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けんかをしては 何故 いけないのか

 ここでは けんかを 口論にしぼってください。  つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。  存在を愛し 思想や行動を憎むことです。  なぜ いけないのでしょう?  理由が分かりません。おしえてください。

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noname#82450
noname#82450
回答No.100

 ここで100をとらせていただきます、仁科です、  おじさんお久しぶりです、  口げんかは、良いと思います。手が出るよりは、ましですし、  競いあうようなスポーツは嫌ですが、  絶縁は互いへの臆病さを増しますし、ここち悪く、  自分自身と口げんかできないひとは、まずいです。自身との絶縁ですから、  自己批判できないひとは、建設的な口げんかをできないと思います。  自己批判できないひと同士のけんかは、怖いので否定の対象です。  口げんかに止まらず暴力になり心身を壊しあうことになりそうなので。  自己批判できる人どうしだと口げんかは長引かないかもしれません。つつましいでしょうし。  けんかしつづけるということは、両者ともにか一方に自己批判するスキルがないということなのでしょうか、  互いを批判するよりも多くまざまざと自己批判を開示しあうのが良いのかもしれません。  互いの精神性や人間性に関し建設的であるには。  ひとびとが自己批判のスキルを高めてゆくには。  頭と言葉を使い陰気な精神のストリップをどこまでもするのが良いのだと思います。  徹底的な自己批判、自分と向き合うこと、自省を、したことがない人は、けっこう多いと思います。大人にも、  自己批判のしかたを、あまり学ばないかもしれません、  自己批判に関して、ひとびとは教育も開発もされず、  ほとんどの教師も親も自己批判なんかしていないかもしれませんし、  思考停止の世の中で、自分は正しいのだという態度の人や集団や情報ばかりが満ちていますし、  私はかなりパラノイアっぽいせいか自己批判という言葉ばかり記述しますが、    きっとブラジュローヌさんは自己批判してきたでしょうし、しているでしょうけれど、  他者に対して自己批判よりも他者批判を多く示しがちなのかも知れません。  対話において剛と剛とでは互いに警戒しあい心の耳を閉ざしあいます、たぶん、  なので、すきを見せるとよいと思います、  弱みや、くよくよしている感じ、自信のなさを、垣間見せるとよいと思います、  そうすりゃいちころです、不完全なものに日本人は弱いかもわかりませんすら、  あえて、おやおや、おじさん負けちゃったようだ、というのは余裕なのですが、  そういう嘘や演技じゃなりません、  子どもの水準は大人よりも上です、たぶん、  大人なんか、いないのです、こんな分業ばかりの社会に一人前の人なんかいません、  狂おしい社会に順応してしまった大人は、完成度の高い狂人ばかりです。  交換券(貨幣)や労働や国などの、反アナーキーでヒエラルキアなものがひとびとを不出来な生きものにしています、  部品になっている社会人より、まだ分裂していない子どもたちのほうが個体としてはまだまともで、  未熟な大人、すなわち子ども、つまり私は健やかなのかもしれません、  私は不完全で、自信がなく、それゆえにとても謙虚で、謙虚でもなく、なんだか正しいようで、  正しいというか健やかです、不完全であるがゆえにか健やかです、  今日も私は健やかです、おはようございました、  私にとり他者一般は狂人で、ひとびとの心は壊れていて、  もう大破しているものならいっそ全壊させたいという思いがあるのか、  他者の心をすきあらば壊したがるのは私の癖としてあり、弱いものいじめは面白く、    子どものざれごとは、狂いっぱなしの大人らのたわごとより健やかなのかもしれません、そう信じます、  大人はペニスも汚ければ組織の汚い秘密をも隠すので否定の対象です。

bragelonne
質問者

補足

 ni_shi_naくん――《おぢさん》呼ばわりしたので くんづけ―― めっちゃ 冴えてるやん! どうしたの? ここで悪友どうしだと 何か変なものを食ったんっちゃうか? と突っ込むところですが 冗談は それくらいにして ご回答をありがとうございます。  もう少し長引かせるなら どこで勉強して来たん? 三日見ないうちに しゃれのめしていますではないですか。  と言っても 爪を隠していたのですかね。片鱗のみを見せていたのですかね。  まぁ おぢさんとしましては 最後の最後の一文が まだ練れていないね。あとは かがやいています。  ★ 大人はペニスも汚ければ組織の汚い秘密をも隠すので否定の対象です。  ☆ 《否定の対象》を持ち出してくるようぢゃ まだまだだね。持っていても いいのですが 表現するときには 否定形で言いきらないほうがよいでしょう。  むろん 自己否定をするのですが しかも とことん するのですが 表現は おおむね 肯定の形で出してきたほうが よいでしょう。  ★☆ 対話において 否定形で命題を提出すると 警戒しあい心の耳を閉ざしあいます、たぶん。  ☆ 一般に 肯定形にすると  《すこやか》ですし 《安心》をもたらします。  やっぱり 《おぢさん》気取りになってしまいますね。  では よけいに えらそぶって行きましょう。  ★ 交換券(貨幣)や労働や国などの、反アナーキーでヒエラルキアなものがひとびとを不出来な生きものにしています、  ☆ この箇所は 読み取りにくいですよ。表現の未熟が 思想の未熟として見られかねないのが 上に示した一箇所で そして表現じたいが読み取りにくいのは この一箇所です。  ということは わたくしも 否定形から入っていますね。肯定するところから始める ほめて育てるというぢゃないですか なんですが ここは 鬼になりましょう。もう育てる段階ぢゃないようですから。(ちょっと ほめすぎ)。  〔わたくしなんか 三十歳になるまで 世の中の 西も東も分かっていたけれど なぜ 南が西になり 北が東になるのかを 考え続けて ちんぷんかんぷんだったんですから。なぜ ひとは 平気で 東を西と言い 聞いているわたしが そのことをいぶかっているのに なお平気で そのウソをつき通しているのか まったく分からなかったのですから〕。〔《悪は存在しない》という命題を聞いて すべては 空が晴れ渡りました。分析は そのあと おこないました〕。  ★☆ 頭と言葉を使い陰気〔* であり〕な〔* がらも 前向きでたくみな〕精神のストリップをどこまでもするのが良いのだと思います。  ★ ブラジュローヌ → ☆ (改名)ブラジュロンヌ  (cf. Sorbonne:ソルボンヌ; Catherine:カトリーヌ; Francine: フランシーヌ; Cannes:カンヌ〔 -s は発音せず〕)  ★ 狂おしい社会に順応してしまった大人は、完成度の高い狂人ばかりです。  ☆ 歴史知性の分類としての《ヨリ・イリ・ヨセ・コギト》に関連させ さらにくわしく その《発狂》の状態や社会情況のありさまを 分析せよ。(宿題だよん)。  あとは やはり 人びとのためになる仕事を もくもくと やっている人びとへの敬意と感謝の意を述べることを忘れずに触れていれば 百二十点満点です。  ミサイル発射に対応するため準備している人たちも おおぜい いますから。

その他の回答 (127)

回答No.108

No.32・59・108です。 無視されるのかと思いましたら、喧嘩の相手になっていたのですね。 当方は喧嘩中とは、思っていませんでしたが、 仮に喧嘩中ではあっても、敵対中ではないと思っています。 再度、問います。 「ファシズムの匂い」という比喩で、ここまで捻じ曲げるのかという感想です。つまり、言葉には、人それぞれの「衣」(ニュアンス、連想イメージなど)の着せ方があって、多様なファッションになっているので、必ずしもこちらの意図どおりには伝わらないという例になると思いました。ここに、無駄な口論を展開する種があるとも思うのです。 一色に染め上げる「ファシズムの匂い」とは、アーリア人至上主義、ユダヤ人絶滅収容所送りを暗示したつもりでした。つまり、bragelonne至上主義、相手方主張の抹殺の暗示です。この比喩が適切かどうかは、自信がないので、「感じ」という弱い表現にしたつもりです。政治思想のどうのこうのではなく、比喩の適不適だと思っています。 一番の論点は、「多様性に対する態度」です。何々以前だとか、以後だとか、妙な線引きをせずに(逃げずに)、対等に尊重するのか、根絶又は服従に拘るのか、はっきりしてくださいね。 僕の結論は、対等に尊重しあう口論は大いに結構、支配と服従の関係を迫る口論は、下品だなという印象です。これは、僕の感覚ではそう思うだけで、bragelonneさんに強制しようとする意図はありません。 さて、尊重しますか、論駁しますか?

bragelonne
質問者

お礼

 ――利息は元本の二倍まで――  利子についても今とは異なる仕組みがあった。現代では利率にこそ制限はあるが 返済が終わらないかぎり利子は無制限に増える。しかし古代中世では利子率は自由で制限がないが 利子の総額・上限が決められていた。稲や粟の貸し借りではたいてい 利子がつくのは最大四百八十日。かつ本稲(元本)の倍以上の利息をとってはいけないという利倍法が浸透していた。複利計算も禁止。それは 中世も変わらない。  ――明日の経済のヒントに――  では そんな社会においてなぜ経済がうまく回ったのか。この問題を解くカギは《恥》の観念とみられる。永正三年(1506年)のある借金の事例で 期限までに返さないことを恥と記す契約文書が《新潟県史》に残されている。現代ではともかく 中世では有効に働いたのだろう。  色々調べてきた結論として言えることは 中世では債権者よりむしろ債務者の立ち場が重視されていたということだ。債務者が破綻すれば 債権者が困る。これは現代でも 米国で相次ぐ銀行の破綻を見れば明らか。世界的な金融危機が深まる今 明日の新しい経済のあり方を考える上での中世の仕組みは一つのヒントになるのではないだろうか。  (井原今朝雄=国立歴史民俗博物館教授)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういった《ならわし》を あまねく行きわたらせる行為は ファシズムかい? 答えてみなさい。このすっとこどっこい。

bragelonne
質問者

補足

 ▲ (井原今朝雄:借り手に優しい? 中世日本)~~~~~~~~  ――《借金したまま》に甘く 《恥》の観念が不履行阻止-―  (日本経済新聞 2009年4月7日 36面・文化欄)  借りたカネは返す。利子は法律の範囲内でどこまでも増える。そんなことは当たり前と現代では思われている。もし返せなければ担保や質物は戻ってこない。しかし 中世にはまったく異なる考え方があった。利子がつくのは四百八十日間 利息の総額は元本の二倍まで 流れた質物はいつでも取り戻せる――。  知れば知るほど驚きの中世借金事情。それが私の二十年来の研究テーマだ。発端は社会経済史の権威 寶月(ほうげつ)圭吾先生との出会いだった。私は大学を卒業後 故郷の長野県で高校教員をしていたが 一九七九年に東京大学の史料編纂所に内地留学する機会に恵まれた。そして当時の教授の師である寶月先生と知り合い 翌年からはじまった長野県史通史編の編纂委員になった。  私が一端の歴史研究者として歩み出すきっかけを作ってくれた寶月先生は八七年に亡くなった。膨大な所蔵品は東大教養学部の勝俣鎮夫教授に渡されていた。九一年に県立歴史館をつくる準備がはじまり 勝俣研究室から寶月史料を寄贈を受けることになった。寶月先生は中世の売買契約の内容などを記した売券の研究を長く続けており その元史料が原稿用紙七千枚ほどのファイルとして残されていた。   ――質流れも戻ってくる――  それが宝の山だった。現代で言うところの借用書なども多数含まれていた。ひとつひとつ調べ出すと 質流れになったものが後で戻ってくるような事例がいくつも出てくる。売買しても所有権が移らず 貸借との境界線があいまい。そんな事情が透けて見えてきた。  それまで歴史学の研究者の間では債務 つまり借金の研究など成立しないと言われていた、貸し借りの関係や利子についての考え方は 古来 不変で歴史的推移などあるわけがないとみなされていたのだ。しかし先生の残した史料の数々は正反対のことを示している。がぜん興味をそそられ 研究にのめり込んだ。  中世の史料は本来貼り継がれていたのに糊がはがれてバラバラになっていることが多い。それを虫食いの跡やシミなどを手掛かりに つきあわせて整合させていく。何百年の時を隔ててパズルを解いている気分で うまくいくとうれしくなる。  最も注目したのが質権に関する慣習。鎌倉時代の訴訟文書を調べると 返済期限を過ぎて質が流れても 債務者の同意がなければ質物の所有権が債権者に移らないとする事例が次々に見つかる。  どんなに時間がたっても多くは半倍(五十%)の利息を加えて払えば 質物を請け戻すことができたようだ。そうした習わしの根拠の一つに鎌倉幕府法二八七条がある。  《たとい年月をへるといえでも(ママ) その負物を償い かの身代を請け出すの時は これを返すべし》。  質地に永領の法なしという慣習法もあり 債務者が土地を取り戻す権利はいつまでも残り続けた。  訴訟の勝ち負けはそのときどきの事情に応じて様々だったが そもそも裁判になるということ自体が現代の感覚からすればあり得ない。質についての中世的な考え方は意外なことに 近代まで生きていた。明治十年(1877年)に内務省が各地の慣習を調査した《全国民事慣例類集》に当たると 同様のケースが書かれている。ただ そうしたルールは社会の発展を遅らせるとして 廃止されていったらしい。

回答No.107

ぽこぺらぽです。前回のやり取りを受けて再び『本塁打記録阻止疑惑』についてお話します。  同じことが三度に渡って続けられ、しかも事実として皆が外人でタイ記録なわけです。おまけにその「肩書」と「面子」のせいで優勝を逃したシーズンもあると推測されます。王が監督としてチームを良い成績に導く責任を追及する声は、事の重大さに比して少な過ぎると思いませんか?  八百長とは「敗退行為」です。勝敗以外の要素を優先させることで敗退の危険性が増すことを承知しながら、それを続けた無責任は「未必の故意」といえるうえに、八百長に準ずるとして指弾されるべきではないでしょうか?  多くの野球ファンは「王の本塁打記録が外人(笑)に破られなくてよかった。これで日本の野球も安泰だ」などと思っているのでしょうか?王選手は日本プロ野球史上最高のスラッガーですが、王監督は監督であることよりも、自身の選手としての栄光を優先した「無個性」な指導者なのです。  個人年間最多本塁打記録は不正がないかぎり、誰が持っていてもいいはずです。最初のバースのケースで疑問を感じない日本人に責任の概念の『曖昧さ』を感じます。このような事例を「集団」で咎めないコンセンサスが形成されているからこそ「『手心』を加える」と呼んでいるわけです。なぜならそれは日本社会においては「不正」とは認められないので、この呼び名が適切だからです。  王選手の「肩書」という名の「形見」を「押し付け」られて、それを鵜呑みにする選手達にも問題があります。「オレ達は王選手はいらない、ほしいのは王監督だ」このひとことが生活がかかっているのに出てこないわけです。「『王』様は裸だ」と指摘できないことこそファシズムであると思います。  王が現場から退いた現在、本塁打を量産する選手が現れた場合、この「形見」を守ろうとするか否かで、日本の真の民度が推し量れるのかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 ・・・  これについて興味深いエピソードがある。大正時代 武者小路実篤の提唱した《新しき村》が日向の山村に作られたとき 美術評論家であった中村亮平も参加した一人であった。その未亡人から聞いた話であるが 《新しき村》の住民たちは お互いに平等な生活を目指す理想に燃えながら《あの家はコーヒーに砂糖を多く入れすぎる》と些末なことにも陰口をたたいて牽制しあったという。  《神》を抜きにした平等が 天国を目指して地獄に落ちたというのはソビエト社会をはじめ よくあることだが 新しき村はその教訓の小さな実例であった。  狩人や漁師が獲物を 惜しみなく 平等に分配するのは それが神から授かったものであり 独り占めする訳にはゆかない という考えが根底にある。そこで 漁の現場で獲物をくすねることも大目に見られた。瀬戸内や九州に多く これをカンダラと呼んだ。  カンダラという意味は不明であるが 要するに盗み魚のことである。これが漁場の親方から大目に見られたということは 神の与えた賜物は万人に平等に分配すべきもので これもタマスの一種と認めない訳にはいかなかったのである。  (谷川健一:私の履歴書(7) 日本経済新聞2008年5月8日)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    * このような共同主観を 芸能人をも巻き込んで 社会にあまねく行きわたらせたいと言っているので ファシズムだと言われるのかも知れません。復活なのですがね。無名の作者が全体の過半数を占める万葉集のルネサンスにしか過ぎないのですが。わたしのようなどこの馬の骨とも知れない人間が言うから いけませんかね。

bragelonne
質問者

補足

 ぽこぺらぽさん かなり遅くなったお早うございます。ご回答をありがとうございます。  なかなか おかし味を帯びて来て たいへん おもしろくなってまいりました。  ★ 「『王』様は裸だ」と指摘できないことこそファシズムであると思います。  ☆ あるいは わたしの過去の質疑応答にも触れていただいて おそれいります。ありがとうございます。  ★ 個人年間最多本塁打記録は不正がないかぎり、誰が持っていてもいいはずです。最初のバースのケースで疑問を感じない日本人に責任の概念の『曖昧さ』を感じます。  ☆ たぶん 積極的に 自由に あいまいさを持たせて 表現することも行なわれるとすれば そのときには そうとう 自由なコミュニケーションが実現しているときなのでしょうね。  ★ このような事例を「集団」で咎めないコンセンサスが形成されているからこそ「『手心』を加える」と呼んでいるわけです。なぜならそれは日本社会においては「不正」とは認められないので、この呼び名が適切だからです。  ☆ いわゆる法律沙汰にしないで 和解することができることは ひじょうに よい側面もあるように思います。少々のことなら  ○ ごめんなさい。――こちらこそ。どういたしまして。  ☆ これは うつくしいならわしではないでしょうか。《手心を加える》のも 共同主観において ゆるされる あるいは たたえられる行ないになる場合さえ あるかと思われます。  ★☆ 肩書き・面子・業績・形見・思い出・そういう意味での個性・多様性 果ては この筋の上での自由  ☆ に 《手心》や《和解のならわし》を絡ませるなら 困ったことになると考えられます。九十九匹よりも 一匹を大切にすることに似ていますが その一匹は 過去の栄光なる子羊のほうにすり替えられています。  こういう議論が 漫才やコントで 演じられるようになれば われらが日本も 捨てたものでないどころか 大した社会になると 思われませんか?  それから この質疑応答の全体に対する補いがあります。  《手心をくわえる》問題 あるいは ちょっとやそっとでは ひとを咎めないエートスにかかわっています。  これまで けんかをするのは 《レストランで 席に就いて 注文をしてから 黙って 外へ出て行ってしまうこと。そしてその人間が また のこのことやってくること》に対してだと言っていました。そのとき 《スパルタ人の子どもが 料理を かっさらって行ってしまう》こともつけ加えていたのですが そのように 盗むことを教育されている場合を除いてなら 少々のちょろまかしは 大目に見られるのではないかという提案をしたいと思います。民俗・ならわしとしての事例は 次のように 紹介されています。  ▲ (谷川健一:タマス・カンダラ)~~~~~~~~~~~~~~  狩猟や漁撈の獲物の配分を南九州から奄美・沖縄にかけてタマスと呼んでいる。ひとタマスといえば 一人分の分け前のことである。  ここで興味があるのは タマスは当事者だけに与えられるものではないということである。狩や漁の現場にたまたま居合わせた者もタマスにあずかることができる。それを《見ダマス》という。見る者に与えられるタマスのことである。  小学生の私が貰った小魚や雑魚も見ダマスにほかならなかった。それどころか 昔の南島では 家の赤ん坊にもまた峠を超えているゆきずりの旅人にも 一人分のタマスが与えられた。山村の猪狩に参加した猟犬も一人前のタマスを受ける資格があった。  柳田国男はタマスという語は《賜う》《賜う物》に由来し 霊魂(タマシヒ)とも根本は一つだと云っている。海の神 山の神の前で祈願し 獲物がとれたときは 真先に神に捧げて感謝するという 古来の風習を前提とした平等な分配であった。  ・・・

回答No.106

No.32・59です。 「ファシズムの匂い」という比喩で、ここまで捻じ曲げるのかという感想です。つまり、言葉には、人それぞれの「衣」(ニュアンス、連想イメージなど)の着せ方があって、多様なファッションになっているので、必ずしもこちらの意図どおりには伝わらないという例になると思いました。ここに、無駄な口論を展開する種があるとも思うのです。 一色に染め上げる「ファシズムの匂い」とは、アーリア人至上主義、ユダヤ人絶滅収容所送りを暗示したつもりでした。つまり、bragelonne至上主義、相手方主張の抹殺の暗示です。この比喩が適切かどうかは、自信がないので、「感じ」という弱い表現にしたつもりです。政治思想のどうのこうのではなく、比喩の適不適だと思っています。 一番の論点は、「多様性に対する態度」です。何々以前だとか、以後だとか、妙な線引きをせずに(逃げずに)、対等に尊重するのか、根絶又は服従に拘るのか、はっきりしてくださいね。 僕の結論は、対等に尊重しあう口論は大いに結構、支配と服従の関係を迫る口論は、下品だなという印象です。これは、僕の感覚ではそう思うだけで、bragelonneさんに強制しようとする意図はありません。 さて、尊重しますか、論駁しますか?

bragelonne
質問者

補足

 ★★ (《Q:未来は、存在していると証明できますか》No.70補足欄&お礼欄) ~~~~~~~~  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4409643.html  たくさん書いていただきましたが、「国境無き共同体社会の提唱」で通じます。プレゼンの基本は、A4一枚です。それにしても、「説得力のない、根拠のない、口先だけの言動」のように感じました。理想なのかもしれませんが、実現可能な未来指針にはまだなっていません。採用人事の言語ゲーム/劇とも通じますが、「事実として行為・実践の裏付けのある、説得力のある言動」ここに、実現可能な未来指針なのかどうかが関係しています。もっと単純に言えば、どのような「行為・実践」をしているのか次第です。それにしても、国家の消滅は穏やかではありません。ですから、次善の策として、国家は維持されるべきと共通認識されているのでしょう。この質疑は、未来論なので、国家論は不必要です。以後、書き込まないでください。  質問に関係のない「自説披露」的な回答は、書き込まないでください。という意味です。質問に関係があれば、もちろんいいのですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この補足とお礼をいただいた者ですと言って その発言者であるとおぼしきひとに対して けんかをしては 何故 いけないのでしょう?

回答No.105

ブラジュロンヌさん、おはようございます。一週間の始まりはぽこぺろぽでどうぞ。他の皆さんもお休みしていますから、ちょっと野球談議は一休みしてケンカを再開してみましょう。  私はここでの皆さんとのやり取りを見ていて、とても不思議に感じたことがあります。あなたが強い態度に出ると「ファシスト」と罵る人がいることです。はたしてファシストに命も懸けずに面と向かって罵られる人はいるのでしょうか?ケンカオンチ、政治オンチもここまでくれば笑止です。  私にはケンカはいけないとは「建前」か、さもなくば「お達し」との認識は前もってあります。「ケンカはいけないと言ったお前が、なぜケンカを吹っかけるんだ?」これは完全な言いがかりです。「ケンカをしてはいけないとされるのはなぜか?」→「本来はすべての交流はケンカかもしれない」→「須らくケンカすべし」これくらいの三段論法もできないのでしょうか?  ですから「ここは助け合いの場、議論は禁止されている。あなたの発言は規約違反だ」などと運営者の請け売りをしたり顔で、しかも運営者より遥かに厳格に定義してのご注進をなさるわけです。私には彼らが理解できません。ブラジュロンヌ先生、教えてください。

bragelonne
質問者

補足

 ぽこぺろぽさん お早うございます。  ご回答をありがとうございます。  そうですね。――また 新しい週が始まりましたね。――ブラジュロンヌ大教授としましてはですね どなたかが(あぁ CUE009さんですね)言っておられたように  ○ 何でもあり。  ☆ なのだと思いますね 日本という社会は。わたしは  ○ のっぺらぼう史観  ☆ に基づいているのではないかと応じたのですが どうなんですかねぇ。  でも あれですよ。  ▲ ファシズムではないか  ☆ と言ってくる人たちは 《いまは そうではないが 権力を取ったら そうなるだろう。落ちよ》とでも言いたいのでしょうね。  つまり 何でもありだけれど 全体主義だけは いやだと言いたいのでしょうか?――いやいや そうではなく ひょっとすると 逆であって 明確な命令を いつも 与えてくれとまで言っているのかも知れません。大政翼賛会方式を待望しているのかも知れません。  だって 責任を取りたくないのでしょう。上の者が言うことには――それも 真綿で首を絞めるように うまく言いくるめて欲しいというのでしょうか―― しっぽを振って 寄り添っていくということなのでしょうか。  あるいは もっと言えば――減らず口をたたきますが―― ちょうど こいずみ何とかという人間が うまくやったように 熱狂することができたなら 自分たちの生活が 多少は 不如意になったとしても ゆるせるといったところでしょうか。  しかし こころの琴が おのづから呼応して鳴りだすような言葉には 従いたくない。そういう自己の自由な判断をうながすようなものは 信用できぬとでも思っているのでしょう。自分のあたまの上からやって来るありがたい言葉には うっとりして来るのでしょう。肩書きが ものを言う。  ということは 肩書きがついていなければ いくら自分の魂が揺さぶられようが それによって 自分で意志を決めたり ましてや その決定によって実行をするなどということは お上に楯つく大罪であるとでも 思っているのでしょうか。  それは 自分の顔が のっぺらぼうだからです。相手の顔も 肩書きがないと――あるいは 面子を しっかりと守ろうとする姿勢を見せていないと―― のっぺらぼうだと見えるのでしょう。  のっぺらぼうが ちょっと いいことを言っているようだが それは 生意気であるということなのでしょう。むしろ 何でもありの勝手なことを言っているほうが 受けるのでしょう。それが 自由であり 多様性だと信じているのでしょう。あるいは さもなければ 肩書きを持ったえらい人である必要がある。そのような顔を示すなら ははぁーっ と言って 平伏するのでしょう。  なお 個性の問題で 次の質問もしていたことに気づきましたで ここに 載せることをおゆるしください。  ○ 《Q:人の業績は 人間そのものですか》  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4140486.html  ☆☆ (その質問趣旨) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  まづ 地位や職務が その人自身の存在であるとは言えません。  では 作品は それが あとあとまで遺ることもあって その人の存在そのものであるでしょうか?  ちがうと思うのですが そのあたりをはっきりさせていただけないでしょうか。  言いかえますと 存在以外のものをいっさい取り払ったその存在じたいが その人だとまで思っているのですが どうでしょう?  形見が その人自身ではなく 墓がその人の存在を表わしているとも言えず あるいは 思い出が いくらなお生きているからと言って 存在じたいであると見なすことは出来ないと思うのですが では 人類や社会に貢献したその仕事や作品が かれ(かのじょ)自身なのでしょうか。  なおこの質問は 《QNo.4120187:ひとの個性とは 何でしょう。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4120187.html》を継ぐものです。  この伝で言えば 《無個性》が そのまま その人の存在であるという憶説なのですが これについて おしえてください。この説は 少数派というよりも ほとんど 見当たらないので おしえて欲しいと思いました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりは 《肩書き》や《面子》の問題であるとも思いますので 質問者からの さらなる 軽いかたちの 問題提起のようになると思います。

回答No.104

ぽこぺろぽです。他の回答がないのでしたら、私が日本語に移るか、新しく設問されたらよろしいでしょう。その時はお伝えください。  阪神のバースが王の持つ記録に挑んだとき、その王監督率いる巨人はバースを「歩かせ」(はっきりとわかる敬遠ではなく、捕手が座ったまま投手が突然制球を乱したフリをする日本の伝統芸能)にかかりました。彼に対しては左のワンポイントリリーフを多用し、仮にその投手が打たれたら二度と一軍のマウンドは踏ませませんでした。時にはこの「歩かせ」は試合の重要な局面ではない、しかし優勝が大きくかかった一戦にも行われました。阪神が日本一になれたのも巨人が彼にナーバスになってくれたおかげです。  やがて王が巨人を追われてパ・リーグのホークスの監督に就任してからもこの愚行は続きました。やはりローズ、カブレラ両選手もホークスには「歩かされ」まくったわけです。この3人が同じ本数でタイ記録、全員が外人で王監督と同一リーグとは不自然だと思いませんか?  王は球界でも紳士で通る人物です。その彼が記録保持者の「面子」にこだわっているとあからさまにわかる、「歩かせ」の指示を直接降すわけがありません。彼の「面子」に「配慮」した腹心の部下が盾になってバッテリーに指示したのです。もちろん彼らは王監督が「自分の目の黒いうちは記録を保持したい、教え子ならともかく外人に破られるのは真っ平御免」と考えているのは承知していましたから従わざるをえませんでした。  しかし王はコーチの指示を黙認しました。彼が「もし本塁打を量産する選手が現れても、作戦上の理由や私の指示以外では『歩かせ』てはならない」と明言さえすればよかったのです。つまり王はチームの勝敗の責任を取るより、自分の「面子」を選んだわけです。しかも皮肉なことに、王は父が台湾人の台湾籍を持つハーフ「外人」です。  3選手には気の毒ですが、タイ記録だけでも王にとっては誤算でした。彼らが王監督と同一リーグでなければ、そのうちの誰かが新記録を達成していたことは間違いありません。次に続きます。

bragelonne
質問者

お礼

 pokoperopoさん ご回答をありがとうございます。  ★ 他の回答がないのでしたら  ☆ とは思わなかったのですが その理由のほうが 件数の多さよりも 考慮すべきかとも思いました。まだ 最近 投稿してくれた人もいますし 何よりも この《けんか》の主題にふさわしい内容になってまいりましたので このまま 続けたいと思います。  ★ 面子  ☆ の問題が ひとつには けんかの主題にふさわしいと考えます。  ★ バースが歩かされた  ☆ のは 記憶にありますが   ★ ローズ、カブレラ両選手もホークスには「歩かされ」まくったわけです。  ☆ か。そう言えば ほんのりと 思い出して来ました。マニュエルとかも いましたね。デッドボールが当たって ヘッドギアをかぶって 打席に立ったんでしたっけ。ビーンボールは 陰湿ですね。  ★ 彼(=王)が「もし本塁打を量産する選手が現れても、作戦上の理由や私の指示以外では『歩かせ』てはならない」と明言さえすればよかったのです。  ☆ なるほど。このあたりに 心を屈折させ根を張ってしまうような恨みを 起こさせないかどうかの分かれ道が あるようですね。  けんかにならないけんかと あと腐れの残るようなけんかになってしまうけんかとの分かれ道があるようです。  ★ 日本の伝統芸能  ☆ のやり方では けんかを むしろ 呼びこんでいるようになってしまうぢゃないですか。それでいて 常識では けんかは いけないと言っています。  変えたいんですが。

回答No.103

ぽこぺろぽです。前回は現在のNPBにおいては、狭義の八百長は起こりづらいとお話しました。大相撲では今日も千秋楽に「帳尻合わせ」が行われているのは周知の事実ですが、世論の批判もあってそれ以外の八百長はめっきり減ったようです。  賭博絡みは論外として、別の必要性から「八百長」が起きているのではないかとの疑念をお持ちですね。厳密にいえば「八百長」と断定はできないのですが、その疑惑は数知れません。私はこの疑惑を「『手心』を加える」と呼んでいます。これには日本人特有の排他性や卑劣さや曖昧さが見受けられます。具体例を交えながら何通かに分けてお話しする予定です。  NPBの年間本塁打記録は55本塁打ですが、これを最初に樹立したのは王貞治です。その後にタイ記録にバース、ローズ、カブレラの3選手が並びます。偶然にしては出来すぎだと思いませんか?一緒に考えながら進めてまいりましょう。  追伸 ケータイからの発信が、なぜか長文を打つとパラメータエラーが発生します。何度か試みたのですが、ひとたびエラーが発生するとすべておじゃんになります。その時々によって変わります。そういうわけで回答が遅れてしまいました。悪しからずご了承ください。

bragelonne
質問者

お礼

 pokoperopoさん すごいですね。――ご回答をありがとうございます―― 長年 いつも 試合を観戦するたびに あぁ ここは おかしいとか そう言えば あそこでは どうだったろうかとか その当否を別にして 勘が はたらきます。その憶測を ひとに対して 言ったことは ほとんど ありませんでした。  ★ 「『手心』を加える」と呼ぶ疑惑  ☆ としてでも しっかりと 位置づけて捉えておられるとは すごいです。わたしは つねに どこか それは 邪念なのだから 少しはつつしみなさいと自分に言い聞かせていたわけですから。正直に言えば 自信も 持っていましたけれどね。  ★ NPBの年間本塁打記録は55本塁打〔で 決まっている〕  ☆ をさっそく例として出されましたね。これを考えると 次から次へと 疑惑が出てくるのです。  ○ 昨シーズンの 原監督による逆転優勝   ☆ これも いつぞやの  ○ 長嶋監督によるメイクドラマの優勝  ☆ などなどと いもづる式に 疑いの連鎖になっていきます。  いま 《日本語による あいまい表現》の問題を質問していますが むろん この《けんか》に関しても 関連しています。  そのような疑惑を呼ぶような隠しごとが もしあるのであれば 実際に どのような行動になって現われるかは分かりませんが ファンの人びとの心の中は けんか状態になること 請け合いです。  ★ 日本人特有の排他性や卑劣さや曖昧さが見受けられます。  ☆ こう明らかに述べるご発言に接するのは 初めてに近いのではないでしょうか。俄然 おもしろくなってまいりました。  けんかの仕方 あるいは けんかの収束のさせ方 などなど 引いては 日本人論・日本社会論にまで及ぶと言ってもよいのではないでしょうか?    * ケータイ事情 わかりました。ごゆっくりと どうぞ。  * ただし これ ずいぶん 件数を増やして来ましたね。あらためての設問も 視野に入れて まいりましょうか。

回答No.102

ぽこぺろぽです。五輪での野球復活はMLBにかかっています。IOCがMLBに大リーガーの派遣を何度も促しても、承諾されなかったから外されたのです。MLBはシーズン中に選手に抜けられてお金になりにくい五輪を捨て、シーズン前にお小遣いが稼げるWBC開催に踏み切ったわけです。その点ではWBCにも意義があります。まったく欧米人はしたたかです。ちなみに私も手を使わない球技の意味がわかりません。  大リーグでは1919年にシカゴホワイトソックスの選手8人が八百長で永久追放になっています。しかし彼らは八百長を持ちかけた賭博師が破産したため報酬を受け取っていません。オーナーが吝嗇家で洗濯代すら惜しんだため、彼らのユニフォームは試合前から黒ずんでいたため「ブラックソックス事件」と呼ばれています。  ある少年ファンが事件に関わったスーパースター、‘シューレス’ジョー・ジャクソンに向けて叫んだとされる「嘘だと言ってよ、ジョー」のセリフはあまりにも有名で、現在でも頻繁に引用されます。これを題材にした小説や映画もいくらかあり、大リーグ史上最大のスキャンダルといわれています。  日本では1969~1971年に野球賭博やオートレースの八百長、野球の八百長に関わった者が何人も芋づる式に逮捕されたり処分された「黒い霧事件」がありました。この事件により永久追放された西鉄の大エース池永正明はジャンボ尾崎と同期入団です。尾崎は全盛期に「今のオレがあるのは池永のおかげだ。彼に実力の違いを見せつけられたせいで早く野球に見切りをつけられた」と公言して憚りませんでした。  球界を追われた池永は福岡でスナックを営みます。事件後およそ30年を経てマスターズリーグの出場要請を受けた池永は思わず落涙したそうです。のちに往年の池永を知るファンの強い後押しもあって復権が認められました。  大リーガーは生活苦、日本選手は世間知らずが八百長の主な原因だったようです。入団前に教育を受け、これらのエピソードを聞かされた現在の選手が、八百長に関わることは少し考えづらいです。  しかし「面子」のため、意味のない試合のため全力プレーを怠る可能性は大いに残されています。時には「面子」のために『手心』を勝敗に関わる場面ですることすら見受けられます。次はこの『手心』についてお話する予定です。(なんかメルマガみたいですね)

bragelonne
質問者

お礼

 pokoperopoさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  わたしが 大リーグのことなどを知らなかったことを除けば 今回は 次の一点に 関心が行きます。  わたしが八百長の匂いがすると言いましたのは 賭博との関係については 論外にしてのことです。  たとえば 世の中の景気がわるいときには 中日に優勝させるとか いや 巨人だとか。いや 万年負け小僧だからおもしろいとは言うものの この辺で 阪神に勝たせて やはり景気をよくしようとか。  自民党が 劣勢だから 巨人も 劣勢に置いておけとか いや だからこそ 勝たせてやれ 断トツにして勝たせてやれとか。  とにもかくにも 人気を持続し 景気をよくし 自民党政府のためにもなることを行なって おもしろおかしく うまく賢く あたまを絞って 運営しなさいといった至上命令があるのではないですか? という問いです。  (そのあと 賭博にもかかわっているかどうかは 考えていません。かかわっているなら それは 論外だという意味です)。  ★ 大リーガーは生活苦、日本選手は世間知らずが八百長の主な原因だったようです。  ☆ この《日本選手は世間知らずが八百長の主な原因》というところが 別の視点から 同じく 当てはまるかのように思われるのです。つまり そういう勘違いのほうへ 邪推のほうへと わたしの勘が向かいます。  落合選手の三冠王や 中日・星野監督の退任による優勝逃しなどは 上のような意味での八百長です。そのような憶測を持つわたしが 世間知らずなのだということになれば それはそれで 日本社会についての知識が得られます。お詫びして さらに 日本人論を探究していきたいと考えます。どうぞよろしく。

回答No.101

ぽこペろぽです。まずは百回答突破おめでとうございます!これもひとえにブラジュロンヌさんと皆さんの努力の賜物です。根気よくつきあっていただいたおかげで、野球の《対》について共通認識が持てましたので、どんどん迂回しながら進んでまいりましょう。  まずWBCとはアメリカに対し、特にかつての日本などの大リーガーの少ない国が「世界一決定戦」を開催しようと働き掛けたことに端を発します。しかしアメリカ人は大リーグが世界最高峰にある以上は、開催する意義を見いだせずに消極的でした。  一方で大リーグの財政を潤す必要もあったので(WBCは放映権の半分近くが大リーグの収益となる)、シーズン前の開催と特別ルールの付帯を条件に、諸外国の求めに渋々応じました。しかし選手の消耗や故障を嫌い、選手を含む関係者は本音としては、大リーガーのWBC出場を回避させたい人が多いわけです。  そんなわけで大リーガーのWBC出場辞退者が続出しました。それでも多くの好選手が出場しましたが、彼らはシーズン前なのでベストコンディションではありません。構成メンバーのほとんどが大リーガーの、アメリカ、プエルトリコ、ドミニカ、ベネズエラなどはモチベーションも低いわけです。おそらくガチンコでは日本はこれらの国に歯が立たないでしょう。  ファンの関心も高く、一生懸命やっている国は大リーガーの比率が少ない国(日本、韓国、キューバなど)です。もちろんこれらの国には、野球の本場アメリカに勝つという「面子」もかかっています。ちなみにアメリカではWBC開催の事実を知らない人がほとんどです。つまりまったく「面子」は感じていないのです。  もちろん日本のメディアもそんなことは百も承知です。それでもなぜ「侍ジャパン」などと真実を知らせずに煽るかというと、他に野球にはこれといってめぼしいイベントがないからです。初回の優勝で気をよくしたメディアは大々的にキャンペーンを張ることによって、高視聴率による大口スポンサーの獲得、スポーツ紙の部数拡大、関連グッズの売り上げ増大にまんまと成功しました。  サッカーのワールドカップは各国サッカー界の全面的バックアップを得た、文字通りの「世界一決定戦」です。これに似たものが野球にも望まれたのでしょう。しかしサッカーでも「クラブ世界一決定戦」のほうが意義があるとの声が高まっています。  要は楽しめれば何でもいいのです。次は八百長疑惑に迫ります。

bragelonne
質問者

お礼

 pokoperopoさん ご回答をありがとうございます。  今回は 分かりやすいご解説です。  WBCは いろいろ規則と言いますか 制約が多かったですね。投手の投球の制限とか。放映権料が MBLに入るのですか。  オリンピックで 試合が復活すれば 要らなくなるのでしょうね。  サッカーは 分からないですね。見ていても 半分は 上の空です。たぶん 手を使わないのが わたしには 合わないみたいです。  それでは 次回を楽しみにしています。

回答No.99

ぽこぺろぽです。おはようございます。とりあえず説明と解について述べていきますね。  攻守や投打が《対》になっていることは先験的な事実ですから動かしようがありません。それを疑わせる現象を断片的に観察しているから誤認するのです。真っ平らなコインを百回トスしても「50:50」になるとはかぎりませんが、理論上は「50:50」です。この推論は間違っていますか?これを了解していただかないと前に進めません。  ブラジュロンヌ球団代表は悩みながらも自らの続投を決意し、記者会見前に個人的なアドバイザーPに確認します。「Aにしようと思うのだが、念のため君の意見を聞くことにしたよ」。P「お好きになさるがよろしい。しかしB、Cでもかまいません。専門家の意見も参考になさるとなおよいでしょう。なぜならどんな策が今後の吉となるかは誰にもわからないからです」  (野球SF)21XX年には既にファンが貧打の試合が激増しており、そのチームの主力級が登板したら試合の行方はわかったも同然で著しくファンの興味を削ぎ、明日にでもルール改正を必要とされました。そこで会議が招集されたわけです。  指名されたPはこう提案します「野球は観るものにとって興味深くなければなりません。投手が良すぎて全く打てない昨今、投手にルールを『不利』にするより他はありません。投捕間の距離を長くする、投球フォームに制限を加える、ストライクゾーンを狭める、3ボールで歩く、バットの規制緩和、反発力の高いボールの採用などのうちいずれかを試せばよいでしょう。それでもバランスされなければもう一つの案件を追加します」後日詳しい内容を検討することとなりました(実際に未来は投手『有利』になるかはわかりません)。  現実の話に戻りましょう。WBCとは大リーグの小遣い稼ぎのための国別対抗オープン戦です。ですから結果を見ても真の実力はわかりません。しかしあまりに実力差があってはまず勝てませんから連覇した日本も弱くはないでしょう。アメリカはベストコンディションではないだけで八百長とまではいえません。ぶっちゃけどちらでもいい大会です。  徹子の部屋の野村監督の話に頷くあなたを鋭いと思います。実際に球界は応援されている選手ほど活躍しやすい環境なのです。実際に消化試合は勝敗を度外視することもあります。しかし八百長ではなくプロならではの合理的判断に基づくものです。疑問があればおっしゃってください。

bragelonne
質問者

補足

 pokoperopoさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ちょっと 浮かれ気分が入って来ましたが これは 雑談好きだからです。それと 大学に入ると 二年間ですが それまで――軟球やソフトボールのほかに――いじったことのない硬式ボールの野球部にいました。  無心だと 打てるものですね。わたしなどには からかう形で ピッチャーは――チーム内の練習試合ですが―― ど真ん中に投げてくるのです。センターオーワ゛ーの大飛球を 打てるもんですね。(つまり まっすぐ飛んで行くものなのですね)。二度あったから 言えます。そして あとの打席では だめでしたので 言えます。  さて  ★ 真っ平らなコインを百回トスしても「50:50」になるとはかぎりませんが、理論上は「50:50」です。  ☆ 大数の法則ですね。  ★ (野球SF)21XX年  ☆ の話では 打てない球を投げる投手が 何人も出てくるようでしたら おっしゃるような提案が 出されてくるでしょうね。  ★ WBCとは大リーグの小遣い稼ぎのための国別対抗オープン戦です。  ☆ 国の威信をかけるということは ないということですか? と言っても MBLは 各国からの寄せ集めですから そんなことになるのかも知れません。  ★ しかしあまりに実力差があってはまず勝てませんから連覇した日本も弱くはないでしょう。  ☆ いえ そうではなくて 強さがあるから ぎゃくに 負けてやっているのではないかという勘違いです。  ★ 野村監督  ☆ は 嫌いです。どうも そばが伸びてしまったようなしゃべり方をします。連れ合いの問題に対する態度も しゃきっとしません。  ★ 実際に球界は応援されている選手ほど活躍しやすい環境なのです。  ☆ これは 中庸の徳を崩さないご発言です。  ★ 八百長ではなくプロならではの合理的判断に基づくものです。疑問があればおっしゃってください。  ☆ たとえば 落合〔当時の〕選手が 三冠王を何度もとれたのも それは あの阪神のバース選手が 三冠王を取るので 日本人として対抗勢力があるぞと示したかったのではないでしょうか。つまり とらせたという推測です。  同じく八百長の匂いがするのは 或るシーズンにおいて 中日が 八月の末か九月の初めまで 余裕をもって 優勝すると思われていたのが 途端に 負け始めて とうとう ほかのチームにチャンピオンの座をゆづったことがありました。星野監督だったのですが かれに 不動産会社との黒い癒着がうわさされたのでした。突然のことで そのニュースが 大きくなった途端に 負けの山を築くようになりました。  不祥事を起こした監督に 優勝させるわけには行かないというところでしょう。それが 実際に なんとでもなるというように 映るのです。  球界に 毎シーズン 優勝は どこのチームだという暗黙の了解があるのではないでしょうか?  そこで です。そこでなのです。こういう――もしそれが 事実であれば――きわめて汚い(もしくは それも興行の手法だというのであれば そのことを 情報公開していれば まだ ましですが そうでなければ 人心操縦でしかなく やはり汚い)事実が あるとするなら とうぜん ひとは 怒ります。  それでも 日本人はよくしたもので 幸か不幸か わたしのように 批判をするということをしないのです。けんかをしません。むしろ 自分の耳や神経をうたがって 精神的な病いに陥ります。狂暴になると いつぞやの秋葉原事件のごとくなります。うんぬん。  これが ――どういうわけか うまくつながりましたね!!――《ヨリイリヨセコギト》の社会情況としての問題になります。ヨセなるスーパー歴史知性による経営手法は はっきり言えば 汚い。上からの《和》は それを守れというみことのりを聞かなかったなら わたしは 和を乱すことを知らなかったと言うべきしろものだと考えます。  まぁ 日本人は 革命を起こすなどということはしませんが かえって 自分が病いを代わりに背負っていくか それとも すり寄って行って――ゆすり・たかりですね―― 自分も 甘い汁を吸うことにありつこうとするか あるいは残るは 自然科学やスポーツに精を出すか もしくは 無気力・無関心となるか ではないでしょうか?  おもしろくなってまいりました。どうでしょう?  * あと 野球の問題では こうも言います。《投打がかみ合ってこそ 勝てる》と。そういう視点もあるかも知れません。投と打に分ける見方とは別にですね。

回答No.98

ぽこぺろぽです。ご了解いただきありがとうございます。今回は疑問にお答えすると同時にそれを解決するための質問をさせていただきます。  往年の大洋を挙げられました。非常にわかりやすい例なので沿って説明します。「打線は強力だがそれ以上の弱体投手陣のため万年下位に甘んじた」この実績と分析こそが経験事実となります。しかしこのていたらくを放置するわけにはいけません。  そこで3人の後任監督候補と別の専門家に意見陳述を求めました(創話)。A「これといって策はない、満遍なく投打を鍛える」B「やはり弱点を克服せねば未来はない、一から投手力を鍛え直す」C「長所を伸ばさなければ本末転倒、看板打線に磨きをかける」専「違う観点から強化策を練った、トレーニングの増強が望まれる」完全に意見が別れました。  会議が難航したため決断はどんどん先送りされました。明日に予定される記者会見にてチームの基本方針と後任監督を発表せねばなりません。最終的にブラジュローヌ球団代表の鶴の一声に委ねられました。「代表!どうぞご英断を」  時も変わって21XX年のアメリカ・・。MLBコミッショナーは有識者を交えたオーナー会議を緊急召集します。議題は「打ち崩せない投手の出現によるファン離れ防止のためのルールの抜本的改正について」。しかし有識者とされるPの発言に「異議なし」の声が飛び交い満場に響き渡る拍手とともに会議は決着します。さてPは何を提案とは何でしょうか?  ブラジュローヌ球団代表の基本方針と人選、またPの提案の内容を推理してください。二つともはっきりとした正解はありません。論旨が正しければ正解とします。お答えをどうぞ。

bragelonne
質問者

補足

 pokoperopoさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  まづ初めに こちらから質問を投げかけるなら ひとこと 簡単な問いがあります。  投手と打者の重要性が 互いに視点をどちらに取るかで 同じものの別の見方になっているだけであるという理論のほかに この理論のほかに 実際に現われている事実がある。この理論とはちがった内容の事実を どう捉え どう扱うのか。これを 決めたほうが 話は早いというように思うのです。  さて 設問に沿ってです。  ブラジュロンヌ球団代表としましては まづ ホンネでお答えしますと プロ野球は どうも 八百長臭い と思われ 球団代表を辞任します。  それをしないという仮定の上では おそらく よりよい内容を実現したとされるドラフト制度じたいに制約されると考えるでしょうね。  ★ A「これといって策はない、満遍なく投打を鍛える」  ☆ を後任監督とします。《満遍なく》ということは その答えの中に すでに 実際としては 投手力の重要性のほうが重要だということが含まれていると捉えるからです。  ★ Pの提案  ☆ にかんしては 分かりません。その理由は 改正する必要がないと思うからです。  ★ 打ち崩せない投手の出現  ☆ これは 一人ないし少数の出現だと思うからです。一部分で そういう投手が現われても むしろ おもしろいということになると思うからです。ファン離れは 起きないという見立てです。ただ  ★ 21xx年  ☆ とあります。でも しょうじき 無理でしょう 推理は。《打ち崩せない投手》に対しては 打者のまぐれによるヒットを期待します。  こんなところでしょうか。  ところで WBCあるいは ほかの国際試合で 日本は韓国に 負け越していますが これは ほんとうの実力なのでしょうか。後発国を盛り立てるために 負けてやっているということは ないですか?   中国に対しては まだ無理ですが 台湾は負けましたね。  先の八百長臭いという発言と言い こちらの発言と言い すべては 鼻の曲がったわたしの邪推です。でも 八百長は ほんとうに ないですか? たとえば 今年は どこのチームを優勝させるといった取り決めが きちんと 成されるというようなことは ないのでしょうか?  昔むかし 徹子の部屋で ホームランを打てというサインは どんなのですかという徹子の問いに 野村監督は こう答えました。あるんですよ。観客席からの応援の声が それなんですよ。  字面の問題ではなく そのとき これは どうも やはり プロ野球だなぁとわたしは感じました。捕手は 監督以上に 試合を演出しているのかも知れないと考えました。むろん ガチンコもあるでしょうが。  でも こんな推測については 誰にも 聞けないし 訊いても 知らない〔と言う〕でしょうね。――取り止めもなく・・・。

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