- ベストアンサー
死の恐怖について
- 死の恐怖について多くの人が感じています。
- 死に関する恐れや心理学的な要素についても考えられます。
- 一般的には自己の消滅への恐れがあると言われていますが、個人の感じ方には差があります。
- みんなの回答 (10)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>落ちたら痛い。電車にはねられたら痛い。生き埋めになったら苦しい。と予測するから・・ 言語思考やイメージ思考する以前の無意識から発信される予測 のことです。鳩や犬が危険から逃げるのと類似していると思います。 ただし、人間のそれは、動物のそれよりも高度で、経験を積むことで その複雑な状況に応じた予測が無意識のうちにもできていると思います。 生まれてすぐの個体を動物と人間とで比較すると、 人間の乳児は圧倒的に未熟であることが解ってます。 親に守られながら、経験を積んで適応する期間があるのです。 これに対して、動物の個体は、生まれて20~30分で危険から走っ て逃げる行動を取ります。より本能的ということでしょう。 で、苦痛とは何か、ということになるのですが、 いずれも、苦痛だから生命の危機があるのではなくて、 生命の危機だからこそ意識の部分が苦痛や不快を感じるように できているわけですね。苦痛も不快も本能なのであって、 そういった意味で、意識が認知する生命の危機と苦痛は同じもの ですね。とすると、本能的な死への恐怖は、痛みへの恐怖と 同じものということになります。 結果として、本能的な自己保存の危機は、苦痛に対しても 直接死に対しても感じるものであって、 対象としての両者に実質的差はないと思われます。
その他の回答 (9)
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>その(自己の消滅)恐怖心は人間がつくりだしたもの。 生命誕生から遺伝子に刻みこまれたまさに神秘です。 なぜなら、生命は死亡した者から生まれることはなかったからです。死への真の恐怖を知る個体から生まれることはないのです。 とはいっても、ダーウィン風に言えば、そういった恐怖を持つ個体だけが生き残ってきた・・誕生側で言えば、SEXに強い快感や衝動がある個体が生き残ってきた・・というような理解で納得せざるを得ないのかとも思います。 とすれば、この恐怖心なるものは真の死に対しては幻想なのであって、生き残っている我々からすると、恐怖心は有用であるが故に我々自身が獲得してきたものとも言えますし、恐怖心をもたないものは生き残ってこれなかった厳しさが生命界にあるとも言えますね。 原題に戻りますが、自分が自分の死を経験することはあり得ず、自分にとって生のみが存在するという事実と、悠久の時間をかけて熟成された死への恐怖は、この生に不可欠であって、その部分においては、死への恐怖こそが生である訳ですね。
お礼
>自分が自分の死を経験することはあり得ず だから死に恐怖を覚える必要もないですよね。 それでも恐怖を覚える人は、やっぱり自己の存続にすごく執着するのではないかな~っと。死ぬのは当たり前だし、死んだら終わり!って豪快なおばちゃん達(いやwおばちゃん達全部ではないですが、イメージですw)の方がしっくり来ます。 死を退けようとする(あり得ないのかもしれませんが、理性のみで考えたとして)ということは、生に対して絶対的な肯定感があるわけですよね。不思議です~~~。 何度もお付き合い下さって本当にありがとうございますm(__)m
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>ご自身は恐怖を感じない。ということですね^^ まぁ、頭で考えた自分の死に対しては感じません。 かといって、 電車のホームは白線の内側にいないと怖い 高いビルの屋上は怖い 少し強い地震が起これば怖い というのは、本能的に感じますし、 突き詰めれば死に対する恐怖ですね。 ご質問の>「自分の死」の何をおそれますか? 日常生活において本能的に自己保存の危機(=死)を察知あるいは予見したときに恐怖を感じます。
お礼
>日常生活において本能的に自己保存の危機(=死)を察知あるいは予見したときに恐怖を感じます。 それは、落ちたら痛い。電車にはねられたら痛い。生き埋めになったら苦しい。と予測するから・・・というのとは違うのでしょうか? まだ痛い思いをしたことのない赤ちゃんの上に何か落ちてきても、赤ちゃんは自己保存の危機を感じるかな?自己保存の危機を察知するのって、本能的に備わっているのではなくて、生きていく上で身に付いていく気がするのですが・・・。 もし、苦痛は嫌だ!という予見ではなく、本能的に死を怖れるというのはどういうことなんだろう? 頭では、死んだらそれまで。自分が居なくなることは怖くない。と考えていても、死を察知した時に恐怖を感じる。 苦痛(死に方)・未練 以外にも恐怖の源はあるみたいですね。 ありがとうございました!^^
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
生まれたときの記憶さえ無いのに、死ぬときなどがあるわけがないじゃありませんか。 他人が死は死ぬ前と死んだ後でその違いが歴然としてますが、 自分が死ぬときには自分は無いのですから、「私」が死ぬことはあり得ませんね。自己の消滅なんて毎晩経験してますし。死による消滅は時間認識からくる錯誤です。 あの世? 魂みたいなものが本当の自分なら、今の自分は自分ではないと言うことです。それならそれでかまいません。どうすることもできませんし。 恐怖というのは、いままで遺伝子に刻み込まれた、危険からの退避能力なのではありませんかねぇ。
お礼
ご自身は恐怖を感じない。ということですね^^ ありがとうございます。
死の恐怖は、つまるところ普段「自分」と言っているものが何だか分らなくなることと関係があるように思います。逆説的に死が怖いのは死がまじかに来た時だけです。隣りの人が死んでも自分が死なないと思っていれば死は怖くありません。
- dongri5656
- ベストアンサー率8% (8/100)
>私が感じる恐怖は、肉体的な痛みや苦痛です。 それは死の恐怖ではなくて、実際は生の恐怖です。 >話す方や本を書かれる方などは「人は自己の消滅」に恐れを抱く ああ、わかります。彼らは考えすぎなのです。でないと 本は売れないですし。その辺のおばちゃんの死生観では カネにならない。
お礼
>それは死の恐怖ではなくて、実際は生の恐怖です。 そうですよ。だから「痛い死に方」、生きている間に体の機能が止まってしまうほどの痛み!が怖いのです。想像したくない~~(T0T) そういう意味ででしか恐怖を感じないのです。伝わりにくかったでしょうか? 本が売れないから!そうですか、納得しちゃいますよ? では「その辺のおばちゃんの死生観」が一般的だと考えて差し支えないですね。ご回答ありがとうございます。 ご自身は、「死の恐怖」は感じられないということですか?
- hyakkinman
- ベストアンサー率16% (738/4426)
「自殺」が、怖い。 その他、「しかたなくやってくる死」については、「今、おとずれても怖くない」し、「悔いもない」です。 49になる今日まで、「いい人生」でしたから・・・ 「災害」で死ぬとか、「不治の病の宣告」とかは、いつ来てもおかしくないので、「あわてず騒がない」心の準備は、しています。 「拷問」までは、考えにくいので・・・ もし、余命宣告を受けても、いつもと変わらぬ「マイペース」を貫くと思います。 「普段と変わらぬ毎日」を過ごすでしょう。 「自ら死ぬこと」は、ぜったいに出来ない。 「怖い」・・・です。 基本的には、「その辺の、おばちゃんたち」の考え方と一緒です。
お礼
49才にして「我が人生に悔いは無し!」ですね。かっこいいです~~^^ 悔いの残る人生だったとしたら、「死の恐怖」は変わったものになるのですか?自身を満足させてあげたい、ということでしょうか? でも、きっと回答者様ならどんな人生でも満足な人生だったとおっしゃれる気がします。 身の丈に合わない欲を持つことが、「死の恐怖」の原因ではないではないでしょうか? 「その辺のおばちゃんたち」に一票ですね!w ご回答ありがとうございます。 自殺が怖いと言われるのは、宗教上禁止されているのですか?それとも一般的に「いけないこと」といわれているからですか?自分に罪を負わせるのが嫌なのでしょうか?満足してた人生に汚点をつけるからですか?
補足
↓お礼欄なのにお礼が抜けてました><ごめんなさい。 「その辺のおばちゃんたち」に一票ですね!wご回答ありがとうございます。
- heinell
- ベストアンサー率35% (420/1172)
まさにその「未練」です。 先日実家に帰ったとき父と話してましたが「1日が60時間あっても足りない」「あと100年寿命があってもやりたいことが尽きると思えない」 (私40前・父還暦過ぎ。100年後生きててもは頭も身体が動かないとは思いますがとりあえずそれはナシで) 経験的に、やりたい事をどんどんやっている内に、今やってることをより広くより深くやりたくなったり、次のやりたいことが見つかったり。 尽きる状態が全く想像できないというのが私たちの結論でした。 実際に天寿を全うする頃になれば心境が変わるのか判りませんが、とりあえず現状はそういう考えって事です。 今さっきミネラルウォーター飲んで美味いと思ったばかりですが。 死んだらこれすらも無くなる。未練に+1しちゃいますね。
お礼
永遠に自身に満足を与えたいという欲でしょうか? その欲が、人間という生き物にとって分不相応なことも、叶えられないとわかっていても、人は望み続けるのですね。 とても好奇心が強く、前向きに人生を歩んでいらっしゃる様が浮かびます^^素敵ですね♪
- hiropuni
- ベストアンサー率15% (15/99)
・「自分の死」の何をおそれますか? 私も質問者様と同じように、肉体的苦痛だけが恐怖でした。 もし、不治の重病にかかってしまったら、お医者さんに、 迷わず安楽死をお願いするような。 ただ、最近は事情が変わって、 例えば死んだ後に、魂?だけが残って、 「旦那に他に好きな人が出来たら…」 とか、そういうのがずーと残ってしまうのは恐怖ですね。 幼稚な意見でごめんなさい。
お礼
いえいえ、ご回答ありがとうございます。 では、(それだけでは無いと思いますが)ご主人様と一緒に死の時を迎えるならば、恐怖は肉体的なものだけでしょうか? 魂かぁ、離人症といわれる方や、記憶喪失のまま亡くなる方も魂ってあるのでしょうか?田中花子という自我をもった魂はなくても、他の形で自我が残る魂のようなものはあるのですかね・・・。? ご主人とラブラブですね。うらやましい^^
Q、一般論なのですか? A、一般論だと思います。 死とは、自己の消滅であり永遠の無への回帰です。 これが、やっぱり、死の死たる理由であり恐怖たる所以でしょうね。 <穏やかな死>を迎える方策の一つに、「死<>永遠の無」という不等式があります。 ありもしないあの世を信じたり輪廻転生を願ったりは、この不等式の典型でしょう。 「死とは永遠の無への回帰でしかない」 「で、無になれば当の本人は死んだことすら判らない」 「だから、そもそも死んだ本人にとっては死は問題にすらならないであろう」 「むしろ、その過程のあり方こそが現実的な問題なのである」 まあ、このように言い放つ医学者もおられます。 し、しかし、終末医療を担当する医師の意見を集約すれば、チト、異なってきます。 末期の患者の恐怖は、やはり、「自己の消滅であり永遠の無への回帰」。 末期の患者の救いは、やはり、「死<>永遠の無」という不等式。 で、「死<>永遠の無」という不等式を否定している私には「救い」はないと言うこと。
お礼
そうなんですか~。 みなさんきっととても自分が可愛いのですね。 とういうか自我がしっかりしてるからですかね。 ありがとうございます。
お礼
とっても納得してしまいました(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン。 私の感じる恐怖は本能的なものなのか・・・。 痛みを乗り越えなければ得られないものがあるのですね。 本能は「自己の消滅」には恐怖を感じるようにはなっていないのですよね?その(自己の消滅)恐怖心は人間がつくりだしたもの。でいいでしょうか?