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古代の時間のあらわし方
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/joho/toki.htm 上記サイトに江戸時代の時間についての説明がありました。 1日を2時間ごとに区切り干支で表現する方法が始まったのは戦国時代とありますが、それ以前はどのようにあらわしていたのでしょうか。
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古代日本は中国の文化を吸収し、暦法、時法も習いました。 「延喜式」(927)には1日を12辰刻(子、丑、寅、・・・の干支刻)とし、さらにこれを4分割した48刻法が記載されています。 12辰法は漢代のものですが、48刻の公式化は日本独自でした。 漢代には別に1日を百等分した百刻法もあり、それに使う当時の日時計が発見されています。 1年=12月から来た1日=12、24刻は洋の東西を問わないのですが、百刻法の根拠は不明、日本にも多少の影響はあったようです。 日本の時法は戦国時代に混乱しましたが、詳細は不明です。
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- akir224
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古代日本でしたか、失礼しました。 私もちょっと気になったので調べてみたのですが、 漏刻と呼ばれるものや日時計が使われていたようです。 ちょうど良さそうなサイトがありましたのでURLを貼っておきますね。
お礼
なんどもありがとうございます。 貼っていただいたサイト、楽しく拝見しました。 人形をとりつけた漏刻のデザインがかわいくて 欲しくなってしまいました. 都にはこんな漏刻があって 漏刻博士や守辰丁が鐘や鼓を打って時を知らせたのですね。 以前に行ったことのある水落遺跡の風景に想像を重ねると とても楽しくなりました。 このとき、時間の単位としてはやはり干支を使っていたのでしょうか。 鐘や鼓を打つ回数などで時刻を知らせていたのでしょうか。 もう少し調べてみることにします♪
- akir224
- ベストアンサー率38% (10/26)
日本の古代の、でしょうか? 古代ローマとかでしたら影の位置を見て時間を把握していたとか見た覚えがあります。 「日時計」というものらしいです。 見当違いだったらごめんなさい。
お礼
わ、早速の回答ありがとうございます。 説明不足ですいません。 日本の古代(飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代)、というつもりでした。 けれど、日時計のようなものは自然と考え出されていたかもしれませんね。 参考になりました♪ うーん、しかしすると夜はかなり時間の感覚がアバウトだったのでしょうね。 月が明るいときには影はできるのでしょうが・・・ また季節によって日照時間は変わってきますので 季節によって時間が早く進んだり、遅く進むなんてことも あったのかもしれませんね。 天智天皇が水時計を作ったなんて話を聞いたことがありますが これだと定刻がはかれますが 一般的に使われていたんでしょうか?
お礼
ありがとうございます! 48刻法で調べるといろいろ出てきました。 百刻法というのはなかなか忙しそうですね! それにしてもよくご存知ですね。尊敬します!