ――三村くん。
名詞。名。 創世記2~3章 アダムは女をエバ(命)と名付けた。 彼女がすべて命あるものの母となったからである。 ところで、私は彼女に何を与えることができるだろう。。。
お礼
yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。 今回は 意図ですとか 文面の帯びる彩りですとか これが 分かりません。ピンと来ません。 ひとつ。 エワは 人間ですよ。女神でもなければ 神でもないですよ。 人間だから ★ ところで、私は彼女に何を与えることができるだろう。。。 ☆ というふうに 《与える》と言っているのですか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.9 ☆☆ これを受けて あぁ この方は わたしとのやり取りを蛇蝎のごとく嫌っておられると受け取りました。 ★ばかばかしいご理解である。 しかも本質問では、関係のない話である。
お礼
そうかも知れませんね。
オコリザルです。 世の関係の中で「私」として役割を演じる。 人間本質を預かる無意識に取っては、この演じる役目があくまでも演劇であり、冷静なはずの無意識(君)にとっても、すべての世の事象を「嘘」としてほうり出したいときがあるようです。 こうして疲れるんです。 何故かは不明ですが、(自らを解ろうとしない?)むしろ嘘のほうをもてはやそうとする人格の影すらご対面します。
お礼
★ 演劇 / 世の関係の中で「私」として役割を演じる。 ☆ そりゃあ 疲れると思いますよ。《わたしが わたしである / わたしが わたしする》という自己表現に 何か潤滑油を塗ったり飾りをつけるというわけでしょ? ぶっきらぼうから さらに 着飾るわけでしょ? 肩が凝りますよ。
オコリザルです。 人称を「みんな」として表す。または実践的に体現する。 偉そうに述べてきましたが私にとっても過酷です。 分け隔てなく「みんな」として個を認識する心情は「私」も実践に至らず、無意識野が(もう、暴れませんが)独り歩きしています。 個はあくまでも「私」と表してもそれで良い訳ではないんですよ。 等しく「みんな」とする認識が必要です。 私の場合は解っているというよりも、つげだしにより確かめた事柄です。 しっかりしないといけないのですが、いろいろな取り組みは「みんな」としてお互いに分け隔てなく共感を呼ぶ境地を目指しているとも言いうるでしょう。 他方のご質問にもありましたが、私の場合人格を置き去りにして、これに取り組んでいるので「疲れた」と弱音を吐きたいときもあります。「疲れた」というよりも、人格の置き去りが大げさでなく、自分の居場所がなくなる体験を多くしました。
補足
primeape さん ご回答をありがとうございます。 ★ 「みんな」としてお互いに分け隔てなく共感を呼ぶ境地 ☆ たぶん この《みんな》と《共感》という表現に わたしは こだわります。 《みんな》と そして 個別の存在にとっての――独立性つまり孤独と並らぶところの――《関係性》とは その同じ点や違う点が はっきりしないうらみがあります。 《共感》は わたしの定義では 《なんとなく賛成》なのです。ちなみに 《理論的にも 心から 同意する》のは おなじく《感》を使いますが 《同感》と言います。 いまわたしが物言いをつけていることは ひとつに 表現の問題であるにすぎない。もうひとつに この物言いが 全面的によいとも言えない。という留保がつきますが 注意し留意すべきことがらだとは思います。 たとえば 次のようです。 ▲ (A.スミス:国富論) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ われわれが自分たちの食事をとるのは 肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなく * ( bragelonne 註) 自己の同一性保持の観念そのものによる道徳心=交通規則的な倫理によるのではなく かれら自身の利害にたいするかれらの関心による。 * ( br. )ただし そのような倫理をとおしてである。 われわれが呼びかけるのは かれらの博愛的な感情にたいしてではなく かれらの自愛心 self-love にたいしてであり われわれがかれらに語るのは われわれ自身の必要についてではなく かれらの利益についてである。 * ( br. ) と言っても 自愛心も 自己の愛つまり自己の同一性保持のおもいであるゆえ 民主的で自由な交通関係は すでに大前提として 言われ終わっている。とすると 《交換の相手にかれらの利益について》ことさら語る必要もないようになるが すでに ふつうの使用(消費)価値=《必要》のほかに それがカサアゲされた形の交換価値も 交通しあう精神のあいだに 流通しているのであるから その限りで 語ってもよい。語ることを含んでもよい。交換価値とは 貨幣価値あるいはむしろ 値段のこと。 同胞市民の博愛心に主としてたよろうとするのは 乞食をおいてほかにはいない。乞食ですら それにすっかりたよることはしない。・・・かれがそのつど必要とするものの大部分は 他の人たちの場合と同じく 合意により * ( br. ) 民主自由主体である同じ市民どうしとしての同意により 交易により * ( br. ) だから 交換により 購買により 充足されるのである。かれは ある人がくれる貨幣で食物を買う。かれは 別の人が恵んでくれる古着を もっとよく自分にあう古着と交換したり または必要におうじて衣食住のどれかを買うことのできる貨幣と交換したりするのである。 (1・2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここには 反面で ドライで機械的な交換をつうじてのただのやり取りとしての交流といった論調が見えているのですが たぶん 関係性が おそらく 独立性に基礎をおいているという一面を言おうとしているように思います。どうでしょう? 《博愛心》や《みんな》というのは 肩が凝りませんか?
私がまた勘違いしているかもしれませんし、 馬鹿にしていいですけど 私が女性で、彼女を女性として好きだ。。。ってことなの? わからないです。 このサイトにいてゲイだとか同性愛者だとか言われたの無視してきたけど。 男性が女性になって女性を愛したらなんて呼ばれるんですか?
お礼
yukiyama20 さん どうしたんですか? いったい 何を言っているんですか? 前から そうだったんですか? そうでないのに 言われていたんですか? そうなったんですか? なんでしたっけ? カミングアウト? わるいが 質問とは関係ないようだ。 しっかりしなさいよ。
こんにちはbragelonneさん 私は、ラテン語がわからなくて困っています。 それに「母親」が、私に何を認めさせようとしているのか。。。 ところで、bragelonneさんが以前、 「神に性別は無い」と言っていたのが気になりました。 ヘルマプロディートス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B9 性同一性障害 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3 ジェンダー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC 男性名詞、女性名詞、中性名詞 「初めに言があった」
補足
yukiyama20 さん こんにちは。ご回答ありがとうございます。 ★ ラテン語がわからなくて困っています。 ☆ 《 vir = 男・人》の箇所ですか? あなたの目の前にいる男が それ(=真理)だという意味だと思います。――大して 実りのある議論にならないと思います。(境地と手腕によるでしょう)。 ★ 「神に性別は無い」と言っていたのが気になりました。 ☆ 次のわたしの回答を参照してください。 【Q:現代日本に必要な哲学は?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html そのNo.1 No.8のあと No.9が 《絶対》の説明 または 信仰類型論です。 ☆ つまりは この経験世界を超えたところが 絶対であり 神なのですから この経験存在としての《有る無し》やら《性別》やらは やはり 超えています。そういう想定ですから。 《父なる神》というのは 三位一体論において 子に対して 親であることを表わします。性別があるという意味ではありません。もともと 神という規定じたいが 仮りの表現であり 代理としてのしるし(記号)なのですから。つまり 文字は殺し 霊は生かす。・・・いつも ここに たどりつきますね。 想像や思考は 経験行為であり その想像の産物は これも 経験行為であり経験事物です。 《肉》というのは 身体だけを指す場合もありますが 身体および精神をまとめて言う場合もあります。《神の言葉が 肉になった》というのは 身体および精神を持つ人間存在になったという意味です。この肉を超えているのですから 《霊》です。そういう想定ですよ。《ことばで言い表わし得ぬ領域》のことですよ。《なぞ・不思議あるいは 無根拠》のことです。 ★ ヘルマプロディートス ☆ これは 神話 つまり言いかえれば 文学ないし想像力の問題です。すべて 経験的な思考・想像の世界です。中性ないし両性互具という想像の産物です。これは 《絶対》の想定ではありません。 女神や男神というのも 同じです。想像の産物です。 ★ 性同一性障害 ☆ これは わたしは 心理的な意志行為時間の錯綜かつ複合(コンプレックス)の問題であるように思います。 ★ ジェンダー ☆ これは 自然の性別を抽象化し 観念として 置き換えた概念だと考えます。自然本性ないしその自然の性別が スサノヲ人間語の次元にあるとすれば それの観念化としてのアマテラス普遍概念語に属します。わたしは 足のない幽霊だと規定していますが どうでしょうか。 ★ 「初めに言があった」 ☆ 父なる神に対する子なる神は 記憶に対するそこからの知解にあたると言います。それゆえ 《ロゴス》という言葉が選ばれているのだと考えます。 【Q:神とイエスと聖霊】 そのNo.7をごらんください。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3377425.html ★ それに「母親」が、私に何を認めさせようとしているのか。。。 ☆ これは まだ 分かりません。つまり 《母親》が まづ 分かりません。《神》のことを言ってるの?
bragelonneさん、お礼文ありがとうございます。 やはり見当違いでしたか。 人間は一致していても、多重人格者の場合、人格は違うのではないかと思ったのですが。 例えば多重人格者などを説得する場合、つまりお前は実際にはAではなくてBであるという場合、身体的特徴、究極的にはDNAの一致を示すしかないと思うんですよね。 人間の同一性を保障するものは身体であるという考え方ですね。 しかし、その多重人格者が極端な懐疑論者だとしたら、それはきっと偽造に違いないと主張するでしょう。 結局、私からすると、私がいつも同じ私であることを絶対的に保障するものは何なのかということになるんです。 わたしという意識自体は常に統一されてはいるのですが。 もしご存知であればお教えいただけませんか?
補足
bollfish11 さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。わたしの場合 ほとんど現代の脳や神経の科学やあるいは生物学にもとづいて言っているわけではないので その点 おことわりしておきたいと思います。直観によっているかも分かりません。 まづ 前回のわたしの文章について 補正があります。次のように ≫・・・≪ の部分を補うべきでした。 ☆☆ (No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ ひとは 存在そのものに関する限り 《いま・ここなる〈わたし〉 もしくは その身体=精神》が 代替性のない自己同一性としてのひとです。 ☆ 身体の欠けや 精神の障害にかかわらず ≫その≪存在そのものが 社会的な関係性においては ≫その存在である人にとって≪ 他者であるわたし≫が≪ 我が存在と同じ動態であり 至上の時空間であると≫見なすものだと≪考えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さて ★ 多重人格者の場合、人格は違うのではないかと思ったのですが。 ☆ につきましては こう考えます。つまり ○ その多重人格のすべてをまとめたかたちで ひとつの人格である。 ☆ として相い対するのだと思います。そして むつかしいことだと思います。 ★ 人間の同一性を保障するものは身体であるという考え方ですね。 ☆ いま・そこにいるその人 ということだと思います。言いかえると 植物人間であっても 変わりないという意味です。変わりなく 基本的には われわれと同じ人格のあり方であり 存在であるという意味だと考えます。 ★ しかし、その多重人格者が極端な懐疑論者だとしたら、それはきっと偽造に違いないと主張するでしょう。 ☆ みづからの意志行為が その目指すところ あるいは むしろ悲願でさえあったこと これが 長く 報われないでいるとき その一つの意志行為とそれに付随するいくつかの意志行為は 達成感なく さまよっているとすれば そこに時間の錯綜ないし複合(コンプレックス)を起こします。ひょっとして このようなコンプレックスが 多重人格にかかわっているかも知れません。 しかもなお 懐疑論者であったとすると なかなか コミュニケーションを図ることがむつかしいでしょうね。――おそらく しかも その人格のあり方の全体を 受けとめるしか 交通の仕方は ないのかも知れません。おそらく 人格が変わったなら そのつど 変わったねと言ってやることも 大事かと思います。(これも 直観です)。 ★ 結局、私からすると、私がいつも同じ私であることを絶対的に保障するものは何なのかということになるんです。 ☆ 夜になれば 布団の中に 大の字になって 眠りに就く《わたし》です。《ただ そこにいるという存在》のことです。あるいは 《〈わたし〉と名乗る存在その人》です。ほかに 保障するものごとを求める必要はないと思うのですが どうでしょう。現代科学は どう言っているでしょう? ぎゃくに おしえてください。
オコリザルです。 今回はギャグです。 高次元の霊体が久しぶりに営業に来ました。 「つながり」でなく「つながり方」ではないですか? だ、そうです。 霊体と相対した場合の考え方なる哲学は当然ないでしょうが、変な宗教におぼれたなら、人間でもいいそうなことです。bragelonneさんは哲学の人なのでこのような笑いのエッセンスを検証する哲学はお持ちではないでしょうが、私にとってはこのようなお笑い草も楽しみの一つです。
お礼
ふうむ。 ★ 「つながり」でなく「つながり方」ではないですか? ☆ この一文をちらっと見ていたものですから No.12のお応えを書くときには そういう訂正だと思ってしまいました。 そうは変わらないということでしょうか。 わたしの捉え方では どちらでも あまり変わりないですね。抽象的な言い方であり そうあることを貫かねばならない性質のものですから。つまり ○ 関係性(つながり) そして 具体的には 交通(まじわり) ☆ というふうに わたしは 捉えています。 この表現の問題は ★ ギャグ ☆ なんですか。ふうむ。
補足
ri_rong さん ご回答をありがとうございます。 ええっと やはり 《存在論》ですよね? まづ ○ 存在に関して いちいち必ずしも 《関係性》の側面を持ち出すこともない。 ○ 一生を生き切ったそのとき その完了性をもって 存在に対して 固有の名称が与えられ得るのであり 与えられる。それだけのことだ。 ☆ といった見解になりますか? そうして ○ この完了するまでの存在に関して 実際には 《存在者》であること あるいは 《現存在(これが Dasein でいいのですよね?)》といわれるあり方 これが ものを言うと見なければならない。 ○ ただし じつは この《空間の占有》としての《そこにいる》は まだ 《眠り》の状態でしかない。そこから 生きて動く《実存者》になる必要がある。 ☆ という問題意識ないし問題提起が なされるはづだ。と解してよいでしょうか? レヰ゛ナスとハイデガーが ここでは 参照される。 前者をめぐって 著者の熊野純彦(『レヴィナス入門』)に対する文句と これを引用した〔そしてさらに援用しようとしたとみなされるところの〕わたし bragelonne に対する文句とがある。となりますか? たぶん わたしに対する文句は 当たらないと思います。わたしは そこでの質疑応答において 《遅れ》は――わたし自身の経験から言って―― わたしにとって《問い求めるもの》が たしかに 延び延びになっていた・つまり 三十歳ころやっと得ることができたので 納得したと書きました。《疲労》は 別のように感じるとも書きました。 だけれども ri_rong さんは この《遅れ》をも 必ずしも 正当な もしくは 一般的な 理論だとは見なさないということなのでしょう? 《眠り》から《目ざめて 動く》 そうして この動詞が 実詞となれば もう 実存者が誕生するのだから 《遅れ》を ことさら 強調することはない。ということですよね? 次には ここでの質問にかかわる主題が来ます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔* 存在者が誕生し 生きることに対して 主体となるなら〕 そこには、存在を引き受ける「誰か」が居り、存在は今やその「誰か」の存在になっているということなのでしょう。自他はここで区別される。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり この《自他として区別されるところの「誰か」》は 一般に 一人ひとりにとって それぞれ 《わたし》である。のではないか。こう問うています。 ところが 《わたし》より《誰か》のほうが 注目を浴びているように思われます。いわく。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「わたし」がその「誰か」すなわち他者へと眼差しを向けるとき、見られている「誰か」は、「わたし」の視覚の対象として与えられる限り、「わたし」の意識の一部となっている。すなわち、その誰かは「もの」ではなく、名詞らしくそれは「こと」に変わる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん おっしゃるとおりだと思うのですが 質問のおもむくところに焦点をあてていただくなら その《他者》も《わたし》も ひとことで 第一次的にその中身を示し得る言葉をえらべと言われたなら 《わたし》だと答えると思うのですが いかがでしょう?