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人を救えぬ哲学は言葉遊びではないか
このカテでこのような質問もなんですが、 哲学があるいは哲学者が人を救うことができない或いはするつもりがないなら、それは言葉遊びの探求ということではないでしょうか。 リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべきではないでしょうか。 単なる趣味ならかまいませんが。
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- littlekiss
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あたるも はっけ? みあって みあって はっけ ようーい! 見料って… (|||_|||)とるのかよー さて、これなーんだ? o(^-^)oo(^▽^)oo(^-^)o ガチンコ? ちゃう おそらく… あとに“笑う”と言葉がおかれている… そして… 付け加えたかのような [[なぞの“鞄”]] 浪つながりか? 浪漫飛行か? いやいや 浪はダミー 次の漫にあたりをつければ… 笑ー鞄ー漫 “もぐろふくぞう”が浮かび上がってくる 『笑うセールスマン』 転じて… 巡回セールスマン問題とみた! ↑ (これを解けってかぁ?) 大の字に小の字がのっかると… 尖(でこぼこフレンズ~♪) くちびる ツンと 尖らせて~♪(*^-^)b
質問者様がもし、哲学という学問全体を貫くイメージとして「言葉遊び」とおっしゃられているのならば、「哲学は人を救うべきものだ」という質問者様の哲学観の方が誤認であるという可能性はないですか。哲学全体が全然「人を救う」方向に向いていないという印象を受けられたのなら、普通は、自分の哲学観の方を修正するものではないでしょうか。 実際、私も哲学が「人を救う」方向に向いていないのは明らかなことだと思うし、それどころか哲学はあまりそのようなことに関心がないと言えます。しかし、哲学がある時点で「人を救う」という本来の目的を忘れて、違う方向へ向いてしまったというのならまだ話は分かりますが、哲学という学問の発祥からして(詳説はしません)、「人を救う」という方向にはそもそも向いていないのですから、「哲学は人を救うべきもの」という哲学観の方がそもそも誤解だったということになりませんか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 哲学のあるべき姿をどうこう言うつもりはないのですが、 本来人は哲学せずにはいられない生き物だと思います。 なぜ哲学するのかは自明で生きるうえでの苦悩がその発端ではないでしょうか。 精神の不安定さが哲学を求めるのではないでしょうか。 ならば哲学者が哲学によって得た英知をつかって人を救うのは不思議なことではないと思います。 苦悩こそが哲学の発祥だと私は思います。 ほかの人の哲学観がどうであれ人を救うことに何か問題があるとは思えません。
- noname002
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火事の下手人さん(自首?)よほど構って欲しそーなので、一度くらいは目鼻をつまんで(鼻はつまめるけどさ~?)「大目にもって」みましょうかね(笑 ニョウボ泣かすは そっちの勝手 他人泣かすな どあほヘボ落語 (いつになったら上達すんのかねー。向いてないんじゃない?) (「どうもすぃません」額にゲンコツをかざす) 文句はあるけど呼んでないゾ。 「罰あたれ」「ざまあみろ」とか言ってるうちに 金のわらじ履いたまま、からっぽの鞄さげて、ま~た家出されちゃったよぉ凸(▼▼メ)ミジメミジメ~♪(笑 (「どうもすぃません」額にゲンコツをかざす) さあ皆さん笑って笑って。見料も お忘れなく!(削除もネ♪)
お礼
あぁ男にはわからない女同士の不思議コミュニケーションだ。
- littlekiss
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おはようございます、shift-2007さん。 ●昔話のわらしべ長者はなにを示唆してるんだっけ? ↑ “姉さん女房は金のわらじを履いてでも探せ” 『浪花恋しぐれ』 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND3425/index.html ~♪芸のためなら 女房も泣かす それがどうした 文句があるか~♪ ~♪雨の横丁 法善寺 浪花しぐれか 寄席囃子~♪ ~♪今日も呼んでる 今日も呼んでる ど阿呆春団治~♪ 【東西落語特選―『厩火事』―】 http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/umayakaji.html 人の営み 古今東西
お礼
そうか、姉さん女房はそんなにいいのね。 でも、ぴちぴちに惹かれるのは本能なのよ。 心と体の乖離だなー >それがどうした 文句があるか~ あるよねー
- noname002
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「アフレコ現場で様々な断末魔演技が開発され続け、声優の言葉遊びの中から生じた叫び声もある。さらに物語が進むにつれて、とても断末魔とは思えない所までエスカレートした。」 やがては声優たち個人の欲求を混入させようとし始めて、それはもちろん却下され、たり、しなかったりだったそうです(爆 御紹介いただいた質問者さまの過去スレを拝見したあとから思ったことがあって、さらに追加投稿となりましたが 病名をつけることによって生じてくる種々の問題たとえば甘えとか。これは「理論ありき」の場合に惹起される問題と同じことみたいです。 理論どおりにしか行動できなくなる縛り、理論を前提にしてるのだという言い訳でしか発話できない。。。むしろ「理論」のなかでなら言ってしまっていいんだよ、という「隠れ蓑」。 だけど、どうしたって、そうはいかないんですよね、生きてる人間ですもの。まさに「アタマ隠してシリ隠さず」。(笑) で、はみ出す部分が隠しきれなくなると「辻褄が合わない!」と騒ぐことになる。 「こんな私に誰がした」(爆) 「…「ゲームの範囲」がどこまでかをめぐるトリック」 たとえば、これは「理論」に則った発言であり、どこまでも「コトバあそび」に過ぎないのだ、と言い張ったところで、その「理論」の存在を知らないゆえ、それに則っていないことが分かっている者の発言には思わず拘ってしまう、異様なほどに。 この異様な拘りから、たちまちにして「対称性の破れ」が惹き起こってしまう。 だいぶ以前に、私が回答で述べたことですけど、まさに「コトバを軽んじる者はコトバに裏切られる」のです。 そもそも、真っ直ぐに向けられたコトバを、自分に都合のいいように、いじくりまわして継ぎはぎし、似ても似つかぬものに作り変えてしまわずにおれないのだとしたら、それが自然な成り行き、つまり自然のあそびではないのであれば、どうしたって動機は問われます。 「だが「正解」は、その規則が適用される範囲、つまりゲームの範囲の外にある。」 「そのゲームの範囲の外に、本来のゲームの範囲があることを発見すれば、初心者の勝ちなのである。」 コトバを自分の手のなかに捕え、ぐちゃぐちゃに握り潰し、つごうよく作り変えてしまいたい、、、本来は、コトバに対する大変な怖れが潜んでいるのかもしれません。ならば、そういうやり方では克服できないのですけどね。 愚者の悲喜劇です。 巻き込まれる者は大迷惑!(笑) 参考に挙げました『恐怖のシンクロニシティ』のなかで、こうも述べられています。 「だからこのゲームは、その場にいるほとんど全員がルールを知っていて、それよりも少数の人がルールを知らない場合にのみ、おこなわれる。全員がルールを 知っていたら意味がないし、反対に、ひとりだけルールを知っている場合は、ゲームができないわけではないが、そのルールを知っているひとりがみんなから の敵意の的になる。」 これは実際、私自身が経験したことなのですが、全員がルールを知っているなか私一人が知らずにいた、その「ルール」のもとになっている、ありとあらゆる「理論」の存在は知らずにいたからこそできたゲーム。どうやら彼らは、「あそび」と称して、その類の「ゲーム」をやっているらしいということには、わりに早くから気づいてましたから、私は、そういうやり方に抗議する気持ちを込めて自分なりの哲学と思想を貫きました。 それが彼ら側からすれば、私一流のマイルールを秘匿して自分たちを逆に翻弄しようとしている、こんちくしょう!と思ったようです。自分たち自身がしていることを、ナマイキにも今度は私のほうがやり返し始めた、というところでしょう。 だからこそ、ある女性などは執拗に私に付きまとっては「奥歯にモノ挟まっとんかい本心を言えー!!」と言い続けたわけです(笑) とは言え、以下の部分も『恐怖のシンクロニシティ』からですが、その女性の姿にも重なるところではある、とみています。 「ユーニス・パーチマンがカヴァディール一家を殺したのは、読み書きができなかったためである。 主人公ユーニスは中年過ぎた家政婦さんで、金持ちのカヴァデイール家に雇われるが、文盲であることを隠していた。そして彼女は、必死の努力と知恵で、文字が読めるように振舞うのだ。 「そこまで苦労するなら読み書き習えばいいじゃん!」と思ってしまうが、コンプレックスと裏腹に妙なプライドがあるユーニスは無学である事実をひたすら隠し、カンニング的方法で切り抜けることばかり巧みになっている。 ところが、そんな綱渡りにも破局が訪れる。…」 そして案の定、と言いますか最終的には私を狂気じみたKY呼ばわりし始めました。これ、最先端をいく科学の専門家を自称する、まさにテツガクを趣味とするインテリの男が言ったことですよ(笑) 実際、私が「くだらない」と言ったとき、その専門家センセイは「発展性のないことを言う情けないパー」と仰いました。 「ルールがばれた時点で、そのルールのくだらなさ、というか「悪意」があらわになる。」 そこまで悪気はない、とかイロイロ言い訳だけはしてましたが、事実やってしまったことは取り返しがつかないのですね。彼ら自身が、です。 「空気が読めないのは困るが、ちゃんと空気を読み取ったうえで、あえてその空気に亀裂を入れることも、時として必要になる。いや、あまりに素朴で純真なために空気が読めないということも多い。が、そういう空気の読めない素朴な視点が、その空気の邪悪さ、あるいはくだらなさを暴露することがある。アンデルセ ンの「はだかの王様」を思い出してみればいい。」 この始終をテレビドラマ気分で眺めて喜んでる人もおられますけど、ま、そのていどの、ですね。 いかがですか、「救う」以前の問題もあるわけです。「あそび」と呼ぼうが「シュミ」と呼ぼうが。 前前回ご紹介した心理学カテでの私の質問スレ、新たに継続させてますが、御質問者さまのようなかたにも関心を持っていただきたいものと思っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 他者との関係に強い興味を持っておられるようですね。 私は男なので天上天下唯我独尊みたいなところがあり、今回の質問は自戒の意味も含んでおります。 言葉と行為の乖離は哲学にはついて回るのだろうと思います。 花という言葉は花そのものではないのですから。
- noname002
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お礼と補足、拝見しました。 『北斗の拳』って「ひでぶ~」とかいうの? 「あべし」は写真とるときスマイルに使える! それくらいしか知らないのよ(笑 仕方ないのでウィキを見てみたら「ひでぶ」というのは原作者の悪筆が原因の誤植で本当は「ひでえ」が正しかったんですってね。 アニメ版では、「やられ役」たちのレギュラー出演者らにより、アフレコ現場で様々な断末魔演技が開発され続け、声優の言葉遊びの中から生じた叫び声もある。さらに物語が進むにつれて、とても断末魔とは思えない所までエスカレートした。んだそうな。(爆 まぁ「ひでぶ」や「あべし」で救われる人がいるなら、それも楽しいなぁとは思います(笑 >気に入った女性に 気に入りかた、ってのも、いろいろあるんですわねぇ。 「焼印」って、、、牛扱いか。そのうち鼻輪も付けさせられそう(笑 御紹介のスレッドも拝見しました。いい内容ですね、見落としがちな問題だと思いました。 >極端な形而上学的思索に夢中になりすぎることに釘を刺す 御気持ちは理解できますよ。♪命短し、救えよ哲人。(笑 また少し考えてしまったのですが 御質問者さま仰る、このような場での「救い」とは言わばボランティア精神でしょうか。 ボランティアというのは本来まさにステイタスと余裕のある人が行うものなんだそうですね。それができない、する気もないというのは、実は、その人自身が余裕がない、ということなんでしょう。 だいたい、このカテだけみてても、この人自身メンヘラじゃないの?って思っちゃう人多いし。。。 ですから、どなたか仰ったように、回答する側自身が、そのことで救われてる面もあると思います。もちろんコトバの宿命的なものと同様、両刃の剣ですけど。 私自身、なんとか正気を保ってこれたのは、コトバの力、論理の力に助けられてる面が大きいのですが、でも、コトバの力で正気が保てなくすることだってできるのですもの。 ところで、私自身、以前から考えていたことなんですが 形而上学は「あそび」か 肝腎の「あそび」とは いかなるものか、ということが置き去りになってるのではないでしょうか。 余裕のない、ガチガチの「あそび」なんてものがあるのかどうか? 酒色や賭け事に耽ったりすることも言うのですが、これは何かしら良きものを産み出す前に身を滅ぼしますよね。 「あそび」というコトバにかこつけて、その実そうではないこともありますから、こういうのには騙されたくないなぁ。。。 「殺しのゲーム」という名称もありました。 万人の万人による戦い。こういう状態のなかでは、やるかやられるかになってしまって、とても余裕なんか持てないでしょう。こういうのを求めてやまないとしたら、それは「あそび」なんかじゃなく、アディクトじゃないでしょうか。 たとえば、こういうゲームに参加することで居場所を確保しようとする者もいれば、できない、それを選択しない者もいます。 『恐怖のシンクロニシティ』 http://blog.tatsuru.com/2008/01/05_1559.php 教祖をうち立て、自らはファシリテーターとして君臨しようと無理な足掻きを繰り返したものの、宗教にまでたどり着く前に崩壊した「アッシャア家」の荒地が紹介されていて思わず苦笑してしまいましたが、ここに住み着いておられる(た)かたたちは、リアルでは、けっこうな生活おくってらっしゃるリッチマン揃いで、だからこそ「形而上あそび」に興じることができているんじゃ~ないですか。「救い」の優先順位としては低くていいんじゃないかと(笑 意味があると、かえってシンドイこともあります、問題は「有害」になっちゃってる、ってことでしょう(笑 いかなる理論であっても、広い意味での自然に則ったうえで、こういうふうにできてるはずだという確信が得られてから実践に移せます。 ところが、最初に理論ありきで、まるで逆算するようにして無理やり形式だけ理論どおりにもってけば、うまく行くはずと目論んで大失敗することがあります。まさに、その理論を無理になぞろうとする舞台には、自分自身という自然を加えていることを忘れてしまってたのですね。これは愚かの誹りを免れなくても仕方がないです。これこそが理論信仰という一種の宗教的思考停止なのですから。 何ものかを救うために別の何ものかを犠牲にする、というのは、これをも「愛」のうちに含めるとするなら、まるで原初の鬼子母的な愛ですが。。。 >対処療法的(一時的には)には有るでしょうが。逆におかしくなる事も多々有るみたい 私も、これは実感してます。 われわれ皆、自然の強制力に従いつつ生きているのは確かです、かえって、そのことによって、いろいろなものを産み出してもきました。しかし人為で人工で強制してみたって、そこから何か産み出せるかといえば、逆の結果に陥りがちなのが人の限界という現実ではないでしょうか。 生かしもするし殺しもする、だけど自然自身は無理、無駄を行いません。 自然の営み自体が神のみわざ、と言いますけど、「汝、殺すなかれ」とも言ったといいます(信者だけ、という意味?)。 人為で いかに救おうとしても、最後は、その人の力です。それも自然のうちなのでしょう。 私たちは、せいぜいサポートしかできない、自然を あまねく支配する神のような存在ではないのだから、無駄に殺すことまで引き受けることはないんじゃない?と思います。 素粒子の観測問題を考えてみても、その反映のありさまには、自分自身を問われるものがあるように感じます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私もパチンコや競馬にのめりこんだ事がありますがあれは損をするために賭けるようなところがありますね。 楽しくない遊びは遊びとはいえないですね。 お金を出して楽しくない遊戯をするのですから人間というのは不思議な生き物です。 確かに遊びというのは不思議ですね。 ある人に言わせるとこの世界は神様が遊びで作ったそうですから。
哲学も宗教も人も、人を根源的には救えません。対処療法的(一時的には)には有るでしょうが。逆におかしくなる事も多々有るみたいですね。 救えると思う傲慢さを捨てれば、或は救われることを諦めれば、お天道様は救ってくれます。無学の智恵です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 根源的というと少し大げさな気がしますが >救えると思う傲慢さを捨てれば、或は救われることを諦めれば これもまた哲学の範疇のようにも思います。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.13とNo.20にて回答したものです。 全体的な流れを見ていると、「極端な形而上学的思索は避けるべき」という流れがあるようですね。 たとえば、 :回答番号:No.28 > 私としては極端な形而上学的思索に夢中になりすぎることに釘を刺すつもりでした。 > 過ぎたそれは恐らく現実逃避の手段としての哲学であるのかもしれません。 > なれば人にかまう暇などないというのもわかる気がします。 です。 「果たして、極端な形而上学的思索は、人を救えない」のでしょうか?No.20にても、逆説的な意味で「極端な形而上学的論争が多くの人々を救ったであろう例」を上げていますが、今回は私自身の経験を踏まえて書いておきます。 === 私が中学・高校生の頃、マイコンキットの出始めの頃なのでネットなんて言うものがなかった時代、様々な心的葛藤を含む思春期の悶々たる思いは、大学ノート10冊程に書き散らされています。 生きる目的・死後・自殺する友人・事故死した友人・恋・性・家族内の宗教的葛藤等々。。。 生きていこうとするならば、避けて通ることの出来ない形而上学的問題が眼前に横たわっていました。 当時は受験勉強で忙しい(だろう)時期であったにも関わらず、深夜のラジオ番組を聴きながら、答えのでない問題であろうと、なかろうとに関わらず、考え続けねばならないという状況にあったといえます。 もし、そういった「極端な形而上学的思考」に関して思索することを止めていたら、私は、私自身の心・人生に終止符を打っていたかもしれません。 そのころの自身の自身に対する格言(戒めの言葉)の一部です。 「這いずり回って得たものは大きい」 「格言を真の意味で理解するのは、経験した後であり、遅すぎるのである」 いくら「極端な形而上学的論争が無意味」だとか、(ヴィトゲンシュタインの)「語りえぬことに関しては沈黙しなければならない」とかいう言葉(知)を知っていたからといって、それだけで(極端な)形而上学的思考を停止するということが出来るのなら、それは、自身の自身に対する「思い・情」を堰き止めて(せきとめて)しまう行為に繋がることでしょう。 短く・儚い(はかない)人生であるにも関わらず、成長過程での1ページでは、その後の人生の数倍の思索が綴られることもあるわけです。 ネットの出現(「情」報ではない「状」報=「知」の氾濫)が、そういった個人個人のレベルでの自身の人生に深く関わる(情的な要素の大きい)思索というものに対して、どのように影響しているのかは興味深いところですが、少なくとも、他者の(極端な)形而上学的思考や論争というものを見る機会は増えている訳ですから、思春期の(過去の私を含め)彼ら自身の人生に対する悩みに対して、直接的・間接的に救いとなっている場合もあり得ると思います。(「間接的に」とは、一言で言ってしまえば「人の振り見て我が振り直せ」です) もし、「極端な形而上学的論争は無意味だから、止めてあげることが救いに繋がる」と思っている人がおられるならば、下記にて論争がくり返されていますから、救ってあげてください。 http://philo28-forest.1616bbs.com/bbs/
お礼
ご回答ありがとうございます。 10代のころのそれ(形而上学的難問)と私のような熟年のそれはずいぶん違うようにも思います。 若いころはそれを見出すことによって今の自分の存在の理由付けをしているのではないでしょうか。 なぜ学校に行かなければならないのか、なぜ生きねばならないのか。なぜ死ぬのか。 そういう意味で当人にとってはとてもリアリティのある事柄なのだと思います。 幸か不幸か我々大人はその問いについては『問わない』という暗黙のルールが出来ているようです。 それでも問うならもちろんそれはいいのですが、その理由が現実逃避でないこと、その結果得たものを他人に還元すること、は大人の哲学者にとっては必要なのではないかと思うのです。 前回例に挙げていただいた仏陀の例は無記ですね。 私が思うには形而上学的な事柄は今の実生活上で起きている諸問題を解決する助けにはならない。あの世に極楽を求める前に、今この生きている世界を極楽にせよということだと思います。 紹介していただいたリンク先は面白そうですね。 止めてあげることが救いに繋がるわけではないですが私なりの救いをしてみたいと思いました。
- ga111
- ベストアンサー率26% (247/916)
言葉遊びに堕する哲学論議は多いと思います。しかし、人間が精神活動をする以上、なんらかの形而上的な考えをもつのは必然的であり、それについての類型化、系統化は道具的に役に立つことも多いと思います。 すなわち、それはプラトン(もしくはニーチェ)的考えと類似しており、このような帰結と限界があると予見できるといった感じです。人を救えないといったら、学問(特に文系の学問)の多くは直接はひとを救っていません。しかし道具にはなっているのです。よって、言葉遊びにすぎないとするのは言いすぎでしょう。 「リアリティのない極端な形而上な事柄への思索」がどのようなことを指すのかにも拠りますが、それが人を救うことを前提としていなかったとしても、道具的に役に立つことを否定できない場合(否定することが難しいのでこの場合が多いかも)、言葉遊びにすぎないとするのは言いすぎでしょう。 繰り返しますが、実際には言葉遊びに堕する哲学論議は多いと思います(苦笑)。私はそういった論議を軽蔑します。
お礼
ご回答ありがとうございます。 結局はその道具をどう使うかが問われるのかもしれませんね。 バランスが大事ということなのかもしれません。
- htx2005
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仰るように それは「趣味」でしょう 第一に 人を救うなんて傲慢すぎますし 仮にそんな使命感を持つ人がいるとしたら、 おおきな思い違いであると思います。 それを目的とするなら、 哲学はその機能もなくその力もありません。 実体がない言葉をいじるのですから リアリティなどそもそもありません。 また、自重するもしないも、趣味の範疇であればOKだと思います もっとも、趣味によって気晴らしができるという 非常にライトな救いはあるかもしれませんね。 まあ、適当にやる分には、楽しい遊びですね。 (真剣に取り組んでいる方 すみませんね)
お礼
ご回答ありがとうございます。 哲学にとっての使命なんて問うつもりはないのです。 哲学を趣味とする人にはある種の力があるのです。 その力を使うと他人の助けになることがあるのではないかと思います。 この国では年間3万人の自殺者がいます。 原因は色々でしょうが人の心理によって死ぬという意味では同じものです。 心理カウンセラーとは違うやり方でしょうが、哲学者は心理に対して精通しているところがあると思います。 どなたか言っておられましたが、哲学者で自殺する人はとても少ないとのことです。 その力を役立ててほしいと思うのであります。
お礼
心の隙間お埋めします・・・・ 怖っ、何で埋めるつもりだ!!