こんにちは。
ぶっきらぼうと愛想との関係性についてですが、少し思うところがあり、回答を補足してみます。質問文の【Q2】「愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?」というところでしょうか。
ここで取り上げるのは、「愛想」と「対話や議論の文章」についてです。例えば、
---Selon le philosophe francais Michel Foucault, le pouvoir n'est pas une autorite s'exercant sur des sujets de droit, mais avant tout une puissance immanente a la societe, qui s'exprime dans la production de normes et de valeurs.
適当に見繕ってみましたが、 このような文章があったとします。
妥当な訳としては、「フランスの哲学者ミッシェル・フーコーによると、権力とは権利主体に行使される権威ではなく、何よりも社会に内在する力であり、規格と市場価値の生産を表すものである。」と、このようになるでしょう。
ところが、文中のふたつの名「pouvoir」と「puissance」について、これをどう取り扱うについては、度々議論にあがることがあるようです。ともに「力」を現わす語ですが、この解釈問題(同一性命題)についての哲学的考察は、まさに『ぶっきらぼう』問題、強いては「愛想」と「対話や議論の文章」との関係性になってきます。
似たような問い語りにおいて、この質問の少し上にある『神の存在』という質問に、あらましを投稿しておきました。質問者様にとっては、ご参考になればと思います。
ところで、命題に対する立ち位置として、事実命題と価値命題のあいだのジレンマというのがあります。訳と言うのは本来、前者に所属する問題であり、それを後者で論じようとすれば、そこには必ずジレンマが生じるでしょう。
何故ならば、意味は同じでも意義が異なるからです。それを他者が指摘するとき、世間では(別な表現を借りれば)、「揚げ足とり」などとも呼ばれたりするようですが、僕の用語で言えば、「ひとり踊り」ということになるのでしょうか。
さて、「pouvoir」と「puissance」についてですが、何時だったか、両者の違いを禁止「~できない」と、当為「~すべき」だと説明したことがありました(覚えておいででしょうか)。前者は、何かを可能にする力、後者は、一般的には権力ですが、史的に語るならば、la tout-puissance divine(能動因としての全能性とでも呼びましょうか)に出自を見ることができるでしょう。
ですから、古典的には一者がもたらす可能因と、能動因の違いというふうに呼びかえることもできるわけです。こういうこましゃくれた事を手っ取り早く説明するために、禁止と当為だとお話したのですが、きっとお忘れになられたんでしょうね?
「どう訳すか」と「どう解釈するか」この違いを明らかにして楽しむためには、先に書いたジレンマを弁える必要があるでしょう。愛想といいますか、個人的には、このような悶々とする感じって、好きなんですけどねぇ。むしろ、悶々にとらわれ過ぎて、「対話や議論の文章」という事実を見落とす事のほうが憂慮されるべき問題だと思います。
お礼
結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか? どうでしょう? * あるいは イリ歴史知性の中から ヨセ超歴史知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか? * 内面において自己崇拝的な《ヨリ》を《復活》させてのように あらたな歴史知性として立った《コギト》知性。これによれば たしかに もはや 人びとの知性は 針ねずみのごとき容貌を現わして来た。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《コギト》について 悪口のみを言っています。偏見です。《はさみ》説を普及させる必要があります。 かくて 世界は 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》なる知性の入り交じる交通関係網より成るとなるでしょうか。粗削りですので よろしければ たたき台として どうでしょう? 現代には 《純粋な》ヨリは いないでしょうね。イリ歴史知性に 一たんは 目覚めたのに ふたたび どういうわけか ヨリの眠りのほうへ 傾いていく。それが のっぺらぼうなのかも知れません。 まなざしをもっぱら上から注ぐ超越知性のヨセも ふつうのイリ歴史知性が 本籍です。コギトも 同じくです。コギトを イリが使うのと ヨセが使うのとでは 微妙に 違ってくるのではないでしょうか? 二階建て構造は むしろ 逆立ちしていないでしょうか。
補足
mashumaro2 さん もう一度お早うございます。ご回答をありがとうございます。 興味本位から入ります。 ★ キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。 ☆ あぁ これも 或る種の ぶっきらぼう ですね。よかった よかった。と言っても いけませんかね。 なるほど 上手におっしゃる。フーコは はさみであると。(フーコーを改め フ―コ とわたしも します)。例の passcard さんから そういうふうに一度指摘されていたのですが たとえば次のような指摘も あたまに残っていました。 ▲ (今村仁司:構造主義 『現代思想を読む辞典』1988)~~~~~~ ・・・ 構造主義の《構造》概念に関する認識論的諸問題 さらに構造主義が秘かに想定している存在観の諸問題を吟味することが残されている。 構造主義の科学は完了しているのではなく 今後も批判と討議を経て発展すべき未来に開かれた学問である。 構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である。したがって 構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《構造主義が秘かに想定している存在観》 これですね。認識論は はさみでしょうが 思想つまり すでに 生活態度の問題にも 入って来ているようにも感じたのでした。《無主体》説では 困ると思います。ぎゃくに 認識論だけなら・つまり はさみであるなら 道具であるということですから 無主体は 当然ですね。 ○ 鬼に金棒 ☆ この表現は 鬼も金棒も 話し合い主義にとっては まずいですね。戦略・戦術だとか 男性軍・女性陣だとかも そろそろ 代わりの表現を探すべきでしょうね。《大船に乗った気持ち》も どうも古いですね。 さて 前編からのつづきとしましては mashumaro2 さんと《過激性》を競うという誘惑にかられました。 ☆☆ (【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】No.78補足欄)~~~~~~ その昔 ひとが死ぬということを知ったとき ひとは その存在の時間的な存在性に・そしてその時間的な存在が互いにいとなむ世界に みづからの意志において 《イリ(入り)》しました。歴史知性の獲得です。 その以前には なにごとにも《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性でしょうか。 歴史知性を確立していくにつれ 《ヨリ心性》に留まっている場合をどうするかという議論が起き 片や そのまま 《イリ知性》の漸進的な歩みを説く人びとと そして 片や そうではないと言って この歴史知性の潜在なるままの《ヨリ》原始心性を 《ヨセ(寄せ)》るのだと主張する人びとが出て 対立します。 結果は ヨセなる言わば超歴史知性の側に イリ知性の側が 国ゆづりするというかたちで 譲歩し従属することになりました。 途端に それまでの社会は いわば平屋建てであったものが 二階建てに早変わりしました。むろん 二階には スーパー歴史知性なるヨセ派が 住まうということになります。 この二階から 説いて言うには 第一条として ▲ 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。 ☆ でした。そののちにも 大きく王位を争う六七二年の乱をはじめ 自分たちの雲の上では 波風を立てても よいが 下々では ならぬと言う。その以前には 蘇我氏と物部氏が 仏教受容かどうかで 争ったとき 聖徳太子は 前者の軍に加わり戦っておきながら 上の条文をこしらえた。 ということは 《ヨセ》なる知性は 別格であって 人びとは その知性に対して 波風を立ててはならないと言っている。ことになるのでしょうか? どうでしょうか? ヨセなる超歴史知性:天つ神 イリなる歴史知性: 国つ神 ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草) あるいは ○ 罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。 ☆ という世の中が 出来あがって行きました。とさ。