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エゴは情報よりも大事なのか?
「花より団子」のように、「情報よりエゴ」なんだという姿勢が、かなりの割合の人間にあるようです。典型的なのはネットで、本来有益な情報交換の場のはずの掲示板も、己のエゴの張り合いで地に落ちる内容になっていることが多いです。このサイトにしても、そういう、謙虚な情報交換の場ということをはなれて、主義主張や、エゴの張り合い、過度の自己防衛やかたくなさといった「心のあり方」の問題が先に来てしまっているような気がします。 こういうことは、人間である限り克服できないのでしょうか。間違っても「エゴより情報」とはならないものなのでしょうか?
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うーん。 超能力とか超常現象について質問しているようで、返事を読むと質問ではなく主張をしているってのが、結構ありますね。 「情報をください」といわれて情報を提供したのに、全く書いた情報を分析せず、はなっから「いるんですよ 超能力者。UFO。空飛ぶサンタクロース 知らないんですかぁ~」ってな返事をもらう。 じゃあ 最初から質問するな って言いたくなる。 「質問じゃなく あるって認めて欲しいんです。自分の意見に賛同する人のみ回答ください。他の情報は一切いりません。」って自己中ですよね。 自分の見えるもののみを真実とする。 他の意見を見比べて、検討をする余裕が全く無いってのは自己中で、人口一人の国の王様ですよね。 「俺はすごいんだぞーー」って独裁者気取り。 世界で一番優秀な人物であらせられるぞ 俺が法だ って感じ。 あまた悪いとしか思えない。 自分は知らない者だって思うことで、自分が知らない情報を入手してやろうって気になり、その未知だった情報を知った上で、自分の考えは正しいってソクラテスのようにすればいいのに、他の情報を望まないって結局 井の中の蛙状態をしないと、自信喪失になるからじゃないかと。 間違えることを恐れる勇気の無さが、自分を愚者にしていると思えるんですね。 間違えて批判されることで、前に進める。 「私は知りません」と言う人ほど 多くのいろんな情報を得られる。 そこがわからないので、ずっと井戸にはまっているしかないんじゃないかと。 鋼鉄の井戸に自らを閉じ込めることで保身を図るのも、ありでしょうけど、せっかく異なる情報を持つ人がいる場に参加しながら、もったいないなぁ と思います。
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- pokoperopo
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ぽこぺろぽです。『ジュリアナ東京』の例示に沿ってお答えします。『教え魔』である、彼らの「お立ち台」への拒絶感とは、自分がダンスが下手なことは内心は認めているということです。 彼らは「フロア」で踊りながら、「お立ち台」の「ダンス」を批評する、他の『教え魔』達のうまくはない「ダンス」を見て、とても「お立ち台」に上がる自信がないのです。しかし自分は批評されたことがないので、「ダンス」下手をはっきりとは自覚していません。 もちろん批評されないことにより、彼らの「ダンス」はうまくなりません。その侘しさを「お立ち台」にぶつけます。つまりはルサンチマンにすぎません。彼ら『教え魔』は、イザヤ・ベンダサンを名乗った山本七平が『日本人とユダヤ人』で定義した「プールサイダー」そのものです。 自分はカナヅチのくせに、人の泳ぎをあれこれと、プールサイドから批評します。彼らに批判されたら「文句があるなら泳いでみろ」とさえ言えば、彼らは何も言い返せません。言うだけ虚しくなるばかりです。
お礼
よくわかります。 こういう「棚に上げ」人間って言うのが多いんですよね。でも、半分無自覚的になっている、だからこそもっと厄介な状況ということもいえますしね。ほんとうに「バカの壁」ですよ。最近読みました。大いに賛同します。
「花より団子」を「情報Vsエゴ」と読み替えるのに苦労していますが、それはさておき。 エゴというのは本来生きるための原動力ですから、情報はそういったエゴに奉仕しなければならないのが普通ですね。当然ながらエゴに付随するのが情報というものなのでしょう。情報が途切れたエゴは死ぬしかない。 ですから満ち足りたエゴは情報を必要としないことも多々あるわけで、そういったエゴがどういうわけかまちがってここにきて質問などをするのが混乱の元なのだということでしょう。いわゆる「バカの壁」のひとびとが典型的です。 エゴの克服は人間の終生の課題だと思います。基本的には不可能でしょうね。ただこのサイトで不愉快な質問や回答を極小に抑えるためのルールを構築するくらいの事は可能だと思いますが。
お礼
「バカの壁」は実在しますね。その方向性は世の中にあふれている。毛局バカが集まって世の中作っているわけですからね。 生きるための原動力が「私が私が!」でいいのかどうか、それはそれで原始時代的にはしょうがないのかもしれませんが、今日はどうか?と思いますよ。または、もうちょっと柔軟に考えて、おっしゃるように、情報の欠如したエゴは死ぬんだから、エゴのために情報に柔軟になろうっていうのは一種理性的であり本能的です。それをあたかも、自殺志願のように「エゴエゴ」になる浅はかさですね。
- sheep67
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こんばんは。 エゴと情報は、対比できるのかなーと感じたんですが。 それはおいておいて、エゴは超えられるか?という話で。 かなりの割合ではなく、エゴのない人はいないですし、謙虚な情報交換の場、というのも、個人としては見たことがないです。 それはちょっと幻想っぽい気がするのですが・・・、きつい言い方ですが。 理想はわかります。エゴイスティックでないほうがいいし、理想的な掲示板であってほしいけど、こだわるのはよくない、とまでは僕も言い切れないですが。そういう理想があったら、すっとする、という依存心は僕もあります。 克服には、共感が必要と思うのですが、でもそれ以前に、現実認識の問題が、誰でもそうですが、一番大きいのではないでしょうか?
お礼
現実問題は、もういやというほど認識したつもりです。だからこそ、もっといいものがあるのではないか?理想に近づけるのではないかという気持ちを大きくさせますね。中毒かもしれませんが。 現実は現実でしょうがないや と割り切るには、あまりに現実がひどすぎる気がします。
- pokoperopo
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ぽこぺろぽです。情報とエゴですか。難しくはありません。結論から申し上げると、情報≦エゴとしなければなりません。 なぜなら情報を発信するのも、受信するのも、情報を希求するエゴだからです。情報の管理者は、安定した管理を必要とするために、情報の重要性を説き、エゴの発現を戒めます。しかしこれは建前です。エゴがなければ情報も価値を持たないのです。 しかしご承知のとおり、エゴ丸出し人間が跋扈しています。彼らこそ情報の重要性を盾にとり、自らのエゴを隠匿し、正当化に努める、悪の枢軸です。『教え魔』である彼らは、情報の発信以前の段階において受動的です。それにも拘わらず、情報を発信する段階においては高圧的です。つまり彼らの主観においては、質問とはアプリオリな存在です。彼らの主体においては、回答が絶対条件であるため、質問が質問者から生まれる、けだし意義深い生産活動とは認識不可能となるのです。つまり、情報の初期的な発信の価値は認めず、情報の受動的、二次的な発信にのみ価値を認めるわけです。これこそが純粋なエゴです。 ですから、質問という情報の能動的発信手段を持ち、回答を得るという受信手段を持ち、さらにお礼を送るという第二弾を持つ、質問者は情報強者です。質問者はエゴでもって情報を発信し、『教え魔』のエゴを受け流し、エゴをもってお礼をすべきです。「エゴには機会的優位のエゴで返すべき」これこそがエゴ丸出しの隠れた情報弱者の対処に必要とされる価値命題です。
お礼
人間、代わってみれないですからね。質問をしない人間の気持ちを理解するといっても限界があります。しかし、過剰に自己防衛的であるということも違う分野では私もありますから、それがここに来ているのだということなのかもしれません。 >「エゴには機会的優位のエゴで返すべき」これこそがエゴ丸出しの隠れた情報弱者の対処に必要とされる価値命題です。 賛成です。私も常日頃これをやっているつもりですね。
補足
情報発信者であるという、初期的能動性を頑なに拒否するという過剰防衛姿勢といわざるをえないでしょうね。その事実を隠蔽するために、もっともらしい理屈を並べているという虚飾的姿がよくわかります。彼らの、「お立ち台」へのそれほどにも拒絶感はいったい何なんでしょうかね。
「エゴは情報よりも大事なのか?」というのが第一の質問で、「人間はエゴを克服できるのか?」というのが第二の質問であると読みました。 僕はそもそも「エゴ」というのが何なのかよくわかっていませんし、エゴを克服することのできた人間でもなく、質問に答えることができないのですが、人間のエゴが表われている典型であるネット、ということについて、個人的な雑感を書いてみたいと思います。しかし、これも僕の何らかのエゴであるのでしょうが。 ネットというのは、まだ歴史の浅い道具で、ネットでどう振舞うべきかといったルールがまだできていない状態であると思います。ですから、質問者様の望むようなネットというのが、将来的に実現する可能性というのはあると思います。が、それを実現するのは、やはり、それを実現しようとする誰かでしょう。 それから、ネットというのは、どんどん進歩?しているものだと思うのですが、基本的には「言語」によるコミュニケーションの道具である、ということです。そして、もう一つ、匿名性が高い、というのも特徴であると思います。言語、匿名、という二つの要素が揃えば、エゴが見え易くなってしまうのは当然の成り行きかな、という気がします。それの対処法としては、やはり、別の回答者様が書かれているように、他人のエゴをエゴとわかる方なのでしたら、それはエゴだとわかって、やり過ごしていく、というのがいいのではないかと思います。そうして行けば、エゴを克服している情報の発信者、もしくはコミュニティというのも、見つかるのではないでしょうか? 偉そうなことを書いてきましたが、僕自身は、エゴに凝り固まっている人間で、僕も教えてgoo!で何度か質問させて頂いたのですが、それは質問というよりも相談であったな、と今では反省しております。
お礼
エゴを抑える要素が、非匿名的な外圧的なものだとしたら、人間の自律性あるいは性善説性というものはむこうということになりますね。でも結局のところ、警察が始終存在するとことからしても、それが真理なのでしょうね。 可能な限り、この必要悪性をやり過ごすということしかないのかもしれませんね。 相談でいいんじゃないでしょうか。質問といってもそれは、ここでは人間的な要素が大きいものですから。
- magga
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「自分勝手な尺度(エゴ)」より「科学的論理的実証的かつ理性的なデータ(情報)」 を重要視し、エゴを捨てる道と方法をお釈迦様(ゴータマ師)はといていますよ。(僕の学んでいるのはパーリ語の仏典です) スマナサーラ長老の書籍などはオススメです。 何か参考になれば幸いです。 幸福であれノシ
お礼
仏道は非常に賛同できますね。
エゴというのはラジオの搬送波のようなものでエゴがないところに情報はないはずです。いわばエゴ抜きで情報だけを得ようとするのは虫が良いというか無料で高価な物品をせしめようということと本質は変わらないと思います。もちろん情報そっちのけでエゴを押し売りするのは恥ずかしいことですがこれとても情報の価値は受け取り手によって変わりますから、エゴばかりで情報がない場合があってもそれは必要悪程度に考える方が良いのではないでしょうか。つまりやりすごした方が良いことではないかと思います。
お礼
たしかにそうですね。 伝播波の媒体的なものといってもいいでしょうかね。その位相発生エネルギー源がエゴであるということかもしれません。その必要悪性を可能かな義理薄めて受信するのがいいのでしょう。
- maimaisus
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そうですね。 この「なんでも相談室」の中では、エゴより情報が重視されるべきだと思います。 それが本来の目的のはずですから。 まあ、受け取り方の問題もあると思いますが。 よく見かけますけど、最初から自分の中で答えの出ている質問や、答えになていない回答は、本来あるべきではないと言った処ですかね。
お礼
ええ、その通りだと思います。 「情報」を重きにおかないなら、ここを利用したってしょうがないと思うのに、そういう心の慰めに利用するのはおかしいということです。すくなくとも、抑えてという姿勢が大事なのです。
- reki4649
- ベストアンサー率21% (116/539)
哲学のカテに投稿されたのであくまで哲学的に答えると。 「自己」より大事な「情報」などあるでしょうか? 「自己」の為になってこその「情報」ではないですか。 ですので額面通り受け取れば「エゴより大事な情報など無い」となります。 そうではなくて「一時的なエゴを抑えてよりよい情報収集を優先する」と なると これは学習問題で十分克服できる問題だと思います。 死ぬか生きるかの情報を得るのにプライドや見得など貼る人は少ないでしょう。
お礼
情報の動機としてどうしても「エゴ」が必要ですよね。段階があるのですよね。確かにその通りです。それを抑えて客観的な事項の収集をするという、均整の取れた精神活動が大事だと思います。まさに、「学習」領域の問題ですね。
お礼
理性ということに重きを置けば、お答えのような考えになるのです。その点まったく、同感です。しかし、この理性に重きをおかない人っていうのが多いんですかね。相関がえないと、まったく理解不能なことがまかり通っています。 質問する1番純粋な動機というのは、自分の思ってもみなかった答えが返ってくるかもしれない、自分の井の中がまったく覆るかもしれないという期待です。そもそも「質問」は質問でなくてはならず、「回答」も然りであり、その規定に従わないでよしとするような傲慢さと恥知らずはまったく救いがたい。 なぜ、耕すこと、耕されることに拒絶感を持つのかなぁと。