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死とは哲学的に言うと・・・
先日、親戚が亡くなったですが、その人が亡くなった事実より、人が死んでいく様が印象的で、非常に恐怖を感じました。 それから、夜になると、人は死ぬとどこへ行くんだろう、どうなってしまうんだろう、なぜこんなに怖いんだろう、と考えるようになりました。 哲学的に言うと、人は死ぬとどこへ行くのでしょうか。 以前、哲学の授業で、デカルトは人は精神と肉体が一緒になってる存在だとか学んだ記憶があるのですが、これで考えると、人が死ぬと肉体は滅びるけど精神だけは残る、という事でしょうか。 では、残った精神はどこに行くのでしょうか。 なんとか、死に対して恐怖を抱かずに済む考え方を探しています。 「死」は未知なるもので、それに対して確定的なことは何もわからないから、自分がどうなってしまうのか分からなくて怖いのでしょうか。 皆さんの意見をお聞かせ願えませんでしょうか。 宜しく御願い致します。 乱文・長文、失礼致しました。
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- 00880088
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デカルトは昔の偉人ですがいってることが正しいとは限りません 何しろ証拠がありません、ただ彼の考え方です。 どうすれば怖くなくなるかとかそういう風に考えすぎると逆に恐怖が 増えてていってしまうのではないのでしょうか どうすれば恐怖を抱かないか?ではなくとりあえず怖いものは怖いで 目をそらしバカ騒ぎでもして忘れてしまえばいいのではないのでしょうか? 一般論ですいません。
- liichan
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こんばんは。 死は怖いですね。 私もよく死について考えました。 死んだらどこへ行くんだろうと 考えても考えても 私はやっぱり死んだことがないので結論なんて出ませんでした。 ここを見てる人はみんな死んだことがないので 分かるはずないと思います^^; 主さんは 今持っているもの、 たとえば頑張って貯めたお金で買った何トカとか。 自分の周りに存在する人が消えたら嫌ですよね? 怖いですよね? これが死に対する恐怖心ではないのでしょうか。 この世の人、ものとは離れてしまうわけですから。 大切な人とも会うことがなくなってしまうわけですからね。 うまく伝えれたかどうか分りませんが 私が「死」について考えた答えでした★
- nyon-tan
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哲学的には死とは無いものです なぜなら死ぬまで死を理解できないですし 死んだらまた理解できません 他者を他者と自分の空想の人物と分けることが出来ない以上 他者の死を観察しても意味はありません
- yayuh
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人の思考の構造は、過去に体験したことや知っていること、イメージできることを使って、そのことを理解しようとしたり、新たに創造しようとします。 自分の知らない世界には、自然と自己防衛の意識が働いてしまうのは、本能ともいえるし、教養で身につけてきたともいえるでしょう。 死の世界を知る由もない世界であれば、生きている世界で知ること、体験できることで理解しようとしてもできません。それを、追求した結果、極的な世界を描いてしまったのが、神や地獄ではないかと考えます。 死の世界を知るには、生きるとは何かを知ることが必要でしょう。生きることは何かを知り、その世界を全て創造的否定ができることができれば、死の世界を知ることができるのかもしれません。 私も父方の祖母が亡くなった時に、゛一人の命の重さは地球よりも重いはずなのに、亡くなってもこの街は一瞬も止まることがないのはなぜだろう″と切ない想いにかられたことがありました。 不思議ですよね。生きること、死ぬことは。
>なんとか、死に対して恐怖を抱かずに済む考え方を探しています。 >「死」は未知なるもので、それに対して確定的なことは何もわからないから、自分がどうなってしまうのか分からなくて怖いのでしょうか。 信頼できる死後の知識を得た後、あるお通夜で初めてお年寄りの死体を目の当たりにしました。 これがうわさに聞く死ぬという状態なのかと、さすがに知識を得ていても、少々うろたえる経験であるとは正直なところ感じます。 もっとも戦ばかりの時代には死体などいくらでも転がっていたのであり、珍しくも何ともなかったのでしょうけど。 要は慣れなのかな、と思います。 それで何にうろたえたかと申しますと、昨日まで精神を持って動いていたそれが、今はもぬけのからになり、動かない肉人形になっている、その奇妙さに対してではないかと思います。質問者様もそういう、普段考えられない奇妙さ、自分もそうなるという事に恐怖を感じるのではないかと思います。 親しき相手ならば別れに対する恐怖そして悲しみもあると思いますが、質問者様はそれよりも、自分が死んだらどうなるのか分からなくて怖いという事が問題なのではないかと思います。 死後どうなるかという説には2つあります。つまり死後精神は魂として存続するという考え方と、いいや脳死によって精神は存在が消えてしまう、つまり無になるんだという考えです。 今死後どうなるかという議論にはこの2つの選択肢のどちらかしかありません。 ところでこの2つとも冷静に考えれば恐ろしいことではないと思います。死後に精神が継続するならば、生前も死後も心に変わりはないのだから恐れる必要はありません。生前と同じく楽しんだり苦しんだりする自分という存在はそのままでしょう。性格が変わるとか、環境がどうなるかは保証しませんが。 死後無になるのなら、恐怖すら無になるのだから、死後を想定して恐れる必要もありません。 だから、死者の肉体から精神が抜けた、又は無になった、そして肉人形になったからといって、本人にとって恐ろしい結果にはなってないってことです。傍から見て、自分もなる分からない状態を奇妙でおどろおどろしいと感じるだけです。要は慣れです。 あと、考えられるのは現世の自分に対する自己愛があります。現世での肉体と環境を持った自分を愛して執着し過ぎると、現世での自分を失うことに恐怖を感じる可能性があります。 そういう場合は、現世での自分は永遠に存続するほど価値のある存在ではないという謙虚な認識によって、恐怖から解放されるのではないかと思います。
宗教(一種の哲学)の多くは、死後、精神が別世界に行って永遠の生命を愉しむという考えを述べています。これを信じれば貴方は死の恐怖を減じる事が出来るはずですが、信じる事が出来ないのですね。 孔子をはじめとして哲学者は余り死後の事を語らなくなりました。誰にも確認できないからというだけではなくて、精神が肉体と密接に結びついているだけでなく、不可分のものだということが分かってきたからだと思います。 死の恐怖のひとつが自分の消滅と世間からの忘却だと考えたひとは、巨大な墓やモニュメントや銅像を作らせたりしましたが、一般庶民には余り勧められません。それでせめて自分の精神だけでも後世に残そうと様々な試みを続けてきました。そのひとつが芸術なんだろうと思います。生きているうちにそれを作って、よし!これで死後も絶えることのない名声を保てそうだという確信を得れば、死ぬ事もさほど苦痛ではなくなります。他にもモニュメンタルな業績を自分の活動範囲に残し、忘れられないひとになる方法はあるかもしれません。 ご参考になれば。
- code1134
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"死って何?(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1456099.html )"との題の質問に対する、NO10の私のカキコみを挙げて、且つこの中の2b)での"悩ますて"を"悩まさなくて"へ修正して、私の死生観を明確化させて置きます。 更に、今回の場合は質問者さんは非常に恐怖を感じている模様ですが、そうであろうが、自殺の形で進んで死を選ぼうが、"死は即ち不可避な概念でジタバタした所で仕方ないのでは?"とも私は捉えています。 確かに恐怖を感じても仕方ないのかも知れませんが、自殺者一覧なるURLがある位ですので、質問者さん程には死に対する恐怖を感じず、拠って自発的に、その生涯を閉じた向きが実在した点も付記して今回の拙いカキコみを終えます。 失礼致しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%AE%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E6%9C%89%E5%90%8D%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
- safecity
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vvgvgvさんのいうとおりです。我々の本質は、光の生命体です。本当かうそか、2012年12月22日(日本時間)にはっきりするかもしれません。2012年12月22日に25800年の周期を終えて2013年3月28日からアクエリアス時代に入り、我々は3次元の世界を卒業して5次元の世界へ行きます。マヤ人によると2012年12月ごろのある日突然世界中が3日ほど暗闇に包まれるそうです。これは、地球が銀河系の中心平面を通過しているということです。このときもし地球の南北が入れ替わり回転軸の位置がずれるとハリウッド映画のようになります。 このとき青い強い光が銀河の中心から注ぎますので、この光を浴びてください。これによりあなたのDNAは新しくなり5次元にいくことが出来ます。5次元の世界は、3次元の時のように死にません。体は魂の一時的なよりどころで必要な時に新しい体に変えられます。もはや地位やお金の奴隷ではなくなるのです。でも爬虫類人たちが我々を自由にさせまいとたくらんでいます。6000年ほど前に、我々よりも長く住んでいる爬虫類人の一部が地上に出てきて人間と血縁関係を結び、13血統をヨーロッパに広げました。エリザベス女王や殆どの王族そしてアメリカ大統領の44人中43人は爬虫類人と混血です。ブッシュやオバマはエリザベスの親戚です。彼ら爬虫類人は、このところ人間の姿を保てなくなり多くの人に変体している現場を目撃されるようになりました。混血率が50%の場合爬虫類の姿になることが出来るのです。なかなか写真が取れませんが、殺されたダイアナさんの事故現場写真の顔を見ればあごに角が2本出ているのが分かります。 彼らは世界中の政治、経済、文化の中心を押さえていろので、日本の新聞やテレビを見ても必要な情報はほとんど流れていませんね。天皇陛下も英国皇室とは関係が深いですが、血統の違いで(白人ではないのでと表向きは言われています)世界のリーダーの仲間には入れてもらえないようです。芸能人にもずいぶん潜入しています。 我々は3次元の世界を卒業して5次元の世界へ行きます。爬虫類人達はDNAの関係で4次元までしか行けないので、家畜と馬鹿にしていても人間と混血になって5次元に行きたいのです。しかし2012年が近ずくにつれそれは不可能なことがわかっています。そこで我々をだまして3次元に留めようとするはずです。彼らは魂を集めることが出来るので、羊を納屋にとどめておく為に9/11のように、テロに見せかけた核戦争や自然災害に見せかけて多くの人を殺そうとするはずです。この難しい状況を乗り越えた、先代の地球人は、光の生命体になって5次元に移りました。映画未知との遭遇に出てくる宇宙人がそうです。彼らは今でも地球に住んでいますがいつもは地球内部にいてたまにUFOに乗ってコスタリカの上空に現れたりしています。http://www.youtube.com/watch?v=PKYn6a_8H-U 大惨事を免れて3次元に残っていた少数の地球人は、だまされて遺伝子操作をされ奴隷にされてしまいました(我々の祖先)が、2013年にアクエリアス時代に入り我々が愛と意識にめざめる時代になり、再び自由になる時がきたのです。アクエリアス時代とは、今までは個人を独立したものと感じていた意識が、全てはひとつなんだと気ずくようになるのだということです。でも日本ではなぜ誰もこの話しを知らないのでしょうか。ノルウエー政府は国民の半分を助ける用意をして地下避難所を2011年までに作ろとしているのに、日本はエリートだけを助けるつもりで、羊は勝手に死ねという官僚体制が明らかですね。 http://www.youtube.com/watch?v=JBM_Utij9u4 PS;これを読まれた方全てが目覚められますように。是非you tubeを見てください。
- qsxdrfvgyh
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死とは、自己が終焉し、「自分以外のもの」になってしまうことだと思います。この「自分以外のもの」のことを「究極の他者」と言うことができるのではないかと思います。 >・・・その人が亡くなった事実より、人が死んでいく様が印象的で、非常に恐怖を感じました。 「他者の死」を体験すると、その類推適用で、「自己の死」を想定し、恐怖するというのは、誰でも経験するものですが、自己の死を誰も体験できません。体験は、自己の死の直前までで、自己の死自体は誰も体験できないのです。つまり、自己の死以降は、自己の人生の出来事ではないのです。 >それから、夜になると、人は死ぬとどこへ行くんだろう、どうなってしまうんだろう、なぜこんなに怖いんだろう、と考えるようになりました。 「どこへ行くんだろう」は、愚問になります。なぜならば、自己の死以降は、自己の人生の出来事ではないのです。分からないから、怖く、不安になるという点は、充分理解できますが、超経験ですから、分かるはずがありません。 >哲学的に言うと、人は死ぬとどこへ行くのでしょうか。 繰り返しになりますが、超経験ですから、分かるはずがありません。 >以前、哲学の授業で、デカルトは人は精神と肉体が一緒になってる存在だとか学んだ記憶があるのですが、これで考えると、人が死ぬと肉体は滅びるけど精神だけは残る、という事でしょうか。 では、残った精神はどこに行くのでしょうか。 「精神だけ残る」ということは、そもそもありません。残らないのですから、「残った精神」がどこかに行くということも起きません。 >なんとか、死に対して恐怖を抱かずに済む考え方を探しています。 自己の死は、自己が終焉し、「自分以外のもの」・「究極の他者」になることと定義しても、心理的に何の解決にもならないのも事実なのです。恐怖・不安・拒絶感は避けられません。これらは普通の反応です。反射的とも言えそうです。避けられないものには、慣れるのみです。恐怖感を麻痺させるか、違うことを考えて、意識を反らすかして、誤魔化すだけでしょうね。何かに没頭することで忘れてしまうという具合です。 >「死」は未知なるもので、それに対して確定的なことは何もわからないから、自分がどうなってしまうのか分からなくて怖いのでしょうか。 そのようです。未知です。超経験です。誰も分かりません。分かったという人は嘘つきです。自己の人生の出来事ではないのですから、分かるわけが無いのです。想像しているだけでしょう。でも、本物の哲学者ならば、恐れつつも、死について探究し続けて、それなりの結論に達する過程で恐怖心を克服してきたと思いますよ。
死をわが身のこととして感じてしまわれたのですね。 参考になるかどうか、独り言のようなことを書きます。 人は死ぬと三途の川を小舟にのって向こうの世界へわたってゆくのだと 子どもころから聞かされています。 向こうの世界では閻魔大王様の尋問を受け、その御判定にに従って、 次なる世界へと旅立つもの思っています。 思っているだけですから真実という確証はありません。 どこから来てどこへ向かうのか? これが閻魔大王様が尋問において問うてくる内容であると勝手にその傾向と対策を想定しています。 勝手にと書きましたが、かなり信憑性のある傾向と対策ではないかと自分ながら感じております。 ギリシャ・アテナイのアポロン神殿にかかげられていた神託によく似た言葉があります。「汝自身を知れ」 あのエジプトのスフィンクスもそこを通過せんとする者に同じような問答を仕掛けているのではないかと勝手に想像しています。 「お前は何者か?」と。 閻魔様もアポロン様もスフィンクス様も一様に同じ尋問を投げかけ続けているのではないかと思っています。 閻魔様もアポロン様もスフィンクス様も私の人生の隅々までも知り尽くしているのにその上で私に聞いてくるのです。 「お前は何者か?どこから来た?どこへ向かうのか?」 うまく答えることが出来るのでしょうか。 対策らしいものは何一つありません。一発勝負の尋問です。 こうして既にお亡くなりになった方々は向こうの世界へ旅立っていかれたのだと思います。 三途の川を渡る小舟から見える錦のようにきらめく川面のそのきらめきのひとつひとつの光の中にこれまでの人生のエピソード(誕生のときから死を迎えるまでのすべてのエピソード)が、まるで再現ドラマのごとく映し出されていくのではないかと想像します。 それは閻魔大王様の尋問に備えて、今一度、自分の人生を振り返るために。それを眺めることによって、きっと、初めて自分の回答が見えてくるのではないかと思っています。 旅立つとなれば、向こうの世界でいろいろの手続きがあるのだと思います。 それはそのときに考えればよいことですから、今はこの世でしっかりと生きていくことに専念することが大事だと思っています。 夜になってから死のことを思い怖いと書いていますが、夜は暗いですからそのまま死にも暗いイメージが付きまとってしまいがちです。 確証のないイメージにとらわれてしまって、勝手に恐怖を感じるのはいいやり方ではないと思います。 人生の中で大事なものを見つけてください。このためになら命も惜しくない、といえるほど大事なものを。見つけられたらこれ以上強いものはないです。見つけようとする気持ちでいることだけでも強くなれると思います。死をもいとわぬくらいの大事なものですから。 そのためには世界をじっくり観察しなければいけませんよね。自分にとって大事なもの。気が張り詰めて緊張していてもダメですよ。大事なものは最高のリラクゼーションと癒しをもたらしてくれるもののはずですから、気を楽にしてあせらず待っている感じがいいと思います。 私は向こうの世界に旅立つとなれば、ある歴史上の人にあってそのお話を直接伺ってみたいと考えています。そんなことが出来るのは死んでからでしょうし、本当に出来るのかどうかは別として、そんな気持ちでいます。死そのものへの恐怖は消えませんが、その先のお楽しみもあれば少しは和らぐ感じですよ。 輪廻転生という言葉がありますが、この世では私たち一回性のものとして人生を送っていますよね。ですから、この人生を大事にしなければならないと思っています。