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みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか
質問: 《わたし》は みづからという存在の固有の名称であるのではないでしょうか? 趣旨説明: (1) みづからの存在を指し示すとき それを 日本語で 《わたし》に代表させるとしています。 (2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。 (3) したがって 何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか? (4) 繰り返せば 《わたし》という固有の名称を代理する名称として《何の某》という名前が それぞれ つけられている。
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たびたび、すいません。 >《関係性》の側面が 存在には つきまとっているからだ。――というご趣旨でしょうか? どうも作為的な匂いがしますが、というのも別な質問に、レヴィナスの『実存から実存者へ』の(たぶんそうだと思いますが)解説がありますよね。再掲しますと、 ================================ 《存在することに疲れてしまう》とき 私は私の存在に遅れている。この遅れ 《遅延》がしかし本質的なのである。ただ《それがそこでもつ(イル・イ・ア)》 たんにある(イリヤ) のではなく 私が私の存在を所有する。私はこの所有に疲弊している。 この疲労が ある《隔たり》を つまり《存在すること( exister )》そのものからの距離をつくりだす。その距離によってこそ 《現在》そのものが《構成》される。かくてはじめて《存在するもの( l'existant )》 《私》という《一存在者》が誕生するのである。 ================================ この何を言ってるのかよくわからない表現を見ると、それだけで読む気を無くす著者だなと感想を持ちましたが、いったいどんな本なのでしょうか。それにふと、あれこれ考え合わせてみて、どうやら僕はその延長にいるのだな(違うでしょうか。それとも、気付くのが遅すぎるのでしょうか)と思った次第です。さて、 ○私は私の存在に遅れている――どうして、遅れているのでしょうか。 ハイデガーの論理はこうです。まず、存在と存在物は厳密に言えば異なる。例えば、仔猫は天井について、すなわち存在する「もの」については知っているけれど、その根底にある「存在」については知らない。存在というのは、言い換えればその空間の占有のことです。その場所が与えられること。同一空間に二物はない。 ですから、dasein(「そこ」で明らかになるの意)と表現するわけです。この場所の占有というのが、仔猫にはわからない(わからないから、落っこちる)。それが認識できるのは人間だけだ――というのが、あの長ったらしい『存在と時間』のご主旨だと思いますが、この場所の占有というアイデアにレヴィナスは強く影響を受けています。 その場所の占有について、レヴィナスは「眠り」という形容をします。生きて活動している「わたし」は、その場所に留まらない。けれど、疲れて眠るとき、「わたし」に「そこ」が与えられる。横たわる、それはまさしく実存を場所に、位置に限定することです。 意識化あるいは定位の前段では「わたし」は、実存者なのではない。 「雨になる」とか「疲れがある」と同じように、無主格の実存がそこにはあるだけであって、実存が実存者に変わるというのは、名詞が与えられ、「存在する」という名付け得ぬ動詞が実詞に変わる、まさにそのことなのだということです。 この実詞化によって、「在る」の基底の上に「存在者」が姿を現わす。その代わり、無名の存在は「在る」としての性格を失う。存在者は、存在するという動詞の主語であり、そのことによって存在をみずからの属性とし、その運命に支配を及ぼす。 そこには、存在を引き受ける「誰か」が居り、存在は今やその「誰か」の存在になっているということなのでしょう。自他はここで区別される。 「わたし」がその「誰か」すなわち他者へと眼差しを向けるとき、見られている「誰か」は、「わたし」の視覚の対象として与えられる限り、「わたし」の意識の一部となっている。すなわち、その誰かは「もの」ではなく、名詞らしくそれは「こと」に変わる。 たぶん、こんな感じだと思うのですが、どうでしょうか。
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- pokoperopo
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ぽこぺろぽです。《私》に関しましては、自己を神のごとく捉える独我論を、他者にも認めるというのが結論であります。 《三位一体》に関しましては、この質疑応答の主題の派生的産物でありますので、皆さんを巻き込んで、改めてご一緒に考えていただきたく、新しく質問を立てましたことを、どうかご了承願います。 理解を拒んでいると、おっしゃられては返答に窮しますが、理解できないことに頷くのは、かえって失礼であるというのが、私の拠り処でもあります。つきましては、抗弁するものではないとご理解をお願いするとともに、いま一度、この問題を全体で共有することを旨に、新拙問をご覧になっていただきますよう、よろしくお願いいたします。
お礼
pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。 今後の方向として わかりました。承知いたしました。 保留になりますが 留意点のみ記します。 ★ 《私》に関しましては、自己を神のごとく捉える独我論を、他者にも認めるというのが結論であります。 ☆ わたしという存在の 互いの対等な関係性を言おうとしていることは分かります。願わくは ★ 自己を神のごとく捉える および ★ 独我論 ☆ につきまして くわしい説明が俟たれるものと存じます。 これで この質問も締めようと思います。 みなさん ありがとうございました。 ひきつづき あたらしい質問にも よろしければご参加ください。
- pokoperopo
- ベストアンサー率28% (104/359)
夜分に失礼をばいたします。寝つきの悪い、ぽこぺろぽです。筋金入りのスサノヲイストの私としましては、実効性のない強制力には反発を覚えてしまいます。三権分立のご説明は理解の助けとなりましたが、とりわけ司法の優位性が謳われなければ、法的に強制ができませんので、法令を公布して、それを諳じていれば一件落着とするアマテラシズムは、どうにも馴染めないのです。 キリストを受け入れよとの、原始教会の教えにも反発を覚えます。父を差し置いて、子の話ばかりをするからです。私は十字架の意味を考えますが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これに尽きると考えます。つまり、イエスは人として蔑みと苦しみを引き受けたのです。イエスですら耐えられない苦しみを、何人にも負わせないことが、十字架の贖いを受けた者への戒めです。十字架に相応しい者など存在しません。つまり、私は死刑廃止論者です。原始教会は十字架の美しさ、無償の愛ばかりを強調するので苦手です。子の捉え方は、イエスが救世主であると同時に、人の子であることを忘れてはなりません。 そういうわけで、父なる神の《私》は、疎かにされがちです。《私》には説明が不要、『有りて在る』の神こそ、究極の独我論、完全無欠の真理ではないかと考えます。その神を模した、《私》と名乗るわれわれは、日常の主体意識においては、自己を神と考える〈小さな神々〉なのです。三位一体そのものは受け入れますが、父の優位を確認しない三一等価論は虚妄です。《私》は独我論であると同時に、神(主体意識において)を意味する。したがって、乱立した〈小さな神々〉を区別するための固有名詞である。これが私の結論です。
お礼
pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。 全体として 意外なお答えであり 三位一体についてのわたしの二三度にわたる説明に対して 理解を拒んでおられるのは 心外に感じました。むろん その拒否ないし否定の理由が明確でないという意味からです。 たとえば 細かいことを述べますが―― 一般にも神は細部に宿るといいますから―― ★ 原始教会は十字架の美しさ、無償の愛ばかりを強調するので苦手です。 ☆ 今回・つまりは いま 三位一体について重大な問い求めをしている最中に まったくあさっての事柄を出して来ておられる。これが 一事が万事 わたしの説明を相手にしていないという証拠です。心外に感じます。 あなたの結論も述べてありますが すべて 信条および心情を そのまま 明らかにしているそれだけです。わたしのように 説明をするということをしておられない。 ★ 父の優位 ☆ またまた同じように この一事を取って見ても もし一つの位格が 他のそれに対して 優位であり 差があるというのであれば それは 《一体》ではありません。そういうあらたな見解をお出しになるのは いいのですが そういう性質の結論だとはっきりさせなければいけないでしょうし なかんづく その説明をしなければなりません。《一体》だというのであれば ★ 三一等価論 ☆ なのです。ですから 新説を提出するのだと言って 説明する必要があります。 ★ 《私》には説明が不要、『有りて在る』の神こそ、究極の独我論、完全無欠の真理ではないかと考えます。 ☆ まづ 《独我論》は わたしにはお呼びではありません。もしくは その内容を定義しなおして やはり説明し説得する必要があります。そして もしこの説明が 妥当だとすれば その説明内容のすべてが 子なる神にも聖霊なる神にも 等しく 当てはまるというのが 三位一体論です。 そうでないとおっしゃっているようですから そこのところを明らかに分かるように述べる必要があるでしょう。つまり じつは もはや 三位一体の神ではないと言おうとされていると受け取っても 早合点ではないと言わざるを得ないところまで来ています。 そこのところを しっかりと 説明されるのでしたら わたしも さらに 自説を超えて 耳を傾けてお伺いしてまいります。いかがでしょう?
- cyototu
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>どうしても それは まちがっているぞという物言いなり助言なりがありましたら そんなことはありません。人それぞれで、ご自分の手に入れてきた方法で生きて行けば良いんじゃないですか。そのやり方を相手が受け入れるか受け入れないかは、貴方にはどうすることも出来ないのですから。 少なくとも私にとってはこの場所は、適度の娯楽の場所で、一寸したおしゃべりをしたり、普段英語ばかり書いているので、日本語を書く恰好の練習場が出来たと喜んでいる次第です。遊びの場所と心得ているので、ときどき投稿者をからかったり、蘊蓄を傾けたりと、まあどの年寄りでもやるような嫌らしい悪戯心を弄んでおります。 自分の長年の経験で、人を説得するには、先ず木を論じるよりも森を見せることに重心を置いて全体の流れを把握してもらうように努力しております。したがって、できる限り言葉を区切らないで読者の頭に滞り無く全体像が入ってもらうように、そして、出来ることなら2度読んでももらわなくても相手が分かった気になるような文章を書くことを心がけているつもりです。 人それぞれ世界の認識には固有の歴史が在りますので、こちらが伝えたいことをこちらの論理で細かく展開した所で、相手は自分の言葉と論理で組み直してからで無いと、暗記は出来ても理解はしてくれません。したがって「だから何なのだ」という全体を見せ、どうしてそういう結論が導き出されるのかと言う論理を展開するよりも、結論は何なのだと言うことに重点を置くことの方が、遥かに重要だと考えております。こちらで主張したい結論が有意義であるという自信があるならば、どうしてそうなのかと言う細かい論理は、読者や聞き手が自分の言葉で考えれば良い。その方がこちらの細かい論理を提示するよりも遥かに説得があります。まあ年の功とでもいうか、こちらの出来ることは、相手を「分かった気」にならせることだけで、相手が本当に分かるためには、自分の言葉で考えてもらわなければ不可能だと言う経験則を手に入れたわけです。 私が学生に論文の読み方や、講演会の聞き方について指導する時は、 「その論者は何を問題にしており、どんな結論を導き出したかに焦点を当てなさい。それをどのような論理で導き出したかは参考にする程度で宜しい。論者の追体験をするだけでは決して自分の物にはならないから、追体験を適当にすると同時に、細かい所は自分の言葉や論理を見つけなければ駄目だ」 と、年寄りが言えそうなことを言っているわけです。
お礼
cyototu さん ご回答をありがとうございます。 たぶん これで はっきりしたのではないでしょうか。何がって 哲学と自然科学とは やはり違いますよ。 問い求めの過程――つまり 推論ですね―― これだけですよ 哲学にとっての問題は。何故って 答えは ひとそれぞれにあって 一人のひとにとってでさえ その場の情況や相手に応じて いくつか違った実践としての答えがあるはづですから。自然科学なら 正解は いちおう 決まるのでしょう? どこでも 誰が扱っても。 ですから 哲学が 示せるのは わが主観真実のみです。その思惟の過程のみです。しかも その真実に 一般性・共同性もしくは普遍性があるかどうかが 大事なのは 言うまでもないことです。 別の質疑応答で 《情況の法則》という説に行き当たりましたが(どうも削除されたと思うのですが) これは たしかに 全体を見るべしと言う視点であり そのことが やはり 大事であるのも 実際です。しかも けっきょくのところ 主観に行き着くと言うべきでしょうし 事実 哲学の有効性は この一人の人間が現実に実践しうるかということにかかっていると考えます。 これらを総合して考えるに 経験合理性に立って妥当性があるかどうか これが 判断基準であるはづですが それには つねに どんな些細な事柄であっても 些細であればあるほど 哲学の徒は 少しおかしいかなと思えば わざとでも その石につまづいてみて 立ち止まり 急がば回れとしての思惟を敢行しなければならない。こう考えます。 こんなところでしょうか。どうでしょう? * 問題意識から およそすべてが始まるというのも これは おっしゃるとおり 推論の過程に先立つ重要なことであるでしょう。
- pokoperopo
- ベストアンサー率28% (104/359)
ぽこぺろぽです。私が変なことを尋ねたせいで、話題が飛び火してしまい、申し訳ありません。これは質問趣旨から大きく逸脱するうえに、愉快なやりとりとはいえませんね。 さて、三位一体です。三位一体を明らかにしているのは、このくだりでしょうか? 證する者は三つ、御靈と水と血となり。この三つ合ひて一つとなる。 第一ヨハネ書 5:8 それにしても、いまだに理解できないのですが、一神教に汎神論(聖霊)が含まれるのはよしとして、なぜ子を父と同格にしたのかをです。人の子を御子と敬い、十字架の贖いに思いを馳せるのはよいのですが、父が子をこの世に送ったのであって、代理権までは与えていないと考えるからです。やはり、父は絶対唯一神であるべきです。 師に問い質したところ、「私には三位一体の崇高さを、うまく説明ができない。あのパウロでさえ、『朧げにしか知らない』と語っている。それをわからないままに課題としない、あなたの拙速さこそが不信仰といえる」と諭されました。何か、聖句からでもヒントはありませんか?よろしくお願いします。
お礼
☆ 記憶における理念としての《自由・平等・兄弟愛》が それとして 知解され それらにもとづき 意志される。これら記憶・知解そして意志の三つの能力行為が そのまま 自由なら自由を 現実に表現しうるか? と問うたとき それら三つの行為は 時間的な隔たりをもって まあ幾分かは 一体性を表わすかのように 幾分かは 実現するように思われます。民主主義を勝ち得て来ました。 このように ひとは考えます。努めます。走ります。目指す目標に達するのは 人間の三一性としての光と そしてそれはあたかも月明かりのごとくであって あるから 三位一体としての光に照らされることが 必要だという非思考のドグマが表わされているのだと考えます。 したがって 無神論によれば 有神論と同じく 人間の理性も感性も有限であることを認めつつ あとは この自分たちの努力によって 目指す目標へと進むということではないかと思います。この場合 目指す目標に到達できるかどうかは 分からないとなります。到達できると発言するときには やはり 非思考のドグマが表わされるという寸法です。無神論も 非思考つまり 信仰の一つの形態なのです。 有神論という信仰は 神の存在を言い ここに絶対の光を見ている。 無神論という信仰は 神などいないと言い 無神ないし無が 絶対の光だとやはり言うのだと理解します。 どちらにも 非思考の次元と そして ふつうの経験思考とがあるのではないでしょうか。 もし 無神論が 無神という絶対の光を あたかも仏性のごとく 人間が宿していると言ったとすれば それは 有神論において 子なる神が 父なる神と一体であるというのに 限りなく近いでしょう。
補足
pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。 批判は大歓迎です。批判になっていない場合が 問題です。だいじょうぶです。 ○ 三位一体 ☆ そうですね。No.36へのお応えを参照していただきたいと思います。光のたとえです。光源=父 その発耀=子 両者から発出する明るさ・暖かさ=聖霊とたとえて その三つのペルソナ(位格)ないし一つの存在は 時空間を超えているのですから 絶対であり無限です。そして 無限を仮りに三分割しますと その三分の一は やはり 無限なのです。これが 《絶対》というものです。 ですから ペルソナのそれぞれの個は ほかの個と等しい。個は 全体とも等しい。全体は それぞれの個とも等しい。これが 三つのペルソナの絶対的な一体性( Trinitas )です。 子も聖霊も じつは 光源であり 父も聖霊も 発耀であり 父も子も明・暖であります。 人間の自然本性のうち精神の行為能力としては 《記憶(精神の秩序作用)》が 父にたとえられ 《知解》が子に 《意志(愛)》が聖霊に それぞれ たとえられます。 社会形態としては 《司法》が 記憶ないし父に 《立法》が 知解ないし子に 《行政》が 意志ないし聖霊に それぞれ たとえられます。 神としての三つの位格の一体性は 瞬時に成っていると言いますか 永遠に一体性としてあります。人間およびその社会形態としての行為関係としては 記憶から知解し 両者にもとづき意志を決める。そして実行する。実行の結果を見て ふたたび 記憶に尋ね そこから知解し 全体として 意志する。このように三つの能力行為は 時間過程をともなって 一応 一体性を実現するように進むと見なされます。三権分立も 分業しているということは 互いに 協業しており その時間的な隔たりを持ちながら 一応 一体性を発揮するように進みます。(これを 三一性と言います)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人の子を御子と敬い、十字架の贖いに思いを馳せるのはよいのですが、父が子をこの世に送ったのであって、代理権までは与えていないと考えるからです。やはり、父は絶対唯一神であるべきです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 例によって 上と同じく アウグスティヌスの三位一体論に拠ります。わたしが 投稿したものがあります。 【Q:なぜ神はイエスをこの世に送ったのか】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3093850.html No.4&17&19が わたし(= noname#80116 )の投稿です。 ☆☆ (上記質問への回答No.19)~~~~~~~~~~~~~~~ 闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。(人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが)。 いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのだと思われます。 人間としてというのは たとえば 弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態(つまり 神であるとは ほんとうには 心得ることなど出来なかったこと)を意味します。あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 人間として死を死んだということ。などです。 人間としてでなければ――つまり 神として 十字架上で奇蹟を起こしたなら もう話は別だということになってしまうという意味なのですが 人間としてでなければ―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。 しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。コギトとしての光 もしくは コギトの根源なる観念ないし思念としての神に終わってしまう。逆に言いかえると 神は人間の精神なのではないと知らせる必要があった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
趣味の問題ですか。しかし、ここで書かれる文章は、他の人にも読んでもらうつもりで書かれる文章ですから、独りよがりというわけには行かないでしょう。 >そういう意味と、少し、似ていて、読点は、じゃまに感じます。 確かにこのような読点だらけの文章を書いたら、誰でも読点をじゃまに感じることに同感です。だから誰でも、 「そういう意味と少し似ていて、読点はじゃまに感じます。」 と書いてスッキリさせたくなりますね。 >文字を追うのは、一般に、だれでも、読みづらいですよ。 は 「文字を追うのは、一般にだれでも読みづらいですよ。」 ではっきり意味の伝わる読みやすい文章に成っていますね。 美は単なる趣味の問題ではなく、普遍的な説得力があるからこそ芸術の対象に成っているのですね。
お礼
cyototu さん cyototu さんも まともな投稿になってきましたので こちらも 心を入れ替えてお応えします。 まづは ご回答をありがとうございます。 そうですか。趣味を超えた一般的な読みやすさの度合いがありますか。 たぶん これからは いまの考えですすめていく過程において 考え合わせていこうとは思います。 それは わづかに まだ 次の二つの理由があるからです。 ひとつは ☆☆ (No.50お礼欄) つまりは たのしく書くこと(入力すること)のほうが のぞましいのは 当然です。 ☆ わたしが たのしいと思うやり方をえらぶという意味です。読む側への気配りとの兼ねあいになるでしょうね。 もうひとつは 次の三つの文は 必ずしも 同じものではないと考えるからです。 ○ そういう意味と 少し 似ていて 読点は じゃまに感じます。 ● そういう意味と、少し、似ていて、読点は、じゃまに感じます。 ★ そういう意味と少し似ていて、読点はじゃまに感じます。 ☆ いま気づいたのですが(ただし 以前に 自覚していたことで 今回 忘れていたことですが) たしかに わざと 読みにくくしているということです。それは 読む人をして 振り向かせるという意味を含みます。 おっしゃるように ★印の表記が いちばん 読みやすいでしょう。●印にするくらいなら ○印の方が ましでしょう。けっきょく この○印のかたちにして わたしは 読み手に 立ち止まって 読み その内容を受けとめ 消化せよと 迫っていることになります。 そもそも わたしは 応答を必要とする文章を読むときには 読みなおしを 一度は おこないます。つまり 二回 全体を読むということです。わたしの文章は それに値すると思っていますので それなりの主張をしていると採っていただいて いいと考えます。 しかも いちばんの理由は 先のたのしさを追求すること ここにあります。 保留と言いますか 留意と言いますか そのようにして あらためて 進みたいと考えますが どうしても それは まちがっているぞという物言いなり助言なりがありましたら お手数ですが いまひとたび ご投稿をいただきたく お願いいたします。
補足
お礼欄に 一点を補います。 ○ 黙読 ☆ を わたしは しているからかも知れません。ですから 読む速度は 遅いです。ゆっくり頭の中で 一字づつ 読んでいるので それに合わせて 書くときにも 文節を区切る。ということのように 思われました。 黙読は しませんかね? 流行りませんか?
- cyototu
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>★ 読点の除去 >☆ 原稿用紙の場合 そのまま 一マスを空けておけばいいわけですから 省エネになるからです。 と言うことは、ワープロでは一マス開けの命令も句読点の命令もエネルギー消費に関しては変わりがないので、句読点を入れて読んでもエネルギーの無駄にはなっていませんね。そこで句読点を入れて読んでみると、句読点だらけの文章ですね。こんな句読点の多い文章は小学生が書いても何だこれと怒られてしまう文章で、読みづらいことと言ったら目も当てられないですね。言葉でご自分ばかりでなく人をも説得できるという信念を持っておられるようですから、空白を開ける理由をもっとしっかりした言葉で納得させて頂けませんか。
お礼
批判は 熱烈歓迎ですよ。 ★ 原稿用紙とワープロとでは 要領がちがうから あらためて 考えたまえとのご批判。 ☆ ところが ★ 空白を開ける ☆ 頻度は それほど多くはないはづですよ。どうですか? たしかに このご投稿の文章にくらべれば 多いですね。つまり どちらも 読みづらさでは どっこいどっこいではないでしょうか? 両極端でしょうか。 余分な話です。つまり 趣味の問題です。 ひとつに 送り仮名のルビを 文字の脇に振るのは つまり それを読むのは 嫌いです。別の行を 不規則につけ加えているみたいだからです。 ルビはやめて 送り仮名をすべき文字のあとに――つまり 同じ行のなかに―― 括弧書きして 振ればいいわけです。 そういう意味と 少し 似ていて 読点は じゃまに感じます。 つまりは たのしく書くこと(入力すること)のほうが のぞましいのは 当然です。 それと ★ 言葉でご自分ばかりでなく人をも説得できるという信念 ☆ は 読点のあるべき空白を 多くしようが少なくしようが あまり変わりないはづです。 一文が長すぎるという短所を持っていますが この文節が空白でちぎれちぎれだというのは それほど大きな短所だとは 感じないですね。おかしいですか? 文字を追うのは 一般に だれでも 読みづらいですよ。
- pokoperopo
- ベストアンサー率28% (104/359)
ぽこぺろぽです。実はいつかお尋ねしようと思っていたのですが、大佐は文章中で読点を用いずに、分かち書きをするのはなぜでしょうか?ここに大佐の《私》を感じます。 そうですね、デンパですね。あの人とは話しづらいとか、おかしみを感じるとかいうのも、ある種のデンパでしょうか?《ヨセ》社会では、このデンパの受け取り方が下手な者は、「空気が読めない(KY)」として疎んじられます。かくいうぽこぺろぽはKYです。 山本七平は『空気の研究』で、この日本社会の特殊性に触れていますが、アマテラシストでなければ「空気」を感じないのでしょうか?もしかしたら他者に《私》を感じさせないことが、空気を読めるということのような気がします。 余談ですが、晩年のフーコは「男は皆、ホモであるべき」とのたまわっていましたが、人類滅亡でも呼びかけていたのでしょうか?それとも独我論の強烈な発露でしょうか?いまいち、フーコはわかりません。
お礼
pokoperopo さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ フーコ ☆ は 著書を読んだ結果で言っているのではなかったです。澄みません。最近の質疑応答で知った結果で 言っています。 ★ ホモ ☆ は――自然本性に反すると言いますが―― そのこと自体として 人格がどうのこうのとは言えないようには 考えるようになっています。気がちがっているのではないかと思っていましたし いますが 人格をうんぬんするまでの根拠はないと考えるようになっています。 ★ 山本七平:『空気の研究』 ☆ あぁ いま気がつきましたが ほとんどは読んでいますが この本を そういえば 読んでいなかったですね。どういうわけか 分かりません。NHKテレビなどで よく説明を聞いていました。 ★ 空気 ☆ につきましては――えらそうに申しますが―― 次のように あつかってくださいませ。 ○ まづ 基本的な方針として 《悪事には 子どものようであってよいが 考え方としては おとなになってください》。 ○ KYを決め込んでいても いいでしょうし あるいは わざと――面従腹背のように――その空気に乗っかっていっても よいと考えますが 基本的には 空気を読むこと自体は おこなっておくべきです。 ○ そのあとの行動は 具体的に規定するのは むつかしいわけですが やはり 存在を愛し 欠陥を憎むだと考えます。 ○ しかも このとき 利害関係ないし損得勘定が からんでいますので そのときには 鳩のようにおとなしく へびのごとく賢くふるまってくださいませ。 ○ デーモン・デンパ = 意識の排泄 ☆ は アースとして受け取り受け容れても 容易に 消滅していきます。《存在は愛し 欠陥は憎む》ことを続ければ だいじょうぶです。そのことによって かえって――文学的な言い回しを用いますが―― こちらの魂が さらに 強められていきます。その瞬間ごとに 魂が与えられるといったかたちでもあります。感覚としては そのとき あまり快いものではありません。 ★ 読点の除去 ☆ 原稿用紙の場合 そのまま 一マスを空けておけばいいわけですから 省エネになるからです。 ★ 三位一体論 ☆ は どうなりました?
- ri_rong
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>質問のおもむくところに焦点をあてていただくなら その《他者》も《わたし》も ひとことで 第一次的にその中身を示し得る言葉をえらべと言われたなら《わたし》だと答えると思うのですが いかがでしょう? まさしく、これは同意します。その通りだと思う。
お礼
ri_rong さん ありがとうございます。 ご回答とご賛同とについて 感謝します。 ただし ri_rong さんと若き madame との直接のやり取りのないまま しばらく 休憩になるかも知れないようですが そうだとは!! と記して 継ぐべきことばに窮しましたが ぼちぼち まいりましょうか。 哲学のいとなみは 大海の水をバケツで汲み出そうということだそうですから 気長に行きましょう。
#39,45です。 私の回答と、まず前提が異なっていたようですね。 私は、固有名詞とはそのものの固有性を示すものである、とは捉えておらず、 単なる他と区別できる呼び方である、として回答しています。 固有名詞とは何か、を決めなければ、答えは出ませんね。 ちなみに、固有名詞がそのものの固有性を示すものだとして、 《何の某》という名前が、固有の人間性を表すことはないが、 《何の某》という名前がつけられたことによって、その人の固有の人間性が、 《何の某》に付加される、というベクトルが逆の考えはどうでしょうか。 《何の某》というものには、もともと何も意味が含まれていないもので、 誰かの名前となって初めて、その人の固有性が含まれる。 《わたし》も同様に、もともと何も意味が含まれていないもので、 誰かが発することによって、その人の固有性が含まれる。 ただし、《わたし》は「自らが発したとき」だけだが、 《何の某》は名付けられた以降なら、「(本人含め)誰が用いても(また文字としてあるだけでも)」、 その人の固有性(今そう呼んだ・呼ばれている時点での)が含まれる。 《何の某》のほうが汎用性が高いので、より固有性を指すものとして適当である。 《何の某》は他人が用いるものなので、その固有の人間性を表せない、 ともいえますが、《わたし》が自分が用いたときのものであっても、 自分が用いていれば自身の固有の人間性は表せている、 といえる根拠はないと思います。 自分が見た固有性と他人が見た固有性、どちらが正しく表しているかは 断言できないのではないでしょうか。 ただの言葉遊びのような気もしますが。 また、質問者様の補足部分は私もそうだと思っていますが、それがなぜ >哲学的な見方のほうが 常識よりも 合理性から見て より妥当であるのではないか なのかがわかりません。 固有→他と異なるそれだけのもの→《何の某》はその人だけに名付けられた→《何の某》は固有のものだ 合理的だと思うのですが、これがダメな理由は何でしょうか。 これが合理的でなくなるには、前述のとおり「固有」の意味を決めなければなりませんが、 それは合理的かどうかとは別問題だと思います。 おそらく私の意図が質問者様に通じておらず、質問者様の意図を私が理解していない点が多々あるようですが、 だんだん自分の意見表明になってきており、回答のため短く文章化するのが苦になってきたこともあり、 今後この質問への回答は止めることにします。 すみません。
お礼
kishiroot さんにとって 《何の某》という名前のほうが 自分自身に固有の名称であると感じられるのであれば もう 何も 言うことはありません。 《固有》とは この質問では そういう意味です。 ただし わたしの憶測としましては この《常識としての固有名詞》である何の某よりも 《わたし》という呼称のほうが みづからの存在を表わすのに 固有のものだと感じている人びとのほうが 多いのではないか。そういう問いかけでした。 ありがとうございました。
#39です。 私の回答への返答を拝見しながら、何気なく他の回答への返答を見ていたところ >○ 《固有の》というからには 《仮りの ないし 代理の》ではないという意味です。(No.34へのお礼) というのが目に付きました。 私は「固有の」とは「『仮の、代理の』ではない」と捉えることが出来ません。 例えば、人以外のものを挙げた場合 固有名詞・・・富士山 一般的に・・・山、土、場所、などなど のように、一般名詞だと限定できないものを、限定するために 「仮に」名付けて、それが他人にも通用するようにして、 それのみが他と区別がつけられるようになった名称が、 「固有の名称」だと思っています。 すべての固有名詞は、誰かが仮につけたものといえるのではないでしょうか。 >○ 固有時 云々・・・ 言葉というものは、一人で作って使うものではなく、 複数の人がいることで、初めて存在しうるもの、と考えているので、 個々人が固有の生を生きているとしても、言葉は複数が同様に感じる ことの出来る世界のもの、として扱うほうが良いのではないかと考えます。 >○ 人類の一員 あるいは ひとりの地球市民 前の富士山の例を取ると、山の一つとか一つの場所、という言葉が 固有に感じることはないでしょうから、やはり人は自らが言葉を用いるということが問題になってきそうです。 ただ人の名称も、呼ばれるその人がその場にいなければ、ものと同じで あり、複数の人が扱う言葉としては、人もものも同じであると考えます。 ちなみに、小さい子供などは《わたし》が自分を指す名称だとわからず 親からつけられた名前で、「○○ちゃんは…」のような言い方をよくしますが、 その時点では、自分を指す名称がそれしかないわけですから、 その子供にとって、親からつけられた(他から与えられた)名前でも、 唯一無二の固有の名称といえる気もします。
補足
kishiroot さん ご回答をありがとうございます。 《通り相場》という言葉は 安易でしたが 要するに 一般的にそうだと受け取られている解釈 これを kishiroot さんは たしかに 言っておられる。 そして わたしは ここでは このいわゆる常識とは別の見方がないか あるのではないか このように問うています。 なにも この別の見方が 成立したとしても いまの常識としての見方が なくなるとか・なくせとか 言っているわけではありません。おそらく 哲学的な見方のほうが 常識よりも 合理性から見て より妥当であるのではないか このようには 見ています。 たとえば 《何の某》という各自の名前は 仮りに変えようと思えば 法律上の問題を別にすれば 自由に変えられます。昔は 歳とともに変える風習もありました。たしかに 成人するにおよんで 牛若丸を義経に変えたことによって かれの人間性と個性は より一段と 固有のものに成長していったかも知れません。そうでなかったかも知れませんが 成長していくという場合が 一般に 考えられます。 では この何の某という名前は 固有名詞だという常識が どこまでも どういう批判にも耐えて 通用するかとなると 必ずしも そうではないように 考えられるのです。 義経であろうとほかの人であろうと その人に固有のものと言えば 何であるか。言いかえれば 幼少の時の松若丸から 範宴を経て 綽空・善信を超えて 親鸞と名乗るに到るそれらの《常識としての固有名詞》は 果たして かれの固有の人間性を指し示しているか。 わたしには 《人間・存在》といった言葉のほうが 固有性を表わしていると思えます。親鸞本人からすれば 《わたし》という言葉ではないだろうか。と問う質問になっています。 つまりは ひとにとっては だれもが それぞれ みづからの固有の名称は この《わたし》であるのではないか。こういう問いです。 同じ音韻による言葉ですが 一人ひとりにとってのその《わたし》という言葉は それぞれにとっては 唯一無二なのではないでしょうか。同じ発音の言葉でも それぞれにとっては 中身が違うのではないでしょうか。それぞれのクオリアを帯びたわたしに なっているのではないでしょうか。一人ひとり まったく 違うのではないでしょうか。 ただし 音韻としては 同一ですので 別の言葉つまり 名前をつけて 互いに 呼び合うこととした。こういうことではないでしょうか。 どうでしょう。
補足
ri_rong さん ご回答をありがとうございます。 ええっと やはり 《存在論》ですよね? まづ ○ 存在に関して いちいち必ずしも 《関係性》の側面を持ち出すこともない。 ○ 一生を生き切ったそのとき その完了性をもって 存在に対して 固有の名称が与えられ得るのであり 与えられる。それだけのことだ。 ☆ といった見解になりますか? そうして ○ この完了するまでの存在に関して 実際には 《存在者》であること あるいは 《現存在(これが Dasein でいいのですよね?)》といわれるあり方 これが ものを言うと見なければならない。 ○ ただし じつは この《空間の占有》としての《そこにいる》は まだ 《眠り》の状態でしかない。そこから 生きて動く《実存者》になる必要がある。 ☆ という問題意識ないし問題提起が なされるはづだ。と解してよいでしょうか? レヰ゛ナスとハイデガーが ここでは 参照される。 前者をめぐって 著者の熊野純彦(『レヴィナス入門』)に対する文句と これを引用した〔そしてさらに援用しようとしたとみなされるところの〕わたし bragelonne に対する文句とがある。となりますか? たぶん わたしに対する文句は 当たらないと思います。わたしは そこでの質疑応答において 《遅れ》は――わたし自身の経験から言って―― わたしにとって《問い求めるもの》が たしかに 延び延びになっていた・つまり 三十歳ころやっと得ることができたので 納得したと書きました。《疲労》は 別のように感じるとも書きました。 だけれども ri_rong さんは この《遅れ》をも 必ずしも 正当な もしくは 一般的な 理論だとは見なさないということなのでしょう? 《眠り》から《目ざめて 動く》 そうして この動詞が 実詞となれば もう 実存者が誕生するのだから 《遅れ》を ことさら 強調することはない。ということですよね? 次には ここでの質問にかかわる主題が来ます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔* 存在者が誕生し 生きることに対して 主体となるなら〕 そこには、存在を引き受ける「誰か」が居り、存在は今やその「誰か」の存在になっているということなのでしょう。自他はここで区別される。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり この《自他として区別されるところの「誰か」》は 一般に 一人ひとりにとって それぞれ 《わたし》である。のではないか。こう問うています。 ところが 《わたし》より《誰か》のほうが 注目を浴びているように思われます。いわく。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「わたし」がその「誰か」すなわち他者へと眼差しを向けるとき、見られている「誰か」は、「わたし」の視覚の対象として与えられる限り、「わたし」の意識の一部となっている。すなわち、その誰かは「もの」ではなく、名詞らしくそれは「こと」に変わる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん おっしゃるとおりだと思うのですが 質問のおもむくところに焦点をあてていただくなら その《他者》も《わたし》も ひとことで 第一次的にその中身を示し得る言葉をえらべと言われたなら 《わたし》だと答えると思うのですが いかがでしょう?