哲学的思考にはあまり縁のないものの独り言として、
「たしかにそういう側面【も】あるでしょう」というのが端的な回答になると思います。
【も】と述べたのは、つまり、私の見解の要旨はどちらも人を救う可能性はあるだろうし、そうでない可能性もあるのではないか。
ということです。
「救う」ということですが、人は様々なことによって救われることがあり、その対象は人それぞれ千差万別でしょう。
全くの無関心が人を救う場合もあれば、深く入り込んでくる関わり合いが救うこともあります。
人間関係カテで学校でのいじめに関する相談をし、もらった回答で救われる人もいれば、この哲学カテでのやりとりを見て新たな視点のヒントを見出し、そのことによって救われる人もいるでしょう。
それは個々の現在おかれている状況によって異なるはずです。
その意味で、「>哲学があるいは哲学者が人を救うことができない」という前提は除かれるべきと思います。
>或いはする(=救う)つもりがないなら、それは言葉遊びの探求ということではないでしょうか。
:「つもり」があるかどうか、という点に関して。
「救うつもり」という意思が強ければ強いほど、相手は救われないのではないか。
と私は考えます。
本当に救いたければ、「結果として」救うことになる、という方向性で進むべきです。
なぜなら、「救われたという事実」は救われる者にとって確かに嬉しいことに違いはありませんが、無意識領域においては必ずや負担になるはずだからです。
最も留意すべきは「救ってもらった」という印象を相手に残さないことでしょう。
この点で、「直接的救い」にもまして「間接的救い」の有意義性は認められるべきだと思います。
哲学における救いの最たるものは何か、と問われれば「視点の転換」ではないでしょうか。
つまり、「>つもり」があるかどうかということは大した問題ではないように思われます。
たとえばですがフィギュアスケートの浅田真央は人を救うために演技するわけではないでしょうが、どんな理屈より救われる、と感じる人は多いと推測できます。
同様の理屈で、「言葉遊びの探求」が人を救わないとは言えませんし、個人的にはむしろ他の救いと比較して遜色はないのではないかと思います。
よって、
「>リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべきではないでしょうか。」
というご意見に関しては、「その必要はないでしょう」というのが私の考えです。
因みに、このサイトにおいては、質問する人、回答する人、どちらも「救われる人」である。
というのが私の持論です。
どちらが上位ということは【全く】ありません。
自分の考えを表明できる、ということ自体がまさに救いの一種であるからです。
・何を質問し、
・どのように答えるか、
ということは、本質的にはその人の自己救済のスタイルではないか、と思われます。
shift-2007 さんのこの質問にしてもそうだと思いますが、基本的にはおっしゃりたいことはよくわかります。
最初に【も】と述べたのはおざなり表現ではありません。
「人を救えぬ哲学は言葉遊びではないか」と言わざるを得ない状況というのは【間違いなく】あることでしょう。
ただ、「常に」ではないわけで、その選択は個人に委ねられるべき事柄と考えます。
「他者を救う」といっても、所詮は「自身を救う」ことに他ならないのですから。
自我と超自我のバランスはここ(救うという状況)でも求められざるを得ないはず、と思います。
しかし、すべて目論見済みとすれば、意見の表明としてはインパクトのある効果的アプローチでしたね。
論点がずれているかもしれませんが、素人(ということを逃げ口上にするつもりはありませんが。と、わざわざ断るということはやはり逃げ口上にしてるのかな^^;)ゆえとお目こぼしのほどを。
お礼
ご回答ありがとうございます。 縁なき衆生は度し難しなんて言葉がありますが、逆に言えば救われたいと思うなら案外それはたやすくて、色々なところにヒントがあるということかもしれませんね。 全ては受けてにゆだねられているのですが、私はももう少しおせっかいな役回りをしていきたいと思います。 >すべて目論見済みとすれば、 そうでしょう?なんちゃって。