• ベストアンサー

「自殺」を精神論で禁じようとする人が多い

「自殺」禁止の問題に関して、なぜこのサイトでは、精神論で確証のないことを誇大に訴える人が多いのでしょうか? 実は私は次のような考えを持っています。これは矛盾した考えでしょうか? 「社会秩序維持のため」 もし、自殺を肯定的容認できるものという認識が通用すると、それを介助する業界が必ず出てきます。そして、それらにかこつけた殺人事件が頻発するようになり、人々の生命の安全に問題が生じてくるでしょう。つまり、わるいことに利用するやつが必ず出てくるってことです(ATMという利器を振り込めさぎに使おうと考えるやからが跋扈するのと同じ)もろもろの分野で、現在の社会体制に大幅に障害となる事態が発生するからでしょう。これを為政者たちは予想しているからじゃないでしょうかね。 そのために下々に用意するお題目は 「もらった生命を軽視するやつは人でなし」です。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.17

>「社会秩序のため」< なるほど、と思います。 私は 自殺をなんら悪いことと思っていません。  でも その理由を詳しく語りたいとは思いません。 それは社会という存在も 愛しているからでしょう。 人間としてです。 ちなみに 私は自殺はできません。 肺炎で死にそうだった時、右の肺胞が全部つぶれ、左の肺胞もほんの少ししかなかった時の苦しさの世界をまだ記憶に残しています。 忍耐の限界を超えても 苦しみはつづきました。 その時に、私は後三日の命との宣告を医者が告げているのを聞きました。 その時の私は その苦しみ以上に死が怖かったです。 さて、 そのはるか後のこと、 今度は とある高台からの落下事故にあったことがあります。 最後の記憶は、畑だ逆さまに映っている景色。 その直後気を失いました。 頭の打たずに助かったのですが、 もしかしたら、何も感じずに死んでいたのかもしれません。 自殺者が最大の不幸というイメージが いいかげんなのは、 ここから言えます。 死を 簡単にイメージしてたら ちょっとしたわがままで死んでしまうかもしれません。ということです。 が、それはその人の意識や感性が ボケネていたということであり、人生を夢みたいに感じていたということでしょう。 苦しい苦しい自殺もあるでしょう。 また その末の苦楽を越えた自殺も。 両方とも、否定なんかする必要は無いと思っています。 否定なんかとても出来ない自殺もあると思います。 これも精神論なのでしょうけどね。 だれも だれのことをも悪く言う 資格なんて無いとおもいます。 自殺してしまった人に関しては もう助けることも出来ないのですしね。 でも生きてる人には、 まずは、そうしようとしていたらたぶんですが、 まずはひっぱたいてみると思います。 だって死んでしまうのですから、 なぐったっていいぐらいじゃないですか。   そういう事態に直面した時には、感性の可能性を私は語りたいですね。 これこそ精神論かもしれませんけどね。 どんな人も 幸せになれる可能性はあるということを話したいですね。 なら、死ぬよりはいいということです。 ところが、死んだほうがいいほうがいいと思えるような苦しみもあるじゃないですか。  もちろんそれでもそれでもなお死にたくないと思う時もあるでしょうが、、  これは すべて自由にまかせるしかないと思いませんか? とまでしか やはり書きたくないですね。 地球も社会も 愛したいですから。    神だけしか、たぶんその人その人のその気持ちは解からないでしょうから、一番自殺を非難していない^^のは神なんでしょうけど、  このへん神を信じてる人が一番自殺を 悪いと言い張るのは   可笑しな現象ですね。 とまでしか やはり書きたくないですね。 でも秩序を維持するだけで、みんなが幸せになるのではない、というとことが私には問題で、   いまでは、それが故に自殺なんかとてもできないのですけどね。 とまでしか  n    ?! …… でも、でも、  そうなれば、だれも自殺しないのですが 禁じる必要も(だから そ ?   …

その他の回答 (17)

  • lerajie
  • ベストアンサー率42% (3/7)
回答No.18

 別段おかしい意見だとは思いません。  それもアリだと思います。  精神論に偏る理由としては、「人間以外の動物が自殺しない」からかな、となんとなくですが、考えています。  自殺したがる生命体は人間だけと聞いています。生命サイクルから共食いしたり、子の栄養になるために死ぬ種はもしかしたらいるかもしれませんが、何しろあれやこれや頭で考えて死にたがるのは人間だけでしょう。  つまり、自殺は理性の問題です。  道徳やら倫理やら精神やらを考えているのも理性です。本能の分野ではありません。  そうすると、理性の問題は理性で考える、ということになるのではないでしょうか。だから精神論というか、道徳論になる傾向があるのではないかと思います。  ひとつだけ突っ込ませて頂けるのなら、質問者様のお持ちになっている意見も、理性の意見という意味では同じようなものだと思います。  重ねて申し上げますが否定するわけではありません。  そういう意味ではひとでなし、というのも面白いと思います。  ひとでなかったら、もらった生命を軽視しやしないと思うので。  気分を害された方がいらっしゃいましたら、お詫び申し上げます。

  • ta999
  • ベストアンサー率31% (6/19)
回答No.16

この質問で久しぶりの回答になります そもそも論ですが、この掲示板に(テクニカルな質問以外の質問(例えば数学の定理についてなど)で)正しさを求めるべきではないと思います。個人の考え、参考意見にしか大抵なりません。掲示板ではイデオロギーの対立になってしまっているし、本当の専門家はこんなところではなしに、論文でも書いているはずです。(大学の教授もごくごくたまにいますが) 何より、殆どの回答者は片手間に書いています。 というわけで、私の回答も「意見」です。 「なぜ死ぬのか」は、「なぜおれは生きるのか」という問いの裏返しですから、人それぞれの答え方がありますので、精神論です。 哲学者がこれこれこう言っているよ、というのもその根底にあるのは彼の考え方です。(なぜ、その哲学者なのか) あと、自殺はすぐ傍にあるという考え方を提案しておきたいと思います。 職業、打ち込んでいること、友人家族・・、こういう記号(語弊があるかも知れませんが、個人を特徴づける要素)の群れが人から去っていったら、かなり多くの割合の人の精神がヤバくなりそうですね。 仕事や生きがいに埋没して生きているのが、「普通」の人です。 (さも、世界の真実のように自分語りをしたくなる欲望も生まれる) 感じ取る人には感じ取れる、世界の、宇宙の無意味さ。母親に話したことがあったけれど、まったく解しませんでした。(多数の人は自殺なんて、じの字もないのでは。) 人殺しはいけない、に似た感覚と、心の奥底の何処かで感じ取っている人生の無意味さへの怖れ。この2つが、精神論に拘泥させているのではないでしょうか。(お上が合唱させなくとも。)

garcon2000
質問者

お礼

お上が合唱させているわけではないですね。ひとりでに歌いだしている。本当にそうだと思います。 こういう状況は、宗教が蔓延していく状況と大差ないように感じます。何かにすがる、本当に妥当かは知らないが、そう思える!それ以上は考えられん。と言うところなのでしょうか。 もし、自殺は歓迎されると言う理論がまかり通ったとしたら、それは、殺生は歓迎されるということに結構近いものともいえます。つまり、ガス室が建設されるのではないでしょうか。誰でもガス室には入りたくないですね。だから、その無意識の怖れから「自殺はいけない」という念仏を唱えるようになると言うことなのでしょうか。 それから、「ほとんどの回答者は暇つぶし片手間」という意識をどこかに持って、私自身もいい加減な気持ちをどこかに持って利用しんないとダメでしょうね。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.15

garcon2000さん、 この質問は社会や他人に対する不信感という心理的な要因から出されたものです。 だから哲学的、論理的な回答では答えにならないのではないでしょうか。 そのことを質問者自身が自覚していなければ永遠に同じ所をぐるぐる回るんじゃないでしょうか。 これは哲学の落とし穴だと思います。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.14

もちろん、社会秩序のためという理屈単体で 見れば正当性を持つことは可能であると思います。 「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるはこれ、孝の始めなり」 という言葉が中国の古典、孝経・開宗明義章にありますが、 我々の身体は元々は親に貰った身体です。 報恩という精神論が嫌だ!というならば、もっと露悪趣味的に 以下のように言ってもかまいません。我々が育つ上で、親や国から 多額の費用が捻出されています。この莫大な社会に対する負債を返還 しないまま夜逃げすることは単に人でなしである、と。 その前提の上で。 自殺をしてはいけないのは社会秩序の維持のためである、 という理屈は2つの点で否定できると思います。 まず、そういった道徳的でない答えは他ならぬ社会の方が望まないのです。 社会が社会の維持を第一に据えることを宣言しては、 社会の正当性、つまり人間が"生きるため"の共同体である、 という存在理由が保てなくなります。結果として社会のためになるのならば 自殺や、もっと積極的に殺人が許容されることになるのですから。 そして何より重要なもう一点。社会秩序の維持のため、という理屈は 誰の為のものか。もちろん自殺者のためのものではありません。 それは「自殺を止める人」のための正当性の担保でしかないのです。 自殺者に「お前自殺したら社会を裏切る人でなしだぞ」といっても 通じないでしょう。 2点目を掘り下げて見ます。つまり彼らは元々人ではないのです。 自殺をしようとする人間は、文字通りの意味での人でなしです。 人道に外れているという話ですらなく、すでに人では無いのです。 現代において自殺は罪ではありません。同様に、異常犯罪を行うもの たとえば、殺した夫をバラバラにしたり、殺した恋人を食べたりする人間は 死刑を容認する我が国ですら、「医療措置」を施しています。 社会通念上、あるいは倫理としてやってはいけないこと・通常の人間は やらないことをしてしまった生き物は心身を喪失したもの、 つまり人間ではないと判定されるためです。 これは自殺者も同様です。お前らは心身を喪失した人間以外の生き物であるから 病気治療のために保護してやるよ、ありがたく思え、とでも言ってあげた方が いいんじゃないですか?「社会のため」なんてカッコ良くて綺麗な精神論では おそらくその生き物達には空虚に聞こえ、確証なんて持てないと思いますよ。

  • owata-www
  • ベストアンサー率33% (645/1954)
回答No.13

まあ、アダム・スミスの国富論はある意味かなり理想的な条件を仮定しているので、それをそのまま現実に生かそうとするのがそもそも無理だと… それは、どうでもいいですが 自殺の幇助の横行による社会の不安定 というよりも 自殺を許容→人間の生命の軽視→殺人などの横行→社会の不安定 を防ぐため、という側面の方がある気がします。

garcon2000
質問者

お礼

そうですね。国富論は純粋培養的思考でしょうか。 実は私の主張もそれと結構近いと思いますよ。寄り道をしているかどうかぐらいの差ではないでしょうか。結局モラルの極端な凶悪化みたいなものが起こらないとも限らないと言う予想があるのではないでしょうか。 どうもありがとうございます。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.12

私(#5)への補足要求では在りませんが、参考意見として述べさせてもらいます。 >田沼政治であれ、経済の自由化が巨万の富を得る豪商を増長させ、庶民は困窮して行った。自由に任せれば、まとまるところに世の中まとまるだろうと言う、あるいは人民を信用すればそれなりに平和ないい世の中が来るのだと言う幻想が失政を生んだのです。 そんなことはありません。田沼が失脚したのは経済の失敗というよりは、政治駆け引きの失敗です。負けてしまえば勝者から糞味噌のレッテルを貼られるのはいつの時代でも起こってきたことです。それを真に受けてはいけません。田沼政治は近年高く評価されるようになってきています。例えば、辻 善之助著『田沼時代』 岩波文庫 を参考にして下さい。この時期に民権が発達し因習が否定され開国機運が養われた等、その後の日本の民意および経済の発展に大切な役割を演じています。質問者さんも、 白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき という狂歌をご存知でしょう。今回のアメリカの自由主義の失敗は、レーガン=サッチャーノミックスという金持ち優遇政策の失敗であり、決してアダム・スミスが『国富論」で唱えた「見えざる手」に任せる自由放任主義の失敗ではありません。人間の営みは白黒で判断できる者ではありません。自由主義をその根幹に置きながら、その暴走を防ぐための補助的な安全弁として臨機応変に社会主義的計画経済を取り入れると言う、日本あるいは、西欧ないし北欧型の機構が在りうべき姿であることを人類は経験則で学んで来ているようです。 蛇足:ですから、レーガン=サッチャーノミックス華やかな時代にアメリカで徹底的に教育を受けて来た麻生漫画大臣や、アメリカ経済政策輸入業者の竹中平蔵元経済財政政策担当大臣等の言うことを真に受けるととんでもないことになると思っております。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.11

#7 私はこの質問は裏を返すと自殺の理由は社会や他人にあるという自己弁護を意味しているんじゃないかと思うのです。 その弱さ、過剰なまでの自己防御、自己憐憫が気に入らないのです。 garcon2000さんが生きている理由は「社会秩序維持のため」ではないでしょう? だったら政治家や社会に関係なく、己の生きる理由によって生きればいいし死ねばいいじゃないですか。

garcon2000
質問者

補足

質問には、私の考えるところ、 自殺を一般に禁じているのは、それを許すと殺人が横行し社会秩序が崩れるからだと書いているのですが、よろしいでしょうか?その考えの矛盾があるかどうか聞いているのです。

noname#73886
noname#73886
回答No.10

 刑法第26章(殺人の罪)から第28章(過失傷害の罪)を読む限りにおいては、自殺といえども「自分という『人』」を殺しているので、殺人罪・傷害致死罪・業務上過失致死罪が適用されるという解釈もあり、法律上、「自殺は犯罪」だということができるようです。  憲法でも第25条によって生存権は基本的人権として憲法制定直後から認められていますが、今のところ死亡権は、日照権や嫌煙権などのように、後から作られた法律でも認められてはいませんね。スパゲティシンドロームで無理やり生かされている重病者の多いことからも、死亡権なる権利が認められていない証拠でしょう。(生前遺言などで、過剰な医療措置を受けない権利を主張しても、家族などがそれを無視し、それが結果で逮捕・起訴されたという話も1度も聞いたことはありませんしね……)  とはいえ、交通事故死者の3倍強の年間3万数千人の自殺者を、「本当に自殺だったのか」ということを1人ずつ捜査(といっても被害者・加害者共に死亡していますから当事者から話を聞くことも出来ませんし、自殺する気がなくても遺書めいた文言は書けますし、普通は自殺は目撃者がいないところでやりますから目撃者の証言も取れませんしで、自殺したことを確定させるには相当の手間がかかると思われます)して明らかに自殺だと確定させなければ送検することもできませんし、確定させたところで加害者は被害者(自殺者)なので、裁判にかけて刑の執行もできませんから、形骸的ではありますけれど……。

noname#91067
noname#91067
回答No.9

哲学的には自殺は「死に方」というより「生き方」 意志に関わり無く訪れる自然死と純粋に意志による自殺を一緒くたに扱うのも間違いだ。では別の生き方を誰が保証しうる? 自然死すら禁止したからといってなくせない。 それ故意志と無関係に老いること、本人が望まない延命治療を推進すること、共食い(殺人)、共倒れ(失業者増加により税収の減少)をしてでも生きるのを強いる精神論の誉れがどこにあるのかと思う。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.8

「自殺」禁止の問題に関して、なぜこのサイトでは、精神論で確証のないことを誇大に訴える人が多いのでしょうか? 私の子供も20代の若さで自殺という死を選びました。私はその理由がいまだに理解できませんが残された者の深い悲しみは理解できます。私には霊的能力が少しありますので子供があの世に旅立ち、あの世の新しい人生を歩んでいることを知っていますが、私の子供のような例は非常にまれなケースです。ほとんどの自殺者は皆、同じ場所で同じ行為を永遠に繰り返しています。これが目には見えなくとも事実なのですね。それゆえ自殺は苦からの逃避にならないのですね。その事実を知れば生きて問題を解決するしかないということがわかるのです。そこで精神論的な引きとめをしているのですね。 日本では年間3万人の自殺者がおりますがこの程度の数では「社会秩序維持のため」とはいえませんね。医療が遅れていた時代ではもっと多く(数倍から数十倍)の若年者や若者が死んでいたのに「社会秩序維持」が保たれていたことからも理解できるでしょう。中国でも年間30万以上自殺者がいると聞いていますが「社会秩序維持」に変化はないですね。つまり社会秩序維持は生きているものがするものであるからですね。 ただ自殺を止める1点語のひとつとして「もらった生命を軽視するやつは人でなし」ということでもいいと思いますよ。でも個人個人の幸福を願うという立脚点でということです。 つまり、個人個人の責任の問題を社会に転化してはいけないということゆえの精神論なのですね。