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みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか
質問: 《わたし》は みづからという存在の固有の名称であるのではないでしょうか? 趣旨説明: (1) みづからの存在を指し示すとき それを 日本語で 《わたし》に代表させるとしています。 (2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。 (3) したがって 何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか? (4) 繰り返せば 《わたし》という固有の名称を代理する名称として《何の某》という名前が それぞれ つけられている。
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たびたび、すいません。 >《関係性》の側面が 存在には つきまとっているからだ。――というご趣旨でしょうか? どうも作為的な匂いがしますが、というのも別な質問に、レヴィナスの『実存から実存者へ』の(たぶんそうだと思いますが)解説がありますよね。再掲しますと、 ================================ 《存在することに疲れてしまう》とき 私は私の存在に遅れている。この遅れ 《遅延》がしかし本質的なのである。ただ《それがそこでもつ(イル・イ・ア)》 たんにある(イリヤ) のではなく 私が私の存在を所有する。私はこの所有に疲弊している。 この疲労が ある《隔たり》を つまり《存在すること( exister )》そのものからの距離をつくりだす。その距離によってこそ 《現在》そのものが《構成》される。かくてはじめて《存在するもの( l'existant )》 《私》という《一存在者》が誕生するのである。 ================================ この何を言ってるのかよくわからない表現を見ると、それだけで読む気を無くす著者だなと感想を持ちましたが、いったいどんな本なのでしょうか。それにふと、あれこれ考え合わせてみて、どうやら僕はその延長にいるのだな(違うでしょうか。それとも、気付くのが遅すぎるのでしょうか)と思った次第です。さて、 ○私は私の存在に遅れている――どうして、遅れているのでしょうか。 ハイデガーの論理はこうです。まず、存在と存在物は厳密に言えば異なる。例えば、仔猫は天井について、すなわち存在する「もの」については知っているけれど、その根底にある「存在」については知らない。存在というのは、言い換えればその空間の占有のことです。その場所が与えられること。同一空間に二物はない。 ですから、dasein(「そこ」で明らかになるの意)と表現するわけです。この場所の占有というのが、仔猫にはわからない(わからないから、落っこちる)。それが認識できるのは人間だけだ――というのが、あの長ったらしい『存在と時間』のご主旨だと思いますが、この場所の占有というアイデアにレヴィナスは強く影響を受けています。 その場所の占有について、レヴィナスは「眠り」という形容をします。生きて活動している「わたし」は、その場所に留まらない。けれど、疲れて眠るとき、「わたし」に「そこ」が与えられる。横たわる、それはまさしく実存を場所に、位置に限定することです。 意識化あるいは定位の前段では「わたし」は、実存者なのではない。 「雨になる」とか「疲れがある」と同じように、無主格の実存がそこにはあるだけであって、実存が実存者に変わるというのは、名詞が与えられ、「存在する」という名付け得ぬ動詞が実詞に変わる、まさにそのことなのだということです。 この実詞化によって、「在る」の基底の上に「存在者」が姿を現わす。その代わり、無名の存在は「在る」としての性格を失う。存在者は、存在するという動詞の主語であり、そのことによって存在をみずからの属性とし、その運命に支配を及ぼす。 そこには、存在を引き受ける「誰か」が居り、存在は今やその「誰か」の存在になっているということなのでしょう。自他はここで区別される。 「わたし」がその「誰か」すなわち他者へと眼差しを向けるとき、見られている「誰か」は、「わたし」の視覚の対象として与えられる限り、「わたし」の意識の一部となっている。すなわち、その誰かは「もの」ではなく、名詞らしくそれは「こと」に変わる。 たぶん、こんな感じだと思うのですが、どうでしょうか。
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- lioneater
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>>借り物であるなら 固有名詞にはならないというのは lioneater さんのご見解ではなかったですか? 誤解も甚だしいですね。 どうもご理解いただけないようなので箇条書きにいたしましょう。 1.「わたし」という語は、自らを指す。 2.「わたし」という語は他者が自らを指す用例を見て初めて知り得る。 3.「わたし」という語は他者が用いた場合、用いている者を指す。 上記2.の例外は、語を自ら発明した者のみ、である。 bragelonneさまは例外の部分に反応されているので、推論のベクトルがあらぬ方向に行ってしまわれたようです。 bragelonneさまは1.のお立場からこの質問を立ち上げられました。 私は、3.の立場から「わたし」とは代名詞である、と主張しました。(その論拠として2.を用いて論を進めました) 違うご質問にも書きましたが、語の意味を統一しないのだから話が噛み合うはずもありません。 あえて補足要求いたしますが A.「固有の名称」と「固有名詞」はbragelonneさまの中では同一ですか? B.代名詞と固有名詞ではどちらの種類が多いとお考えでしょうか? 無理にお答えいただく必要はありませんが、ここは語の意味を統一しておかなければ、一方は天体の月を語り他方は暦の月を語っているような虚しさから脱却できないと思う次第です。
補足
ご投稿をありがとうございます。 そうですか。どこで どう噛み合わないのでしょう? たとえば 質問趣旨の (2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。 を問題にしているのですが それは 確認いただいているでしょうか? わたしの立ち場から先に説明してまいりますが あらためて 次のような質問です。 ○ みづからの存在にとって 固有の名称は どういう言葉であるか? ○ 《固有の》というからには 《仮りの ないし 代理の》ではないという意味です。 ☆ こういう問いですが どうでしょう? ★ 1.「わたし」という語は、自らを指す。 ☆ この《指す》という言葉の意味が 微妙に違っているのかも分かりません。 《わたし》が 自らを指して言う自称(または 第一人称)であり 《あなた》が 相手を指して言う対称(第二人称)であり 《かれ》は これら自称および対称のほかの第三者を指して言う他称(第三人称)であることは 現行の文法の決まりです。 これとは別に 実質的に――という意味は 哲学の観点から見て とも言えます―― これら呼称は 内実と合っているか? このように問うています。 そして 《わたし》は 自分以外の相手も第三者も その人たちみづからの呼称としては 同じく 用います。それは ひとにとって みづからの存在を捉えて 言葉で唱えるには 《わたし》が ふさわしいということを表わしているのではないか? こういう問いになっています。 そして 言葉は 誰もが 幼児のときから 周りの人たちの話す言葉を聞いて覚え 使うようになる。それは 《わたし》という言葉に限らない。このような事情は まったく 明らかなことです。 ★ A.「固有の名称」と「固有名詞」はbragelonneさまの中では同一ですか? ☆ 上に述べた説明からすれば 《わたし》は みづからの存在にとって 《固有の名称》であるというのが 基本です。ただし 現行の文法では 《代名詞》として取り決められています。ですから それとの対比では ほんとうは 《固有名詞》であると言うべきではないか? という意味を込めて 同時に 持ち出しているものです。 ★ B.代名詞と固有名詞ではどちらの種類が多いとお考えでしょうか? ☆ これは 現行の文法に即しての問いでしょうか? それとも 実質的に見た場合の問題でしょうか? ですが 数を問うておられるのですよね? 《種類》と言われていますが どういう立ち場から 答えればよいのでしょう? もし《わたし》を固有名詞だとした場合には 固有名詞というものは 数少なくなりますね。でも どうして このような問いが出ているのかが 分からないのですが どうなんでしょう? なお重ねて 次の一点は ご留意ください。 ☆☆ 趣旨説明:(2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。
- lioneater
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#8です、お礼拝見しました。 >そうですね。初めての批判です。 ええ、意外でした。もっと多くのツッコミがあっても不思議じゃないと思ったのですが。 >> 【問い】 ぢゃあ 《何の某》という名前も 固有名詞と言うのは 間違いですね? いいえ。まったく逆です。「何の某」こそが固有名詞です。借り物か否かが固有名詞の成立要件だとお考えなのは、bragelonneさまと、このQ&Aに参加しておられるごく少数の方だけだと思いますよ。 繰り返しになりますが、「わたし」という語は他人が自らを指して使っている事でのみ知り得るのですから、他の存在をも指す語であることを認識しているはずです。 もし、bragelonneさまの説が正しいなら第三者をどうやって認識するのですか?1対1ではお互いが私と呼んでも差し支えないでしょうが、第三者との会話が成立しなくなるのは明らかです(もし、成立できるならこのQ&Aで名乗る人は誰もいなくて良いはずですよ?) 他のbragelonneさまの質問も拝見していると、後半は必ず常連さんとの会話ですね。しかも、常連さんは他の回答者を無視してbragelonneさまとの会話をしておられます。その狭い世界でしか「私=固有名詞」という説を受け入れてくれる人はいないのではないでしょうか? 少々非難めいた回答になってしまいましたが、固有名詞という表現は間違いであると思います。
補足
lioneater さん ご回答をありがとうございます。 総じて言って まだ おっしゃっている根拠がよく分かりませんでした。お尋ねしてまいります。 ★ 借り物か否かが固有名詞の成立要件だとお考えなのは、bragelonneさまと、このQ&Aに参加しておられるごく少数の方だけだと思いますよ。 ☆ 少数意見であることが 根拠の薄いことと つねに 対応しているわけではないと まづ 反論して 問題は それよりも ★ 借り物か否かが固有名詞の成立要件だとお考えなのは ☆ というところではないでしょうか? なぜなら 借り物であるなら 固有名詞にはならないというのは lioneater さんのご見解ではなかったですか? ★★ (No.8) 何故なら、言葉を自らが発明したのでなければ「私」という語は、自分以外の存在が自らを指して使っているのを見ない限り、知りえないからです。 ☆ この推論で明らかなことは 固有名詞であることの条件として 次のことが 必要だということです。 1. 言葉を自らが発明したものであること。 2. (1)はないから しかし そうでなくとも 自分以外の存在が自らを指して使っているのを見なくても 自分が知り得た言葉であればよい。 3. だが (2)もない。 4. そうすると 言葉の中で 固有名詞になりうるものは ない。 ☆ このようではないでしょうか? つまり ○ 《何の某》という名前も 固有名詞ではない。 ☆ となります。 ★ もし、bragelonneさまの説が正しいなら第三者をどうやって認識するのですか? ☆ たとえば 《あそこで 〈わたし〉と自称している人》とか 《いつぞや 互いに一緒に どこどこで会った人》とか言えばよいのでは? ★ 1対1ではお互いが私と呼んでも差し支えないでしょうが、第三者との会話が成立しなくなるのは明らかです。 ☆ よく飲み込めませんが その第三者も 《わたし》と自称してよいと考えますが どうなんでしょう? ★ (もし、成立できるならこのQ&Aで名乗る人は誰もいなくて良いはずですよ?) ☆ 固有の名称が すべての人において 同じ《わたし》になるから 互いに互いを区別するために 名前を 代理の名称として つけることになったと すでに 言っていますよ。 そのあと 文法では わづかに 固有名詞と代名詞との呼称が 逆になっているのだと見るわけです。 まだ 持ち堪えると思いますが わたしに誤解もしくは理解しえないでいるところが あるでしょうか。よろしくご指摘ください。
でも、「母親」は神秘主義を批判していたはず。。。 仏教はブラフマンを否定しているし。 キリスト教の三位一体と神秘主義は違うでしょう。 また考え直さないと。。。
お礼
★ 神秘思想 ☆ は ○ 異言 ☆ という捉え方もあるように 要するに ○ 預言つまり 経験合理性で分かるように解釈する ☆ と よいはづです。それが できなければ 意味がない。か あるいは その解凍を ながく待つかだと思われます。 三位一体だって 解釈をほどこされて ようやく なんとか 哲学の次元で捉えられるようになったのではないでしょうか。
えっと。。。 「母親」対する感情が複雑になってきた。好意ではあるんだけど。。 カーリー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC ラーマクリシュナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A
お礼
神話は すべて 思考や想像力の産物です。 むろん そういう形態であることが わるいわけではありません。ですが それ以上の――つまり 想像力で 描いた像やその世界であること以上の――意味がなければ どうしようもないでしょう。
こんにちは。。。 三位一体は、どういうことなんでしょうね。 「一つの本質、三つのペルソナ」と言われても。。。 神に名前は無いようだけど マタイ福音書28章に 「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」 父と子と聖霊の名って書いてますよ。。。?
補足
yukiyama20 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 三位一体は、どういうことなんでしょうね。 ☆ まづ 神もしくは無神のいづれかで呼ばれる《絶対》については いいでしょうか? 相対世界を超えたところを 想定して 《絶対》と呼び さらに これを 《神はある》ないし《神はない》のいづれかで 代理して表現した形態であるというに過ぎないのですから だいじょうぶだと思います。 ○ この神もしくは無神が 《三位一体》であるとは どういうことか。 ○ 神ないし絶対という「一つの本質」であり しかも この本質(むしろ 存在といえば分かりやすいでしょう)が 「三つのペルソナ(位格)」を持つ。とは どういうことか。 ☆ まづ 分かっていることは 有神論の中で このキリスト信仰(つまり聖書に示された信仰)は 特異だということ。つまり この《三位格の一体》を言う点で 特徴的であり それは とりもなおさず ドグマです。つまり 論証しえぬ表現において 信仰の内容を説明したものです。 ですが それほどわたしたちの常識からかけ離れた遠いものではありません。 いちばんの特徴は 次です。 ○ 相対世界を超えたところのなにものか(=絶対=神)が この経験世界に 肉(人間存在)となって現われたというもの。 ○ つまり キリストなる神の子であり神である《無根拠》は ナザレの出のイエスという名の人間になったというもの。 ☆ イエスは ふつうの人間であり しかも 同時に 神であるというものです。 この点について ブッディスムはどうかと考えて 幾度か質問したのですが どうも はっきりしません。つまり ○ ブッダは 神であるか? もしくは ○ 仏性がひとに宿るというのは 神である霊を 人間が分有しているということと同じであるか? ☆ と問うのですが 答えは あいまいなままです。然りという答えであれば われわれにも なじみ深い観想としての考え方であるのではないでしょうか? つまり 三位一体なる神という説明は おとぎ話です。文学です。 ただし この文学は 《信仰という人間のおこない(動態)》と《経験合理性による思考としての哲学》とのあいだに位置しています。哲学も 一枚 噛んでいるでしょう。 それゆえ たとえば 父なる神は 人間の行為能力としては 《記憶》にあたり そこから生まれる《知解》という行為能力が 神の位格としては 子なる神にあたり それらから発出する聖霊なる神は 人間にとって 《意志》という行為能力にあたるという説明がなされます。 そして 社会のあり方としては 《司法》が記憶に相当し 《立法》が知解に そして 《行政(つまり 共同自治)》が意志に それぞれ 相当するという見方です。つまり このようなかたちで 《神は 自分のかたちに似せて ひとをつくった》という文句が説明されます。 ○ 神の三位一体 ∽ ひとの三行為能力の一体性 ∽ 三権分立(分立=協業という一体性) ☆というものです。 これなら 哲学の思考に耐えられるのではないでしょうか? むろん あくまで 信仰という非思考を なんとかして人間の言葉でその思惟において 表現しようとしたという条件(制約)があります。観想(瞑想)と思考との中間に位置するのではないでしょうか。 三位一体は 個々の位格について 個が他の個と 全体が個と 個が全体と それぞれ 等しいわけです。無限の三分の一は やはり 無限だからです。 いろんなふうに説明されるでしょうから これでは 足りませんが とりあえずの紹介でした。 繰り返し 述べれば 《仏性は 例外なく ひとに宿ると言えるか》 こういう問題が 三位一体論だと言ってよいでしょう。
- pokoperopo
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ぽこぺろぽです。過去の拙問、『有りて在る』に戻ってしまった感もあります。さらに手ほどきを願いましょう。 私は、「神は在る」とする立場ですが、「神は無い」とする人も少なからずいるでしょう。この相対性の世界においては、異なる見解を完全に無視して、呼称を定めるわけにはいきませんから、「在る」ことを示すための固有名詞が、便宜上必要となるのでしょう。しかし、神の存在を実証する必要はありませんし、神の概念そのものは普遍的ですから、本来は絶対唯一神に固有名詞を用いてはならないと思います。 しかし、多くの者がそれぞれに神を思い描き、その宗教観を論じ合ううちに、論者によるところの固有の性格を持つ神を作り上げて、差別化することで公民を支配するようになったわけです。これは文化的には認められるものの、私は絶対唯一神の確立という観点から認めるわけにはいきません。 さらに、キリスト教における、天使や聖霊についてはいかがでしょうか?これらはどうみても汎神論です。父と子の区別も判然としません。三位一体に到っては、永遠のなぞなぞです。 人間社会においては、「私」が固有名詞であることをもって、独我論の有用性をみるといえるでしょう。これは神に適用できないのでしょうか?
補足
pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。 むつかしい問題ですね。もしくは むつかしい切り口で 問い求めをしておられるように思います。 ★ 人間社会においては、「私」が固有名詞であることをもって、独我論の有用性をみるといえるでしょう。 ☆ まづここから 反応します。おそらく 独我論のうち 《わたしの存在の唯一性》の側面を言い当てているものと思われます。ただし 他者が この《かけがえの無い存在であるわたし》とは 別の知覚作用を持っていて 同じ存在つまり同じ人間という存在であるかどうか 分からないという側面の議論については どうでしょう? わたしは 公理として・すなわち無根拠において 一人ひとりは 類としての存在であると捉えます。人間として 同じだという意味です。 その公理とほとんど同じ内容を 実質的に 表わすと思われるのが 《神》もしくは《絶対》の問題ではないでしょうか。 そして この経験的な相対世界を超えるというのですから 《絶対》は あくまで そういう想定です。そして 無限という概念があるほどですから この想定をするということは 現実です。 想定のあとは いろいろと名称をつけるということだけだと考えます。神でもいいし 無神でもいいし その中身に言い及ぼうとして 《わたしはある》あるいは《かれは あらしめる》でも《義の太陽》でも《日の老いたる者》でもありうるでしょう。 これらは ひとによって まったく自由に選ばれるでしょうし 一つひとつの名称は すべて互いに 同等です。 ★ 神はある・ない ☆ これは 想定であり しかも 絶対についてのことですから どちらにしても 一方だけに決まるということはありません。《経験的なものごとについて言う〈ある・ない〉を超えたところのことを 仮りに 人によって 〈ある〉 あるいは 〈ない〉と 表わす》のですから 決められません。 この絶対がそう呼ばれるところの《神》については したがって 無根拠です。有神論にしても無神論にしても 無根拠です。経験合理性による根拠がない(分からない)ところのことを 絶対と呼ぶのですから。 無根拠は なぞであり 不思議です。何が何だか分からないこのものを 《霊》という言葉で呼ぶこともあるというわけです。 ですから 父なる神も 子なる神も すべて 霊です。絶対であり 無限です。 ひとが 記憶から知解をなすとき 父から子が生まれるようだと たとえられます。記憶は 精神の秩序機能だとも捉えられますが そこから 知解作業をするとき すでに 意志がはたらいています。そして 知解の結果を 自己の意志行為として実行します。 この個人の精神の三つの行為能力は 社会において 記憶が司法と 知解が立法と そして 意志が行政と それぞれ 対応すると考えられます。この社会的な三権分立=協業は 個人における三つの能力行為の 一般的に言って時間過程的に結論が出されることになる一体性と 相似形をなすというものです。 この三行為能力の一体性としてその自然本性が出来ているという存在が 《ひとは 神〔の三位一体〕に似せてつくられた》ということの内実だというわけです。三位一体の一体性は 絶対の領域ですから 時間的な行き違いがないわけです。 人間イエスが ▲ (ヨハネ福音8:58) アブラハムが生まれる前から 《わたしはある》。 ☆ と言ったのは 三行為能力の一体であるひとについてではなく 三位一体の神(その位格としては 子なる神)キリストについて 言っています。 ▲ (同上16:7) わたしが〔去って〕行けば 弁護者をあなたがたのところに送る。 ☆ という《弁護者》とは 聖霊なる神のことです。 ▲ (同上16:14-15) ~~~~~~~~~~~~~~~ その方(弁護者=聖霊)はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて わたしのものである。だから わたしは 《その方がわたしのものを受けて あなたがたに告げる〕と言ったのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というように 三つの位格の一体性が 表わされています。 ★ 天使 ☆ については 分かりません。《知らせ》として捉えればよいと思います。
yukiyama20です。 たとえば《わたし》は 5つの名前を使いました。 「自分」は?となったら yukiyama20です。 自分と他者を分けるわけですね。
お礼
yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。 ○ as-sum ( ad-sum, ad-est; adesse ):そこに(そばに)いる、現存している、出席している 2.現われる、生ずる、近づく 3. 法廷に出頭する 4.ある人の面前に立つ、ある人に隷属する 5.ある事にあずかる、協力する 6.ある人に味方する、助力する 7.気をつける、注意する 8.落ち着いている、覚悟している ○ dasein :そこにいる(ある) 2.出席している、居合わせる;存在(現存)する Dasein : 現存、現在、出席、居合わせること 2.生存、存在、生活、生命;定有(ヘーゲルの)、現存在(ハイデガーの) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ たとえば《わたし》は 5つの名前を使いました。 「自分」は?となったら yukiyama20です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん 二つの場合があると思います。 1. 五つの名前の中で どれがいちばん 自分に合っている(気に入っている)か? の答えを出す場合。 2. 自分とは何か? の問いに答える場合。 ☆ (2)の場合なら それは 《いま・ここで 〈わたし〉と名乗っている存在です》という答えになると考えます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.21 あれは今詳しく読んでいないが、知とそのドメインなどで把握しようとするのがおかしいし、非生産的であるから打ち切りたいということである。 何かを把握するという事自体がもう捉われでしかない。 それだけのことです。何の他意もないし何も考えても思ってもいない。 ここであんなこと出すのはくだらないことだ。
お礼
★ くだらないこと ☆ にこだわって 澄みません。でも 澄みません。どうか ご心配などせずに 放っておいてください。
本当に何のことかわからないから聞いているのに・・・
お礼
まじめに応えていますよ。
AとB。本来の自分。 わからないことばかり。。。 私、自虐してるらしいけど、これもよくわかりません。 でも、神の存在だって カントの要請?で、いることにできるらしいし 隣人愛で、あなたを愛する。 私が望めばいいわけですよね。 子どもが欲しいなら子どもだって。
お礼
さて ★ 本来の自分。 ☆ こういう概念の立て方は あまり生産的ではないと考えます。 つまり 《実存は 本質に先行する》のだと考えられ いま・ここにいることを 出発点とするほうがよいのではないでしょうか。 しかも 自己還帰・自己到来は 瞬間の出来事です。 《あやまつなら わたしはある》あるいは《欺かれるなら わたしはある》というその気づきの一瞬だと思います。それが 自己到来であり そのとき 《わたしは わたしである》し その出発点から 《わたしは わたしする》はづです。 《考える》のは その《あやまち》について なぜ あやまったか(あるいは なぜ 欺かれたか)であり その《わたし》を思うのだと考えます。 ★ 私、自虐してるらしいけど、これもよくわかりません。 ☆ こんど 自虐していたら ご指摘申し上げましょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ でも、神の存在だって カントの要請?で、いることにできるらしいし 隣人愛で、あなたを愛する。 私が望めばいいわけですよね。 子どもが欲しいなら子どもだって。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これらは いづれも おおざっぱだと考えます。どこから手をつければいいか 分かりません。 でも たぶん そんなに 思うとおりに ことが運ぶものではないと考えますが どうでしょう?
補足
ri_rong さん ご回答をありがとうございます。 ええっと やはり 《存在論》ですよね? まづ ○ 存在に関して いちいち必ずしも 《関係性》の側面を持ち出すこともない。 ○ 一生を生き切ったそのとき その完了性をもって 存在に対して 固有の名称が与えられ得るのであり 与えられる。それだけのことだ。 ☆ といった見解になりますか? そうして ○ この完了するまでの存在に関して 実際には 《存在者》であること あるいは 《現存在(これが Dasein でいいのですよね?)》といわれるあり方 これが ものを言うと見なければならない。 ○ ただし じつは この《空間の占有》としての《そこにいる》は まだ 《眠り》の状態でしかない。そこから 生きて動く《実存者》になる必要がある。 ☆ という問題意識ないし問題提起が なされるはづだ。と解してよいでしょうか? レヰ゛ナスとハイデガーが ここでは 参照される。 前者をめぐって 著者の熊野純彦(『レヴィナス入門』)に対する文句と これを引用した〔そしてさらに援用しようとしたとみなされるところの〕わたし bragelonne に対する文句とがある。となりますか? たぶん わたしに対する文句は 当たらないと思います。わたしは そこでの質疑応答において 《遅れ》は――わたし自身の経験から言って―― わたしにとって《問い求めるもの》が たしかに 延び延びになっていた・つまり 三十歳ころやっと得ることができたので 納得したと書きました。《疲労》は 別のように感じるとも書きました。 だけれども ri_rong さんは この《遅れ》をも 必ずしも 正当な もしくは 一般的な 理論だとは見なさないということなのでしょう? 《眠り》から《目ざめて 動く》 そうして この動詞が 実詞となれば もう 実存者が誕生するのだから 《遅れ》を ことさら 強調することはない。ということですよね? 次には ここでの質問にかかわる主題が来ます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔* 存在者が誕生し 生きることに対して 主体となるなら〕 そこには、存在を引き受ける「誰か」が居り、存在は今やその「誰か」の存在になっているということなのでしょう。自他はここで区別される。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり この《自他として区別されるところの「誰か」》は 一般に 一人ひとりにとって それぞれ 《わたし》である。のではないか。こう問うています。 ところが 《わたし》より《誰か》のほうが 注目を浴びているように思われます。いわく。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「わたし」がその「誰か」すなわち他者へと眼差しを向けるとき、見られている「誰か」は、「わたし」の視覚の対象として与えられる限り、「わたし」の意識の一部となっている。すなわち、その誰かは「もの」ではなく、名詞らしくそれは「こと」に変わる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん おっしゃるとおりだと思うのですが 質問のおもむくところに焦点をあてていただくなら その《他者》も《わたし》も ひとことで 第一次的にその中身を示し得る言葉をえらべと言われたなら 《わたし》だと答えると思うのですが いかがでしょう?