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関東軍の振る舞いと当時の統制
歴史の本を読むと、関東軍は日本の陸軍本部の方針に素直には従わず、独立して行動していた印象を受けます。 軍という組織でありながら、こうした行動がとれていた理由はなんでしょうか? また、当時の日本国内からみて、関東軍というのはどういう印象の存在だったのでしょうか?(一般庶民からみて、政治家からみて、おなじ陸軍からみて、海軍からみてなど)
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第一次大戦、世界恐慌を経て、陸軍内部には、総力戦に対応するため高度国防国家の建設が必要とする思想が生まれます。 ここから、満洲を制圧下に置き、ソ連に対抗しようという発想が出てくるわけです。昭和2年7月、田中内閣による「対支政策綱領」では、満蒙で日本人が危害を加えられたら、日本軍を出動させるという積極策が採用されました。 ところが、昭和3年に関東軍が張作霖を謀殺したせいで、田中内閣総辞職となると、次の濱口内閣は国際協調外交を採用します。ここで満洲を支配する張学良が利権回収運動を始め、利権を脅かされた満鉄は当然、反発し、日本の国内世論にも、自主独立による満蒙問題解決、という意見が目立ち始めます。 こうした状況で、関東軍参謀の石原・板垣が関東軍・朝鮮軍・満鉄に同調者を増やし、陸軍上層部の一部にも根回しを進め、昭和6年に関東軍は、張学良政府を打倒して満蒙を占領する「満蒙問題処理案」を策定するに至りました。 政府を無視して、これを勝手に実行したのが満州事変という結果になります。 なお、関東軍とは関東州駐留軍の意味で、関東州(遼東半島の先端)と、南満洲鉄道の所有地にしか、警備の権限は及びません。 国外で何があろうと、軍隊が勝手に出て行けば侵略行為となります。
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統帥権を有する天皇が天皇機関説を固く信じて(2.26事件では天皇自ら反乱軍を鎮圧していますが、例外です)、基本的には軍の方針には干渉していません。関東軍の作った既成事実を後追い承認させられていました。命令しない天皇を担ぎ上げて、統帥権をかざした陸海軍は、文民統制から離れて自分たちに好きなようにやっていました。 それが敗戦時に天皇が死刑にならずに、戦争に日本を引きずり込んだ責任者を裁いた東京裁判の結果になっています。 もし、天皇が率先して戦争を指導していたら、死刑になっていたことでしょう。天皇は戦前から象徴として認知されて、その認知を強引に引きずり倒したのは陸軍です。東条英機の時代には憲兵隊が強化され、陸軍の独裁体制が確立されたのです。 勝ったアメリカが日本を本当に裁く権利を持っていたかは議論のあるところですが、すくなくとも戦犯を処刑することでアメリカ国民も溜飲を下げ、日本国民もある意味では精神的カタルシスを受けて再出発できたと判断しています。
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回答ありがとうございます。 ただ、私の疑問は関東軍にあります。太平洋戦争に至る過程での天皇や関東軍には興味がありますが、お答えの後段は私の質問とは関係のない主張と受け取りました。
- a-koshino
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補足すると、 各軍はそれぞれの担当区域内で独立した行動が可能ですが、その外へ軍を動かす場合、天皇の命令(奉勅命令)が必要でした。奉勅命令は参謀本部の起案になるので、参謀本部による間接支配という仕組みになっていました。 関東軍の場合、独立守備大隊という名称にも反映されているように、鉄道路線が担当区域でしたから、奉勅命令なしに張学良軍の駐屯地を勝手に攻撃した時点で暴走になります。
お礼
ありがとうございます。 奉勅命令を介しての指揮系統というのは初めて知りました。 大変参考になりました。
- expenditures
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関東軍や朝鮮軍、北支派遣軍など○○軍は独立した組織で、陸軍参謀本部とは並列関係にあります。従って、参謀本部が関東軍に命令を出すことは統帥権干犯になるため出来ません。関東軍に命令を出せるのは、天皇のみで、天皇の命令を臨参命(1937年以前。1937年以降は大陸命と呼ばれた)といいます。 関東軍など○○軍の司令長官には、敵から攻撃を受けた再に指揮官判断で軍事行動を起こしてよい権限が与えられていました。 ただし上記は大本営が設置されていない平時の場合です。大本営は天皇の帷幄(いあく)機関ですので統帥上、関東軍は大本営の命令には従わなければなりません。 ちなみに先の大戦で大本営が設置されたのは1937年ですので、関東軍が暴走した満州事変(1931年)には陸軍中央が関東軍をコントロールすることは不可能でした。 であるため、事前に満州事変を察知した参謀本部は、「止め男」建川美次少将を派遣し説得を試みるなどのまどろっこしいことしか出来なかったのです。この止め男が旅館で接待をうけている最中に柳条溝事件が発生し満州事変に発展しました。
お礼
ありがとうございます。
- PENPENMAKKY
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あなた自身、関東軍とは何なのか理解していますか? 関東軍とは内地から満洲に派遣された陸軍部隊で、主な仕事は南満洲鉄道の警備です。その後、満洲国建国に伴って満洲にたくさんの日本人が開拓民として移住したため、彼らの保護も行ないました。 関東軍が独特なのは独立守備大隊という鉄道警備専門部隊が存在したことです。この部隊は鉄道警備の特別権限を持っているため、テロなど事件が発生した場合は独自に出動できるのです。これは現在のイラク・アフガニスタンなどでも用いられているシステムであり、国連が関与するPKO・PKFにも同じ権限が与えられています。 ちなみに満洲事変で独断行動を起こしたのは朝鮮軍(朝鮮半島の陸軍部隊)です。関東軍が北満洲に進撃したため南が手薄になるのを警戒した林司令官が独断で満洲に進駐しました。 関東軍創設(1919年)から満洲事変(1931年)までは議会の権限が強く、軍隊は軍縮を強いられていました。満洲では満洲人と朝鮮人の民族衝突が相次ぎ、不逞鮮人による犯罪が多発(マイクロフィルム450本分)しており、日本国民の政治不信が進んでいました。そこに起きたのが中村大尉惨殺事件や平壌事件など大陸での民族紛争です。政府はこれに対して無力で、満洲事変という形で関東軍が最終解決したために国民的には有事に役立つ関東軍という印象が拡がったようです。 政党は政争に明け暮れるばかり(与野党の対立による政治の低迷…何か似たような話しが最近起こってますが…)で、満洲問題・失業問題(戦争特需)を一気に解決していった軍部を信用するようになります。その他の省庁も軍部を真似て行動するようになり、昭和13年には国家総動員法の制定が目指され、社会大衆党(ここの関係者が戦後に日本社会党を結党し、その右派が現在の民主党の中心となってます)の躍進もあって同法が成立していきます。 関東軍の活躍を軍部・官僚・一部の政治家が巧みに利用し、戦争経済の推進による景気対策を実施したのが実態のようです。
補足
関東軍の前身が満州鉄道の警備隊であったことは知っています。 しかし、関東軍創立後は陸軍の一組織であったのに、鉄道守備以上の行動、または陸軍方針からの逸脱とみられるような振る舞いが強く制限されなかった理由が知りたいのです。また、そのような振る舞いをする関東軍内部の理由です。
- gadovoa
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初代ガンダムと同じです。 地球からコロニー生活者を統括しようと思っていたんですが、 「この広い大地をもっと理想的な国家に作り上げたい」という将校と「日本のやつらは俺らのことは何にも分ってない」という将校が日本政府に反発して独自の行動を取ったのです。将校の上の幹部はそれでもよかったんです。自分たちが甘い汁をすえたので。 当時は軍部が強かったですから政治家は中々文句言えなかったと思います。 だから今は軍部が暴走しないように文民統制しているんですね。 間違ってたらすいません。
お礼
ありがとうございます。 私の質問が悪かったのかもしれませんが、満州事変の前から、 張作霖爆殺、もしかしたらその以前の済南事件以降の張作霖との関係において、少しずつ関東軍の行動範囲が広がっていったのではないかと思っています。そういった行動の根拠としては、対ソ連、満州の特殊権益がやはりあるのでしょうね。