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記憶は脳をはみだしている。
記憶は脳をはみだしているでしょうか? (ベルクソンははみだしていると言っています。) [注] 「デタラメなアドバイスは不要です。」
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お礼欄、拝見しました。 大森荘蔵の「想起」について。 まず、大森はラッセル同様、「過去」そのものを否定していますよね。そのうえで、大森の「想起」の特徴的なところは、過去とはわたしたちが言語的に「制作」したものだ、という主張です。これはものすごくおもしろい指摘です(ぜひぜひ読んでみてください)。 ここではちょっとサワリだけ(笑)。 「過去の制作」(『時間と自我』青土社 所収)では、その点がこのように論証されていきます。 まず最初に大森がするのは「想起とは過去経験の再現または再生であるというのは誤解である」という論証です。 たとえば昨年の旅行で見た海の青さを「まざまざと想い出す」とする。けれども、この「まざまざと想い出す」というのは、過去の知覚を繰りかえすことではありません。 ----- 想起とは、知覚の想起であって知覚の再生ではない。海の青さを眼前に知覚することもできるが、それを灰色の都会の真中で想起することもできる。つまり、想起とは海の青さにかかわる今一つの経験の仕方として知覚と並ぶのである。一般的に言えば、一つの経験にかかわる様式には二つあって、その一つが知覚と行動の様式、今一つが想起なのである。(『時間と自我』 p.41) ----- 想起≠過去経験の再現、ということがわかった。 では、過去経験というのは、いったい何なのでしょうか。 大森はこれを「過去形の知覚・行動の経験」だというのです。 半年前に海で泳いだ。そのときの「泳ぐ経験」は過去の経験です。そうして、その過去の経験を「今」想起する。 ---- 今想起されている過去の経験とはすなわち「泳いだ経験」ではないか。つまり、過去形の経験ではないか。すなわち少なくとも想起体験にあっては、過去の経験と過去形の経験とは同義同一のものなのである。(p.47) ---- たとえば「犬が走る」という現在形の情景を、わたしたちは思い浮かべることができます。ところが「犬が走った」という過去形の情景を想像できるでしょうか。できません。そんな知覚はないから。つまり、想起とは過去の原体験とはまったく異なった体験、「過去形」の原体験だというのです。 ----- 想起の大部分は感覚的であるよりは感覚的であるよりは言語的でなのである。想起された御馳走の味は口の中や舌の上に余韻のように残っているのではなく「とてもおいしかった」と想い出されるし、「ひどく痛かった」経験の想起には何の痛みもないし痛みの影も残っていない。想起は概して文章的であり物語的なのである。 これらの想起された文章や物語は想起された経験の描写や叙述ではない。その文章や物語、それが想起された当のものなのであって、想起された経験の言語的表現ではないのである。その点で想起は記録や報告にではなく詩作に似ている。(p.53-54) ---- 大森の時間論というのは、とても理路整然としていておもしろいのですが、「幻影肢」のことはこれで説明がつくのかなあ、という気がするんですね(わたしは大森に関しては岩波の「講座」に所収されていた論理学の論文と『時間と自我』しか読んでいないので、どこかでふれられているのかもしれません)。 「幻影肢」というのはメルロ=ポンティが『知覚の現象学』のなかでかなり詳細に考察している現象なんです。「幻影肢」というのは、ご存じのように、戦傷や交通事故で手足を切断された人が、もはやそこにはないはずの手足になまなましい感じを持ち続けるという現象ですが、どうしてその人はその「感じ」を持ち続けるのか。メルロ=ポンティの考察はご質問とは離れるので、ここでふれることはしませんが、「経験の想起には何の痛みもないし痛みの影も残っていない」と言えるのだろうか、という疑問だけ、ここにちょっと書いておきます。 市川さんはどの箇所なのかよくわかりません。もうちょっとヒントをくださったら何か出るかもしれませんが、出ないかもしれません(笑)。 以上、参考まで。
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- fishbowl66
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ちょっと考えてみたのですが、この疑問が、大森さんの「過去を否定する」時間論の関係で出て来たとすると、この疑問に誠実に答えようとする回答は、私以外にもっと適任の方がいらっしゃいますよ、と言うことになります。 それでも、素人なりに考えを整理して、ここに書き込んでも、大した害はないでしょう。 ≫大森は想起される過去が、かっての知覚経験の再現または再生であることを徹底的に否定する。 この文章は理解できますよね、記憶をもとにして、痛み・喜び、イメージ・臭い・音楽を具体的な感覚・知覚として再現することは不可能である、と言っている訳ですが、わたしの経験からも同意できますが、当然、帰納的な言説ですから、証明は出来ませんが。 では、具体的に、DVDの映像について考えると、これは過去の現実の記録です、原理的には書かれた文字と同じで、正確に言い直すと、過去に存在した現実を物質に記録した「もの」です。DVDの盤面を穴の空くほど疑視して見ても、映像は決して再現されません、DVDの再生(翻訳)する機械と表示するモニターを準備して、スイッチを押したりして始めて、再現されます。それでは、現在再現されている映像は、現在の映像でしょうか。これは、過去の映像が、現在、機械を通して再現されていて、その過去の映像の記録を、現在のあなたが見ているという、入れ子状態・二重の構造に成っていると言えます。 >痕跡そのものは現存するものだから、結局「思い出」というのは現存するものの把握であって、過去の記憶ではないだろう。 これについては、判断が難しいですね。最初の難点は「痕跡」は現存するとしますが、その例えをDVDとするなら、私達の身体の外部の世界での秩序ですね、物質界の秩序は、生命の段階でも有効ですが、精神の段階に物質界の秩序で理論を拡張させるのは、誤りの可能性があると思います。記憶はそもそも、痕跡として脳のなかに位置を占めているかどうかは、ベルクソンから見れば、否定的に考えざるを得ません(心理学系のギブソン辺りは賛同するでしょう、彼は記憶を否定しているようです)。ところが、ベルクソンの「記憶は生きている」と言う視点で考えれば、「痕跡」と言う表現は微妙ですが、>現存するものの把握、と言う考えは、肯定できてしまいますね。 最後の>過去の記憶ではないだろう。では同義反復になっていますし、その上この結論は、冒頭の痕跡は現存すると両立するのでしょうか。ここはエポケーの一手でしょうか。 >コード化のコードというのはラングに相当するものでしょうか? ここでは、時間を巻き戻して、上記のDVDの再生のスイッチを押した時に戻ってみましょう。最近の複雑なデジタル機器のことはさっぱり解りませんが、DVDに記録されているものは、信号ですね、再生のスイッチを押すと、一定の信号が出されて、DVDが廻りだし、DVDの信号を機械が読み取ります。その信号を機械が映像に翻訳して、モニターに画像として見られるような光学的な操作をする、といった過程が起きているわけですが、コード化と言うのは、信号に翻訳する過程のような意味ですね。これは、ベルクソンとはあまり関係ないことです。 記号はラングに相当するかもしれませんが、コードは意識の範囲外の信号です、ラングが意識の階層に留まるのなら、コードはラングのうちにはありえません。 さて、素人がでしゃばって長々書きましたが、私より上手に説明してくれる人に期待しましょう。最後に、脳をはみだした記憶についてのベルクソンの一端を見つけましたので、少し引用しておきます。 「そしてこれは実際に誰でも自分について観察ができることだ。私たちが学校で学んだある詩の一句は記憶に残っているだろうか。それを口で言ってみると、語が語を呼ぶことに気づき、意味を考えるのは想起のメカニズムに役立つよりも、むしろ邪魔になることに気づくのである。そういう場合に、回想は聴覚のことも、視覚のこともある。しかしそれと同時に、いつも運動の回想である。わたしたちには、耳の回想と発声の習慣を区別することはむずかしい。暗誦の途中で止まると、「不完全」という感じが起こるのは、ある場合にはその詩句の残りが自分の記憶の中で歌い続けるからであり、ある場合には発声の運動がその躍動の終結まで進まなくてそこまで進みたいからであり、また一番多い場合として同時にその両方によるもののように思われる。」(『精神のエネルギー』ベルクソン)
お礼
おいそがしいところわざわざありがとう御座います。 大森さんではなくて市川さんでして。 NO7の補足でちょっと触れたんですが、 記憶が貯蔵だったら、あるいは現に存在しつづける過去の知覚そのものだったら、それは現にあるものの把握だから過去についての記憶ではないだろう、もし過去の知覚をある仕方で表象する異なった知覚だとしたらら、どのようなし方でもはやないものを表象するのか(正確ではないですが。) 痕跡説についても同様に過去の記憶ではありえない、と市川さんは説明されておられます。 それで他の説も調べてみようと思いましたが手元に参考文献がまったくないのでお尋ねした次第です。 また田島節夫さんが、情報理論でコードと呼ばれるものは言語学者ソシュールがラングとなづけたものに相当すると説明されていたのでちょっとお尋ねしてみました。 どうもおいそがしいところありがとう御座いました。 ベルグソンまでご紹介いただきたいへん参考になりました。 又よろしくお願い申し上げます。
補足
蛇足ですが、 痕跡説は、プラトン、アリストテレス、デカルト、マールブランシュ、がとっています。
- fishbowl66
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すみません、気づくのが遅れて、 少し考えたのですが、 >今見ているDVDの映像って過去の映像? >それとも現在の映像と呼んでもいいものなのかしら? >(確かにDVDの盤面は現存していると確認できます。) 頭が悪くて、ご質問の意味がどうもはっきり理解できません。 どうしてこのような疑問が出たのか、 とくに最後の但し書きのようなものとの繫がりが謎です。 もう少し私にも解るように説明いただければ、週末にでもまた書けるかも知れません。書けないかも知れませんが。 取り急ぎ、補足のお願いです。
お礼
>記憶の形式は、実際の知覚体験を記号化・コード化することでも、理にかなっていると思うのです。 コード化のコードというのはラングに相当するものでしょうか?
補足
>取り急ぎ、補足のお願いです。 痕跡説をDVDに擬えたんですけど、痕跡そのものは現存するものだから、結局「思い出」というのは現存するものの把握であって、過去の記憶ではないだろう。 これは正しいでしょうか?
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
楽しいことになってきましたね。 この書き出しは、ご質問者様にとっては、失礼なことかもしれませんが。 というのも、gbさんの#17のご回答を拝見して、質問からはみだした部分で記憶について再度考え直すきっかけをいただいたことです、大森さんの記憶の有り様のことです。 「大森は想起される過去が、かっての知覚経験の再現または再生であることを徹底的に否定する。 過去の想起は、知覚的経験とは全然種類を異にして命題的であり言語的だ。(大森1996) 昨日の歯痛を今想起するとき、たとえかすかにでも歯が痛むだろうか。たとえようもなく美味しかった料理を今想起することでそれを二度味わえるだろうか。(大森1992)」『記憶の持続・・』松島恵介 ここで個人的にどうしても問題にしたいことは、 >想起の大部分は感覚的であるよりは言語的でなのである 想起と記憶は微妙に違うかもしれませんが、「大部分」と言う表現は、言語的、言い換えると記号的な記憶以外に記憶できる、おっと、想起できる事柄があると言うことになります。この部分の不徹底さは、記憶できることと、記憶できないことを明確に区別することによって、記憶の有り様について考察する、重要な手掛かりなので、ぜひとも明確に、記憶は言語的であると、宣言してほしいものです。 大森さんは、知覚経験、つまり、感覚とか感情といったクオリアとも表現されるような事柄が記憶されて再生されることを否定したわけで、それはまさに理にかなったことなのです。わたしたちが快感の感情を自由に想起することができるのなら、恐らく人間は、蓑虫のように夢想の中に一生を過ごす幸福な存在となれるからです。 また、脳を科学的にエネルギー効率の点から見ても、ただでさえ身体の中で最もエネルギーを消費する脳の負担を考えると、記憶の形式は、実際の知覚体験を記号化・コード化することでも、理にかなっていると思うのです。 幻肢の件も興味深いことです。ラマチャンドラは『脳の中の幽霊』第二章で、幻肢に関して仮説を提出しています。ラマさんによれば、失った手足に関連する脳の部位は損傷せずに残るわけで、単純に説明すれば、脳の知覚の誤作動、一般的には記憶とは区別されて、実際の痛みの感覚の誤作動と言う説明だったと理解しています。この説明は脳科学の知見による、脳細胞の代替可能性の理解からも補足されていると思います。つまり、大森さんの「記憶は言語的である」命題の反証とはならないのではないでしょうか。ところが、ことはさほど単純ではありません。目の前にある『赤』いわゆるクオリアは対象に存在するのではないとか、生命の自己複製を記憶の深層部として捉えると、盲点の補正・錯視、等々クオリア自体記憶の産物という、記憶の階層性、言い換えれば、記憶の形式が階層によって異なる形式で記憶されるのかもしれません。 ベルクソンの 「このようにして、自由は、時間と空間のいずれにおいてこれを考えるにせよ、つねに必然の内にその深い根をおろし、これと緊密にからみ合って組織されている。精神はその栄養源である知覚を物質から借り、その自由を刻印した運動の姿で物質に返すのである。」(『物質と記憶』結語) を、自己流に解釈すると、最近の高分子生物学の成果もベルクソンの手の内、といった感銘を感じる次第です。 記憶の形式に関しては、まだ他の問題点があります。 それは、記憶は常に、再生(想起)されなければならない、と言うことです。 私たちは、「9.11テロ」とか「神戸の震災」等々、何度も回想する事柄があります。こうした事件に関しては、今、当時を思い出す以前に、一年前、二年前にも繰り返し思い出しているような場合があります。そうした記憶は、はたして、事件当日の記憶なのか、それとも、以前、たとえば一年前に再生(想起)した、おなじ事件の記憶とどのように関係するのか、と言う点です。要するに、ひとつの事実に関する記憶が、並列するのか、塗り替えられるのか、恐らく塗り替えられる、更新されると思われるのですが、私自身の内省だけではなかなか確信が得られない難しい問題です。 記憶の形式に関しては、解らない点はまだまだあります。再生された記憶は、現在、私が想起した表象であり、今の私の記憶ですが、再生されていない記憶の有り様、再生されず、忘却される記憶の謎、記憶は過去のものであるとともに、現在のものでもある、この悩ましさ。 さて、こうした記憶に関する私の内省は、他者の出現で崩壊します。 記憶の個人差です、私には、他者の記憶を検証することは、まったく不可能なのです。 独我論の壁と申しますか、そこから一歩も前に進めません。 うっかり、はみだしすぎてしまったようです。 対話は、弁証法の専売と言うわけでもなく、現象学的な対話も可能でしょう。 大森さんの記憶に関する命題の反例となる記憶の形式、記憶できることと、記憶できないこと。 私も、色々な人の経験をお聞きしたいものです。 困ったことですが、楽しいことでもあります。回答にならないことを長々書き込み大変失礼しました。
お礼
すいません、こんな馬鹿なこと聞けるのfishbowl66さんしかいないもので(笑。
補足
fishbowl66さん、ありがとう御座います。 ひとつお聞きしたいことがありまして。 今見ているDVDの映像って過去の映像?それとも現在の映像と呼んでもいいものなのかしら? (確かにDVDの盤面は現存していると確認できます。)
- ghostbuster
- ベストアンサー率81% (422/520)
すいません、補足欄に書き込まれていたのに気がつきませんでした。 ええと、そんなにたいしたことを言ってるわけではないんですよ。 中途半端な書き方をしたのがよくなかったな。 もう少しちゃんと書きます。 > 世界へと企投する一般的な様式の身体への沈殿への層をいい、したがってそれは非人称的である。}と竹原弘さんは哲学史の本で習慣的身体(le corps habituel)を説明されているのですが 竹原さんの本は読んでいないのでわからないのですが、確かにメルロ=ポンティは身体の層をふたつに区別しています。 〈習慣的身体〉の層と〈現勢的身体〉の層です。(『知覚の現象学I』 p.148) 「幻影肢」の現象が起こるのは、ある人の内部で「第二の層からはすでに消失してしまっている手の所作が、第一の層ではまだ姿を見せている」ことにあります。 メルロ=ポンティの身体のとらえかたを最初に確認しておきましょう。 ---- われわれはいままで、対象から自分をもぎ離そうとするデカルト的伝統に慣らされてきた。すなわち、反省的態度は、一方では身体を内面性なき諸部分の総和として、他方では精神を距てなく自己自身に全的に現前する存在として定義づけることによって、身体と精神との常識的概念を同時に純化したわけである。…略… 存在するという言葉には、二つの意味があり、また二つの意味しかない。すなわち、物として存在するか、それとも意識として存在するか、その何れかというわけである。これに反して、自己の身体の経験がわれわれに啓示したところは、一つの両義的な存在仕方である。(p.324) ---- この「両義性」というのは、つまり「身体の統一性」というのは「いつも潜在的であり、あいまいで」あり、「自由であると同時に性(さが)であり」、「けっして自己のなかに閉塞しないがさりとてけっしてのりこえられてしまいもしない」。 ここからいえるのは〈身体〉というのは、客体としては扱い得ない、ということです。 ではどのような扱われ方なら可能なのか。それは、「私が人体を認識する唯一の手段は、みずからそれを生きること、つまり、その人体の閲したドラマを私の方でとらえ直し、その人体と合体することだけである」(引用すべて同ページから)。 さて、そのように「身体」としてあるわたしたちが、ある環境のなかで根を下ろし、そこから実践的領野を確保する、という状態を、メルロ=ポンティは〈世界内存在〉と呼びます。 「身体とは世界内存在の媒質であり、身体をもつとは、或る生物体にとって、一定環境に適合し、幾つかの企てと一体となり、そこに絶えず自己を参加させてゆくことである」(p.147) わたしたちが外界の物理的事実や、自分の現勢的身体の生理的事実を関わりあうのは、この〈習慣的身体〉を介してです。この〈習慣的身体〉は、「非人称的」だからこそ、それぞれの事実から比較的独立した恒常的な実践的場面を保持してくれるのです。そのおかげで、わたしたちは慣れ親しんだ世界で自由に行動できます。 そこに、字を書くとかピアノを弾くとかの企てがまだ姿をみせているこの世界にむかう運動のなかで、「幻影肢」を持つ人は、字を書こうとして、あるいはピアノを弾こうとして、自分の完全性の確証を得ようとする。ところが、まさにその瞬間に、世界はその欠損を彼に見せつける。 つまり「幻影肢」を持つ人は、自分の損傷を否認するということにおいて、それを知っているのであり、知っているからこそ否認するともいえる。というのも、もはや「私」にはその手をどうすることもできないのに、「ひと」一般にとって、手は自由にできるものでなければならないから、「私」はその対象を自由にし得るものとして知覚するのです。 そうして、切断の事実を拒否する人は、「一切の現在のなかで、〔一時期の〕或る一つの現在だけが例外的な価値を獲得するわけであり、つまり、その現在が他の現在を押しのけて、それらの現在から真正な現在としての価値を奪いとってしまうわけである」(p.149-150)。 つまり、過去になりきらないまま、古い現在として固着してしまう。これは「記憶」ではありません。 「なぜなら、記憶は旧い経験を一つの絵のようにわれわれのまえに開陳するのにたいして、逆にわれわれの真の現在にとどまっているこの過去〔固着〕の方は、われわれから遠ざかってゆくものでなく、われわれのまなざしのまえに陳列されないでその背後にいつも身を隠しているものなのだから。外傷性の経験は、表象のかたちで、客観的な意識の様相のもとに、はっきり日附けをもった一つの瞬間として存続するものではない。かえって、一つの存在仕方として、或る程度の一般性のなかでのみ生き残ってゆくということが、この経験の本質的性格なのだ。私は自分にもろもろの〈世界〉をあたえる不断の力を、それらの世界のなかのただ一つの世界のために疎外してしまう。そしてそのこと自体によってかえって、その特権的な世界の方も、己れの実体性を喪失して、ついにもはや或る一つの不安にすぎないものとなってしまう」(p.150) ここからメルロ=ポンティは心と身体という概念の相対性へと話をすすめていくのですが、それは同書を読んでいただくとして。 この「幻影肢」という現象、一種の認知のエラーと呼んでいいかと思うのですが、そういうことが起こってしまうのは、身体としてある、ということ自体が、「時間としてある」ということを示しているのではないか、と思うからなんですね。 わたしが大森荘蔵を読んで(読みとれていない可能性は十分にありますが)奇妙な印象を受けるのは、何よりも、大森が過去を「現実の想起の束」とみなしている点にあります。 「過去という概念が全裸で露出して現われる場面…とはいうまでもなく想起の体験であろう」と大森は書いているのですが、確かにそれはその通りだと思うんです。 でも、過去の概念を持つことと、実際に「時間としてある」ということは同じではない。 大森は「流れると言われる「時」とか「時間」なるものはどこにもない。「時間」という名詞型に対応する何かの「もの」は何ものでもない。」と言っているのですが、名詞形に対応する「なにものか」を持たないのは、「時間」ばかりではない。メルロ=ポンティが「言語とは、主体がその意味の世界のなかでとる、その位置のとり方を表わしているのであり、あるいはむしろ、その位置の取り方そのものなのである」と言っているように、「時間」という言葉とわたしたちの関係も、そのようなものとしてあると思うんです。 だから、わたしが大森がおもしろいと思いつつ、反面、どうしようもなくわからない、と思うのは、過去は存在しないということによって「意味の世界」のなかで、どのような位置を採ろうとしているのかがわからない、ということなのかもしれません。 何か、変なところで考え違いをしているような気はしますが、とりあえずはこういうところで。
お礼
ghostbusterさん、たびたびありがとうございます。 仰られていることは非常によくわかります。 「あった」という過去性の感じというのは「過去という概念」で説明できるのだろうか。 あるいは「全裸で露出して現われる」以前はいったいどうなっているのか? そこのところが最も興味のあるところなのですが。 大森さんは、点描とか言って物理学などによる世界描写としての時刻点や空間点を揶揄したり、持続のない存在は矛盾であるとかベルクソンのようなこといってますので、その意味での名詞型の時間と考えていたのですが、自我と時間を読んでみます。 非常に参考にありました。 まだまだ補足したいことは山ほどありますが、とりあえずは原書をあたってみます。 次回もよろしくお願いいたします。
補足
これは余談ですが、種類:回答がghostbusterさんだけというのは一体どういうことなのか。 私ってそんなに馬鹿なんでしょうか(笑。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
おはようございます。 お礼の文を読んだなかで少し書こうと思います。 ただ,書いてあったような~とかかれてるので、selbst33さんが、自分の意見としてそう思ってるのかどうか迷いますが。自分でもそう思ってるという前提を元にしてます。 2つの引用は、いずれも、絶対感覚についての話だと思いましたし、それは関係性というつかみずらい物とは逆の概念で説明されてると思いますが、 相対ー関係性、と絶対ー存在、はこの世界を把握するときの本質だと思います。 2つの引用はたぶん正しいのだろうと思いますが、こういう一元的な切り口で回答を求めるときは、正解は複数あるのが普通です。その意味でいずれも正しいと思います。 問題は、それらの複数の正解をどうやってまとめるか、ということじゃないか? と思います。 また、事実が一つしかないのに、正解が複数ある、ということは、人間の把握能力や、論理的表現力の限界を間接的に証明してる、と個人的に思います。 星型を見たことがない人に、星の形を言葉で説明するときに、頂点が5個あって、角度が何度で、などという表現は、いずれも正しいけど、それだけでは全体の説明になってない、という話です。 ほかの人の話では、盲人に象がどんな生き物か教える、という話は聞いたことがあります。 記憶の想起において、絶対感覚ー存在や現実感覚、リアリティーが使われるのはもちろんですが、 それと、記憶が生まれるメカニズム、というのは、また別問題です。たぶん? 存在の仮定や、言語的メカニズム、というのは理解できます。 ただ、位置付けられる、製作される、という前に、なぜそのような作業がなされるかそういう作業をしようと思うか、を考えたときに、 それは自分が捉えるイメージの変化、変位、があるからこそ、その変化を、具体的に置き換える、という作業として、それらは存在します。(と思います)~人の脳は、変化しないイメージは把握できないし、認識も記憶もできない、と個人的に思います。 その作業の前提となる、把握イメージの変化、とは、基本的に把握の対象に依存している、と僕は思うのですが。 つまりそれは、大雑把に焼きなおすと、その部分の仕組みとしては、記憶は、脳の外部にもある、ともいえると思ってます。 外部の変化こそが記憶や把握の発生原因である、というのを直接表現するのは難しいですが。 アイソレーションタンク、という、外部の刺激を一切遮断する道具があるのですが、たとえばそういう装置を使ったとき、人の、記憶の発生原因となっている、感覚やイメージの変化、を人為的に遮断します。 感覚的に全く何にもない、というときに記憶が発生するかどうか、という思考実験もありかなと思います。 論理的に表現が難しいのでこんな例えを上げてます。 演繹的論理だけで緻密に表現をといわれると苦しいのですが。 ただお礼の文では、たぶん関係性が本質の一部としてあることをあまり納得されてない気がしたので、何か引っかかっておられるポイントは上のようなことじゃないか、と想像してみてます。違ってたらすみませんが、 質問者様が、どのスタンスで、どの階層で考えられているのかわからないのですが、僕個人は演繹的論理的思考が、論理のすべてではないし、それだけで全体の表現は不可能、というスタンスなので、帰納的な表現や、具体的な体験も、こんな風に使っています。 では。
お礼
sheep67さん、ありがとう御座います。 お礼文が遅れました。 盲人に象までは非常によくわかるのですが、その後を理解するのが難しい。 記憶のメカニズムとなるとこれはもう哲学では無理ですね。 記憶というのは最も広義には過去の出来事が、存在物のあり方や活動に持続的な影響をb及ぼすことらしいですね。
- aidlii
- ベストアンサー率36% (9/25)
私は、哲学科を出たわけでもなく、素人ですが、ベルクソン「物質と記憶」は何度か読みました。もちろん原文などではなく、岩波文庫と白水社のを並べて、片方で分からないと、もう片方で読むという、なんとも素人っぽい読み方で、睡魔と闘いながらですが。 「物質と記憶」に書いてあることからは、はみ出てしまうところがありますが、私は、ベルクソンが言いたいことは、次のようなことかなと考えてます。 過去は、決して消えてなくなるものではなく、現在に生きている。例えば音楽を聴くとき、今、同じ音が鳴っていても、過去の音が違えば、違う音楽である。つまり、現在の音の中に、過去の音が生きている。 現在の中に過去が生きている以上、過去を保存するのに、特別な装置は必要ない。したがって、過去は、脳のどこか、すなわち、空間のどこかではなく、時間の中に生きている。 では、脳の役割とは何か。人間は生物であって、生き抜いていかないといけない。今を生き抜くためには、今、必要な記憶が、呼び覚まされないといけない。脳は、外界の情報と、それに対応する体の運動を準備することで、今、必要な記憶というものに焦点を当てる。つまり、記憶の貯蔵ではなく、コントロールが脳の役割である。 人間は、肉体だけの存在でもないし、精神だけの存在でもない。肉体なり、精神なりというものは、人間の一面に過ぎない。 大体こんなことになるのかなあと思います。 しかし「物質と記憶」は、記憶が脳の中に貯蔵されいるのではないという展開もさることながら、初めの方にある、人間は目で見ているわけではないのだといった意味合いの展開にも、私はぶっ飛びました。 新しい訳も出たことだし、読んでみようかとは思いますが……。挫折するだけかなあ……。 私は、大体、こんな風に解釈しておりまして、同意もしています。例えば認知症のようなものも、こういった見方で見えてくるものがあるのではないかと思っています。 そんなわけで人間は、肉体のみ、あるいは精神のみということからは、はみ出している。記憶は、その一例であるとでも言えば、私のコメントということになるかと思います。 素人が出しゃばり、失礼しました。
お礼
aidliiさん、どうもありがとうございます。 まともに読む時間がなくてお礼文が遅れました。 >その一例であるとでも言えば、私のコメントということになるかと思います。 たいへん貴重なご回答ありがとう御座いました。
- arayata333
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ANO1ですが、 再回答します。 神ならぬ身にてselbest33様の人生観や興味や今までの学習によるその記憶の中が 「記憶は脳をはみだしているでしょうか?」という文だけで何か解かるような能力を 全く持ってないため、 そのへんこそ、憶測の推理から迷いつつの回答しか出来ないところとなりますが、 >(ベルクソンははみだしていると言っています。)< という文を手がかりに、できるだけデタラメなアドバイスと思われないような努力をすべく、 にわか仕込ですがヤフーで「ベルグソン」と検索しての一ページ目の解説論文が書いてあるところを全部読んでみました。 本の宣伝の解説以外に、二つほど、かなり詳しい紹介論文がありました。 「はみだしている」という言葉は出てきませんでしたが、これでそちらの言いたい意味合いは少しはわかったような感じにはなっています。 やはり 大勢の回答者様も指摘されているようにベルグソンの考えは、文字通り「はみ出している」というふうに、当時の最先端の科学を検証しつつも述べている哲学ということになってしまいますね^^。 神を信じているという点では同じでも、私がANO1で書きました最後の文とは対極の部分を持った哲学となるのですね(^^)。 たぶん、その頃の神学とかを肯定するためには、精神が物質とは独立して存在することをなんとか立証する必要があったりしたために、 体の中の精神と物質も二元論という考えでまとめなおす必要があったのだと思います。 理論で神の存在を証明したかったのかと思います。 西洋では、そのへんで迷い 時には傷つき、絶望したり、して思索の中に入っていく哲学者が多かったのではないでしょうか? selbst33さんの場合は そのへんでの真剣な迷いとかはありますか? 私の場合は一度、 たぶん西洋の哲学者ほどではないと思いますが、神の問題で絶望の淵をさまよったことがあります。 これは たぶん、子供の頃、あるいじめにより、 体も壊し、死の床をなんどもなんどもさまよったことから、存在や命について考えざるをえない人間となったためと思います。 61歳となった今では、すべてが哲学的には なんとも単純な考えとなってしまっています。 これでいいのか?と自分で自分を疑ってしまうほどです^^。 それにたいして、 まずベルグソンの哲学は、めちゃくちゃ複雑で解かりにくくもあります。 そのへんは、こんな感じです。 私の考えは単純で、 唯物論も観念論も 考えの上では、つまり論理としては両方とも現実を説明しえる論理だという前提があります。 どっちから考えても その時代の科学の進展度合いに応じた答えが出てきてしまうということです。 唯物信仰とか観念のみ信仰というのではなくて、 物質だけしか無いと仮定して考えることも観念しかないと仮定して考えることも両方とも出来てしまうということです。 仮定ならば両方ともなりたつ、ということです。 そこにそれが信仰と関わってしまうということで、たぶんクリスチャンだったベルグソンが、 唯物信仰を否定するために、その中間の概念で物質も精神も存在すると証明する必要が出てきたということなのでしょうが、 両方ともちゃんと成り立つ論理を ごちゃ混ぜにするために「イマージュ」という概念を間にとりもたせても これもちゃんとなりたつでしょと 提起したのが「記憶と物質」というベルグソンの論文だったのではないかと 思えてきました。 おそらく それは 当時の西洋哲学者たちが、まだ「神は人間を神に似せてお創りになった」という聖書の言葉を文字通り受け取っていたからではないでしょうか? 当時の神学では おそらく神の知性は人間からは測れないような性格をたくさん持っていることを推測できなかったためです。 もし、selbst33様が 神の論議について興味があれば 私の考えてよければつづけますが、 このこと自体は、ここでは略します。 でも、ともかく、このようにして、なんとしても、死んだら土になってしまう脳の中にしかこの存在の中に「精神」が無いとしてしまっては、われわれの信仰の基盤が無くなると思えてしまっていたら、 イマージュという概念ですべてを説明することで、脳をエモンカケ、または釘(ヤフーで調べた中では釘でせつめいしてありました。)に例え、精神を衣服に例えた気持ちはよくわかります。 そして、彼(ベルグソン)が、そのとき同時に 観念論(物質は存在せず、そう見え感じる観念のみが存在するとして展開される論理)をも否定して、それが非科学的非実証的な哲学となってしまう幼稚性を排除しようとしたこともわかります。 でも、ベルグソンの哲学も論理的にはなりたつはずだと思いますが、だからといって他の二つも この世の中を説明するのには 論理としてはなりたってしまうはずで、 それを否定すること自体はできなかったはずです。 このように書くと 私自身の哲学もけっこうややこしくなってしまうことになりますが^^。 私自身の考えでは、 “身体”と“精神(記憶と結びついている)”は、何故だかはわからないけれど、 いっしょに張り付い形で私たちという存在の世界に与えられている そういう贈り物なんです。 同じように無限に尊いとも言えてしまう存在です。 たとえ、その身体が寿命にて死んで土に帰ってしまって、はいそれまでよ、ということになってしまったとしても、 深い精神でそのことを知った人にとってはですが、 それでもなお存在とか神とかに感謝しないではいられないような贈り物だということです。 精神だけではなく身体も、ということです。 でも、そこまでの感性が育つと、キリスト教の「復活」の概念も まるでごく自然のこととして感じられますけどね。(このことも ふつうは興味ないでしょうから略しますが。 どうせ、このことはその感性というのが育たなければ「復活」なんてなんの意味も無いという問題にすぎなくもあるのですから。…。) 二元論とかいう考えに固執しなくても、 神の超自然性を知性が納得できれば、そこにはなにも論理で何が成り立とうと何の問題もないはずなのです。 二元論と言うのならば、感じることすべて、五感の段階から科学でさへまだ何故その脳内反応とか神経インパルスとか ベルグソンで言えば 光の認識過程の膨大な直感とかでも、 完全といっていいほど 感じること自体が何故なのかという あたりまえの謎も解明できていません。 精神と物質と言うより以前に、 またベルグソンの言う「具体的感情も」そこからして物質との接点の解明は出来ていません。 最初にその時間的深み(精神)を持たずして、そのままの感覚自体、物質だけとしてはただ論ずることが出きるだけで科学はまだ 何も実証しえていないのです。 が、肝心な点は 記憶も言語中枢も すべて脳障害がその部分にあるとそれは起こり、そして消えれば、精神もその部分消えてしまうという解剖学的事実です。 つまり、精神は事実として脳にも張り付いているのです。 脳だけじゃないわけです。 脳の動きは体全体の行動にも神経にもその反応にもそして時間をおいては記憶にもその記憶のある集合としての精神の世界(ベルグソンが「無意識」と呼ぶのはこのへんの精神についてだと思います。)にもですが、 それは生物としての体に張り付いているということを意味しています。 神の存在を証明するとしたら、そこからはたぶん今の段階では不可能だと私は思います。 「はみだしている」というのはベルグソンの観測的希望です。 (失語症と脳の検証のみでは、言語内の認識と脳のことしか実証的には解かりませんから、言葉なしもあるところの深い精神世界がそれで消えなかったりすることを確かめたり類推したりできますから、それでベルグソンの時代には「はみだしている」と言えてしまったのではないでしょうか?) 私は、 はみだしていないとおもいます。 張り付いていると思います。 また、 神の存在で肝心なことは、意味の存在です。 ベルグソンがもしそのへんをもっと深く哲学できていたら、 わざわざさらに複雑な哲学を考え出すなどということはしなかったのではないかと 思いました。 付け加えますが、 科学の発達していない段での唯物信仰がどういう程度ものかも、 ここですでにわかるかと思います。 もしかしたら、この二元論無しには、神秘主義も いやシュタイナーの高度な深い精神の論理とかも生まれなかったかもしれないのですから、逆に言えば「はみ出してる」は、間違いだったとしても、 精神性の深さでは確かに その間違いが 大きな功績につながっている(あるいはこれからこそつながっていく)とさえ言えるとは思っています。 かなりややこしいことになってますですけど、 ムムム!という感じにもなってしまいますが(^^)、ベルグソンの哲学は歴史上重要な哲学に違いないと思います。
お礼
arayata333さん、ありがとう御座います。 アドバイスっていうのはデタラメだとアドバイスにならないから自由が制限されるんですよね。 回答というのはデタラメでも回答だから何でも自由に書けるわけなんですよ。 デタラメな回答は大いに歓迎なんですが。
- nisekant
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補足 貴方の返答は「結局、思い出すのでは?」、私の返答は「一年前の献立表をみても思い出しません」 思い出すか否かの問いが、何故、外部記憶と内部記憶の要素の違いに移行するのでしょうか?
お礼
どうも補足要求いただき誠にありがとう御座いました。
- nisekant
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>献立表自体は現にあるものですから、それは現にあるものの把握にしか過ぎないです。献立表自体から何を推測するかはあなたの勝手です。 体内の記憶も同等だと思いますが、それに思い出すだすかの問いでは?話の次元を湾曲させるのも貴方の勝手なのでしょうか?
お礼
どうも補足要求いただき誠にありがとう御座いました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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【ご参考に】 1. Self-Realization Fellowship( http://www.yogananda-srf.org/ )刊行 書名:Bhgavad Gita(God Talks With Arujuna): Royal Science of God-Realizationの中、 INTRODUCTION (By Paramahansa Yogananda)の中の A NEW REVELATION OF THE BHAGAVAD GITA FOR THE MODERN WORLLD という項目の中に (第一段目)省略 (第二段目)以下 ALL EVENTS AND ALL WISDOM are permanently recorded in the superether of omniscience, the akashic (etheric) record. They can be directly contacted by any advanced sage in any clime and age. Thus the whole span of history of the King Bharata dynasty could be perceived fully by Vyasa when later he conceived the Mahabharata and decided to write the epic as spiritual metaphor based on historical facts and persons. That the instruction and revelations of the Bhagavad Gita are ascribed to Bhagavan Krishna, though probably not delivered by him as one discourse in the midst of a battlefield, is quite in keeping with the incarnate earth-mission of Krishna as Yogeshvar, "Lord of Yoga".In Chapter IV, Krishna proclaims his role in the dissemination of the eternal science of yoga. Vyasa's attunement with Krishna qualified him to compile from his own inner realization the holy revelations of Sri Krishna as a divine discourse, and to present it symbolically as a dialogue between God and an ideal devotee who enters the deep ecstatic state of inner communion. という文章があります。私の訳出ノートはデヴァナガリを使用していて、文字化けが多いので、原文のままお目に掛けております。 2. 更にakashic recordで検索しますと、ベルグソンも登場するwikipediaがあります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 Akashaはご存じの通りサンスクリットです。 (これをこのwikipediaは虚空とか空間とか解説していますが、虚空や空間というのとも私は違うと存じます。Paramahansa Yogananda大師の英文では、superetherとなっていますが、Akashaは英文に該当することばがどうもないようです)
お礼
たびたびありがとう御座います。 是非参考にさせていただきます。
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補足
ghostbusterさん,たびたびありがとうございます。 >「経験の想起には何の痛みもないし痛みの影も残っていない」と言えるのだろうか {世界へと企投する一般的な様式の身体への沈殿への層をいい、したがってそれは非人称的である。}と竹原弘さんは哲学史の本で習慣的身体(le corps habituel)を説明されているのですが、この沈殿の層が幻影肢の原因であるとすると、それはベルクソンの言うところの身体的記憶のようなものであって、精神的記憶とは違うような気がするのですがどうなんでしょう。