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人を救えぬ哲学は言葉遊びではないか
このカテでこのような質問もなんですが、 哲学があるいは哲学者が人を救うことができない或いはするつもりがないなら、それは言葉遊びの探求ということではないでしょうか。 リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべきではないでしょうか。 単なる趣味ならかまいませんが。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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≪哲学はその通り、趣味ですね。詩や音楽、絵もドラマも粋なのは、アイロニー(皮肉、逆像)あってこそ強調され順当な素直な作品より鑑賞する醍醐味奥深さも増すものだし。哲学は粋なものであればいいんです。オブジェとして我人生に飾るのさ(by師匠)。≫ はよく納得できます。 ご回答者さんにいうのではありませんが、哲学のお話は根本から根本へいくことがほしいことですよね。 そして自分(そのお話)がどういうものであるかをしっかり意識して、提示していくことが望まれますよね。 その拠って来たる論の基盤と、価値理念の提示は不可欠だと存じます。 私の思いですが、知、演繹、認識能力(カントの批判はまだ中途ですが、無論あの大先生はその中途までをご自分の範囲とされていますが)の性格と基盤、そして正体の提示ですよね。 それは哲学を、換言すれば知的操作を出るところまで赴かないと、充足させられないと存じます。 その一つが、直観とかいうもの、その一連のことではないでしょうか。 いろんなお説の中には、そういう実現認識に到らないで、知の、概念の演繹でなんとか全部分かってしまおうという、ところが見えますね。 山の景色はそこにいって初めてみられるもので、到達もしないで、ことばで判るというのは、その範囲で終始している、作業しているかのような節(ふし)もあると見受けられています。 そういうことはとても非生産的ですよね。 ご質問のタイトルはそれはそれで。内容の中のことば遊びというところでは、私は以上のように思えております。 そういう言葉での範囲は、形而上でもなく、もっとも愚劣なものぐさの形而下だと、感じることがとても多いのです。 そういう意味でご質問の形而上という表現はまずいなと存じました。 具体性を書いているという意味であればわかりますが。 言語という手袋をしたまま、握手したり、触診したりするようなもんですね。 言語を出て言語の説明や操作をして欲しい。それでこの投稿文章は言語をでておりましょうか? 私においては出たところから書いておりますが、書いたものは明らかに言語の着物をきています。くるんでいます。 それを脱がしてくれるのは、お読み下さるお方のお心でしかありません。
No.5です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >ひとを救うという使命でも帯びているというのでしょうか。 でも使命でなくても人はそれをするんじゃないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《ひとを救う》を そういう意味で使っていたのですか。 救急であってもなくても 生命救助・病気治療や あるいは 何か具体的に必要とするものごとの問題として 手を差し伸べる助けあいや そういう社会的な相互援助のことを言っているのですか。 だったら 哲学は 何も出来ませんよ。下品な言葉を使えば 女ひとりをはらますことも出来ないと 昔から 相場は 決まっています。 くだらん質問につきあって そんしました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >だったら 哲学は 何も出来ませんよ。 それがbrageloneさんの哲学なのでは。
- seinnzeit
- ベストアンサー率40% (2/5)
そもそも「リアリティー」とは何でしょう? 「形而上」とは? 「事柄」とは? 「思索」とは 「人を救う」とは? こういうことを ひとつひとつ考えていくと あなたの質問にしろ、 私たちの回答にしろ、 きわめて意味が疑わしくなってくるわけです。 日常的に前提とし使われている概念や言葉を 「・・・とはそもそも何か?」として点検していくこと、 それこそが哲学の問いなのだと私は考えています。 したがって「哲学が無用かあるいは有用か」ということも、 これらの問いに答えた後でなくては意味をなさないわけです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 哲学が無用かあるいは有用かはあまりどうでもよくて、 思索によって得たなんらかのものを人を助けることに還元すべきではないかと思うのです。 究極の答えが出るまで待つことはないのではと思います。
常識とされることを常識的に判断していれば日常生活も順風に送れる可能性が、確立が高いものの、現実には人を助けるにも限界があったり、不可知なこともある。 何を考えているのかとか、非常識とか、薄情な奴と指さされたり、バカアホなどど石を投げられたりすることがあっても!? 哲学することの利点は予定通りに事が進まなくても不条理を持ち出し決め付けないことですね。 何だが幸福も不幸も生き生き生きているからこその果実に見える。 粋に見える。 哲学はその通り、趣味ですね。 詩や音楽、絵もドラマも粋なのは、アイロニー(皮肉、逆像)あってこそ強調され順当な素直な作品より鑑賞する醍醐味奥深さも増すものだし。 哲学は粋なものであればいいんです。オブジェとして我人生に飾るのさ(by師匠)。 そんな師匠に感化されてしまった私の哲学も趣味範囲ですね。 誰に強制もしません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 とても健全だと思います、ほんとに。 バランスが大事ですね。
No.3です。補います。 遊んでいる姿であっても つとめて何ごとかに打ち込む姿であっても いづれが すくいのきっかけになるかは どうなんでしょう。 分からないと言いたいところ あるいは 言うべきところでしょうが おそらく 遊んでいるところのほうが より一層 つよく長持ちのする印象を与えるでしょうね。 逆に言えば まじめで 立派な姿勢でいる場合に きっかけとなったとしますと それは メッキであったということが しばしば 起こります。なぜかと言えば その人のまじめではない遊びのときの姿を あらためて 見てみると 多かれ少なかれ 失望を禁じ得ない印象が やはり出て来てしまうものだからです。誰でも そういうものではないでしょうか。 とは言え 何がきっかけになるかは まったく 分かりません。本人も 分かっていないという そういうものです。 もう一度言いかえるなら けっきょく 二十四時間体制での自分の姿を見せているということに尽きます。ただし 見えてしまうことと 見せるということとは やはり違いますから 煮詰めて言ってしまえば 他者に対する態度においても 他者に対するという意識や意図は まったく どうでもよいというのが 結論になるでしょう。 それでなければ その人は いったい どういうつもりで 生きているのでしょう? ひとを救うという使命でも帯びているというのでしょうか。 そんなばかな!! わたしたち人間が ひとをすくうのではありません。勘違いしてはいけないでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >ひとを救うという使命でも帯びているというのでしょうか。 でも使命でなくても人はそれをするんじゃないでしょうか。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
回答番号:No.2です。 この直後のご回答は、ものごとの成り行きと結果としては極く当然の理(ことわり)ですね。 ある人を救うことになるかならないかは、確かに判らないことですが、自己と人類の問題について解決する真摯な意図、態度は必要ではないかと存じます 哲学ということでは、する側の自分と他者に対する態度の問題が質問者さんのご質問かと理解できます。 そういう意味での回答番号:No.2に対する補足を致します。回答者同士の議論はこういうサイトでは慎むべきですから。あくまでも補足です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですね、できれば人を助けることができる哲学であってほしいと思います。
こういうふうに考えてください。 風は 気ままに吹く。 いつくしもうと思う者をいつくしみ あわれもうと思う者をあわれむ。 全世界 歴史の全体 哲学談義を含めて社会におけるできごとのすべて これらのどれが 《すくい》のきっかけになるかは ひとには 分かりません。 むろん きびしいことを言えば すくいのきっかけにすら いっさい 成らないということかも分かりません。ただ それは 分からないのです。 という事情そして情況を前提として 捉えるとよいでしょう。 つまりは 問題は 哲学が 言葉遊びであるかどうかを はるかに超えています。何ごとであっても きっかけになりうるという意味です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 人を救いを風任せにはできないように思うのですが。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
冷たく、外科医のメスのような知のための知ということであれば、回答番号:No.1様の哲学も哲学といえます。いえそう思います。 55年も前中学の頃、仲間同士で“観念の遊戯化”などと呼び合いました。 真剣に真理を求め愛するものに、単に知の好奇心、辻褄、或いは知の操作で認識をしようとと、質問することは、する方もされる方もくつうであることを経験しております。 そういう質問探求は、的外れ、誤解、思い違いの内容を得ることしか出来ません。 このカテでよく膨大なやり取りの質問や回答があり、そのナンセンスさを指摘すると、地図は必要であるといいます。 地図は必要でありますが、誤解や思い違いしかできていない地図は地図の意味はないと存じます。 宗教と哲学は異なる側面もありましょう。 哲学の無い宗教は無目です。 宗教の無い哲学は立脚根拠と価値理念の無い、メカニカルな、或いは砂漠の冷たい歩みです。たどり着く目的を失っています。 そういう意味で、おせわになった、このカテでの質問と投稿を悲しく去る決意をしているところです。 ヒンドゥなどの東洋の哲学と異なり、ギリシアやキリスト教の神学などはどうしても、私にはなじめません。 知の貫徹と充足は大切ですが、やはり価値と立脚を喪失していて、なんとか知だけで歩こうとしているような感想をもたされます。 知はたいせつであり、これを疎外した、宗教は存立しているとはいえません。信仰は盲目的。そうでしょうか?信仰こそ知という目も、それ以上の透徹した意識も、存在も必要だと思います。安易な信仰は信仰ではなく、自己放棄です。 自己放棄では、自己を超越、捨てることはできません。 信仰ほど哲学と論理を必要とするものはないのです。 哲学ほど、知を超えた存在の認識を提示するように求められているものは無いのです。 そういう意味で、質問者さんの提起に同感しております。 知のための知。それは学として必要です。その知を徹底して、知が存立し、それを超えていることが何かを提示できない学を私は軽蔑する気になってきました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 人のインセンティブは不思議なもので、自分のため以上に人のためというのが強く働きますね。 このサイトには色々なカテゴリがありますのでkrya1998さんのいうところの哲学、宗教を必要としている人はたくさんいると思います。
- dai-ym
- ベストアンサー率22% (848/3824)
別に人を救えなくても、本人が納得できればそれで良い。 たとえそれが自分を救わない答えであっても。 哲学って別に宗教のように他人を救うためにあるのでなく、ある命題(真理とか正義とか善悪とか)にたいして考え答えを導き出すものです。 それを言葉遊びと見るのか、そういう追求が大事と思うのかは価値観の違いでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 哲学することには何も異存はないのですが、それをどう生かすかが重要じゃないかと思うのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >自分(そのお話)がどういうものであるかをしっかり意識して、提示していくことが望まれますよね。 ここが運命の分かれ道なのかもしれませんね。