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縄文人と渡来人について
一般的に渡来人は弥生系と言われていますよね。 弥生系は北方モンゴロイドなので、胴長短足・薄い体毛・奥二重か一重・大きな歯・粉耳垢・薄顔・下戸などの形質を大半の日本人に残してゆきました。 北方形質はほぼ劣性遺伝で、優性遺伝である南方形質に対し数倍の個体数がなければ、通常は劣性形質が優勢形質の数に並ぶことはないはずです。 しかし不思議なことに、弥生人の象徴である長江越族(O2)と中原漢族(O3)の父系遺伝子(Y染色体)が、何故か現代日本人男性の約40%にしか見られません。残り約50%は縄文人(D2)なので、逆に半数を占められています。 したがって渡来人の中には北方適応した縄文系(D2)も多く、集団に含まれていたかもしれないということでしょうか? 何か情報を知っている方は是非お願い致します。 ちなみに現在縄文系の遺伝子は龍族に駆逐されたのか、疫病で死滅したのかはわかりませんが、世界ではもう日本とチベットでしか見られないようです。 日本とチベットに退避する以前に大陸で縄文系が帝国を築いていた可能性もあるかも知れないので多少期待しております。 長々と申し訳ありませんでした。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 お答えに沿えるかどうかは分かりませんが・・・ 私の知る範囲で・・・。 (1)縄文時代は、すでにご存知の通り、各地で「貝塚」などが発見され、狩猟民族の共同体であったと考えられています。 (2)しかしながら、京都や奈良以西の調査、研究は、もっぱら「卑弥呼」がどこで「倭国(わこく=日本)」を統治していたかの弥生時代後期が中心です。 (3)縄文時代の研究としては、相沢忠洋が昭和初期に群馬県の「岩宿遺跡(いわじゅくいせき)」を発見、調査、保存をしたことが有名ですが、どうやら、縄文時代の研究は北に行くほど盛んなような気がします。 (4)青森県史や新潟県史など(共に一部は地方自治体の市町村史)によると、「粛慎人(みしはせじん)」と言う言葉が、多々見られます。 (5)「粛慎人」とは、どうやら、北方民族。例えば、ロシアなどから南下して来た人、あるいは、北海道のアイヌの人々を指すようです。そして、寒さに適合した人種のようです。 (6)一方、西日本では、東南アジア系の温暖な気候、風土に適合した人種が、次第に北に向かって勢力圏を伸ばして行ったようですね。 (7)従って、数年前の報道で、北方系の人々と南方系の人々ではDNAが明らかに違っていた、との研究発表もありました。 その境目は、およそ、東海地方から以北と以西とに分かれるようです。 (8)沖縄南西部の北谷(ちゃたん)の沖合いに紀元前1300年頃(日本では縄文時代後期)に建設されたと思われる海底ピラミッド群が発見されており、その調査では壁画や文字らしき物から、古代「フェニキァ人」との関わりが「立証」されており、すでに、日本(沖縄)にも一大文明圏があったこと、さらには、海洋民族であったことを窺がわせます。地殻変動で海底に没したようです。 (9)やがて、弥生時代に入ると、日本本土も朝鮮を経ての稲作文化となり、定住し、村落の形成になりました。 (10)卑弥呼以前から、すでに、玄界灘を越えての朝鮮との交流、交易も盛んになり、朝鮮が高句麗、新羅、百済の、いわゆる、三国志時代には、新羅と百済に挟まれた南部に「任那(みまな=朝鮮語でカヤ)」という国があり、日本人の居留地もあったことが判明しています。 (11)「任那」は、後に、新羅と百済に攻められ滅亡しました。 (12)日本と朝鮮の交易、と、言うと、誰しもが「新羅」などを思い起こしますが、「任那」は、それ以上の交易の盛んな国でした。 (13)やがて、新羅が台頭してくると、日本は「鉄」に注目をしました。つまり、農耕では鋤(すき)などに、そして、戦いなどでは鎧(よろい)や兜(かぶと)などの保身用具として必需品となり、日本からは、労働力(人的派遣)を提供し、新羅からは、その見返りとして「鉄」の輸入、および、「製鉄技術」を教えてもらいました。 >>ちなみに現在縄文系の遺伝子は龍族に駆逐されたのか、疫病で死滅したのかはわかりませんが、世界ではもう日本とチベットでしか見られないようです。 これには、医学的に、今でも「謎」ですが、新生児に良く「蒙古斑(もうこはん)」と呼ばれる、お尻の上部(腰のあたり)に「青い痣(あざ)」のようなものが現れることがあります。もちろん、年齢と共に消えてはいきますが・・・。 これなどは、モンゴルやチベット、日本など「黄色人種」にしかできないようですね。遺伝子系列やDNAなどが近いのかも知れませんね。
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- tanuki4u
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1 遺伝の理解 優性遺伝とは、顕現化(表現化)される遺伝子のことであり、その遺伝形質が優れているとか優れていないとかとはとは関係ない。 2 日本における弥生系遺伝子の優勢 環境変化と稲作の生産性の違い。 縄文人の主食は、クルミやクリや狩猟や貝などで、東日本がその資源が多く、人口分布は東日本偏重であった。縄文末期には寒冷化により、上記の食物が少なくなったために、人口減少が起こっている。その段階で、稲作という生産性の高い食物とともに日本に移動してきたのが弥生系であり、人口で優勢となった。
補足
ご意見誠にありがとうございます。 遺伝の優劣において「1」でおっしゃったことは今や常識ですよね。 問題は「2」の稲作・鉄器と共に移動してきた渡来人は全て弥生系遺伝子である、というのは無理があります。大陸の縄文系遺伝子も渡来した可能性があるのではないでしょうか?
- isa-98
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>縄文系が帝国を築いていた可能性もあるかも知れないので多少期待しております。 三内丸山遺跡からはひょうたんが出土しているんですよ♪ 黒曜石を通貨とした大交易圏もあったかもしれません。
お礼
ひょうたんが出てきたんですか、面白いですね。 参考になりました! 確か山形県でも殷周時代の青銅製刀剣が発掘されていますよ。
お礼
返事の方遅れまして申し訳ありませんでした。 なるほど、「みしはせ」ですか。征服王朝の中では「金」や「清」などを建てたツングース系の一族ですね。彼らと縄文系は関係性があるのでしょうかね。