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WILL 小林よしのりさん達の2月号の論文でご質問・・・
Will2月号 で小林よしのり氏は、 「そもそも、満州が当時、漢民族の土地だったのか?」と問い、 本来、満州族の土地に愛新覚羅を連れ「帰った」のだから、 漢民族の支配よりずっと筋が通っている。 と言われていますが、 本当に歴史的にそれは筋が通っていることなのでしょうか?? 愛新覚羅とは満州族なのですか??
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愛新覚羅とは満州族です。 満州は清国の土地で会ったことは間違いありません。 清国から、漢民族が独立し中華民国をつくったとかんがえるなら、中華民国と満州はそれぞれ別の国家となったと考えられます。 このように考えるなら、小林氏の意見は筋が通っていることになります。 しかしながら、1912年に溥儀が退位するときの上諭には >清国皇族の中華民国国家の公権及び私権は国民と同等とす。 とあります。 このことから、満州族は中華民国国民となったとみなすことが可能ではないかと考えることも出来ると思います。 すくなくとも退位当時の満州族の代表である溥儀は満州族は中華民国の一員になったかんがえていたのではないかとおもえます。 もっとも、溥儀は退位する条件(清国から中華民国へ移行する)として自分や皇族がさまざまに優遇されることを条件にしていたようです。 さきほどと同じ上諭には >大清皇帝辞位の後歳費を四百万両とし清貨幣改鋳の後改めて四百万元とし中華民国より支弁す。 とあります。 中華民国政府は当初その条件を守り、溥儀や皇族にさまざまな特権をあたえていましたが、しばらくするとその条件を守らなくなりました。 ここで溥儀が「俺を優遇してくれるかわりに中華民国国民になると約束したけれど、俺への優遇がなくなった。だから中華民国国民になるというのも無効だ。」と考えた可能性もあるとはおもいます。
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- jayoosan
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現代のような中国や韓国の反日、日本の嫌韓、反中の雰囲気がただようようになるずっと前の80年代に書かれた、作家の陳舜臣による清国建国までの流れを書いた小説には、たしか次のようになっていたと記憶しています。 まず明の時代のあと満州民族が北京に入るまで、たしか漢民族である李自成という人物が明を滅ぼし、自ら王として順(大順)という国を建国宣言しました。 陳舜臣によれば、明の市民たちも「順市民」のような張り紙を家の前にして従順さを示し、また李自成の軍が北京城に入城の際には歓迎し、迎えたとしていたと思います。 満州族の清国の前には、わずか40日ですが順という国というか王がいる中心地があったのです。 しかし、当時中国は東北にいる満州族も含め力の衝突やにらみ合いが続いており、まだ中国は安定していませんでした。 明をほろぼされた明朝末期の軍人呉三桂は、満州族に近づき、援軍を求めました。そして自ら髪の毛を剃って満州族と同じ弁髪にし(戦いで見方を見分ける満州族の目印)、一緒に中央を攻めて、満州族ドルゴンらは李自成を滅ぼし後に北京に入りました。 この後著者である陳舜臣は、大まかに書くと中国東北部、すなわち後の満州地域を、次ぎのように描いていたと思います。 ・満州族および配下の八旗の多くは、中央、すなわち北京に移りすんだ。満州は人のいない地域となった。 ・その後、この東北部、すなわち満州国と後に呼ばれる地域は、人が住まなくなったが、満州族の先祖ゆかりの土地であるため、漢民族など他民族が万里の長城を越えて入ることを禁じた。 ・しかし、満州族に牛耳られた中央で生きる場を失ったり、弁髪など満州の風紀を強制され逃げ出す人、犯罪人、反政府を企て得る人々などは、東北部の空き地に目をつけ違法に移住した。 ・後のその移住者の数は増え、清朝も施策上それに許可を出した。 つまり、この土地は満州族の土地として清朝下では管理されていたと表向きは見えます。 また、漢民族は移り住んだものの、一般民ではなくいわくつきの人が、生きるため、生き残るために長城を越えたというだけに見えます。 そういう意味では、この土地は清朝建国以前のヌルハチの頃より、満州民の土地だったと言えると思います。彼らは政権を取ったため、中央である北京や長城内側に集団で移りました。 実際長くこの土地は、不毛の土地のような状況だったと、陳舜臣も描いています。 なので、溥儀は本来満州民の土地である東北部にもどったというのは、正しいとも言えます。漢族が住んだり、支配した土地ではなかったのですから。
お礼
どうもご丁寧に有り難うございました。 満洲というところが特別なところであるという意味が 改めてよく分りました。どうも感謝です!! 大変参考になりました。
>ま、当時は、侵略は国家の外交上の延長手段として当然に >認められていた立派な権利ですから・・・ >それを今の基準で善だ悪だというのは馬鹿げています。 認められていた立派な権利とは必ずしも言い切れないのではないか思います。 軍人の中には確かにそのような思想を持っていた人もいるかもしれません。 しかし、当時の国際社会では、しかるべき理由がなければ、侵略はしてはならないと考えもあったのではないでしょうか? 満州事変の発端は満州鉄道線路上で爆発が起き、関東軍がこの爆発を張学良率いる東北軍の仕業だとして、戦闘を開始したことです。 現在では満州事変の発端となった爆発は、関東軍が自作自演だったというのが定説になっているようです。 つまり、自分で爆発を仕掛けておいて「これは敵の仕業だ!」といって攻撃したわけです。 侵略が当然に認められていた立派な権利であるならば、なぜ自作自演までしなければならなかったのか? しかるべき理由のない侵略は当時でも良くないと言う見方があったのではないかとおもいます。 そして、「あるかもしれないソ連のアジア侵攻から日本やアジアを守るため」というだけでは、しかるべき理由と国際社会から認められない可能性が大きかったのではないか? だからこそ、わざわざ「東北軍から攻撃を受けた」という理由をでっちあげたのではないかと思います。 さらに、関東軍は支配した地域の名目上のトップとして関東軍でも、本土の要人でもなく、満州族の溥儀を擁立します。 傀儡政権を樹立したのは、満州地方の人々の協力を得るためもあったかもしれませんが、国際世論の批判を避けるためだという見方もありようです。 自国の領土拡張ではなく、あくまで現地民の独立を支援しただけだと各国に対して主張しなければならなかったのは、 しかるべきりゆうのない(あるいは、ソ連からの防衛というだけの理由しかない)領土拡張が非難の対象になりえたからではないでしょうか? 当時の価値観は現代の価値観とは確かに異なりますし、現代の価値観を持って悪とか善とかいうのは誤りかもしれません。 ただ、「当時の日本軍の行動が当時の価値観にすべてかなっていた」と決め付けることで、見落としてしまうものがあるかもしれないと私は思います。
お礼
そうですね。貴殿の言うとおりだと思います。 私も同感です。 ただ、道義的、倫理的レベルで議論するのか、 あるいは、当時の国際法上の法的責任だけを追及 するのか、その土台を整理してから議論しないと この問題は、埒が明かないというのが私の持論です。 戦時国際法という「交戦法規と中立法規」がちゃんと あったわけですから、戦争してもいいけどルールは護りなさいよ! ということなんだと考えてます。つまり、国際法上は、当時、 安全保障上の侵略としての「謀略」(柳条湖事件のように)は、 戦術としては有効であった。ということです。 もし、侵略=悪だと断定したいのなら、私のように神を信じて いなければなりません。 神がいなければ、所詮、本当の意味で善も悪もないからですね。 ではでは。どうも有り難うございました。
- tanuki4u
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小林よしのり氏、なんか近代的な国民国家の目線で見ちゃっていますね。国民国家の概念自体が、最も早くて18世紀のヨーロッパ生まれで、後金国が成立した17世紀のあの地にできた段階で民族云々というのがそもそもナンセンス。 中央アジアから現在の中国東北部にかけての遊牧民集団論理は 「優れた指導者!」では、おいら達は付いていきます。 という構造になっており、人種的にはバラバラ。氏族というのもDNA的な意味はなく、同じ先祖ということにしましょうとうレベル。 満州族に関しては、ちょっと不案内だが、フン族のそれぞれの顔つきはバラバラだったとか、モンゴル帝国の指導者一族の顔つきもバラバラだったとか、現代的な感覚では理解できない世界です。
お礼
なるほど・・・ 主権国家に対する侵略のみ侵略とするというようなロカルノ条約的な 考えですね。 そういう意味では、確かに、満洲は、孫文も嫌っていたらしいですし まだ、主権国家中華民国が領土として完全に掌握仕切れて いなかった未開の土地だったんですよね。 だからと言って、侵略ではないということにはならないですね。 清の領土をすべて継承したのが、中華民国ですから、 満洲も、あきらない、中華民国の領土ですよね・・・ そこへ、石原完爾がアメリカとの最終戦争も辞さずという覚悟で 侵攻してくる・・・これはもう立派な自国の為の予防戦争であり 自衛でない以上、侵略です。けど、それは、当時、決闘の法理が まかり通っていた世界において、立派な主権国家の自衛の為の 権利だった。自国から観れば自衛であり、主権を脅かされた相手国 から観れば、侵略だった。当たり前ですね。 どうも有り難うございました。
- kawakawakawa13
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皆さん政治家に騙されるのが、本当っにお好きですね。 「歴史的」に見れば、日本の満州・朝鮮半島支配は、ロシア帝国の南下政策及び東アジア地域併呑政策に対する対抗政策だということが判る筈です。 ロシア帝国による樺太併合や対馬占領事件がなければ、日本の朝鮮半島・満州進出があったかどうか、疑問です。 士族の不平をそらすための西郷隆盛の征韓論を、明治政府は抑えたのですから。 それに反し、清や朝鮮は、ロシア帝国の侵略に対抗できず、清に至っては、沿海州に至る広大な国土を無償提供しています。 日本は、北海道方面と朝鮮半島方面からの、二方向同時侵攻には、国力から考えて到底対抗できないことから、日清・日露の両戦争を戦い、ロシア帝国のアジア侵攻を阻止したのです。 歴史的に見れば、日本の満州・朝鮮半島統治は、必然であり、非難を受けるいわれの無いものです。 それは、現在、共産中国において、日露戦争の存在すら教えないと言う事実が雄弁に物語っていると思います。
お礼
どうも感謝です。 ロシア帝国の南下政策及び東アジア地域併呑政策に対する対抗政策だということが判る筈です。 ロシア帝国による樺太併合や対馬占領事件がなければ、日本の朝鮮半島・満州進出があったかどうか、疑問です。---- なるほど、こういうことがあるんですね!詳しく教えて頂きまして 感謝です!! ロシアの恐怖はかなりあったそうですね。その防衛として 満蒙問題私見とかで石原完爾も言っているそうですが、 「干渉地帯」に要はしたかった。 ということでしょう・・・? ま、当時は、侵略は国家の外交上の延長手段として当然に 認められていた立派な権利ですから・・・ それを今の基準で善だ悪だというのは馬鹿げています。 それよりも、客観的に観て、相手の主権を脅かす軍事的行為は どんな大義名分にせよ侵略であると言うことです。 けど、侵略しました。それが何か??? というような時代だったんですね!田母神さんも、侵略は 認めています。ただそれが、穏やかな侵略・統治だったと・・・ 軍部多年の統治計画は、安全保障上の予防戦争であり、それは、 あくまで自国の為である以上、穏やかな統治であろうと、 侵略戦争であり、決して急迫不正な攻撃に対する正当防衛的な 自衛戦争ではありませんよね・・・ だからと言って、侵略の定義も国連でまだなかったあの当時、 日本だけが侵略国家だというのは、あまりにも、 浅はかな見識だと私もおもいますよ。 どうも有り難うございました。
- a-koshino
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1915年の21ヶ条要求において、満洲における権益(関東州の租借と南満洲鉄道)を99年間期限延長するよう、中華民国へ求めていますので、大日本帝国政府が満洲を中華民国の土地とみなしていたことは、明らかです。満洲族の話は一つも出てきません。 また、満洲国の建国において、『満洲人』による民族自決を主張したのですが、この『満洲人』とは、満洲族・漢民族・モンゴル民族を併せた概念なので、満洲国自体が多数の漢民族の存在を認めている、ということになります。
お礼
どうも有り難うございます。 そういえば、そもそも、満洲という場所がないようなことも 聴いたことがあります。 5族が合わさって満洲だとか・・・? となると、やはり、あまり、正統性のあるお話では なさそうですね!!??
お礼
どうも有り難うございます。 彼は満洲人だったんですね。分りました。 清国のすべての領土を継承したのが中華民国だと なにかで聴いたことがあります。 間接統治を願っていた石原完爾の意に反して、 日本軍が直接的な統治をしていたことに立腹したという 話もありますね・・・