• 締切済み

人を救えぬ哲学は言葉遊びではないか

このカテでこのような質問もなんですが、 哲学があるいは哲学者が人を救うことができない或いはするつもりがないなら、それは言葉遊びの探求ということではないでしょうか。 リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべきではないでしょうか。 単なる趣味ならかまいませんが。

みんなの回答

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.29

哲学的思考にはあまり縁のないものの独り言として、 「たしかにそういう側面【も】あるでしょう」というのが端的な回答になると思います。 【も】と述べたのは、つまり、私の見解の要旨はどちらも人を救う可能性はあるだろうし、そうでない可能性もあるのではないか。 ということです。 「救う」ということですが、人は様々なことによって救われることがあり、その対象は人それぞれ千差万別でしょう。 全くの無関心が人を救う場合もあれば、深く入り込んでくる関わり合いが救うこともあります。 人間関係カテで学校でのいじめに関する相談をし、もらった回答で救われる人もいれば、この哲学カテでのやりとりを見て新たな視点のヒントを見出し、そのことによって救われる人もいるでしょう。 それは個々の現在おかれている状況によって異なるはずです。 その意味で、「>哲学があるいは哲学者が人を救うことができない」という前提は除かれるべきと思います。 >或いはする(=救う)つもりがないなら、それは言葉遊びの探求ということではないでしょうか。 :「つもり」があるかどうか、という点に関して。 「救うつもり」という意思が強ければ強いほど、相手は救われないのではないか。 と私は考えます。 本当に救いたければ、「結果として」救うことになる、という方向性で進むべきです。 なぜなら、「救われたという事実」は救われる者にとって確かに嬉しいことに違いはありませんが、無意識領域においては必ずや負担になるはずだからです。 最も留意すべきは「救ってもらった」という印象を相手に残さないことでしょう。 この点で、「直接的救い」にもまして「間接的救い」の有意義性は認められるべきだと思います。 哲学における救いの最たるものは何か、と問われれば「視点の転換」ではないでしょうか。 つまり、「>つもり」があるかどうかということは大した問題ではないように思われます。 たとえばですがフィギュアスケートの浅田真央は人を救うために演技するわけではないでしょうが、どんな理屈より救われる、と感じる人は多いと推測できます。 同様の理屈で、「言葉遊びの探求」が人を救わないとは言えませんし、個人的にはむしろ他の救いと比較して遜色はないのではないかと思います。 よって、 「>リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべきではないでしょうか。」 というご意見に関しては、「その必要はないでしょう」というのが私の考えです。 因みに、このサイトにおいては、質問する人、回答する人、どちらも「救われる人」である。 というのが私の持論です。 どちらが上位ということは【全く】ありません。 自分の考えを表明できる、ということ自体がまさに救いの一種であるからです。 ・何を質問し、 ・どのように答えるか、 ということは、本質的にはその人の自己救済のスタイルではないか、と思われます。 shift-2007 さんのこの質問にしてもそうだと思いますが、基本的にはおっしゃりたいことはよくわかります。 最初に【も】と述べたのはおざなり表現ではありません。 「人を救えぬ哲学は言葉遊びではないか」と言わざるを得ない状況というのは【間違いなく】あることでしょう。 ただ、「常に」ではないわけで、その選択は個人に委ねられるべき事柄と考えます。 「他者を救う」といっても、所詮は「自身を救う」ことに他ならないのですから。 自我と超自我のバランスはここ(救うという状況)でも求められざるを得ないはず、と思います。 しかし、すべて目論見済みとすれば、意見の表明としてはインパクトのある効果的アプローチでしたね。 論点がずれているかもしれませんが、素人(ということを逃げ口上にするつもりはありませんが。と、わざわざ断るということはやはり逃げ口上にしてるのかな^^;)ゆえとお目こぼしのほどを。  

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 縁なき衆生は度し難しなんて言葉がありますが、逆に言えば救われたいと思うなら案外それはたやすくて、色々なところにヒントがあるということかもしれませんね。 全ては受けてにゆだねられているのですが、私はももう少しおせっかいな役回りをしていきたいと思います。 >すべて目論見済みとすれば、 そうでしょう?なんちゃって。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.28

またぞろ長くなりそうですが、御容赦ください。 「仕事」と「遊び」を厳然と分けて考える方、という御指摘がありますねぇ、これ、なにも質問者さまだけじゃなく、この私自身も、最近あるかたからそういうふうに言われたことがあるんです。私としては、そこまで区切った考えでいたわけじゃなかったんですけれども。。。まあ、めったなことを言うわけにもいかない事態になってしまってるのに気づいて、黙っていたのですけど。 そうですね。。。 「救うか」「救えるか」「救わぬか」「救えぬか」ということ、これを追求しだすと、いかにも難しい。前回も申し上げたと思います。 哲学が、そもそも「救う」といった目的を最初から背負っているわけでもない、それもそうです。 「救う」気持ち自体はあるとしても、そのなかにおいても積極的か消極的か、の違いが出てきます。 たとえばメンヘルや人生相談カテの質問者を救いたかったら、このカテゴリーへ案内せよといった考え方、これ、ちょっとお役所的ですね、「求めよ、さらば…」なのか知りませんが、救う、救いたい側として積極的な姿勢とは言えないでしょう。それよりは、「救われたい」側のほうの積極性をこそ要求しているように感じます。 ところで、たとえば病気になったときのことを考えてみますと 本当に痛い、苦しいとき、女性特有の病気なんかですと、そういうことも、ままあるのですが、病院に助けを求めに行くという、そのこと自体が困難で、部屋のなかでジッと横になっているしかない状況もあります。そういうとき、昔のお医者は気軽に往診ということをしてくれたのでよかったよなあ、と思うことがあります。 せっぱつまってる人って、余裕がないのが当然ですよね。 遊ぶのも机上の議論を闘わすのも、おなかを満たしてくれるわけじゃない。夢中で遊ぶ幼い子どもだって、おなかが空き切って寒い思いをしていたら遊ぶどころでなく、保護者の温もりを求めて泣き叫ぶでしょう。 愛と美の女神ヴィーナスといえど寒さに凍えたら、顔をしかめて蹲ってしまう(そんな昔の西洋絵画がありますね)。 私が、まだ実家にいた若い頃、庭にノラ猫たちが居ついてたことがあるのですが、なかの一匹が、小さい子猫の乳離れが始まると、なにかと狭いひたいで画策しては、私に自分の子どもたちの面倒を託そうと計るのです(笑) あるとき私が、まだじゅうぶんに懐いていない子猫たちを持て余して、その親である猫に向かい、手近にあった丈の長い草を手折り、それを使って(私が)じゃれ始めたところ、猫は、すまなさそうな表情をして(ホントですよ)しんどいの、ごめんね、と言わんばかり私の膝に2、3度頬を擦り付けた、そのあとすぐにトボトボと去って行きました。 それっきり、もう会うことはなかったのですが、ご近所の話では、ひとり静かに、こときれていた、と。 ずいぶん前からシンドそうにはしていたので、私の母が「これ、もうながくないで」と言ったりしていたのでした。 乳離れ前に残された子猫たちも、生きのびることができませんでした。これにもエピソードがありまして、やはり近所の人の話ですが、飼ってるオス猫が、そこの家の庭先で横になっては、残された子猫たちに、出るわけもない自分の乳をふくませてやっていたそうな。 家の人が、子猫から引き離し、オス猫を家のなかに閉じ込めると、ガラス戸越しに子猫を見ては啼いていたそうです。 それにしても、先ごろ、空腹の女性浮浪者が市役所で「ごはんを食べたい」と言ったら、公務員がレンジでチン用ご飯を冷たいまま渡して放置していたところ、その女性も、ご飯同様そのまま冷たくなってたとか。こういう現実の人の世です。 これは私自身の体験から言うことですが 救うとか救わない、哲学だ遊びだ、という前に、 「救う」とは逆のこと、すなわち 「殺す」ということについて考えるときではないか、と思います。 今回、こちらのスレに参加なさってるなかに、とくに、このことを考えていただきたい(できそうにないですが)人が混じっておられます。 文学を或いは科学でも、まるで商売道具として役立てることしか考えられないような人に、そもそも哲学のあり得べき姿を論じることなど無理な相談でしょう。 人を試すことで「文学」の題材にしようとする人もいるし、また、人を試して「科学」の資料にしようとする人もいる。こういうのは、その人自身が文学なり科学なりに使役される、まさに「道具」側なのです。 哲学は、そういったことも含め全てを見渡し思索する人のものではないでしょうか。 なにごとかに使えるか使えないか、という基準に限るのでしたら、それは道具的に扱う視点になりましょうか。 花をいけるための花瓶が、殺しにも使えるわけです。 毒もスパイスになり得る、でもスパイスそのものを食べたいわけじゃない(笑) 救うつもり或いはサラサラ救うつもりなどなかったのに、逆の結果になった。 実際、人は一輪の小さな花を見て自殺を思い止まりもするし、たった一言のコトバ、それこそ「ことば遊び」で死に赴くことだってあり得るのですね。それは、精神的なことも含めてです。 そういうことであれば、われわれに可能なことは… いずれにせよ、経験量や思索の視野が狭い人に、他者を救う、ということが、はたしてどこまでできるものか、私は甚だ疑問なのですけれど。 また、とことん他者に寄り添い続けるということが、どのように覚悟を強いられるものかも少しは知っております。 御質問者さまにおかれては、メンヘルや人生相談カテの質問に、もっと関心を向けて、このカテゴリー常連の人たちに考えてもらいたいというお気持ちがあるのでしたら、できる限り、そうした提案をなさっていかれるといいと思います。しかし、メンヘルや人生相談カテの質問に答える答えないについての考え方にもまた、私を含めて、いろんなスタンスがあることでしょう。 「救えぬ」かどうかという以前に 「哲学」或いは「文学」「科学」が、どのように人を殺すことがあり得るかについて私は考察中です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4630924.html

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 こちらの気持ちを色々汲んでいただいてありがとうございました。 私としては極端な形而上学的思索に夢中になりすぎることに釘を刺すつもりでした。 過ぎたそれは恐らく現実逃避の手段としての哲学であるのかもしれません。 なれば人にかまう暇などないというのもわかる気がします。

shift-2007
質問者

補足

「力の刻印」について難しいことはさっぱりですが、 昔の漫画で北斗の拳ってありましたね。そのキャラでユダというのがいたんですが、こいつが気に入った女性に自分のマーク確か”UD”だったと思いますがそれを焼印するんですね。私がぱっと浮かんだイメージはこれでした。 また、どのように人を殺すことがあり得るかは昔こんな質問をしたことがあります。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3558168.html

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.27

突破口としては、 ・人を救うことができる言葉遊びを考える ・人を救う必要などないとする立場もまた哲学であるととらえる このへんなんでしょうが、なにやら泥沼にはまりそうなんでやめましょう。 「議論はいやよ。 よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。 空の盃でよくああ飽きずに献酬が出来ると思いますわ」(漱石「こころ」) 哲学は男のものだけではないのはさておくとして、空の盃(リアリティのない極端な形而上な事柄)で献酬(思索)というのは、傍目から見ればくだらないことなのでしょう。 私もできれば過度なことは自重した方がよいと思うものです。 しかし、虚しいことに気づかないでのめり込んでしまうことは誰にもあるでしょうし、それを自重すべきと言われたところで簡単に自重できるものでもないとは思います。 「語りえぬことに関しては沈黙しなければならない」(ウィトゲンシュタイン)といくら言ってみたところで、沈黙しない人はしないでしょう。 沈黙ばかりでは味気ない。趣味に限るというわけではないけれども、スパイスとして遊びはあってもよいかなとは思います。 「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」(梁塵秘抄)

shift-2007
質問者

お礼

ご解答ありがとうございます。 スパイスとしての遊びですね。 それなら楽しいでしょうね。 それと女性は哲学的なことを考えるのはあまり好きではないようですね。 何でだろう。

noname#75328
noname#75328
回答No.26

研究ってそういう面もあるんじゃないでしょうか。 宇宙の果ては何か、宇宙の始まりは何か。 知ったところで地球に立っている我々には無意味と言えば無意味だしさ。 オレは別にそういうのでも良いと思います。 役に立ちそうだから研究するでも、立ちそうに無くても研究するでも。

shift-2007
質問者

お礼

ご解答ありがとうございます。 力のある人は力のない人の手助けをする。 器用な人は不器用な人の手助けをする。 それがお互い様というものだと思います。 哲学を好きな人はそういう意味である種の力を持っています。 だから、その力が弱い人を助けるべきだろうと思います。 どんなに強い力を持っていても人を救うのは人なのですから。

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.25

No.14です ホイジンガの遊びの理論について補足を。 >働かざるもの遊ぶべからずで、遊んでばかりでは困ります。 >大人なのですから、自分の遊びがどんな意味を持つのかは自覚してほしいと思います。 shift-2007さんは、「仕事」と「遊び」を厳然と分けて考える方のようですね。 まぁ、一般に多くの人がその傾向を示しますが、「仕事」と「遊び」は厳然と分けられるモノでもないんですよ。 スポーツ(競技)、法律、戦争、詩、哲学、芸術などあらゆるものの中に「遊び」の要素が含まれています。 そして、「遊びの要素」こそが、なにかを生み出す原動力になっていくのだと。 しかし、この「遊びの要素」を忘れて「真面目」になったが故に、人は人として見られずに商品を生み出す機械として捉えられたり、ルール無視で無差別に人を殺す戦争がおこったり、商品としてスポーツが捉えられていったり、、、。 「遊びの要素」が無くなったことで、道徳(遊びの中にある自発的に守られたル ール)の退廃や文化の破壊が起こってくる。 哲学もこれと同じじゃないでしょうか。 「哲学」から「遊びの要素」が無くなったら、救える人も救えなくなるんではと思います。 ただ、哲学はなにも「人を救うこと」が目的ではありませんよ。 あくまでも「智の探求」であり、そこで得られた「智」をどのように使うかは個々人の自由です。 まぁ、「探求だけして他者に伝えない」では無意味になりますけど。 でも、そんな人は少数ですね。 誰でも何らかの形で他者に伝えることをしてますから。 また、qsxdrfvgyhさんが「医学」を例に説明されていますが、ちょっと拝借して私も。 例えば、医者は二つのタイプに分けられます。 一つは研究室で基礎的な研究をする人。(例えば、万能細胞の作成法を見つけて有名になった山中伸弥京大教授のような方) もう一つは、臨床医として現場で患者を救うために活動してる人。 どちらも、医者であることに変わりはありません。 でも、前者は直接人を救うわけではないし、無駄になった研究だって沢山あります。 しかし、そうした基礎研究によって、現場で救われる命もあるわけです。 哲学に対する人の姿勢も、これと同じようなモノでしょう。 哲学を一生懸命やって「智」を追求していく人もいれば、その発見された「智」を人に伝えて救うことを志している人もいるでしょう。 そして、前者が直接救わなくても、後者を通して救うこともあるでしょう。 ここのQ&Aだって似たようなモノでしょう。 このカテで得た知識を使って人生相談のカテで相談に乗ってる人だっているかもしれませんよ。

shift-2007
質問者

お礼

ご解答ありがとうございます。 tyr134さんはうまいまとめの仕方をするなーと感心しつつ。 日ごろ、知の探求だけの哲学では寂しいなと思っています。 普通の人間である私たちは他人とのかかわりを持って生きているのですから、哲学好きであるならばそれを生かすことは喜びであり、哲学に縁のない人にもその価値を再認識してもらうことになるのではないかと思っております。

noname#80116
noname#80116
回答No.24

 No.19ですが。  No.22に ひととおりのことを書いていますので 次の一点について述べます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  メンタルヘルスや人生相談には助言を必要としている人がたくさんいますよ。  ご自分の今まで積み上げてきた経験をその人達に還元しないのはどうしてなのでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは それらのカテゴリから こちらの哲学へ移って来てくれれば いいと思います。たぶん ですが たぶん そちらのカテゴリでは その一つの事件なり問題なりに集中していて そのときには 人間全体のことから 逸れるのではないでしょうか。(つまり 相談者が 垣根をつくっているのではありませんか。推測ですが)。  だから かたくなになるというわけではありませんが そんなにおっしゃるのなら そういう相談者の方々に こちらへ来てもらうように言ってもらうか それとも あなたが 全部を身につけて 相談に乗ってやったら いいのと違いますか。(考えてみます)。  あとは いぢわるを言い合いっこすると おもしろいでしょう。話が 噛み合うでしょう。さらに そのようにまいりましょう。できれば 初対面から その方針で行きたいと思っております。  * もし《ひとをすくう》ということで いわゆるカッコウをつけているのではないならば 知識の問題だけではなくて 動く対話 八百長ではない生きた取り組みを 目指しましょう。いかがですか。  (えらそうですね。もっと あほ呼ばわりしてください。精神衛生の問題だけではなく 真に それに値しますから)。

shift-2007
質問者

お礼

ご解答ありがとうございます。 >つまり 相談者が 垣根をつくっているのではありませんか そうですね、そうだと思います。 それならばなおさら回りがそれに対して手を差し伸べる必要があると私は思います。もちろんすべてを助けることはできないですが。こちらに来てもらえば哲学の面白さは感じてもらえるとは思いますがたぶん彼らにはその余裕がないと思います。だからたぶん我々のような人がおせっかいを焼く必要があるんじゃないかと自負しております。 >いぢわるを言い合いっこすると おもしろいでしょう。話が 噛み合うでしょう。さらに そのようにまいりましょう これは勘弁です。 >動く対話 八百長ではない生きた取り組みを 目指しましょう。 出来ることからやります。

回答No.23

No.18のお礼欄の記載に関して、お返事いたします。 >私の質問はそんなに難しいでしょうか。 他の回答の返答を見ていませんので、質問文だけから判断しますが、哲学は、「言葉遊びの探究」や「単なる趣味」くらいなものだと断定していますね。仮にそうだとして、「救済のない遊び・趣味」とは、言い切れません。いくらかの救済もあるでしょう。救済の可能性を否定するあなたの根拠がはっきりないから、多くの反論が寄せられるのです。 >普通の人ならわかるはずだと思っているのですが。 自重すべきとの見解を分かる人はいません。哲学は諸学の基礎・基盤ですからね。法哲学、仏教哲学、・・・いろいろあるはずです。 >鉄という材料だけでは車は出来ませんが、鉄がなければ車は出来ないでしょう。鉄を哲学に置き換えるとわかりやすいですか? 哲学がなければ、車は出来ない? 「車」の方も「 」に置き換えないと意味が通じません。 どうしても、哲学を材料や道具にしたいようですが、その存在的な発想が、存在論的な思索とは異質であると直感的な拒否を巻き起こしていると思いますよ。 最後に、No.18で書いた例示は、基礎と応用ということです。 医学は基礎で、医療技術は応用です。 哲学は基礎で、哲学技術(?)は応用です。 そして、哲学技術の例として、順天堂大学病院のガン哲学外来を挙げておきましょう。 そして、哲学技術という言葉は不要で、哲学は基礎も応用も含んでいるという反論は可能だし、それでもいいと僕も認めておきます。

shift-2007
質問者

お礼

ご解答ありがとうございます。 わかるはずだという思いから言葉足らずになっているのは申し訳ないです。 このご解答を読んで私の言わんとすることは伝わっていると感じましたので私は満足です。

noname#80116
noname#80116
回答No.22

 《すくう・すくわない / 救える・救えない》にかんして 基本的なことを考えます。  ひととひととが ふつうに 話し合いを どこまでも どこまでも とことん どこまでも どれだけ かぁっとなったとしても 言葉をとおして 続けられるなら その持続過程を実現するなら ひとは 救われたと言えるのではないでしょうか。  ひとつには その軌道に乗るかどうかです。その分かれ目について とらえることは 大事でしょう。  ところが――ここからが 反論と言いますか ご質問への直接の回答ですが―― そのどちらの段階においても 言葉遊びは出て来ますし まじめな問い求めも むろん わたしたちは 行ないます。いわば 人間あるいは人格の全体で その全体をとおして 哲学をも いとなんでいくでしょう。ちがいますか。  あとは もし  ★ リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべきではないでしょうか。  ☆ という思いと危惧を抱いたのなら そのとき その事例に対して直接に ことばをかけるということ これが 大事なのではないですか。  つまりは どこまでも 対話を成り立たせ 持続させるという方程式です。成り立たせなければいけないでしょうし それを 段階ごとに きちんとした解決を得つつ 持続させることが 肝心です。  とにかく 噛み合わせなきゃ と考えますが いかがでしょうか。

shift-2007
質問者

お礼

ご解答ありがとうございます。 >間あるいは人格の全体で その全体をとおして 哲学をも いとなんでいくでしょう。 これは私も同意見です。 なので人格の大きい部分を占める心理についても切り捨てるのはどうかと思います。 >噛み合わせなきゃ と考えますが いかがでしょうか。 話し合っている当人同士はもちろんそれは必要でしょう。 まぁ文字だけのやり取りなので(特に私は文字に心理的な部分を乗っけるので)なかなか難しいと思います。

回答No.21

おはようございます、shift-2007さん。 ●鉄という材料だけでは車は出来ませんが、 鉄がなければ車は出来ないでしょう。 鉄を哲学に置き換えるとわかりやすいですか? ↑ わかりにくい。 それよか、 わらしべ長者は錬金術師!? ←のほうがよくない? ほんでもって、考察として 【租税実体法解釈の原理とその具体的展開】 http://www.tkcnf.or.jp/19ao/kaityou1212.html みてけばいいんじゃないの?

shift-2007
質問者

お礼

おはようございます。 でも今は12:30。 昔話のわらしべ長者はなにを示唆してるんだっけ? 勧善懲悪でもないし・・・ 租税法とわらしべ長者 この関係こそが錬金術?

shift-2007
質問者

補足

今気づいた、littlekissさんはボケだと思ってたけどツッコミだったんだ。

回答No.20

No.13です 哲学を「道具」(知)として捉えるのも一つの見解でしょうが、わたしの述べようとしていたこととは、少しずれています。 私の言いたかったのは、「哲学」とは、得られた(ないし得ようとしている)「知」そのものではなく、「知を愛するという行為そのもの」が哲学なのではないでしょうか? ということです。 以下、wikipediaから引用です。 ===== ギリシャ語の「philos」(愛)+「sophia」(知)の結合であり、「知を愛する」という意味が込められた語である。 (中略) 広義には哲学は思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みでありそのような営みの結果形成されたり選ばれたりした思想、立場、信条を指す。例えば、「子育ての哲学」「会社経営の哲学」などと言う場合、このような意味での哲学を指していることが多い。 ---http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6 ===== 哲学の位置づけですが、(歴史的にも)自然科学も哲学の範疇に入りますし、広義の科学(=分科の学問、○○学=○○ philosophy)の範疇に入るものでもあります。すなわち、思考・思索する時には、理論的・論理的であることが多く、知の体系化にても、理論的・論理的であることが求められるため、「知を愛する」の「知」の部分のみ強調されすぎる嫌いがあると思っています。 哲学・philosophyの本質は、広い意味での「思索」全般(知)を「求めようとする心」(情)にこそあると思います。 そう言った意味で、哲学とは、生きていく上で必要不可欠な行為・情動と結びついていると思います。 また、 「リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべき」 ですが、 哲学的な思索の傾向が強い原始仏教では、たとえば === ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によって支持されたのは、当然である。 (柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版) ===(仏教青年 Q & A・魂という概念、http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.htmlから引用) といった思索もあり、「救う・救われる」といった概念に密接に関与する場合があります。

shift-2007
質問者

お礼

ご解答ありがとうございます。 >広義には哲学は思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みでありそのような・・・・ 私にとっての哲学はこの解釈が一番しっくり来ます。 知に対する愛があるなら哲学が自己満足に終わることはないかもしれませんね。

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