大学で漢文を教えております。
古い先生方は、人名の場合「そうし」、書名の場合「そうじ」と区別しておられます。諸橋先生の『大漢和辞典』(大修館)も、見出しをそのように区別しています。
さて、日本語には「連濁」と呼ばれる現象があります。『広辞苑』を引くと、「二語が複合する際に、下に来る語の初めの清音が濁音に変ること。『みかづき』の『づき(月)』、『じびき』の『びき(引)』の類」と書いてあります。この現象が、漢語でも起きることがあります。
この後は、学生時分に師匠から聞いたことの受け売りなのですが、漢語で連濁が起きるのは、「前の音が中国音で『ン』で終わる場合が多く、それも音読みの呉音の場合に多い」のだそうです。
例えば、『三国志』。国は「こく」ですが、「さんごくし」と濁って読みます。『漢書』は「かんしょ」ではなく「かんじょ」、『春秋』も「しゅんしゅう」ではなく「しゅんじゅう」。「三」も「漢」も「春」も「ン」で終わりますからね(中国音も「ン」で終わります)。
ただ、「中国音が『ン』で終わる場合」は、実はこれだけではない。「ng」で終わる漢字があります。例えば、「東」。日本語の音読みでは「とう」であって「ン」で終わりませんが、現代中国語ではdong1、マージャンでも「トン」と呼ぶように、「ン」で終わります。そこで、昔の先生には「東方」を「とうぼう」と読まれる方があったらしい。京都大の吉川幸次郎先生などは、所属学会を「とうぼうがっかい」だと譲られなかったそうです。
同様に、「中」はzhong1、「チュン」。そこで「中風」と書いて「ちゅうぶ」と濁る、「風」の「ふう」が「ぶ」と短くなるのは呉音の特徴、とは、師匠のおっしゃったことです。もちろん、言葉のことですから、ずいぶん例外も多いことではあります。
例えばご質問の「韓非子」は「非」が「ン」で終わりませんので濁らないのは当然として、「孫」は「そん」で「ン」で終わるのに「そんじ」とは濁らないし、「孔 kong3 子」「孟 meng4 子」いずれも濁りません(なお「老子」は、「老」が lao3 ですので濁りません)。「荘 zhuang1 子」も「曾 zeng1 子」も濁らない。この辺りは慣用に従うしかないのでしょうね。
初めに戻って、「そうじ」と濁ることがあるのは、もともと「荘」が zhuang1 で、後ろを濁音にしたがる音だったので、濁音にしても不自然ではなかったからでしょう。そうして、読み方が二種類あるならば、意味の区別に対応させると便利ですから、人名を清音、書名を濁音にしたのでしょう。ただそうすると、「儒家の曾子と区別するため」という、『広辞苑』等の説明はどうなるのか問題になります。人名の場合、「曾子」も「荘子」も「そうし」になってしまうからです。『曾子』という名の書物はありませんから、書名だけ濁音にしても意味がない。「儒家の陰謀」説は成立しないと思います。
漢語の連濁は、新しい言葉では消えていくようです。若い人は、というか、最早や初老の域にさしかかった私のような年寄りでさえ、「東方学会」は「とうほう」学会です。ホントに若い人の中には、「三階」を「さんかい」と清んで読む人もあるとのこと。「そうじ」と濁る読みは、早晩消えてしまう運命かも知れません。
お礼
ありがとうございました。 人名「そうし」、著作名「そうじ」は経緯と合致します。 中国語も少しだけですがかじっておりますので、 事情のご説明は理解できました。 漢学を本格的に学んだ方々が何らかの理由で(受容の時期やその後の経過で)、 使い分けした、あるいは使い分けするようになった。 今般はこのように理解できた段階で留めます。 お三人の方、大変ありがとうございました。