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縄文人がY染色体D2の単一民族に近い集団であって 縄文時代終焉近く朝鮮
縄文人がY染色体D2の単一民族に近い集団であって 縄文時代終焉近く朝鮮半島、あるいは中国からO2b、O3 型の渡来人が順次列島に渡来し弥生時代になり、D2との混成が日本人の基本をつくった。元々は半島にもD2はいたが 駆逐され今日ではみられなくなっと。というシナリオはよく聞くところです。 疑問なのは 半島では駆逐され列島では共存になったのかであります。渡来O2b、O3 は平和的で半島では攻撃的だったのでしょうか。同じO2b、O3なら列島においても攻撃的と思うのです。中橋氏の少数渡来人の人口増加率を勘案したシュミレーションがあります がその延長をかんがえればD2はやがて凌駕されているはずです。 あいは仮説が間違っており 縄文人は元々D2とO2b、O3の混成体であり 渡来人O2b O3は極少数で先住民Y染色体にはあまり影響を与えなかったのではないか。半島での民族の攻防を賭ける攻撃的O2b、O3は 海峡は渡ってこなかったのではないか と思ったりしてます。 どなたか 合理的に 縄文から弥生、あるいは 今日のY染色体遺伝子の分布を説明して頂ければ幸いです。
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縄文時代最古の遺跡は九州ですから、縄文人集団の一部は朝鮮半島から渡来して来た可能性は高いと思います。ですから、おっしゃるように縄文人と同じような集団が朝鮮半島南部に住んでいても不思議ではありません。 そして縄文時代を通じて朝鮮南部と西九州や北九州の縄文人との交流(漁具の共通性)があったことは確かですので、縄文人が逆に朝鮮半島に渡来した可能性もあります。縄文人は本土から八丈島や小八丈に渡海する能力を持っていましたので、交流や交易はなされていたでしょうね。 ただ私は縄文人は単一では無かったと思います。 それは縄文人のmtDNA(ミトコンドリアDNA)が東北地方や北海道地方と関東地方によって異なるからです。また縄文文化も土器や石器等の分布から4~5以上の集団に分けることが出来るからです。 さて、本題の弥生時代の渡来人や朝鮮半島の渡来民が攻撃的かどうかですが、例えば質問者はO2bとひとくくりにされていますが、実は『O2b』(祖型)と『O2b1』に分けることが出来ます。両方とも中国江南地域に居住していたが、南下してきたO3及びO3e(漢族最多)に圧迫され移動したとされます。『O2b』(祖型)は朝鮮半島に多く、比較的陸伝いに朝鮮半島南部に定着。『O2b1』は日本列島に多く、比較的海伝いに直接あるいは朝鮮半島南部を経由し日本に定着したと考えられます。 ここで質問者様の命題である『O2b』(祖型)が攻撃的で、『O2b1』が融和的である証明が出来れば良いのですが、朝鮮半島北東部には、シベリア・カムチャッカ由来のC3の遺伝子を持った集団が住んでいましたが、絶滅させられてはいませんので、極端に攻撃的とは思えませんね。 では『O2b』と『O2b1』がまったく同じ集団だったかというと、日本には中国南部の少数民族の「歌垣」の風習が、例えば和歌として残っていますが、朝鮮半島には皆無だと思います。しかし魔除けの『刺青』を施すという同じ風習も見られます。遺伝子も風俗も似ているが、同一ではないということでしょう。 違いといえば、中国南部といえば稲作地帯であり、ここから朝鮮半島と日本列島にも稲作が伝わっています。中国には8種類の稲の遺伝子が有りますが、朝鮮にはその内7種類が多くの人の手によって伝わり、日本には3種類しか伝わっていません。朝鮮に伝わっていない1種類の遺伝子が日本の最多の稲の遺伝子というのも面白いですね。このことも日本への渡来民の数は少なかったという根拠の一つになっているようです。 いずれにしても日本列島の縄文人は、稲作金属技術を渡来民とともに受け入れ、共に発展したのでしょう。そういえば、言語は縄文語をベースに渡来民の単語を取り入れ、日本語となったと推測されています。渡来民が大量で武力制圧したのなら、日本語は朝鮮語か中国語に近い言語になっていたでしょうね。 縄文人は一説によると稲の一種『熱帯ジャポニカ』を陸稲栽培していた。そこに弥生系渡来民が『温帯ジャポニカ』を持ち込んだ。その結果、弥生時代の水田には、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが仲良く植えてあったそうです。寒さに強い早稲品種は熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカを交配することで新品種として改良育成されたようです。稲の早稲品種は、縄文人と弥生人の友好と知恵の結晶といえるのでしょう。日本人の御先祖様は賢かったのだと思います。
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- jomonese
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No.6氏が示したページと同じikoh12氏の作による 以下のページをご覧になられることをお勧めします。 http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/012_4Y_chromosome_no_kennkyuu.html
お礼
ご回答ありがとうございました。
- fumiyahama
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度々すみません・・・・本題と離れてしまった議論になる可能性がありますが、旧石器時代にも新石器時代にも、金属時代の始まりにも『渡来人』が来りて、新しい時代が始まっていると私は考えます。 No,4様がPSでご指摘の「14,000年」縄文人の渡来の根拠として、私は素人考えですが、クサビ形細石刃石器群の代表的な『荒屋型彫器』の出土年代を指標にしています。 これは外部から旧石器時代の日本列島に持ち込まれたものでバイカル湖系縄文人によって持ち込まれた最新のものでした。下のURLを参照して下さい。 http://www.geocities.jp/ikoh12/kako_no_page_no_syoko/001honnronn_05.html 持ち込まれたルートは北海道⇒東北です。津軽海峡が完全結氷していたのでしょうか? 日本列島に旧石器時代人の渡来は3.5万年~3万年とされるそうですが、その後もNo,4様ご指摘のように、旧石器時代人の渡来はあったと思います。当然のことだと思います。縄文時代がいつから始まったのか・・については、諸説ありますね。 質問者の方には横道に逸れる議論で申し訳ありません。しかし『O2b1の集団が来た可能性』の議論の参考になるかもしれませんね。様々なルートから縄文人は日本に来たと考える方が上のURLの石器分布を説明し易いのですね。同じように、弥生系渡来人のルートも多様だと考えた方が楽だと私は考えます。
お礼
ご回答ありがとうございました。 遺物などから、縄文人を含めそれ以前から列島には様々なルートから渡来してきている、可能性大というご指摘ありがとうございました。半島の遺物に縄文土器が相当数でてくれば D2主体のグループがいたという説の補強になると思うのですが。 覇権族のY染色体特定遺伝子の占有率ですが、あるレベル(例えば70%)でそれ以上にはいかない という経験則のようなものがあれば おもしろいのですが。たしかに 英雄ボスが現れた時は一挙にその遺伝子子孫は増えそうです。やがて全て同一の民族と見做されれば(Y遺伝子100%ではない)それ以上は覇権的にはY遺伝子占有は進まないでしょう。列島の場合 例えばO2b1が 覇権族とすると D2族の%が大き過ぎるとおもうのです。やはり 融合の結果と思うのです。
- jomonese
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Q3. O2b1 が少人数で渡来してきて(3000年から) 500年~1000年かけて増加して今日の人口比のもとをつくった ということでしょうが A3. 渡来以降現在までの間に今日の人口比が出来上がったのは確かですが この人口比が達成されるまでの期間が500~1000年だったと断言する 証拠はどこにもありません。 Q4. それであれば 1500年~になればもっと増加し D2は消滅させられてもおかしくないようにおもうのですが。 それともO2b1はある占有率になると増加率は鈍るのでしょうか。 A4. 期間については何もいえません。根拠がないからです。 D2に限らず、必ず原住民のY染色体が絶滅する、とはいえません。 O2b1に限らず、100%独占状態にならないことは当然ありえます。 もともと渡来人は原住民に比してすこぶる少数であったが 農業技術を有していた点で優位に立っていたので、 初期においては、原住民に比べて渡来人の男性の子孫が増えた と考えられます。 しかしながら、だんだんと混交が進み 原住民と渡来人の区別がつかなくなってくると 一方のY遺伝子が他方に比べて繁殖力が強い とかいうことがないかぎり、割合の変動が 少なくなり安定すると考えられます。 今の割合で安定化したのは偶然であり、 もし初期状態が違えば違った割合になっていた 可能性は否定できません。
お礼
ご回答ありがとうございました。 500年~1000年の期間で渡来弥生人が 初期の段階で少数であっても 増加率が縄文人より大なら かなり占有率が上がることは 例えば research.kahaku.go.jp/department/anth/s セッション「人の流れ:縄文時代と弥生時代」(2008年11月) 弥生時代の枠組み変化による日本人起源仮説への影響の検討 をみれば、300年~800年の結果が示されています。 もっともシュミレーションですから 当時の証拠がないと 仮説ということでしょうが 渡来弥生人が占有率を高めていく 一つの根拠と思います。
- jomonese
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Q1. 海岸線が下がっていたのは列島だけでなく半島も同じであり 海岸線が上昇するにつれ D2は新海岸線に移っていくように思うのですが。 A1. D2は縄文時代には東日本に集中しており、西日本にはほとんどいませんでした。 海岸線の上昇により、日本列島と半島が分断された頃には、 日本列島西部から半島に渡る人がいなかった、と考えるのが 今あるデータによる、最も素直な思考でしょう。 Q2. 渡来人O2b1が攻撃的であるとすると なぜ列島ではD2が消滅(数%以下)しないで 30~40%占有となっているのでしょうか。 A2. 渡来人に原住民を絶滅させるほどの圧倒的な力がなかったのでしょう。 O2b1の均一性は、このグループがこの二~三千年で急速に増えたことを意味します。 このことは多くの論文で指摘されていることです。 P.S. No.3氏は 「縄文人が日本列島に渡来したのは14000年前~13000年前とされています。」 とおっしゃっていますが、実際にはもっと古いでしょう。 つまり、日本列島が大陸から分離する前です。 そうでなければ、日本に到達できない、と考えるのが素直です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 お説としてお聞きしておきます。一つだけ、O2b1 が少人数で渡来してきて(3000年から) 500年~1000年かけて増加して今日の人口比のもとをつくった ということでしょうが それであれば 1500年~ になればもっと増加しD2は消滅させられてもおかしくないようにおもうのですが。それともO2b1はある占有率になると増加率は鈍るのでしょうか。
- fumiyahama
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まず、質問者様の疑問・・・Y染色体のハプロタイプとmtDNAのハプロタイプの違いについて・・・ 確かに、Y染色体のハプロタイプに比較して、ミトコンドリア・mtDNAは、ヒトの集団を区分するには不便です。しかし、やり方によっては、「比較的上手に」縄文系と弥生系の比率を算出出来ると主張している研究者もあるようです。このURLを参照下さい。 http://www.aistshikoku.org/kaiyou-kaiin292.html この手法によって使用されたハプロタイプは「M7a 縄文系」と「N9a 弥生系」のようですね。ここで面白いのは、同じ岐阜県でも縄文系は飛騨69%、美濃40%ということなのです。余談ですが、大和朝廷には、飛騨の木工の匠(縄文系)が交代で勤めておりますし、美濃(弥生系)には宮廷直属の紙漉き工場が存在します。紙漉きは渡来系(今来人・ニューカマー)の秦氏の強い影響があるとされています。 質問者様のお考え・・・縄文時代にY染色体のハプロタイプD2とO2b1とが同居していたというお考えについて・・・ ハプロタイプD2は数万年前に祖型から分岐していますが、ハプロタイプO2b1は比較的新しいタイプで数千年の歴史しかありません。つまり祖型のO2b*??とかが見つからないと謎が深まるばかりだと思います。 ついでに、No,2の興味深い御回答について・・・下に『縄文時代の気候状態』のURLを書きましたので、参照頂ければ幸いですが・・・縄文人が日本列島に渡来したのは14000年前~13000年前とされています。最終氷河期が終わり晩氷期の終わりのようです。 最終氷河期の19000年前に一番冷えて海面低下が起こり現時点より120m水面は低かったとされます。 しかし、縄文人が日本列島に渡来した13000年前は、津軽海峡は結構深い海に、対馬海峡も浅い海の下になっていますね。↓ここに詳しく解説してあります。『東アジアにおける1~2万前の黒潮の変動(2)』 http://202.252.175.49/taisetsu/reports/v31/taira.html 冬に各海峡が凍結していれば、人は渡れたのでしょうが・・・対馬海峡と津軽海峡と、どちらを渡ってきたのでしょうね。疑問は深まりますね。最古の縄文遺跡は九州ですが・・・・北から南下したという説もありますし、素人には分かりかねますね。石斧で削り、火で焼き作り上げた丸木舟で来たのですかね。 まだまだ、謎だらけ・・だから、なお、面白いですね。
お礼
ご回答ありがとうございました。 なぞがなぞを呼ぶ感じです。古代人の人骨からY染色体遺伝子が検出される技術が開発されるとか して 新しい知見が でてくれば いいのですが。
- jomonese
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「元々は半島にもD2はいたが 駆逐され今日ではみられなくなった。」 というのは素人の説です。 というのは、Y染色体D2の人々が日本列島に来た頃は、 日本とユーラシア大陸は陸続きであり、 しかも今の東シナ海は陸地だったからです。 「Y染色体D2の人々は海づたいに日本列島にやってきた」 というのが専門家の説です。 当時の生活では、海沿いでないと食料が確保できないからです。 朝鮮半島や中国大陸にY染色体D2の人々がいないのは その頃はそのあたりは海沿いでなかったので もともといなかった、ということです。 縄文時代でも縄文人は主に東日本に住んでいて、 西日本にはほとんどいませんでした。 Y染色体Oの人々は農耕文明とともに東アジアに入ってきたので 別に海沿いでないと生きていけないということはありませんでした。 ちなみに、Y染色体の複製エラーによるバラつきの具合を見ると D2のバラつきは大きく、約二万年前から日本にいると考えられるのに対し、 OとくにO2b1のバラつきは小さく、三千年前あたりに日本にやってきた人々 の子孫だと考えられるそうです。 子孫の増殖の具合を見る限りでは、弥生人は日本列島でも「好戦的」だった と考えたほうがよろしいかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 お説によれば D2は半島にはいなかったようですが、 海岸線が下がっていたのは列島だけでなく半島も 同じであり海岸線が上昇するにつれ D2は新海岸線に移っていくように思うのですが。要するに D2は半島にはいなかった という説は難しいかと 思います。D2が半島にいたという説は 多くの証拠で証明されないといけないと思いますが 現段階では データが圧倒的に不足しているように思いますが 素直な説 のように思います。 渡来人O2b1が攻撃的であるとすると なぜ列島ではD2が消滅(数%以下)しないでで30~40%占有となっているのでしょうか。多くは 融合(平和的)して今日に至っていると考えるのが一つの説のようにおもいます。データ不足の推測でしかなく説の確立はこれからのように思われます。 ありがとうございました。
お礼
丁寧なご回答ありがとうございました。 Y染色体の遺伝子の分布とミトコンドリアDNAの分布はどう理解したら いいのでしょうか。 少数人の男子が主導する覇権族が大きな占有をすれば一挙にその覇権族の遺伝子となります。その時もミトコンドリアは多層化されているのです。すると ご指摘のように半島ではO2bがもとは少数であったとしても覇権を進めD2とかO2b1を排除したと考えても言い訳です。列島ではこの覇権族がやってこなかった 結果としてD2、O2b1が残ったのです。しかも、ミトコンドリアは半島、列島とも略似ており多層化されております。弥生時代を通して列島のD2、O2b1の融合が進み 東北から九州まで平均化されているのです。 とするとO2bとは何族で何時の時代なのか 興味はつきません。 とロマンは広がるのですが仮説であります。考古学上のデータは まだまだ足りないとおもいます。関連知識をご披露頂きありがとうございました。