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記憶は脳をはみだしている。

記憶は脳をはみだしているでしょうか? (ベルクソンははみだしていると言っています。) [注] 「デタラメなアドバイスは不要です。」

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回答No.17

お礼欄、拝見しました。 大森荘蔵の「想起」について。 まず、大森はラッセル同様、「過去」そのものを否定していますよね。そのうえで、大森の「想起」の特徴的なところは、過去とはわたしたちが言語的に「制作」したものだ、という主張です。これはものすごくおもしろい指摘です(ぜひぜひ読んでみてください)。 ここではちょっとサワリだけ(笑)。 「過去の制作」(『時間と自我』青土社 所収)では、その点がこのように論証されていきます。 まず最初に大森がするのは「想起とは過去経験の再現または再生であるというのは誤解である」という論証です。 たとえば昨年の旅行で見た海の青さを「まざまざと想い出す」とする。けれども、この「まざまざと想い出す」というのは、過去の知覚を繰りかえすことではありません。 ----- 想起とは、知覚の想起であって知覚の再生ではない。海の青さを眼前に知覚することもできるが、それを灰色の都会の真中で想起することもできる。つまり、想起とは海の青さにかかわる今一つの経験の仕方として知覚と並ぶのである。一般的に言えば、一つの経験にかかわる様式には二つあって、その一つが知覚と行動の様式、今一つが想起なのである。(『時間と自我』 p.41) ----- 想起≠過去経験の再現、ということがわかった。 では、過去経験というのは、いったい何なのでしょうか。 大森はこれを「過去形の知覚・行動の経験」だというのです。 半年前に海で泳いだ。そのときの「泳ぐ経験」は過去の経験です。そうして、その過去の経験を「今」想起する。 ---- 今想起されている過去の経験とはすなわち「泳いだ経験」ではないか。つまり、過去形の経験ではないか。すなわち少なくとも想起体験にあっては、過去の経験と過去形の経験とは同義同一のものなのである。(p.47) ---- たとえば「犬が走る」という現在形の情景を、わたしたちは思い浮かべることができます。ところが「犬が走った」という過去形の情景を想像できるでしょうか。できません。そんな知覚はないから。つまり、想起とは過去の原体験とはまったく異なった体験、「過去形」の原体験だというのです。 ----- 想起の大部分は感覚的であるよりは感覚的であるよりは言語的でなのである。想起された御馳走の味は口の中や舌の上に余韻のように残っているのではなく「とてもおいしかった」と想い出されるし、「ひどく痛かった」経験の想起には何の痛みもないし痛みの影も残っていない。想起は概して文章的であり物語的なのである。  これらの想起された文章や物語は想起された経験の描写や叙述ではない。その文章や物語、それが想起された当のものなのであって、想起された経験の言語的表現ではないのである。その点で想起は記録や報告にではなく詩作に似ている。(p.53-54) ---- 大森の時間論というのは、とても理路整然としていておもしろいのですが、「幻影肢」のことはこれで説明がつくのかなあ、という気がするんですね(わたしは大森に関しては岩波の「講座」に所収されていた論理学の論文と『時間と自我』しか読んでいないので、どこかでふれられているのかもしれません)。 「幻影肢」というのはメルロ=ポンティが『知覚の現象学』のなかでかなり詳細に考察している現象なんです。「幻影肢」というのは、ご存じのように、戦傷や交通事故で手足を切断された人が、もはやそこにはないはずの手足になまなましい感じを持ち続けるという現象ですが、どうしてその人はその「感じ」を持ち続けるのか。メルロ=ポンティの考察はご質問とは離れるので、ここでふれることはしませんが、「経験の想起には何の痛みもないし痛みの影も残っていない」と言えるのだろうか、という疑問だけ、ここにちょっと書いておきます。 市川さんはどの箇所なのかよくわかりません。もうちょっとヒントをくださったら何か出るかもしれませんが、出ないかもしれません(笑)。 以上、参考まで。

noname#74804
質問者

補足

ghostbusterさん,たびたびありがとうございます。 >「経験の想起には何の痛みもないし痛みの影も残っていない」と言えるのだろうか {世界へと企投する一般的な様式の身体への沈殿への層をいい、したがってそれは非人称的である。}と竹原弘さんは哲学史の本で習慣的身体(le corps habituel)を説明されているのですが、この沈殿の層が幻影肢の原因であるとすると、それはベルクソンの言うところの身体的記憶のようなものであって、精神的記憶とは違うような気がするのですがどうなんでしょう。

その他の回答 (20)

  • sheep67
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回答No.10

こんばんは。 言ってる気持ちはわかりますねー。 僕もそう思います。 僕としては、記憶は、脳の中に存在していると同時に、外部との関係性でもある、と思うので、 つまり外部、というのは脳が捉える対象、という意味で、 対象がなければ記憶は作られないので、 その意味で、記憶は、外部の事柄と、それを捕らえる脳の共同作業=関係性だと思います。 少なくとも、記憶の性質に、そういう側面があると思います。 なので、外部なり、対象に依存している面があるので、 それは脳をはみ出している、という表現は的確だなーと思います。 存在と関係を結びつける概念は、仏教の縁起や、太陰大極図などで言われてるんですが、僕も同感です。 大して自信はないんですが。

noname#74804
質問者

お礼

sheep67さん、ありがとうございます。 精神としての記憶、想起というのは、対象があったという存在措定をともなうとともに現実に与えられていない再生された今として位置付けられるって何かにかいてあったなあ。 大森庄蔵は、想起というのは知覚や行動の再現ではなく、言語的に制作されるものだといっていたような。

回答No.9

お邪魔します。 >記憶は脳をはみだしている。 『物質と記憶』だと思いますが、正確にはどのような文脈で語られているのか確認できないのですが、少々雑な言い回しのような気がします。ベルクソンは確かに記憶が脳の中の局所・特定の位置に保存されていることを、当時の医学や記憶障害の事例から説明しこれを否定していますが、ベルクソンにとって、記憶がどこにあるのか、といったことよりは、精神と物質の二元論を哲学的困難なく説明するために、記憶を例にとって、記憶がどこにあるのかではなく、記憶はどのように存在しているのか、を説明するのであり、物質とは違った精神のありようとして、記憶を考察するわけです。 『物質と記憶』の序文(第七版以前)には、「すでにわたしたちが意識の問題に適用した方法であり・・・実用的記号から解放することによって・・・まさにこの同じ方法を、わたしたちは拡張しつつ、ここでふたたび適用し・・・」とありますから、これは『意識に直接与えられているものについての試論、時間と自由』で語られた、「われわれは自分の考えを必ず言語によって表現し、またたいていの場合、空間内で考える。」ことによる弊害を取り除くことにあるわけです。大胆に言い換えれば、空間を占めていない存在はどのようにして存在するのか、と言うことが問題なのですね。 それで、記憶は脳をはみだしている、と言う表現は、少々雑な表現ですね、と申し上げた次第です。 個人的には、ここでベルクソンは、観念論とともに唯物論も否定するわけですから、物質と区別された精神の存在をどのように理解するのか、最終的に神秘主義の傾向が出てくる種がここにあるような気がします。 ベルクソンは難しいですし、記憶も最初の主著で分析された感情も、普段わたしたちはこれらのものと密接に繋がっているのにもかかわらず、さっぱり分かっていないんですね。

noname#74804
質問者

お礼

fishbowl66さん、ありがとうございます。 >記憶は脳をはみだしている、と言う表現は、少々雑な表現ですね 本人も何かで言っていたような気がしたのですが、解説書なんかでは結構見かけますね。 >ベルクソンは難しいですし、 カントにしろベルクソンにしろ歴史に名前が残るような人物というのはやはり凄いですね(演繹力が)。 人間の脳の格差には本当に驚かされます。

  • nisekant
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回答No.8

一年前の献立表を見て思い出すか?私は無理ですが

noname#74804
質問者

お礼

たびたび、ありがとうございます。 献立表自体は現にあるものですから、それは現にあるものの把握にしか過ぎないです。献立表自体から何を推測するかはあなたの勝手です。

回答No.7

ベルクソンはこのことを洋服と洋服掛けの比喩を用いて説明していますよね。 まず、かけられている、ということにおいて、洋服と洋服掛けは関係がある。 さらに、洋服掛けが動けば服も動き、洋服掛けが落ちれば洋服も落ちる。 かといって、洋服掛けと洋服はそのいちいちが対応しているわけではない。洋服掛けをいくら研究しても、洋服のかたちはわからない。 このように記憶はたしかに脳に結びついているけれど、脳の中に位置づけられるのではなく、記憶の全体は、ある一点においてのみ脳と結びついており、そこを通じて記憶は脳に流れ込む。その意味で「記憶は脳をはみ出ている」のです。 脳と記憶との関係がこのようなものであるとすると、記憶とはどういうものなのか。 この前のところで、ベルクソンは記憶を二種類に分けています。 1.身体的な運動機構としての記憶 わたしたちは子供のころ通った小学校までの通り道を、ずっと通ることがなかったとしても、確実にたどることができるでしょう。『徒然草』や『平家物語』の冒頭の暗唱にしても、反復練習の結果、大人になったいまでも、自動的に暗唱することができます。ベルクソンはそうした記憶を「身体的な記憶」とします。 2.思い出 一方、反復を経ない一度きりの経験でも、わたしたちには、ありありと思い出せるような記憶があります。これは、主体が自発的に思い出す場合です。 この思い出というのは、過去から現在に押し寄せてくるようなものではありません。 そうではなくて、もっともよく現在の状況に挿入されうる表象を過去のうちに探しに行って、現在へと導く精神の作業です。まるで「重要な電信を発信元に問い返す電信係りの仕事」のように。 ここから洋服掛けと洋服のアレゴリーが使われるのですが、ここでの「洋服掛け」=脳は、「洋服」=記憶を自らのうちに持つのではありません。脳は身体的記憶または思い出を、現在の行為と結合させる、という働きを持つのです。 ベルクソンはここから思い出をたくわえておく場所として「無意識」を想定するのですが、わたしたちはベルクソンが『物質と記憶』を著したのが1896年であったことを頭に入れておかなければなりません。ベルクソンにおいて重要なのは、脳の選択力に着目した点にあるといえるでしょう。 > 記憶は脳をはみだしているでしょうか? 今日的には記憶の貯蔵は大脳新皮質でなされる、ということになっていますが(じゃなかったでしたっけ)。 わたしとしてはメルロ=ポンティのこういう一節が好みです。 「想起するとは、それ自体で存続している過去の画面を意識のまなざしのもとにたぐり寄せることではない。それは過去の地平のなかに身を沈め、その箱詰めにされた諸展望を次第次第にくり広げて行って、ついにはそこに要約されている諸経験が、その時間的場所において、いわばあらためて生きられるようにすることである」(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』) 記憶は過去の再現ではあります。けれど、わたしたちが過去をさかのぼるのは、過去がそれ自体で示す関心のためではなくて、未来を照らし出し準備をするためです。保存された「なにものか」を繰りかえし眺めることではなく、それは「現在」の光にあたって常に更新されるものである。 そんなふうに考えると、やはり「脳をはみだしている」ということになるのではないでしょうか。 デカルトの補足をしようとしてこっちに気がついて、やっつけで書いちゃったんだけど、こんなところで回答になっていますかね。もう少し細かい点で何かあれば。 市川さんとか、もう少しおもしろいことを書いていそうな気がするんですが、残念ながらぱっと思い出せませんでした。何かおっしゃってくだされば、わたしの貧弱な大脳新皮質から参照できるなにものかが見えてくるかもしれません。

noname#74804
質問者

補足

ghostbusterさん、たびたびありがとうございます。 >市川さんとか、もう少しおもしろいことを書いていそうな気がするんですが 確か市川さんだとおもったんですが、 記憶が貯蔵だったら、あるいは現に存在しつづける過去の知覚そのものだったら、それは現にあるものの把握だから過去についての記憶ではないだろう、もし過去の知覚をある仕方で表象する異なった知覚だとしたらら、どのようなし方でもはやないものを表象するのかと(正確ではないですが。) 記憶心象と想像心象の区別、大森さんの想起なんかを調べているんですが本屋に行かないとやはり、難しいですね。

回答No.6

 人間界における記憶なら、輪廻転生のカルマ記憶などは肉体の脳みその範囲ではないとは存じますが、ベルグソンはそんなことに関連してはおっしゃっては居ないでしょうね?  記憶の内容と働き、そして範囲は、上記載のことでなくても、当然に脳をはみ出しているのでしょうね。そして脳に入れる前も。  記憶の想起における脳の機能と位置、役目がが単なる端末、しかもそのディスプレーであるという考えもあるようですし、そうしたら脳の中のものをだしているっていうのは、実は表示されているだけだという観察や見解になり、記憶は脳をはみ出しているといえるのではないでしょうか。私自身としてはそう思っていますが。

noname#74804
質問者

お礼

どうもありがとう御座います。 >ベルグソンはそんなことに関連してはおっしゃっては居ないでしょうね? 確か何か言っていたような気がするのですが、調べて分かりましたらお知らせいたします。

  • nisekant
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回答No.5

詳細は「ユーザーイリュージョン」を 紙に書き示す、石板に刻む、コンピューターに保存するなど。 「三日前の夕飯の内容は?」と問われたら、「思い出す方法」もありますし、「献立表を見る方法(給食の場合」もあります。 思い出す行為は身体内部の記憶を手掛かりにしますし、献立表は身体の外部の記憶を手掛かりにする方法です。 もし、宇宙人がいて、「遺体を見る場合」と「献立表を見る場合」を考えれば、遺体からは何も分かりませんが、献立表は解読が不可能かもしれませんが、「誰かが何かを記している」と理解できると思いますので、これを「記憶が世界に雪崩れこむ」と私は解釈します。

noname#74804
質問者

補足

たびたび、ありがとうございおます。 >「三日前の夕飯の内容は?」と問われたら、「思い出す方法」もありますし、「献立表を見る方法(給食の場合」もあります。 結局、献立表を見て思い出すのでは?

  • no_1578
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回答No.4

記憶についての質問です。 質問胃にケチをつける前にあなたの考える記憶の定義をお聞かせいただきたいものですね。 No3です。質問にケチをつけるって・・驚きました。 よく考えればそつない返答をしてしまったかもしれませんが。 自分は同じ本を手にしたことがあるらしいってだけで幾分 好意を持ったくらいなのですが、残念です。さようなら。

noname#74804
質問者

お礼

そうでしたか。 たいへん失礼いたしました。

  • no_1578
  • ベストアンサー率0% (0/6)
回答No.3

自分もあまり詳しくはないですけど、 現代、素朴には、人の意識的活動は記憶も含めて 物質の運動に還元できるって思われてますよね。 どうやらそうらしいって具合に。それに対して この方は、違うぞ、と。色々同じ本や別の文脈で また違った(比ゆ的な)表現で言ってますよね。意識は単なる 物質の影ではないだとか。脳は壁に打った釘のような ものに過ぎず、意識はそこにかけたハンガーと衣服ほどに 広がりがあるものだとか。たぶん、わざわざ ベルクソンを引っ張ってそれをポンっと置くよりも 「意識は物質に過ぎないか」って聞いた方がそれなりに レスがあると思います。

noname#74804
質問者

お礼

no_1578さん、ありがとうございます。 >意識は物質に過ぎないか」って聞いた方がそれなりに レスがあると思います。 いえ、レスがない方が助かるんです(笑。

noname#74804
質問者

補足

記憶についての質問です。 質問胃にケチをつける前にあなたの考える記憶の定義をお聞かせいただきたいものですね。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.2

ご希望に沿えるかわかりませんが 「外部記憶」のことでしょうか? 紙、石板、コンピューターなどのことです。 参考書「ユーザーイリュージョン」

noname#74804
質問者

補足

nisekantさん、ありがとういございます。 >「外部記憶」のことでしょうか? 「外部記憶」というのはちょっと分かりません。 >紙、石板、コンピューターなどのことです。 紙、石板、コンピューターは脳をはみだしているのでしょうか?

回答No.1

記憶は、現在理解されている脳の理解では、説明しきれない奥深さがあるといった意味合いなのではないかと思います。 確証ではないですが、 ほんとに、そうとしか考えられない(文字通りはみ出してるとは考えられない)ので、 デタラメなアドバイスとして書いているつもりはありません。 ベルグソンという哲学者が どのような意味合いで言われたのかは私は知りませんが、   上記の意味合いでならば、 そのとおりだと私は憶測してるからです。 これは、神経の衝撃を伝わる物質とか電波とかは、五感やその直接の統合意識である6感自体を可能にしてる要素として生物に張り付いて存在してると思うのですが、 またそれが海馬領域にともかく入り込んで記憶となっていると思うのですが、   「心の明るさ」とかを感じる意識の世界とか感性の深い面の直感、人間意識と言えるような意識は、 知性だけでなく細胞の中に、その意識と関わっている物質の動きが必ずあると推理しているからです。 ユングが集合的無意識と言ったことが このことであるならば、それは実際に体の中に何かの動きとしても見つかる 物質とはりついた現象でもあるという推理であるわけです。  でも無意識と言う言葉には 私はかなり引っかかってしまいます。    実際には 意識の中の染み渡るかのように全体のあまねく存在してるのが「明るさ」とかの 奥深く普段はなかなか気づかないけれども確実の存在してる意識であり、 かつ人類に共通の意識ですから。  ユングの集合的無意識の説明には無理があるように思えてならないのです。 ともかく、 奥深くしかも、人間に共通している精神の世界は、 前頭葉とか扁桃帯と現在海馬領域がそれで説明されている範囲では とても説明しきれていない深さを持っていますから、  しかも実際に記憶の中でも重要な意識として感じられる世界ですから、  その意味で比喩として「脳をはみ出している」という言い方ならば、 そのとおりと思うわけです。 それを追いかける方法は、けだし脳科学や脳神経生理学とか細胞学だけがその道ではないと思っていますが、  私は生物にはりついていない精神が存在するとは思っていないということでもあるのです。 唯物論というのではなくて、 むしろ神の存在を考えたら わたしにはそうとしか思えないということなのですが、  そのへんは、ともかく科学こそがやがてすべてを、今よりももっと明らかにしてくれると思っています。 ベルグソンは 時間と精神を考えた人と聞いていますが、 「明るさ」もそこに関係する精神のひとつです。   時間と関わる精神は深いです。 ですのでベルグソンの言いたかったことも この地点の何かだったのではと憶測します。 selbst33様は、記憶が脳をはみ出しているかとうかだけに興味をもたれておられるのでしょうか?    だとすれば、 私の方からは 神への信仰の世界が出てきてしまいますが、 ベルグソンも神への信仰はあったかたですし、そのへに興味あるようでしたら、  はみ出しているはずが無いという論理は別に展開できますが、  どうでしょう。 一応 はみ出しているというのは現代の脳の学問の世界の理解を比ゆしてそれをはみ出してると 言う表現があったりもすると思われるというのを回答としておきますが。

noname#74804
質問者

補足

arayata333さん、どうもありがとうございます。 >一応 はみ出しているというのは現代の脳の学問の世界の理解を比ゆしたものだが、 > はみ出しているはずが無いという論理は別に展開できます ということでしょうか。 ということでしたらその論理をなるべく明瞭に(ド素人にもわかるように)ご説明いただければ幸いです。

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