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人を救えぬ哲学は言葉遊びではないか
このカテでこのような質問もなんですが、 哲学があるいは哲学者が人を救うことができない或いはするつもりがないなら、それは言葉遊びの探求ということではないでしょうか。 リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべきではないでしょうか。 単なる趣味ならかまいませんが。
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No.16です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人を救うにも哲学が役立つしむしろ必要でしょうといっています。 そんなに難しい質問でした? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ じゃあ 初めのほうで 回答者たちが受け取った解釈で いいんじゃないですか。《人を救う》という言葉についてのことです。 そんなに 話し合いがへたなのなら まだ 哲学の話をするには 十年早いのとちがいますか。 《すくい》とは何かについて 必ずしも 明確ではなくても ともかく ひとが《あぁ これによって すくわれた》と表現することがあれば そこで 哲学なり何なりが役立ったというふうに捉える。こういう前提であるなら すでに みなさんも じゅうぶん 回答しているのじゃないですか。 ★ (No.3お礼欄) 人を救いを風任せにはできないように思うのですが。 ☆ そうではありません。ようく話を聞いて こたえなさい。 ○ 《言葉遊び》であっても 時として 気ままな風によって ひとをすくうことがある。 ☆ と言っているのです。 ★ 人を救うにも哲学が役立つしむしろ必要でしょう ☆ 《人を救う》というところは 《風の吹くに任せて ひとをすくう》と言いかえて そのように はじめから 言っているじゃありませんか。まづ そのように捉えなさい。 そのあとで その内容を 自分は採らないと言って 否定しなさい。 けれども 《言葉遊び》でも あるいは《単なる趣味》でも 《ひとをすくう》ことは じゅうぶんに あると言っているのですから あらためて きちんと受けとめた上で こたえるべきでしょう。 考えてもみてください。自然現象であっても 人は そのことに接して あぁ すくわれる思いだと言ったりすることはあります。何がきっかけになるかは 決まっていません。何でもあり得ます。 この見方に賛成できなくても まづ そういう見解であるということは 受け止めなさい。それが ないので 話が おかしいのです。 世話の焼けるお方ですね。
- qsxdrfvgyh
- ベストアンサー率22% (17/76)
人を救いたいためにある医学もある意味、「人を救わない」でしょう。 つまり、新薬や新しい治療法の基礎研究の場合、コンピュータ抽選で処置群と未処置群に分けて比較検討しますから、未処置群に属すと救いはありません。 また、救うのは、医学ではなく、医療技術と施された方のうちで、それも全部ではなく、一部だけが救われています。 哲学は、基礎的で、徹底的な探究ですから、基礎的な医学と同様に研究に過ぎません。趣味といえば趣味でしょう。救済の道具にしたいならば、科学技術・医療技術のような哲学技術(僕の造語です)という話になるのではないでしょうか。つまり、的外れの質問だと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私の質問はそんなに難しいでしょうか。 普通の人ならわかるはずだと思っているのですが。 鉄という材料だけでは車は出来ませんが、 鉄がなければ車は出来ないでしょう。 鉄を哲学に置き換えるとわかりやすいですか?
- sakusya
- ベストアンサー率18% (6/33)
「言葉遊び」に救いがないとはいえ、それが無意味だったり意義がないとは思いませんが、哲学の枠から外れては本来の目的(哲学の基本思想みたいなものです)すら見失いそうではありますね。その場合は自重すべきだと思います。俺は哲学の枠から外れたものを「言葉遊び」と思っているわけですが、その見方からいえば質問者様はそれも哲学の枠に入れているようですね。 とはいっても、哲学と「言葉遊び」の境界線をうまく説明できませんし、定義を持っているわけでもないですから、その哲学が「言葉遊び」ということを否定はできません。そんな思考含めて哲学だと結論付けるのは軽薄にみえていいたくはありませんが、結局はそういうことだと……。境界線を引けず、うまく見えないことが問題なのでしょうかね。 >リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべきではないでしょうか。単なる趣味ならかまいませんが。 それは確かに思いますね。質問者様の仰るとおり、趣味なら構わないとは思いますが、それから外れると意図を図りかねますし。その視点から見た人に「言葉遊び」という言葉で片付けられても、少なくとも俺はその人に反論できる術を持ちません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 あらゆる行為に意味を見出すことは出来ますが、それが過ぎれば大人気ない屁理屈の領域に入りますので今は境界線がどこかというより当人以外の人から見て明らかに自己満足の中での哲学を言葉遊びと思っています。遊びにも価値があるというならその結果を他の人のために還元しなさいと思うのです。 「何のための哲学か」私が言いたいのはそこだけであります。
No.8ですけれど ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >だったら 哲学は 何も出来ませんよ。 それがbrageloneさんの哲学なのでは。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《だったら》の中身をようく読んでちょうだい。じゃあ あなたの哲学は 病気が直せるんかいな? ☆☆ (ANo.5) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ とは言え 何がきっかけになるかは まったく 分かりません。本人も 分かっていないという そういうものです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 世話の焼けるおっさんやなぁ。
お礼
人を救うにも哲学が役立つしむしろ必要でしょうといっています。 そんなに難しい質問でした?
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、shift-2007さん。 ●昔、近所の夏祭りで浴衣を着たクラスメートになまめかしさを感じたなー ↑ あかん、まだまだやー 何が? 何がってな?つっこみがきいてない ボケてんねんで、この時期に盆踊りやで、おかしいやろ? 季節ぶっ飛んでるやろ? そこ、つっこみどころ。 「なんでやねん!」 ハイ、では、つっこましてもらいます。 ●東京音頭かぁ ↑ パシッ-☆「なんでやねん!それも言うなら『夢一夜』やろー」 http://www1.ocn.ne.jp/~naka222/index200040.html 寝ぼけたらあかん 起きやー、起きやー、起きて踊るでー 用意はええか? んじゃ、いくで UFO-☆ (^人^) 未知との遭遇やね
お礼
UFO-☆ ピンクレディー?? モモレンジャー!? 菊池桃子! ふぅー
- tyr134
- ベストアンサー率51% (851/1656)
ちょっと視点を変えて。 「遊び」は無駄なのか?という問いを立ててみましょう。 通常「遊び」というと、「学問」や「労働」などとはワケて考えられますよね。 「休日のレジャー」のように、労働や勉学とは別の部分、言い換えれば、労働に上乗せされた「余暇(余剰)」と思われますよね。 本当に、「遊び」は余剰で「学問・労働」にとっては必要ないのでしょうか? オランダの歴史家・ヨハン・ホイジンガは、「人は遊ぶ存在である」と言っています。 そして、「真面目が支配するようになった十九世紀」は「遊び」と「労働」が厳然に区別されるようになり、「遊び」は無駄なモノ、不純なモノとして排除されていったが、「遊びが人間社会の文化の根源」であると主張します。 そして、「遊び」を次のように分析します。 ・日常空間とは袂を分かった場所で行われる(儀式、祭典的、裁判、戦争) ・その内部で、自由意志に従いルールが適用される(通過儀礼、闘技、詩の形式、裁判) ・物質的利益や必要を度外視している ・熱中・緊張・昂揚をもたらす こうした「遊び」とは文化と表裏一体の関係にあり、あらゆるところに影響を及ぼしていると言います。 「企業活動、議論、戦争、人の活動のあるゆる局面に遊びのようなルールと開始と終わりのあるゲーム的性格が見られる」と分析してみせます。 「真の文化はある程度遊びの内容をもたなくては成り立ちえない」とも主張します。 「哲学」も、「文化である」と規程すれば、そこに「遊び」を見いださなければなりません。 ということは、「哲学」の発展には一見無意味に見える「論争」や「言葉遊び」も、無駄では無いと言えるのではないでしょうか。 いや、むしろ「遊び」に裏打ちされて初めて「必要な哲学」が生み出されるのではないでしょうか。 実際、私たちに様々な利便性を提供してくれる「科学技術」も、その「論理」をたどっていけば、ほとんど「宗教的」と言って良いくらい「無駄な議論」が成されていたりします。 例えば、理論物理学ですがこれはほとんど「宗教的(信じるか・信じないか)」の世界だったりします。 そのため、「実験物理学」という実証を重んじる立場の人からはしばしば「遊び」だとして批判を浴びたりしています。 しかし、その一方で「理論物理学」から生まれた「仮説」から「実験」を成功させたりしています。 つまり、「遊び」である「理論物理学」に裏打ちされているとも言えるのです。 ということは、「人を救えぬ哲学」という「遊び」から「人を救う哲学」も生まれるという事になるかもしれません。 まぁ、あくまで「ホイジンガ」の「遊び」を援用しての仮説ですけど。 蛇足ですが、一見合理的な行動しか取らないと思われていた野生動物も、最近の研究では「(一見無意味な)遊び」をやることが知られています。 もちろん、子供だけでなく大人でも「遊び」があります。 そして、その「遊び」が「危険回避」や「進化」に繋がるとも言われています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 働かざるもの遊ぶべからずで、遊んでばかりでは困ります。 大人なのですから、自分の遊びがどんな意味を持つのかは自覚してほしいと思います。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
言葉遊び。。。 哲学。。。philosophy,philosophia。。。 智を愛する。。。 「愛する」は「情」であり、「智」は「知」であり、「主体」は「私」である。 これは「知」を越える「情」になろうか。。。 「愛を愛する」 とか、 「智を知る」 とかは何だか変だ。。。 (「無知の知」というのはありえるが。。。) 「愛を知る」 というのは、ありうる。。。 すなわち、「知」を越える「情」、「情」を越える「知」というものが自然と表されているのではないだろうか? 「知」で「知」を越えようとするとき「無知の知」といった、否定神学的な方向とかににしか逃げようがないのだろう。。。 (以上、稚拙ブログからの引用) 「人を救えぬ」こともないと思います。 現にわたしは自殺することなく、今を生きていますから。。。
お礼
ご回答ありがとうございます。 哲学も道具であると考えるなら使い方次第でしょうね。 自分を救って、なお人を助けることが出来るならいい道具であるといえます。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、shift-2007さん。 もしもし、つっこみそこねてるやん! せっかくボケてくれてんのにそこでつっこみいれなー ボケた方はそこでつっこみはいらな救われんやん サブ 「ソンしました」と言われたらすかさず「何でやねん!」ってかえさなー 「それも言うなら忖度(ソンタク)やろー、度ぬけてるやんけー」 あれ?まてまて、ソンとアホがでてきたってことは…ここで一曲 おどるあほうに みるあほう おなじあほなら おどらなそんそん で、おどるときたならば… ハァ おどりおどるなら チョイト 東京音頭 ヨイヨイ 花の都の 花の都の真中で サテ ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tokyoondo.html ドあほって?失礼やなー、それも言うなら愚か者とでも呼んどくれ はいはい、それではもう一曲 『愚か者』 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND1149/index.html んー、人間の営みその中でおこるあれやこれや 「はかなきは人の世の営み」 http://www.kitashirakawa.jp/taro/latin36.html
お礼
おや、ごぶさたではないですか。 東京音頭かぁ 昔、近所の夏祭りで浴衣を着たクラスメートになまめかしさを感じたなー 踊る阿呆と見る阿呆・・・ 哲学的ですな。
- noname002
- ベストアンサー率36% (97/264)
私は、どちらかといえば長文回答になりがちなものですから、ふだん、御質問者さまのスレに参加させていただくのは少々気が引けるのですが、今回、かつて私が当サイトで初めて質問したおりお世話になった懐かしいかたが お目見えで、久しぶりに参加させていただく気になりました。 さて「人を救えぬ哲学」以前に「人を救えるか救えぬか」 これは難しい問題です。実際、救うつもり(自分であれ他人であれ)が、あるいはサラサラ救うつもりでもなかったのにかかわらず、皮肉な、逆の結果をもたらしたというようなこと、いくらもございますでしょう。 「粋」ってのは、さっぱりと垢抜けしていて、しかも色気がある、ことなんだそうですけど、これもネチネチとした強制行為によって歪められるような事態になってしまえば、およそ「粋」とは程遠い。「粋」にしても「アイロニー」にしても、余裕を失っていては楽しむどころではありませんよね。でも、ネチネチ考えるのが哲学だろ、って意見もあるのは確かです。素直さに胸打たれることもあるし、いかにも泥臭いのを「美」と受け止める向きもあるでしょう(笑) ところで「粋」「アイロニー」ってコトバが挙がっておりますけど、これって皆、同じ感覚なんでしょうか?自分は、これをしも「粋」だと「アイロニー」だと思う、その基準が、てんでにバラバラだと、とりあえずにせよ何を基準に持ってこなくてはならなくなるでしょうか? 同様、「救えるか救えぬか」の実際も、何が誰に、どう はたらくか分かったものではない。 ただ、当サイトこのカテゴリーにおいて、これだけは揺るぎ無いのは、質問に答える、ということです。 そこで、答えかた、ですけれど、どのようなスタイルであろうと、質問者並びに閲覧者が、そこから何がしかでも汲み取れる良きものがあれば、それでよい。尚且つ、少しでも汲み取ってもらえるように、独り善がりに陥らぬよう気をつけながら、できるだけ配慮する。これは、まごころです。真っ当でシンプルな姿勢でしょう。 しかし、そこから逸脱すると、たちまちにして不快と争いを招き始める。それもまたドラマ、人生である。それもそうかもしれません。 なるほど私も「強制」が嫌いです。ましてのこと、それが自分にとって不愉快極まることなら抵抗しますし、その嫌悪を知っているからこそ他者に対しても、わきまえておきたいと思っています。にもかかわらず、思うようにいかないからこそ、それこそ「ドラマ」が生じてくるわけですが。。。しかし、他者の時間と生を歪め、潰してしまうようなことがあっては、これではドラマにすらなりません。まさに越権行為です。 私個人は、こうした場で「救い」というほどのものを求めるつもりもありませんが、それでも、いらぬ悶着を吹っ掛けられたくはないものだとは思います。いわゆるリアルのなかだけで充分過ぎですので。 「粋」も「アイロニー」も、ひとしなみでない。同様、哲学が「趣味」かどうか「趣味」でなければならないか。 そのかみ、哲学発祥の地ギリシャの哲人においては、哲学とは、まさに「血みどろの戦い」であったといいます。 私自身は「血みどろの戦い」をしたいわけでもないのだけれど、しかし「趣味」でなければならんとも思わずに、ただただ気づけば、思索をしている。なにものかに出会って、自然と、そうしている。それだけのことです。 ですが「強制」なんぞされたひには、哲学以前に、その「強制」と戦ってしまうのです。 哲学は、いかんせんコトバを用いて行うものです。ですから往々「言葉遊び」に陥りがちにもなるのでしょう。それでも、せめて「粋な言葉遊び」となって、そこからでも何がしかの慰めや良きものが拾えればよい。 でも、何ら良きものが拾えないときには、むなしい。口のなかに泥を詰め込まれたような気分になることもある。その泥を、おいしいと言って呑み込みなさい!と「強制」する人の「哲学」って、何なのかとも思います。 そういうとき避けるのも自然ですし、こうした場では、それが許されているはずです。 同様、救わなければ許されないわけでもない。 どこまでも付き合って付き添って、相手の気が済むまで自分を殺さなければならないなんてことはないはず。 それよりも、私が思うに、このような場で、救わねばとか救って欲しいなどと思い詰めるような期待があるとしたら、何も「リア充」たれ!とは申しませんけれど、それこそ問題なんじゃないかという気もします。 哲学は驚異を持って根本を問うもの。「リアリティ」を「形而上」を「言葉遊び」を「常識」なるものを疑うのもよし。 しかし、なんにせよ、それが自分一個の感覚や考えについては問答無用で棚上げしたうえでのものであるなら、私は、それこそが哲学から程遠い、むなしいことだと思っています。 (長くなってしまいました、ごめんなさいネ)
お礼
ご回答ありがとうございます。 このカテの常連の方は誰かに救ってもらおうなんて思ってないでしょうね。 なので救われるべきは我々ではなく、例えばメンタエルヘルスや人生相談のカテで質問を立てているような人たちです。 そういう人たちに対して哲学的な考え方は新鮮に写るんじゃないでしょうか。 その程度でいいと思います。
人は、脳の思考で、何でも解決しようとしますが、考えることは、迷いとストレスばかりで、何も解決しません。逆に脳を、休めると、新しい世界が体験できます。日本の伝統芸能は、脳を休めて、心を癒す目的で、創られています。哲学よりも、伝統芸能を体験すると、心が癒されます。座禅、能、茶道、人形浄瑠璃、演歌、舞、邦楽、日本画、落語、俳句、短歌など
お礼
ご回答ありがとうございます。 考えるとはどういうことなのかを知る必要はありますね。 バランスが大事でたまには脳みそを絞るのもいいのではとは思います。
お礼
ご回答ありがとう御座います。 >じゃあ 初めのほうで 回答者たちが受け取った解釈で いいんじゃないですか そうですよ、ただ、私はbrageloneさんに対して回答をしたのですからこれはbrageloneさん向けであって誰のものでもないじゃないですか。 >そんなに 話し合いがへたなのなら ご冗談でしょう? この質問でこれほどまでに攻撃的なのはbrageloneさんだけですよ。 なぜそれほどまでにあなたは攻撃的なのですか? まあ私に原因があるというのでしょうが少し度が過ぎませんかね。 人間の心理については切り捨てるのに、自分の怒りという感情にはながされやすい。 私から見ると話し合いが下手なのはbrageloneさんの方だと思います。 >《人を救う》というところは 《風の吹くに任せて ひとをすくう》と言いかえて そのように はじめから 言っているじゃありませんか。 ここは私の理解度が低かったようです。 すいません。 brageloneさんは哲学的な知識や考え方を人一倍所有しているのになぜ哲学のカテでしか回答しないのですか。 メンタルヘルスや人生相談には助言を必要としている人がたくさんいますよ。 ご自分の今まで積み上げてきた経験をその人達に還元しないのはどうしてなのでしょう。 多分brageloneさんは私より年上でしょうから、若い者たちのサポートは年寄りの仕事じゃないですか。 私は役に立ったかどうかは分かりませんがいろいろ回答してきましたよ。 別のIDでやってるというならいいんですが。