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みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか
質問: 《わたし》は みづからという存在の固有の名称であるのではないでしょうか? 趣旨説明: (1) みづからの存在を指し示すとき それを 日本語で 《わたし》に代表させるとしています。 (2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。 (3) したがって 何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか? (4) 繰り返せば 《わたし》という固有の名称を代理する名称として《何の某》という名前が それぞれ つけられている。
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たびたび、すいません。 >《関係性》の側面が 存在には つきまとっているからだ。――というご趣旨でしょうか? どうも作為的な匂いがしますが、というのも別な質問に、レヴィナスの『実存から実存者へ』の(たぶんそうだと思いますが)解説がありますよね。再掲しますと、 ================================ 《存在することに疲れてしまう》とき 私は私の存在に遅れている。この遅れ 《遅延》がしかし本質的なのである。ただ《それがそこでもつ(イル・イ・ア)》 たんにある(イリヤ) のではなく 私が私の存在を所有する。私はこの所有に疲弊している。 この疲労が ある《隔たり》を つまり《存在すること( exister )》そのものからの距離をつくりだす。その距離によってこそ 《現在》そのものが《構成》される。かくてはじめて《存在するもの( l'existant )》 《私》という《一存在者》が誕生するのである。 ================================ この何を言ってるのかよくわからない表現を見ると、それだけで読む気を無くす著者だなと感想を持ちましたが、いったいどんな本なのでしょうか。それにふと、あれこれ考え合わせてみて、どうやら僕はその延長にいるのだな(違うでしょうか。それとも、気付くのが遅すぎるのでしょうか)と思った次第です。さて、 ○私は私の存在に遅れている――どうして、遅れているのでしょうか。 ハイデガーの論理はこうです。まず、存在と存在物は厳密に言えば異なる。例えば、仔猫は天井について、すなわち存在する「もの」については知っているけれど、その根底にある「存在」については知らない。存在というのは、言い換えればその空間の占有のことです。その場所が与えられること。同一空間に二物はない。 ですから、dasein(「そこ」で明らかになるの意)と表現するわけです。この場所の占有というのが、仔猫にはわからない(わからないから、落っこちる)。それが認識できるのは人間だけだ――というのが、あの長ったらしい『存在と時間』のご主旨だと思いますが、この場所の占有というアイデアにレヴィナスは強く影響を受けています。 その場所の占有について、レヴィナスは「眠り」という形容をします。生きて活動している「わたし」は、その場所に留まらない。けれど、疲れて眠るとき、「わたし」に「そこ」が与えられる。横たわる、それはまさしく実存を場所に、位置に限定することです。 意識化あるいは定位の前段では「わたし」は、実存者なのではない。 「雨になる」とか「疲れがある」と同じように、無主格の実存がそこにはあるだけであって、実存が実存者に変わるというのは、名詞が与えられ、「存在する」という名付け得ぬ動詞が実詞に変わる、まさにそのことなのだということです。 この実詞化によって、「在る」の基底の上に「存在者」が姿を現わす。その代わり、無名の存在は「在る」としての性格を失う。存在者は、存在するという動詞の主語であり、そのことによって存在をみずからの属性とし、その運命に支配を及ぼす。 そこには、存在を引き受ける「誰か」が居り、存在は今やその「誰か」の存在になっているということなのでしょう。自他はここで区別される。 「わたし」がその「誰か」すなわち他者へと眼差しを向けるとき、見られている「誰か」は、「わたし」の視覚の対象として与えられる限り、「わたし」の意識の一部となっている。すなわち、その誰かは「もの」ではなく、名詞らしくそれは「こと」に変わる。 たぶん、こんな感じだと思うのですが、どうでしょうか。
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- ri_rong
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なんだか補足を頂いたようで。 >つまり 《何の某》は 固有の名称だとは 思えないのですが? 僕の考えとしては、固有名詞などというものは、その人が死んだときに名付けられる、あの戒名のようなものだということです。その最期の名付けの前まで、誰ひとりとして人間は呼称、あるいは代名詞でしか語れない。 もちろん限定詞を使えば、この僕を表現することはできるでしょう。 けれどそういう根気の良い仕事が、とりわけ人間を呼称するための固有名詞に配慮されているとは思えない。むしろ、固有名詞は「変わらない君」「そこにとどまる君」、いや率直に言えば「死体と同じ、君には成長なんてないんだよ」という差別用語にしか聞こえてこないんです。少なくとも、僕にとってですが。 それにここではみなさん、IDを使って投稿をなされます。こうして文字を綴るとき、せめてその間だけは、戸籍上の道徳から自由にさせておいてくれという、実に人間らしい気持ちがあるからじゃないんでしょうか。 世の中には「与えられる」ことも「勝ち取る」こともできないものがあるって思います。固有名詞は、「わたし」が去った後にしか生まれない。いや、それでも持っているんだという幻想、だってこれだけは確かじゃないかという虚ろな気持ち、そういうのを一つひとつひき剥がしてゆくにつれ、気持ちは沈み、暗く深い井戸にでも降りて行くようなやるせなさが訪れる。 人間とは不思議なもので、平和で満たされているときは、あれが無いこれが無いと、無いものばかりを数え上げるが、神戸の震災を振り返ってみると、罹災した人々がそうだったように、自分にはこれがある、あれがあると言って、あるものばかりを数え始める。けれど、そうやって固有名詞をひとつ手に入れるたびに、ひとつだけ確実に代名詞が死ぬ。 僕はいったい、どうやって答えを書けば良いのだろうか。 あまりに無力で、自分が嫌になりますよ。
お礼
補足です。 後ろから三つ目の段落の中で ● 世の中観 ☆ は ○ 《世の中》観 ☆ のことです。読みづらかったと思います。澄みません。
補足
ri_rong さん なにも 困ることはないと思いますよ。――まづは ご回答をありがとうございます。――つまり たとえば 《そのとおりだ。おまえの言うことに同意する》とでも回答するのが ひとつですし 《まったく 意味がない。存在論を 文法の名称によって 説こうとする意図からして まちがっている。出直したまえ》というのも ひとつです。そして そのあいだに いろんな形式の回答があるかと思います。(ご趣旨とは 焦点がずれているかも分かりませんが そういう視点もありうるという意味で このままとします)。 ですが 今回は 特異な――絶妙な――ご回答をいただいたと思っています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 僕の考えとしては、固有名詞などというものは、その人が死んだときに名付けられる、あの戒名のようなものだということです。 その最期の名付けの前まで、誰ひとりとして人間は呼称、あるいは代名詞でしか語れない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりは その人間というものは 一生を終えてみなければ 真価は定まらない。真価と言ったって 人にも自分にも やはり分からないだろうけれど 評価してみておくことは 重要だし 有益である。《関係性》の側面が 存在には つきまとっているからだ。――というご趣旨でしょうか? つまりは さらに煮詰めて言って ○ 固有の名称というものは ひとにとって ない。 ○ すべてが 仮りの名称を用いて 呼び合っているのだし そのこと自体が むしろ 人間にとっての固有のしるしとなっている。 ☆ といったご趣旨でしょうか? ユニークですね。(ユニックと表わせと言ったひとが いました)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ むしろ、固有名詞は「変わらない君」「そこにとどまる君」、いや率直に言えば「死体と同じ、君には成長なんてないんだよ」という差別用語にしか聞こえてこないんです。少なくとも、僕にとってですが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すごいですね。感性が研ぎ澄まされていると言うべきか。あたかも中性子か何かが人体を貫いて通りすぎていくように 存在じたいをも 突き抜けた向こうのほうを見ておられるのでしょうか? どうも これは この視点ないし思想じたいが 探究に値する対象ではないかと思えてきます。昔から ですか? ここまででは 分からなかったです。 ★ 世の中には「与えられる」ことも「勝ち取る」こともできないものがあるって思います。 ☆ これについては 論理的には 破られるのではないでしょうか。それがあるとしたなら それは けっきょく 神だけでしょう。でも その神との関係は おのづと 与えられています。ひとによっては 無関係という関係が 与えられているわけですから。 そして この――奇しくも 存在に固有の名称などないとの理論に呼応した――世の中観の裏側にとでもいうように 見出される《神との〔無〕関係》は 科学にとって べらぼうな想定ですが あんがい 《〈固有名詞〉の幻想性》よりも 現実的であるかも知れません。なぜなら それは 自由だからです。有神論も無神論も どちらも 自由に 選べますし 有神論だけを取っても その中で いくつかの神の中から 自由に あたかも 選べますから。 そうして たしかに この自由の理論としての究極的な選択があれば もはや 存在にとっての固有名詞は 要らないし さらには ないということになるようです。 あとは わづかに――わづかに―― わたしたちは この現実において それぞれ みづからを指して 《わたし》を名乗っているという言語生活があるということではないでしょうか? (つまり 我が田に水を引こうとしています)。どうでしょう?
- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 (*^^*)>゛゛゛ヘッへへ ↑ >゛゛゛ ↑ の「 > 」は、頭のうしろへもっていった手を表す で「 > 」に「 ゛゛゛」が付くと動きを表す 音で表すと、「ポリポリポリ」 と、いったところですかね。 これとはべつに 「ノシ」っつーうのも動きを表してはいるのではないでしょうか?(推測) 下側に《ノ》を付けることで視覚の残像効果を表現しているのではないでしょうか? パラパラ漫画を思い浮かべ「ノシ」を絵文字ととらえれば、理解可能。 いかがでしょうか? ●《ヘッへへ》は ふつうの文字だよね。言葉ですよね。 ↑ さー、どうでしょう? 音かも? |(><)|キャッ-☆
お礼
littlekiss さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「ノシ」っつーうのも動きを表してはいるのではないでしょうか?(推測) 下側に《ノ》を付けることで視覚の残像効果を表現しているのではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ほんまかなぁ。合っていると思うけれど うまく合いすぎなんぢゃない? ★ 頭のうしろへもっていった手を表す・・・音で表すと、「ポリポリポリ」 と、いったところですかね。 ☆ こんなところまで 考えるのですか? すでに いろいろ出回っているのですか? でも最初に考案したひとにとっては 理解されなかったら どうします? わざわざ 説明も添えるのですか? そんなら 言葉で言ったほうが 早い。――でも 絵文字も入れることが みそなんですかね。 ま また変な音を聞かされては 困るので これはこれ。質問は質問。 みなさんは これが 回答かと怒っておられるかも知れないから そのへんは あんばいよくたのみますよ。
- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。(*^^*)>゛゛゛ヘッへへ フルーリーってなんやろ? フリスビーの語源ならまえにどっかでみたことあるけど… 【フリスビー】 1940年代後半に、アメリカ合衆国コネチカット州にあるイェール大学の学生が、フリスビー・パイ・カンパニー (Frisbie Pie Company) のパイ皿を投げて遊んだことから始まったといわれる。それをヒントに、建築検査官のウォルター・フレデリック・モリソンが金属製のものを試作し、1948年にはプラスチック製のものに改良。1955年、ワーム・オー社に買収され、1959年にフリスビー・パイ・カンパニーの "frisbie" のスペルを変えた "frisbee" で商標登録された。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF フルーリーとフリスビー はじまりの音が「フ」、終わりが「リー」と「ビー」の長音 なんか似てなくない? 音 < 空耳だよ、きっと 【商標の類否】 http://www1.neweb.ne.jp/wa/bestpat/ruiji.htm うーん、母音と子音がきになる 【QNo.3492846 母音と子音】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3492846.html ときに、フルーリーとはなんぞえ?と、ネットサーフィンしてみていくと FLEURIE(フルーリ)と書いた標識発見!? http://www.mmatsuura.com/others/france/fleurie.html ほでも、「リ」は短音 ……他人の空似? (TT)メソ。。。フルーリーの意味って何? 【JICFS商品分類基準】 http://www.topnavi.net/toll/search/food/c3/item2.html http://www.topnavi.net/toll/search/food/c3/item4.html
お礼
littlekiss さん こんばんは。ご投稿をありがとうございます。 ★ FLEURIE(フルーリ) ☆ って いいとこですね。田園もあって。これは たぶん そらみみアワー。 このFLEURIE(フルーリ)の出ているサイトで 左側上のほうに ロカマドゥールってあるのに気づいた。これは すごい町だよ。岩の岸壁に家家が 建てられている。びっつくり。 ★ (*^^*)>゛゛゛ヘッへへ ☆ まづ 《ヘッへへ》は ふつうの文字だよね。言葉ですよね。そして 初めの顔を示すところまでは 分かるのだけれど そのあとが 分からない。 ★ >゛゛゛ ☆ にが笑いかなぁ。最近では 《 ノシ 》を覚えたのだけれど そして これは 手を振っているしるしだから バイバイを意味するというのだけれど 《シ》の下側の 《ノ》の部分が何を表わすかが分からない。何であるのか。なくてもよいのにと思うのだが どうなのでしょう?
- cyototu
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#39さんとの遣り取りを端から見ていたら、私の信奉している16世紀ルネサンス期のフランスを代表するある哲学者の方の宣われていた次の断片を思い出しました。曰く、 アリストテレスばかりでなく大部分の哲学者がむずかしさをよそおったのは、空虚な事柄に箔をつけて、われわれの精神にうつろな、肉のない骨を与えてしゃぶらせ、好奇心を満足させるためでなくて何であろうか。、、、難解さは、学者が手品師のように自分の技倆のむなしいことを見せまいとしている貨幣であり、愚かな人間どもはこれで簡単に支払いを受けたつもりになる。 彼はあいまいな言葉のために、むしろ愚かな者の間に有名である。、、、 なぜなら、愚かな者は難解な言葉の下に隠された意味を見つけて感嘆し、これを喜ぶからだ。 、、、彼(ソクラテス)はどんなことをたずねられても、常に、まず質問者にその現在と過去の生活を語らせて、それを吟味して判断した。その他の知識はすべて副次的でよけいなものと考えていたからである。 ここで、お得意の川柳を披露させて頂きます。 唐人の 寝言に驚き 目が覚める 卍素っ頓狂人 お後が宜しいようで。
お礼
現行の文法としての整理が 飾り付けに過ぎないと見るべし。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、bragelonneさん。 マックフルーリー http://www.mcdonalds.co.jp/menu/limited/mcflurry/index.html ↑ なんか、これみてると甘いものが食べたくなってきた。 で、ひとつおもったんですが… マックフルーリーとはなんぞや?アイスそれともパフェ?メニューのカテゴリーじゃ、デザートに属するのかな?ドリンクじゃないし…それとはべつに、JICFS商品分類基準っちゅーのをみてみると…【菓子類】の中に[デザート・ヨーグルト]と[アイスクリーム類]がある。みてけばその中に[その他デザート・ヨーグルト]と[パーソナルアイスその他]がある。この中じゃ、マックフルーリーはどれにあたるんだろう?
お礼
littlekiss さん こんばんは。ご投稿をありがとうございます。 さて 甘いものも好きですが このマックフルーリーは クッキーの割れが載っていて あまり おいしそうに見えない。 えっ なんやて? ★ この中じゃ、マックフルーリーはどれにあたるんだろう? ☆ って? ソフトクリームだそうだから [アイスクリーム類]だろうけれど アイスクリームではないと言うべきでしょうね。ぢゃが この中では もう [パーソナルアイスその他]しか答えはないと考えるしかない。あぁ きょうは 二本 アイスクリームを食べちまった。暑くなってきましたね。 フルーリーって どういう意味ですか?
いろいろ回答されていますが、あまり哲学を考えない単純な考えとして、 固有名詞とは、誰もがその名称を用いて同一のものを示すことが可能、なものしかそう呼ばないのではないでしょうか。「固有」とはそういう意味だと思っています。 《わたし》はその言葉を使う人によって指す人が代わります。 《何の某》は誰が使っても《何の某》しか指しません。(同姓同名など指す人が限定されないことはありますが)
補足
kishiroot さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。一般に そういうこと つまり おっしゃっていることが 通り相場でしょうね。 ただし ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 固有名詞とは、誰もがその名称を用いて同一のものを示すことが可能、なものしかそう呼ばないのではないでしょうか。「固有」とはそういう意味だと思っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ には たぶん 別の解釈もできるのではないかと思います。そして その別の見方に立って 考えたのが 質問の中身になるでしょうね。 ○ 固有時 ☆ という言い方があります。これの物理学上の定義については どなたか詳しい方が 解説してくれると ありがたいのですが 要するに ひとりの人間という存在は 人間として ほかの人と まったく同等・対等・平等であるのですが それぞれの人生は 違うと言えば違います。同じ人生を歩むとは限りません。ですから 固有の生として時間過程があると考えられます。 その固有の生ないしそれを生きる存在は では どういうふうに表わすかですが どうでしょう? いま《わたし》という言葉を使って 自分つまりほかの誰でもない自分の人生を生きているこの存在にとって 親から与えられた《何の某》という名前は――別に嫌いだというわけでもありませんが―― 固有の名称かという問いですね。 たとえば こういう名称は どうでしょう? ○ 人類の一員 あるいは ひとりの地球市民 ☆ これでも 自分にとって固有だという感覚が持てるようにも思いますが いかがでしょう? たぶん 《何の某》は――親がつけてくれて ありがたいと思う側面もあったりしますが それでも―― このいまの固有の自己到来としての感覚にとっては その上に 取ってつけたというふうに思えたりもするのですが どうでしょう? 《わたし》や《みづから》や《おのれ》が 何も不変の絶対的なものだと言うわけではありませんし じっさい そうではないのですが どうも 個々の名前よりも しっくりと来るように思えるのです。 言ってみれば この質問は その程度の問題であるとも思います。 そしてただし このことは ともかくも 《存在》をあつかっているからには 存在論として・人間観として・さらには世界観として 論じるに足る内容もある。こういうふうで いろんな見解を寄せてもらっているのだと考えます。 そういった事情だと見るのですが いかがでしょうか。
- cyototu
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#37です。せっかく回答への補足となっているので、お答えします。 「諧謔は説明する物ではなく、味わう物である」と言うことです。ま、スルメみたいな物ですね。補足要求などと、無粋なこと。貴方の補足要求のお陰で、粋なはずの私まで無粋な説明をさせられてしまったようです。何ともはや。
お礼
ぢゃあ 分からないので うっちゃっておきます。 分からないより 無粋のほうが ましでしょう。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
なるほど、自らにとって自分の屁は臭くないと言うことを言いたいのですね。
お礼
ri_rong さん(No.35) わたしの側に 読みはづしがありました。 ★★ (No.35) どうでしょう。確信的に僕には「わたし」が再帰代名詞のように思えるのですが。 ☆ はっきりと ★ 再帰代名詞 ☆ と明記されていました。つまり 《代名詞》だとおっしゃっていたのですね。 この点 よく飲み込めません。 つまり そうしますと 固有名詞は 現行の文法のままに 《何の某》だということになりましょうか? どうでしょう? そういうふうには 捉えておられないという先入見が わたしには あったようです。 たとえば もしそうしますと――つまり 固有名詞が 《わたし》でも《おのれ》でもなく また 《何の某》といった名前でもないとしますと―― ○ 《存在》あるいは《ひと》という言葉が 固有名詞である。 ☆ というような結論になるのではないでしょうか? そのつてで 《わたし》は 再帰代名詞であるのだと。ちがいましょうか? こういった点など いまいちど 考察していただいて 全体としても ご回答をいただければ さいわいに思います。 * 個々の《存在 ないし ひと》が 互いに互いを識別するために 仮りに 名前をつける。のだと思うのです。つまり 《何の某》は 固有の名称だとは 思えないのですが?
補足
あまりにも 虚仮にするのは かえって 愛が強すぎるか または 甘やかしすぎるので ひとこと 添えます。 おっしゃることは わかるようで まだ 分かりません。判読せよという回答形式のほうに 責めはあると考えます。
- pokoperopo
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ぽこぺろぽです。えーと、そうですね。独我論そのものが無根拠といえます。私がそうだから、あなたもそうだろうとしかいえません。 いちいち固有名詞を用いず、人称代名詞ですませるのはなぜでしょう?もし「私はあなたが好きです」と言えば、おそらく「ありがとう」と返されるでしょう。しかし「ぽこぺろぽはブラジュロンヌが好きです」と言えば、「わたしは ホモぢゃありません」と返されそうです。 そういえばマシュマロさんが、ママ友同士では「〇〇ちゃんのお母さん」と呼び合うことを指摘されましたね。まあ、実際には存在としてよりも、子供を通じた繋がりを重視した関係でしょうから理解できます。 しかし、私の女友達のHNや、目にするペンネームの多くに『〇〇ママ』とあるのはなぜでしょうか?彼女らとそれを目にした私は、彼女らの子供を媒介せずに繋がっているのです。彼女らがいかに我が子を愛しようとも、私には関係がありませんから、全く理解できません。彼女らは△△であって、〇〇の付随物ではないのです。まして彼女らは産みの親ですから、養われもする子供が付随物です。 その意味では、聖霊は神意を媒介するでしょうから、三位一体はまだわかります。しかし子の立ち位置は未だにわかりません。父と同列に扱う、あるいは同一視する意味もわかりません。人の子は、父と一体であるとは言いましたが、自らは創造主とは宣言していませんよね? 不愉快におなりになるかもしれませんがおゆるしください。某掲示板でこの質疑応答を、デンパ対デンパと揶喩しておりました。揶喩する者はバカなので、放っておけばよいのですが、なぜデンパな質疑応答とされたのか、揚げ足取りしかできない蒙昧な民は、どう勘違いしているか知りたいものです。まさか、人称代名詞に決まっているだろうという短絡ではありませんよね。
お礼
補足です。 ▲ デンパ ☆ と呼ばれるのも むべなるかな と思います。かつて わたしは 次のような回答を寄せたことがあるくらいですから。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人は ★ 全ての悩みからの解放 ☆ が成った存在として しかも同時に 全ての悩みを背負い得る存在として 生まれて来ます。 あなたの悩みは すべて 過去の人びとや周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになります そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。 世界中のあらゆる悩みを引き受けて生きた人たちも いることでしょう。その悩みは 残留放射能のようであり すぐ直ちには 消えません。消えませんが 時として 何ものかによって 包まれ覆われ癒されてくるようになります。いわば人びとの悩みを そのような人たちは 《アース(接地)》となってのように 引き受けるわけです。すでに癒されたからです。ひどい言い方をすれば ごみ処理場です。うつくしく言えば ごみ清浄化再活性化工場です。 この現状 この動態としての過程 これで すでに 完全な解放は成っています。心配は要りません。贅沢な心配をすることはありますが やがて この悩みにかんしても 社会の三分の一の人たちが 連帯して 引き受ける情況がやってくるでしょう。つぎの三分の一が共感し あとの三分の一が ごみの排泄専門のおえらい方がたです。そのときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。 ――というほらを吹きたくなりますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そのように ひとから来る電波は ○ デーモン電磁波作用 ☆ と呼んでいます。このデーモン・デンパが 一般に社会において 上下関係に絡んで 発射されるでしょうから 輻射列島だというわけです。いぢめにしても そうでしょうし 母原病にしても そういう要素があると考えます。要するに ほとんど そうだと捉えます。周縁における最後の弱いひとは 屈してしまうかも知れません。 フーコのいう日常生活における権力関係ですね。まなざしを注ぐ・注がれる関係ですね。つまり A‐S 倒立連関ではないでしょうか。《ヨセ》意識に付随するデーモン電波作用だと思います。
補足
pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。pokoperopo さん以上に そのむしろ ▲ デンパな質疑応答 ☆ と見なした連中も ことを むつかしく 捉えているように思えてくるのですが どうでしょう? つまり むつかしい道をたどって 問い求めを敢行している。のではないでしょうか? ことは 単純です。 ○ 分からないものは 分からない。分かるか分からないかが 分からない。 ○ ついぞ 分からない。未知であるのではなく 経験科学の知解作業を超えている。 ☆ なら デンパとでも あるいは 霊とでも あるいは もののけとでも 言うほかありません。 しかも むつかしい道を通ろうとしていると言うのは この《霊》について やはり 分かろうとしておられる。のではないか。つまり デンパと言った場合には 無神論として 《霊》をあつかうのではなく あたかも自分たち人間の認識と管理のもとにおけるものであると見なし じっさいに おこうとしている。 たしかに 三位一体を言い出したことも 霊を分かろうとするいとなみですが これは あくまで 論証しえぬドグマであるという前提のもとに おこなうものです。それでも 世界について 人間の知り得る限りにおいて 観想を得つつ その観想の解釈をしようとするいとなみです。 しかも たしかに もしドグマの中に分け入るとしたなら 子なる神と聖霊なる神との違いを捉えることは いちばん むつかしいようです。 まづ 神は 光にたとえられます。父なる神は 光源に そこから生まれる発耀は 子なる神に そして その両者から発出する明るさや暖かさが 聖霊なる神に それぞれ たとえられるという寸法です。 でも 光は 経験的なものごとですから あくまで 時空間のものです。時間の概念を超えている存在(または 非存在 つまり 霊)について 《生まれる》とか《発出する》とか言っても そこに 時間の過程をたどるというわけではありません。三者は 絶対的に 一体だというわけです。 精神=身体における記憶ないし秩序作用じたいが 存在そのものであるという存在。知解するということ自体が 存在そのものである。明るくする・あたたかく包むつまり愛すること自体が 存在そのものであるという存在。――そんなものは どこにもないようなので 霊と言うのだと思います。 父も霊であり 子も霊であり 父も知解し 聖霊も知解し 子も記憶し聖霊も記憶し 父も子も聖霊も みな 愛です。 このことを 預言者たちを介して知るのではなく 神が直接 みなに知らせるのでもなく ひとりの人間が 指し示したという恰好になっています。そういうとてつもないデンパです。ですから ムハンマドの言うあり方を超えています。むろんと言う如く ユダヤ人たちのように 旧約の神物語のあり方にとどまらなかった。 しかも この三位一体論を得たところで もはや この神について知れとは 言わなくなる。(エレミヤ書31:31以下)。この三位一体は はなはだ不類似ながらも或る種の仕方から見た相似形において 人間一人ひとりにそなわっているし 社会やその形態のあり方にも あたかも仏性のごとく 行きわたっているかに見える。 と考えます。 ★ 『〇〇ママ』 ☆ というのは 一部の人びと――でも身近な人たち――に そう呼ばれているということを言っているのだと思います。 ロシア人は このような通称をもって 互いに呼び合う習慣のようですね。正式には それはそれで 例の父称(つまり 父は誰かを表わす呼称)をつけた名称をも 重んじるようです。 ジミー・カーターは ジェイムズをやめて 通称を選んだのでしょう? ★ 独我論 ☆ について 詳しく説明できる人 いませんかね。
- ri_rong
- ベストアンサー率56% (30/53)
ブラジュロンヌさん、こんばんは。 質問を読ませていただいて、回答を寄せてみたいと思いました。 ★みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか どうでしょう。確信的に僕には「わたし」が再帰代名詞のように思えるのですが。 この場合の「わたし」は「自分」でも良いですし、「オラ」でも「ワシ」でも良いわけですが、そう呼んでいる諸々の「何か」は、実はその「何か」を用いること無しには決して定義できない――だから再帰だと思います――ものではないでしょうか。 ★(2)現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合で 良いということですから、「何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか」と文法的には考えずに、代わりに「わたし」をリカージョンの問題にしてみたいと思いました。と言いましても、 近ごろは100円ショップでも売っている「ラカン人形」のようなもので、お嫌いなクリステヴァの表現を借りれば「sujet suppose savoir(知っていると想定された主体)」――どうやら、そういうものを想定することなしには、人間の知性はその次元を繰り上げて認識することができないようです。巷では「神」とか呼ばれているようですが。 もしも知っているならば、○○と考えるに違いない――という再帰的推論に、「わたし」は常に支えられているのではないか。具体的に書けば、十年後の「わたし」は、今の「わたし」が抱えるこの刹那的な悩みについて(今の「わたし」にはさっぱりわからないが)どのようにしてか解決したその方法を、知っているはずだという推論です。 このような推論は、犯人の描かれない推理小説とか、途中で話が終わってしまうような物語は、ひょっとしたら読む気がおきないという心理に原因があるかもしれません。「わたし」という主人公の物語を読もうとするとき、恐らく誰もが、やがて己にも「ラストが来ること」を信じている。その結末は、決してドラマチックではないかもしれないが、映りが悪くて途中で終わってしまったり、映像が途切れて音声だけになったり、あるいは死んでから本当の結末や、続きが始まるような物語ではなく、一応ちゃんと、そこには「区切りがあるだろう」というような漠然たるラストのことです。 そのラストは今の自分にはわからないが、わからないとしても、必ずそのラストはあるはずであり、ラストがあることだけは確実だ――という認識に支えられている結末のことでもあります(なかには、例外的にその認識が無い方もいますが)。 「どんな結末かはわからないが、結末があることだけはわかっている」 感覚的にはわかっているのだが、どのようなのかがわからない――それは再帰理論の対象とする集合が、ちょうど計算可能な全単射であり自然数と対応できるような(それゆえ計算の不可能な数の)集合であることに近しい気がします。 これまでにたくさん与えられた「わたし」というものを、一つひとつ数え上げていってみるのだけれど――もうずいぶん数えたはずなのだが――いったいどこまで数え続ければ終わりが来るのだろうかという「そのこと」は、数えている者には決して知ることができないという、階層がひとつ上の認識のようなものです。 ================================ この認識のおかげで、ある興味深い認識論的観念について、特定の形式主義に囚われない絶対的な観念を「わたし」に与えることに成功したわけですから、敢えて数学のカテゴリーで形式主義について愚かな質問をせずとも済むわけです。 内田氏の表現を借りれば、「たぶん僕たちが無意識のうちに『わたし』と呼んでいる者は、『普通の人よりたくさんわたしのことを知っている主体』のことではない」という事なのでしょう――これは、ささやかなる僕のファンへ、愛を込めて付け足しておきましょう。
お礼
* じつは 勇み足の可能性があります。次の箇所の理解が わたしに 薄いことにかかわります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 感覚的にはわかっているのだが、どのようなのかがわからない――それは再帰理論の対象とする集合が、ちょうど計算可能な全単射であり自然数と対応できるような(それゆえ計算の不可能な数の)集合であることに近しい気がします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここには すでに 継起無限(可能無限)によって 自己到来に迫りいく手法ではない内容が 言われているのかも知れません。悲しいかな よく 分かりません。ひっくり返る可能性を残しますが 上のようなかたちにて 失礼します。
補足
ri_rong さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。まづ 全体として言って こういうことでしょうか? ★ どうでしょう。確信的に僕には「わたし」が再帰代名詞のように思えるのですが。 ☆ と もし しますと ○ みづからの存在にとって 固有の名称は 《おのれ あるいは 自分》である。 ☆ と解釈していいでしょうか? どうでしょう? たぶん 細かくは 次に取り上げる理由の中身にかんして――経験知と絶対知のような議論ですので―― 違ってくるかに思われます。そして もし その理由の問題を別とすることができるのなら けっきょくのところでは 質問趣旨と 同じような結論ではないかと考えます。つまり ○ 《〈わたし〉が 固有の名称で その再帰名称は 〈おのれ〉である》という見解と そしてそのぎゃくの用法としての 《〈おのれ〉が 固有の名称で 〈わたし〉は その再帰名称である》という見解とは ほとんど 軌を一にしている。 ☆ と考えられるからです。 ですが 問題(論点)は 理由説明のほうです。その説明の仕方のほうです。 ただちに 評価を交えてのお応えになりますが その前提を問題にすべきかと考えます。 ○ みづからの存在の名称というときに 《知解 ないし 認識》を問題にしておられるのではないか? ☆ このように反応いたします。細かい点から 入ります。 ★ 内田氏の表現を借りれば、「たぶん僕たちが無意識のうちに『わたし』と呼んでいる者は、『普通の人よりたくさんわたしのことを知っている主体』のことではない」という事なのでしょう ☆ 《無意識のうちに呼ぶ》のかどうかに まづ 疑問があります。――自覚して 自認するように 自己表現をするというように思うのですが どうでしょう? 《たくさん知っている》というように どうも 《認識》だけではなく その《量》が 問題になっていることに反応します。――おそらく 《あやまつなら われあり》と参照できると考えます。この気づきにおいて わたしは いわゆる我れに還るというとき やはり すでに 全体として(存在の全体として) 自己に到来すると思うのです。しかも 必ずしも 知性による認識の問題ではなく 直観によると思われます。そして この直観のほうが 《存在の自覚》にとって 根源的であると考えるのですが いかがでしょう? じつは むろん 内田氏も 《量の問題ではない》と述べておられるわけです。そして そのような消去法での作業の積み重ねの末に ★ 数えている者には決して知ることができないという、階層がひとつ上の認識のようなもの ☆ に到るということだと察せられます。まとめてみれば ○ まづ 認識するかどうかが 前提となっていると思われること。 ○ 認識と言っても 量の問題ではない。人生の最後に向かうとき それでも 量の積み重ねの問題ではなく そうではなく あたかも次元の高いところへ出るというかたちで説明がなされていると思われること。 ☆ に こだわりました。 以上のこの対比において すでに 理由説明として述べていただいた内容に関して ひととおり 触れ得たのではないかと考えます。けっきょくのところ ★ 巷でうわさされるところの《神》とやらの存在(その想定) ☆ にしても 上の《みづからのあやまちについての気づき》のときに その直観において この想定が 図らずして 含まれている。のを知る。のではないでしょうか? ――この点では 順序がぎゃくであるように思うのです。 経験知と絶対知 これらの想定を前提として 《おのれ》なり《わたし》なりの名称が 現われ 持たれ このような言葉をとおしての自己表現を わたしは 敢行する・・・というのではなく そうではなく 《わたし》なり《おのれ》なりの固有の名称を持っていて 使っていて 或る日或る時 わたしは おのれが 世界によって 欺かれたと知る。その瞬間 瞬時にして わたしは わたしである。と知る。 その気づきと自覚の中に 絶対者の想定が おのづと 含まれている。のを知る。 もしこの順序とこのような前提の再設定によるなら ★ 「どんな結末かはわからないが、結末があることだけはわかっている」 ☆ という順序(秩序)も ちがってくるかも知れません。 ○ わたしは 終わりから始める。 ○ わたしは すでに 死んでいる。ここから 踏み出していたと知る。 ○ 死よ おまえのとげは どこにある? おまえの勝利は どこに行った? ☆ 最後のは 余計ですが このような世界観への揚棄も 可能になるのではないでしょうか? 率率直直にて。
補足
ri_rong さん ご回答をありがとうございます。 ええっと やはり 《存在論》ですよね? まづ ○ 存在に関して いちいち必ずしも 《関係性》の側面を持ち出すこともない。 ○ 一生を生き切ったそのとき その完了性をもって 存在に対して 固有の名称が与えられ得るのであり 与えられる。それだけのことだ。 ☆ といった見解になりますか? そうして ○ この完了するまでの存在に関して 実際には 《存在者》であること あるいは 《現存在(これが Dasein でいいのですよね?)》といわれるあり方 これが ものを言うと見なければならない。 ○ ただし じつは この《空間の占有》としての《そこにいる》は まだ 《眠り》の状態でしかない。そこから 生きて動く《実存者》になる必要がある。 ☆ という問題意識ないし問題提起が なされるはづだ。と解してよいでしょうか? レヰ゛ナスとハイデガーが ここでは 参照される。 前者をめぐって 著者の熊野純彦(『レヴィナス入門』)に対する文句と これを引用した〔そしてさらに援用しようとしたとみなされるところの〕わたし bragelonne に対する文句とがある。となりますか? たぶん わたしに対する文句は 当たらないと思います。わたしは そこでの質疑応答において 《遅れ》は――わたし自身の経験から言って―― わたしにとって《問い求めるもの》が たしかに 延び延びになっていた・つまり 三十歳ころやっと得ることができたので 納得したと書きました。《疲労》は 別のように感じるとも書きました。 だけれども ri_rong さんは この《遅れ》をも 必ずしも 正当な もしくは 一般的な 理論だとは見なさないということなのでしょう? 《眠り》から《目ざめて 動く》 そうして この動詞が 実詞となれば もう 実存者が誕生するのだから 《遅れ》を ことさら 強調することはない。ということですよね? 次には ここでの質問にかかわる主題が来ます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔* 存在者が誕生し 生きることに対して 主体となるなら〕 そこには、存在を引き受ける「誰か」が居り、存在は今やその「誰か」の存在になっているということなのでしょう。自他はここで区別される。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり この《自他として区別されるところの「誰か」》は 一般に 一人ひとりにとって それぞれ 《わたし》である。のではないか。こう問うています。 ところが 《わたし》より《誰か》のほうが 注目を浴びているように思われます。いわく。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「わたし」がその「誰か」すなわち他者へと眼差しを向けるとき、見られている「誰か」は、「わたし」の視覚の対象として与えられる限り、「わたし」の意識の一部となっている。すなわち、その誰かは「もの」ではなく、名詞らしくそれは「こと」に変わる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん おっしゃるとおりだと思うのですが 質問のおもむくところに焦点をあてていただくなら その《他者》も《わたし》も ひとことで 第一次的にその中身を示し得る言葉をえらべと言われたなら 《わたし》だと答えると思うのですが いかがでしょう?