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荘子は無神論者なのか

荘子は無神論者なのですか?

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  • 0fool0
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回答No.10

一言、補足です。 >キリスト教と関係させると、ちょっと難しいですね。 其の通りと言うか、根本的に基本思想に大きな隔たりがあるのですね。 老荘は「有神」も「無神」も同じ一つのモノとして扱っていますから、基督思想の思考法では理解出来ません。 基督思想では「神」を離れた思考は「異端」で、危険思想になりますから、悪魔信仰と同義になるので、この分野での思想もロジックも存在しません。 まぁ、そもそも「無神論」と言う言葉の裏には、「基督教徒」という前提があるので、他宗・他思想に対して使う言葉では無いのです。

m2150
質問者

お礼

なるほど~。 無「神」論の神はキリスト教の神ということでいいですかね。 で、キリスト教の考え方からでてきたと。 キリスト教が元の考え方だったとは・・ 補足ありがとうございます。これですっきりです。

その他の回答 (9)

  • kurinal
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回答No.9

>「つまり、どういうことですか。」 じゃあ、私なりにご回答させて頂きますと、 老子とは「無為自然」を問いた、 ・・・そんな感じ

m2150
質問者

お礼

よくわかりません。 すいません。

回答No.8

『荘子』に、神らしい存在が登場しないのかというと、登場はしています。 内編の大宗師に ~~~~~~  突然、子輿が病にかかった。子祀が見舞いにいった。子輿はいった。 「偉大だなあ、あの造物者は。わたしをこのように曲がりくねらせようとしている」 (中略)  子来はいった。 「そもそも、造化者はわたしを乗せるのに体を与え、わたしを働かせるのに生を与え、わたしを休ませるのに老を与え、わたしを息わすのに死を与えた。故に、わたしが生を善しとすれば、(造化者が与えたものを善しとすることになるから)死を善しとすることになる。  今、一たび天地を大きなるつぼとし、造化者を大いなる鋳物師としている。どこに行こうとよいではないか。死ぬときは眠り、生きるときは目覚めるだけのことだ」 http://www.geocities.jp/sei_taikou/soushi_3.html ~~~~~~~ この造物者、造化(者)を神ととらえるのならば、『荘子』に神様的な存在は登場しています。 ですが、この造物者や造化が、いわゆる宗教で神とされるものなのかというと、???。 この文章の前に ~~~~~~~~ 夫道,有情有信,無為無形;可傳而不可受,可得而不可見;自本自根,未有天地,自古以固存;神鬼神帝,生天生地; This is the Dao; there is in It emotion and sincerity, but It does nothing and has no bodily form. It may be handed down (by the teacher), but may not be received (by his scholars). It may be apprehended (by the mind), but It cannot be seen. It has Its root and ground (of existence) in Itself. Before there were heaven and earth, from of old, there It was, securely existing. From It came the mysterious existences of spirits, from It the mysterious existence of God. It produced heaven; It produced earth. http://ctext.org/zhuangzi/great-and-most-honoured-master ~~~~~~~~ 《神鬼》、《神帝》を生んだのも《道》であり、天と地を生んだのも《道》となります。 なお、 《神鬼》や《神帝》についている《神》は、《神様》の意味ではありませんので注意が必要です。日本語の《神秘的な》、英語のmysteriousくらいの意味です。 さきにご紹介したサイトのこの部分の訳は ~~~~~~~~  道は疑うことのできない存在であるが、為すことが無く形も無い。心で伝えることはできるが手で受け取ることはできず、心で得ることはできるが目で見ることはできない。自ら本づき、自ら根ざし、いまだ天地がないときに、古より存在していた。鬼を神にし、帝を神にし、天を生じ地を生じた。 http://www.geocities.jp/sei_taikou/soushi_3.html ~~~~~~~ ですが、 「鬼を神にし、帝を神にし」の訳は、ハテナです。 神帝を、上帝や天帝ととらえれば、まぁ、神様になるんでしょうが、 ───のちの道教なんかですと、神様ですわね~─── この神を超える《道》という原理、法則が存在するので、 「ん~」となってしまいます。 宗教学で、一般に、仏教は無神論とされますよね。 しかし、仏教の経典には、数多くの神々が登場しています。 神々が登場するからといって、仏教は有神論である、とはならない。 神々を超越する原理・法則が存在するからです。そして、神々もこの原理・法則に逆らうことはできない。 この図式で考えると、『荘子』に神らしき存在が登場したとしても、このことを以って、有神論とはならない。 ですから、 「『荘子』は、無神論的立場をとっている」と考えた方がいいのでは。

m2150
質問者

お礼

荘子にとって自然(の法則)が一番ってことですかね。 回答有難うございます。

  • 0fool0
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回答No.7

基督教の肝と言えるものは、「神」との「契約」とその「意思」、そして「支配」でしょう。 細かい規定は宗派により変わってきますので、一概には言えませんが、押し並べて「契約」の思想は根底に必ずあります。 つまり理解の範囲に因りますが、この世の全てが基本的に「神」の掌の中であって、「契約」に基づいた存在が我々であると言うのが基督的思想です。 老荘思想(道徳教とも)ではこの世は「道」に因って成さしめられていると説きます。(此処までは基督教も言い方は違っても、内容は変わりません) 大きな違いは基督教では「神との契約」は人間の心がけ次第で解除されてしまうと説きます。 この場合、新たな契約先が「悪魔」(異教、基督的には神に逆らった存在)になります。 つまり二元論。 老荘ではこの世の物、万物は全てが「決して道から外れる事は出来ず、道により成さしめられている」ので、そもそも始めたり辞めたりが存在しません。 つまり一元論。 ちなみに日本人も一元論の思想なので、普通の方は基督教的思想は理解出来ません。 理解出来ない事も理解してはいない事を意識もしていないと思いますが。 また別の言い方に基督教の「契約」に対して、老荘の「無為」があげられます。 基督教の「契約」は老荘思想では「有為」に当ります。 結ぶ事や、破棄する事が出来る物だからです。 と、こんな処でしょうか? 補足 老荘思想では「それ」を呼び様が無い物としていますが、敢えて名を付けるならば「道」とする、とあります。 基督教では「神」に名は無く、また、人には知り様が無い物としていて、「創造主」や「造物主」と呼びます。 しかし「神」はその対極の存在があります。 「道」は一であり、陰陽等は「道」の現れ方の一つの姿に過ぎず、正邪は同質だと説いているのです。 基督教も見方に因っては「神」がいて、その下に「天使」と「悪魔」とも言えますが、「人間」が「神の側」だと言う事がポイントでしょう。 道により万物が成さしめ、陰陽を成す 神によりこの世が作られ、契約によりこの地に暮らす

m2150
質問者

お礼

キリスト教と関係させると、ちょっと難しいですね。 回答有難うございます。

  • mmky
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回答No.6

追伸 >「すべての存在が神・仏の一部として創造されたものだと理解していた」 の所をもっと詳しく教えてください。 荘子ってそんなこと言いましたっき? ○言っているんですよ。 荘子の表現:「万物斉同:万物は同じもの」 釈尊はこれを山川草木悉有仏性といって、 一切の存在全てに仏性(仏の性質)が、宿っているといいます。 つまり、表現は違えど、全てが仏の一部といっているのですね。東洋的には仏ですが西洋的には神ということですね。だから、すべての自然に仏を見る。それが荘子の言う道ですね。そこに何らの差別はないのですね。 いろんな区別や差別を持ち込むことが差別知であり、差別知が道を外すのだといいたいのですね。 あなたも、生まれてこのかたいろんな知識を得て、その複雑な知識に基づいて他を評価しようとしてますね、それが差別知ですね。そのような差別知が故に真理が見えないということになるということなのです。それが荘子の指摘ですね。西洋哲学は差別知が主体ですから真理から離れて行く道なんでしょうね。逆に言えばこの世では生きやすい道なんでしょうね。荘子の思想は社会形成には難があり極端な面はありますが逆に真理の面では非常に高度な思想なんですね。持てる全ての知識を一旦、白紙に戻さないと入れない道ですね。これが禅につながっているのですよ。 参考までに

m2150
質問者

お礼

仏教が荘子・老子に影響を受けて禅が中国で育ったようなことが本に書いてありました。 荘子にとってはすべてが神であるし糞でもあるってことでいいですかね?

  • kurinal
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回答No.5

m2150様、こんばんは。 荘子は、「老子の思想を深く理解し、 それが埋もれてしまうのを、勿体無く思った」 と、読みました。

m2150
質問者

お礼

つまり、どういうことですか。

  • 0fool0
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回答No.4

違いますよ。 ただ、老荘思想にキリスト教的発想の「神」は出てきませんが。 「自」と「他」の区別そのものに囚われる事からの開放を説いている教えです。 老荘では有神論も無神論も「神」に囚われていると言う点で同列です。

m2150
質問者

お礼

「ただ、老荘思想にキリスト教的発想の「神」は出てきませんが」 ではどういう神なのですか? 私は神に囚われているようで何ですが・・・

回答No.3

有神論とか無神論というのは西欧世界の話で、東洋は自然の一元論です。 もっとも自然と言っても、西欧の物質的自然ではなく、人間の行為の在り方としての自然で、西欧の自然が名詞とすれば、東洋の自然は老子の「無為自然」にしろ荘子の「自然」にしろ副詞的な意味の自然です。 つまり、人為的なものの反対、「おのずから」とか「ありのまま」という意味の、何も手を加えないことを良しとする考えです。 西欧のように自然を物質的対象として見て、それを人間が支配し、改造する、また破壊する、というのとは違って、自然のありのままを尊重し、人間の在り方も、自然体であることが一番良いことだとする思想です。 まあ、この東洋の自然主義が西欧に比較して技術的に後れを招き、19世紀に西欧の植民地主義に侵略される余地を作ったということはあります。 ひとくちに老荘思想と言われるように、政治においても、自然のままに任せるのが一番という思想は、人間と自然を一体とする考えから、社会や国家を人為的に作為して作ろうとする西欧思想とは対蹠的な思想です。 西欧のマキャベリは人間の道徳的な在り方を政治から分離して、宗教も政治から分離しましたが、東洋では人間の道徳的な在り方が政治にも生かされなければならないと考え、特に老荘思想の後の儒教においては「修身斉家治国平天下」といって、人間が道徳的に正しければ政治も正しいというオプティミズムを生みました。 儒教の中国では西欧と違って、政治はすべて人間の道徳的な在り方に還元されました。 いわゆる「徳治主義」といって、道徳、道徳と言って、政治技術や統治術は尊重されませんでした。 人間も自然も政治の世界も区別なく一体のものと考える、それが老荘思想から始まっていると考えていいと思います。 わが国で、儒教の、特に朱子学の自然法思想を批判して、道徳と政治を分離して、社会・国家を完全に人為的な統治の対象として朱子学を批判したのが、江戸時代の半ばの荻生徂徠や伊藤仁斎などという思想家でした。 老荘思想の「道」の形而上学化を批判して、「道というのは単に人々が往来する道路に過ぎない」と言ったのが仁斎です。 つまり、誰でも道路を往来することができるのだから、「道」と言っても特別なものではない、老荘思想は「道」を神秘化したが、道なんてそこらにいくらでもある、と言いました。 赤穂浪士の討ち入り事件があった時、幕閣の多くは主君の仇を討ったのだから、武士として天晴である、よって助命すべきだ、と言ったのに対し徂徠は、情において同情すべきところがあっても国家の法は道徳とは関係なく、法において裁くべきで、主情を交えるべきではない、と言って切腹を命じるよう進言しました。 徂徠においては国家の法と個人の道徳的な在り方が明確に分離されていたのが分かります。 これこそ、近代国家のありうべき姿でした。

m2150
質問者

お礼

そもそも神、人間、自然の区別がなかったてことでしょうか。 回答ありがとうございます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

>荘子は無神論者なのですか? ○荘子は有神論者ですよ。人間神の子、仏の子を体現していた人物ですね。 神・仏と人間という2分法的な考えを持っていなかったのですね。すべての存在が神・仏の一部として創造されたものだと理解していたので、自身の内を見つめさえすれば神・仏の性質が顕現するということなんですよ。自身の内を見つめることが「道」ですね。これは仏教の禅とよく似てますね。 西洋的な2分法的な自分とそれ以外の世界という考えでは理解できないだけなんです。仏教的には仏の一部が自分であるのであくせくせず自分自身の井戸を掘れば仏性が現れるというものですね。 つまり、有(神・仏)論者でないとそういう考えや行動はしないものです。ただ、荘子の思想では社会形成は難しいですね。社会形成には修行論が必要なので、仏教は修行論を含めた思想になっているのですね。

m2150
質問者

お礼

荘子が禅に影響を与えているというのは知ってますが、 「すべての存在が神・仏の一部として創造されたものだと理解していた」 の所をもっと詳しく教えてください。 荘子ってそんなこと言いましたっき?

回答No.1

創造主や、人間の運命を操る、主宰する神はいない、という意味でならば、無神論。 道を神と呼べるのならば、有神論。 では、荘子の言う道とは何か? これが難しい・・・。 ですから、荘子のいう道について書いてあるサイトをご紹介します。 http://mohsho.image.coocan.jp/sohji-michi.html 非常に難しいことを書いてあると思います。

m2150
質問者

お礼

かなり詳しいサイトのご紹介ありがとうございます。

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