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死とは哲学的に言うと・・・
先日、親戚が亡くなったですが、その人が亡くなった事実より、人が死んでいく様が印象的で、非常に恐怖を感じました。 それから、夜になると、人は死ぬとどこへ行くんだろう、どうなってしまうんだろう、なぜこんなに怖いんだろう、と考えるようになりました。 哲学的に言うと、人は死ぬとどこへ行くのでしょうか。 以前、哲学の授業で、デカルトは人は精神と肉体が一緒になってる存在だとか学んだ記憶があるのですが、これで考えると、人が死ぬと肉体は滅びるけど精神だけは残る、という事でしょうか。 では、残った精神はどこに行くのでしょうか。 なんとか、死に対して恐怖を抱かずに済む考え方を探しています。 「死」は未知なるもので、それに対して確定的なことは何もわからないから、自分がどうなってしまうのか分からなくて怖いのでしょうか。 皆さんの意見をお聞かせ願えませんでしょうか。 宜しく御願い致します。 乱文・長文、失礼致しました。
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- HANANOKEIJ
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NHK高校講座の倫理を聞いてみてください。 http://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_rinri/index.html 「日本人の死生観」というタイトルの本があるように、「死生観」は、民族や、宗教など、価値観の違いで変わるものだと思います。 また、歴史的にも、すこしずつ変化するのでしょう。 現代人の不安は、将来の生活の不安、現在の生活に満足できない気持ちのあらわれでしょうか? 「疎外」疎外感、「自己疎外」などのことばで検索してみてください。 NHK大河ドラマ「篤姫」の最終回の、みんなで写真を撮ってもらう場面で、祖母のことを思い出しました。100歳のお祝いに、子、孫、ひ孫、夜叉孫と百人をこえる集合写真になりました。戦前、戦中、戦後を生きて、家族にめぐまれて、幸せな一生だったと思います。 生きている間に、なすべきことをなした人の「死」は、顔をみてもやすらかな顔です。 最近読んだ、アメリカ・インディアンの小説「リトルトリー」「ジェロニモ」のなかに、「今生も悪くはなかったよ。次に生まれてくるときは、もっといいじゃろ。また会おうな」といって、息をひきとる場面があります。ごく普通に、生まれ変わって、また会おう、といいます。 太古の人類は、みな、そういう能力をもっていたのかもしれません。大自然の中で、自然の掟にしたがい、仲間どうしで助け合って生きていた人々には、当然のことなのでしょう。
- 8942
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もしよ、自分の体をズバッと真ん中からぶった切ったら私は即死でしょう。 でも、その切り口から流れ出るはずの血液が瞬間移動して何事も無かった様に 片方の血管の切り口へ流れ込んだら・・血液だけでなく神経の電気信号や、 そのた組織液、細胞液にいたるまで全て何事もなかったように切り口同士の 物質と情報が瞬間移動して行き来すすると考えます。 死にませんよね、しかも切られた事さえも 気づかずにです。二つにされた肉体は幾ら離れていてもいいんです例ば東京とエジプトでも瞬間移動で 物質ど情報は移動しますから関係ありません。 肉体を4つ分解したらどうでしょう。同じです。 もっと分解して細胞一個一個まで分解します。でも本人はまだ普通に生きていると思っています。 死んでいないのです。たとえ細胞が全宇宙に均一にばら撒かれれたとしてもです。 同じ理屈で細胞さえも分割して一つの細胞を1億のパーツに分解します。 それでも私は自分は普通に生きていて肉体が粒子の様に分解し宇宙に散在する 様になっても生きていると思っています。。なにせ情報と物質が瞬時に伝わるのですから私は 私は普通に生きているという自覚しかありません。もう分子、原子のの世界まで分解しちゃいます。 それでも同じように自分は生きています。理由は上記の通りです。 ここまでくるとこうは思えませんか? ひょっとしたら瞬間移動なんてしなくても私は生きているのではないかって・・・・ だって原子や分子まで分解して仮に情報や物質が伝わらなかったとしても・・・・・・ あたかも伝わったように運動している。代用できる物質が宇宙にたくさんあるように思えませんか? 別に切り口Aの情報がもう片方のA´に伝わらなくても偶然伝わったのど同等の刺激を受けた 物質が宇宙のどこかにあれば、私は死んだ事(いや死んでないかも)に気がつかづに 普通に生活をしているかもしれない。と思いませんか? ひょっとしたら私の肉体は既に・・そんなもんなのではとか・・思いませんか? 最近思うこと・・肉体なんて初めから無いんじゃないかって、 あるように思っているだけじゃないかって・・ あるのはそう思う意識だけなんじゃいかって・・ そんな風に思える今日この頃です。 自信は無いけどね
★ 人が死ぬと肉体は滅びるけど精神だけは残る、という事でしょうか。 ☆ ほんとうに こんなことを考えているのですか。 《精神だけが残る》とは どういうことですか。 むしろ《肉体》の質料は 土に帰って行って それぞれとして 残るでしょう。 要するに 《死ぬ》のです。いなくなるのです。 ★ 「死」は未知なるもので、それに対して確定的なことは何もわからないから、自分がどうなってしまうのか分からなくて怖いのでしょうか。 ☆ 《確定的なことが分かる》と思うのですか。分かっても どうにもならないけれど 《自分がどうなってしまうのか分からなくて怖い》ということですか。・・・ おそらく 自分がせっかく生まれてきたのだから 生きている間に 何か自分の能力を発揮してやりたい あるいは この人生や世界を知りたい 自分の仕事をおこなって それから死にたい。にもかかわらず 途中で 意志に反して 去って行かねばならないというとき 悲しく心残りになるのではないでしょうか。だから 死が怖いのではないでしょうか。 それとも 死んだあと どこかへ行って また そこで 何かをしたいということでしょうか。 おのづから 死の恐怖に対しては 何をすべきかは 分かってくるのではないですか。生きている限り 死の恐怖ないし不安じたいは なくなりませんよ。少しづつ その不安を飼い慣らして行ってください。
- kigurumi
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>死とは哲学的に言うと・・・ 人生の一部。 >なぜこんなに怖いんだろう 今の自分を永遠に喪失すると思うからじゃないかと。 私 時々思うんですね。 例えば高齢になると、記憶が減退することもある。 脳に障害を持つと、それ以降のエピソードを記憶するのが難しくなる。 ある人は、家に帰りたいと激しい精神不穏を引き起こし、家から出ては警察に保護されている。 家族に連れられ家に帰ると、ほっとするが、しばらくすると「家に帰る」と言う。 何十年も暮らしてきた家なのに、家に帰るとはどういうことか。 両親と暮らしていた家に帰りたいのだそうです。 その方の両親はとうに亡くなっており、60年前に結婚して、関東に引っ越し、そこで子供を生み子供と今まで暮らしてきた。 その方の今は、10歳頃。 年齢はと聞くと、80は超えていると答えられる。 が、子供にお弁当を作らなければならないという認識で、夜中あわてて起きるそうです。 娘の顔はわかる。 が、早く弁当を娘に作ってやらなければと、焦っている。 そういうとき 60歳の子供は「おかあさん 明日日曜日だから学校は休みじゃないの」と娘は答えるそうです。 二つの世界(10歳頃の過去と、80歳の現代)の両方を同時に生きている方です。 この方の精神は二つの世界をいったりきたしているのは、第三者でも認識可能です。 本人の話す内容からわかるので。 では、本人が精神世界を言葉というものを介して伝えることができない場合は。 例えば、死ぬと、死んだ人の精神世界は誰もわかりません。 死んだ人は、第三者に理解できる言葉を発しないから。 精神世界ってなんでしょう? 例えば頭に特殊なヘッドキャップを被る。 一部に電極を流すと「今氷を持っている」という認識になる。 別の部分を刺激すると「大変だ。 炎が燃えている」とあわてる。 ということは、脳の電流により、精神世界は作られているってことですよね。 あまりにも誤差があると、何も無いところを必死で消火器で消しており、他の人は「何やっているの 頭がおかしくなった」となるが、本人は「火事だ」と騒ぐことになる。 現実と違うので、頻繁に誤認識が起こり、自損 他損を繰り返す場合、保護が必要とされるわけです。 ということで、脳の病気による脳の誤作動が起こり、精神世界があまりにも歪むケースも起こるが、その他者が見て歪んだと思う世界だが、本人にとってはそれが唯一の現実世界。(精神世界) さて、、、人はよく肉体以外に魂があり、肉体が死んでも魂は存在し続ける と言う。 期待するわけです。永遠に自分が存在することを。 でも上に紹介した人の魂。二つの世界を行き来する理由は、脳のスイッチが壊れているからだと思うんですね。 左の傾くと過去、右の傾くと現代。 我々はこれは過去、これは現代と認識できます。 その世界を統合した上で、現在を認識しています。 この統合する器官が壊れると、二つの世界が現在に入り乱れる。 さて、未来に関してはどうでしょう。 予測はできる。 が未来はまだやってきていないので、未来を統合することはできない。 すると臨死体験した人が、あの世の世界を記憶していた と言う人もいる。 朦朧とした意識下で作られた世界が現実とはあまりもの違うので、きっと死んだ後の世界だろう と思うようです。 夢、、、 現実とは違うことが起こる世界。 じゃあ 我々の魂は毎晩あの世に行っているのか? なわけないですよね。 永遠を願う気持ちが、死んだ後も自分は存在し続けると考える気持ちを芽生えさせ、果ては魂はあの世で生き続けるとか、言い出すわけです。 現実を逃避し、現実に生きているのに、死んだ後のことしか頭に無い人いますよね。 無い世界のことしか眼中に無い人は、宗教を作り、金儲けして現代の生活をエンジョイする。 ということは、結局 あの世など無い、現実の世界しか無いと知っているから、現実の生活レベルをアップするよう 騙されやすい人を利用して搾取するわけです。 確かに夢をお金で買えるなら買いたいと、ソープに金をつぎ込む人もいれば、ばくちに金をつぎ込む人もいるでしょう。 一時的な快楽を、あの世はあるという人の話を信じることで得ようとする人もいるでしょう。 その人の最後の人生は、我々と変わらず死です。 死ぬと、私の認識する全ての世界は終わる。 魂という人が呼ぶ脳が作り出す精神世界も消える。 たとえ私の脳が現在自分は10歳だと思っていたとしても、死ぬとその世界も消える。
NO7ですが、一部補足します。 死後、通夜の期間位は肉体と魂は線でつながっているそうで、この間に肉体に与える刺激は魂に伝わるそうで、だから焼却までに一定の時間をおくことは必要だそうです。
死は「価値観の変更」ではないかと。 眠りに就くとき、眠ろうと頑張ると(思い込みが強いと)不眠症になります。 自然に眠る時「ここに我在り」としている努力や心配性や、支配者としても支援者としての自分も手放しつつある状態。 どんなに責任感が強くても寝ないで元気で居続けられないので、人生の1/3は無責任な人物と交代し休む。 眠るとどんなに責任感がある人でも「起きる時まで後の事は関わらない、もう知らん、お任せしときます」と、無責任な人になる。 死ぬと起きれないので、それ以上働いたり、期待すらされなくなりますが、その代わりに無責任なのを咎められることもなく、自分がそのことを後悔することもなく。プラマイゼロ。 死を賛美するつもりもないですが、寿命があるのを怖れる必要はなく、例えば寿命がやたらと延ばすことが可能となったとして、その分だけの人生を考え続けなければならなくなる。 人間は時間的な存在ということで未来を予測するために今を使い、過去を振り返るためにも今を使い、それを延々やって生きるに値する努力が見事何時か実るものなのか?ですよ。 遊んで暮らせていても延々では飽きるし、頑張り続けてても疲れる。生きることなんてどうでもいいって感じになってくるんじゃないかと思う。 死は「あいつに任せれば大丈夫」我が身の等身大で、気の置けない友達にしてお守りという感じです。
- ri-zyu
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判らない事には人は不安に成るように出来ているのかもしれませんね。 同じ質問と回答が有りました、クリックしてください、お役に立てば幸いです。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4166541.html
供養の仕方の話ですから仏教的信仰心の問題です。 西洋より輸入した哲学の話にすると返ってややこしくなります。 お葬式の作法を書いた一般向けの仏教入門だけで十分安心して心を整理できる問題です。 供養とは死者の生前の姿と決別して浄土へと見送ることです。 死ねば誰もが仏です。 仏がわからない現代人には死後の世界は思い浮かびません。 地獄とはそんな死を知らない現代人が生きている間に見る幻でもあります。
人間=肉体+魂で、ちょうどテレビ=テレビ本体+電気電波のようなもので、肉体やテレビ本体は物質ですから廃品化して分解しても、電気電波は存続していて新しいテレビをつけると先程の映像の続きが映るように、魂も火で燃える物ではありませんので、存続して基本的には霊界へ行くことになります。 霊界では、魂の比重波長(趣向)に応じた世界に住むことになります。 つまり、物理的に言えば比重が重く粗雑な波長の魂は沈殿するような感じで集まりますし、軽く精妙な波長の魂は上昇するような感じになります。 また、宗教的に言えば、暴力的な人は同様な人と一緒になり、優しい人は同様な人と一緒に存在するようになりますし、更に天使のような心境の人は同様な人と一緒になるわけです。 心境が変わればそれに応じた世界へ移行することは可能ではあります。 ついでに言えば、天国でも周囲は自分と同様な人ばかりですから居心地はいい反面、長く居ると停滞・退屈することもあるようで、そうするとまた肉体という缶詰のような物の中に入ることによって、霊界では違う比重のため出会い難い人々と交流することができ、様々な体験を通して充実・成熟等々の幸福感を味わうことができる、というわけです。 また、中には霊界に長らく居続けている人もいることはいるそうです。 ちなみに、夢を見ている時は、魂が肉体から抜けて霊界に行っている場合もよくありますので、夢と同様、五感に相当する感覚はありますし、更には空を飛ぶことも可能だったりします。 更に補足します。 脳は、パソコンのような物で、共に物質です。 パソコン本体は、「電気」を通さない限り起動すらしませんし、起動しても一定の所までであり、例えばこの文章だってパソコンが勝手に創作したものではなく、私の考えで入力したものです。 また、パソコンが故障すれば、画面上は正常な表示ができなくなったり、誤動作したりしますが、その際に入力者自身は健全であったりするわけです。 つまり、脳はコンピュータのような物にすぎず、それが故障すれば様々な表現上に支障は出ますが、そうだからと言って魂は正常であったりするわけです。 運転手と車の関係も同様です。 車が故障して暴走しても、それと運転手の人間性とは関係ないことはあるわけです。 ともかく、テレビにしても、テレビ本体という物質だけあっても、電気電波を通さない限り稼動すらしないわけであり、肉体だって生前の肉体と死後直後の肉体とは、物質的には同じようなものであるわけで、その違いはそこに生命エネルギーが宿るか否か、にあることは明らかです。 また、霊魂の存在に関しては、真空管製作者として有名な科学者達が、死者の霊をエクトプラズム抽出現象化により物質化させ、写真も撮り、話もし、髪の毛も切って顕微鏡調査をしたりと、色々な科学実験を行い、その実在を証明しています。 この件の関係文献は多数存在しています。 また、こうした実験自体大変なものであり、件数としては希少であるにせよ、とにかく実験自体記録されているわけであり、件数の多少に関わらずこれ自体は事実のものです。 その他としても、退行催眠下で、今世では知りえない過去世での他国での出来事を語り、調べるとそれが事実であったことが判明した事例などは膨大に記録されています。
「死」は勝手に向うからやってきます。 予告なしに突然やってくることもあれば、ガンで死ぬときのように余命後何日とわかるときもあります。 死んだら、火葬場で高温で焼かれ灰になります。 精神は死んだときに消えてなくなっています。 >なんとか、死に対して恐怖を抱かずに済む考え方を探しています。 いつ死んでもいいように身の回りをキチンとしておくことです。