- ベストアンサー
未来は、存在していると証明できますか
マクタガートのA系列(過去・現在・未来)の三様相のうち、特に、未来という時間概念を論理的に探究する前に、そもそも未来は、存在していると証明できているのでしょうか?と思ってしまいます。僕たちが日常生活している現在とは断絶していて、決して現在の側からはその中に飛び込めない未来という「あの世」のような概念は、語り得ない、記述し得ない、親近感のない、超体験であるがゆえに、つかみどころがないように思うのです。未来という想定の確かさについて、教えてください。
- みんなの回答 (73)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
No.64です。 かんたんですよ。 ★ 非現実・虚構としての《ゲーム・遊戯・劇》であって、〈絶対〉としての《ゲーム・遊戯・劇》ではないようです。 ☆☆ 《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》 ☆ これが 《迂回路》を含んでいるからです。 ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》 ☆ と読んでください。そうすれば 次のごとく 各自が それぞれ自由に アンガージュマンをおこなうというのが 基本になっています。 ★ ・・・「所与の絶対的な規範」に基づくのではなく、未来の現実の状況に向けて各自がアンガーシュ(拘束)されている「行為者」「役者」であると読み解く ☆ ですよね? ★ 各自が過去を反省し、現在の自己を否定し、未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する。 ☆ 《自己否定》は 一時 流行りましたが――そして それとして 自省は大事ですが―― この文では 《現在の自己》に対して 《否定》だけをおこなうかに見えますので その点だけが 気になりました。 科学哲学としては こちらは 相変わらずで 進展しませんが 大きく 《言語ゲーム》としての 未来論は その基本が見えて来たようですね。
その他の回答 (72)
No.60です。 ★ 自由という視点からの未来へのアプローチもあまり核心にふれないように思うのですが。 ☆ いただいたほかの評言に対しても 同じようなのですが わたしの場合 まづ その見方・考え方が 破格であると見なしてください。そうでないと ただちに 時間論なり あるいは 哲学なりにとって 文法がちがっているではないかと 指摘できるでしょうし 批難することができるのではないかと思います。 現在における未来に対して わたしたちが 自由であると主張するのは 単純な内容を言うためです。夢想・空想・幻想等々として あらゆる可能性を排除しないとただそのことを言うためです。 ○ 権力闘争を題材にするなら 未来社会の共同自治のための責任者(つまり 現在の首相)は 町内会のゴミ当番のように 当番制でいいじゃないか。(これは 吉本隆明の請け売りですが)。 ☆ というようなことを頭に描いているのです。絶対という虚構のしからしむるところです。 その自由の裏書は いま言ったことについて その文責は 留め置いているという ただそれだけです。未来について触れたその言葉も 言ったあとでは 言ったということ自体は すでに 過去になっているようです。このとき ★ 「未来は自由にしてみせる」という決意 ☆ は 人によって あってもよいでしょう。たぶん ★ 「未来は自由であるべきだ」 ☆ というふうに 肩をいからせてはいないと思います。そう言わなくても 自由であると思っているでしょうね。ですから 次のように言うと つねに 破格なのですが ○ 《絶対》を想定したからには 絶対のもとには 自由でないものはない。 ☆ と むしろ生理的に 思っているでしょうね。つまり これは じつは じつに 普遍的であるとさえ 思っています。これが 光速を超えてしまったわたしたちです。 この絶対論は ★ 迂回路 ☆ であるというよりも わたしたち人間の現実じたいが――あるいは その知恵や知識を用いるという作業じたいが―― 存在にとっては 迂回するかたちを採っているのではないでしょうか。そもそも わたしたちは 神のもとにあるのです。 それを言うためだけに 聖書なら聖書というあれだけの分量の文章を費やしているのだと考えます。すべての現象や人間の言動が そのとき そのつど その人によっては 神からの手紙であるという言い方もするようです。そのあと 社会と歴史そして科学という迂回作業にたずさわっているのだと思います。 ◆ (無許可にて引用しますが ANo.61) …世界征服の野望を暗示しているのかもしれませんね。 // 野暮なことはいいっこなし。 ☆ 日本人にとっての神道――つまり そう呼ぶ以前の信仰共同――は 不立文字などと言わなくても 先刻承知の助で 分かりきっていたのだと思います。 ▲ (万葉集 十三・3253) ~~~~~~~~~~~~ 柿本朝臣人麻呂の歌集の歌に曰はく 葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)の国は 神(かむ)ながら 言挙げせぬ国 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《言挙げ》をすることもあるのですが そういう意味で 随神(かむながら)の社会だったのだと思います。 一例を出します。 ▲ (万葉集 巻三・415) ~~~~~~~~~~~ 上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首 家にあらば妹が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ ▲ (万葉集 巻三・426) ~~~~~~~~~~~~ 柿本朝臣人麻呂 香具山の屍(かばね)を見て 悲慟(かなし)びて作る歌一首 草枕 旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 聖徳太子は そのあほ振りを示して――《世間虚仮 唯仏是真》などというステレオタイプの標語をかかげるばか振りを示すとともに そうして―― ただ かわいそうに!と言っているだけです。 しかるに 人麻呂は 早く 家のある国に帰りなさい!と すでに死んだ人に 声をかけています。早く 立ち上がりなさい!と言っています。 絶対を想定した上では 言語ゲームにおいて 何とでも 言えるのです。あらゆることが言えます。そういう意味では ゲームです。非現実であれば 非現実だと分かっているから それは それで いいのでしょう。 ◆ 野暮なことはいいっこなし。 ☆ 特に西洋人 特に われわれを含めた現代人 これらは 野暮なことしか言わなくなったのではないでしょうか。 これでは われらが先祖に申し訳が立たないと ばかなことを言って そろそろ退散しましょう。人麻呂らは 過去・現在・未来を すべて 貫きとおしていたのではないでしょうか。
お礼
>絶対を想定した上では 言語ゲームにおいて 何とでも 言えるのです。あらゆることが言えます。そういう意味では ゲームです。非現実であれば 非現実だと分かっているから それは それで いいのでしょう。 なるほど、「非現実」なる「絶対」ということを大前提にしている上での言語ゲームなのですね。納得です。少しだけ補足しますと、この場合の「ゲーム」は「劇」に近い意味である点を他の読者のために注意喚起しておきます。チェスやトランプなどを連想すると意味が分からなくなりますから。万葉集の例は、なるほど「野暮ではない」・「情のある」祖先の心を垣間見るようで、「劇」的な展開になっていると思いました。ありがとうございました。
補足
>自由であると主張するのは 単純な内容を言うためです。夢想・空想・幻想等々として あらゆる可能性を排除しないとただそのことを言うためです。 なるほど、自由=(あらゆる)可能性と読み替えれば、納得です。 「未来は自由であるべきだ」は、 「未来は(あらゆる)可能性があるべきだ」でも意味が通じますし、 未来と可能性は表裏一体ではないかとさえ思えます。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 しみじみ飲めば しみじみと 想い出だけが 行き過ぎる 涙がポロリと こぼれたら 歌いだすのさ 舟唄を 『舟唄』作詞:阿久悠 作曲:浜圭介 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND3971/index.html ♪(*^・^)ノ⌒☆ほろ酔い ●…世界征服の野望を暗示しているのかもしれませんね。 野暮なことはいいっこなし。 差しつ差されつと、いきましょうか? 『酒と泪と男と女』作詞:河島英五 作曲:河島英五http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND2047/index.html 男)のんで のんで のまれて のんで 女)ないて ないて ひとり ないて 【忖度と斟酌(そんたく、しんしゃく)の正確な意味合いと、双方の使い分けについて...】 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1114717086 【「さしつさされつ」の意味を教えてください。質問番号:4407771】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4407771.html (e_e).。oOうつらつら …(-\)゛゛゛ゴシゴシ (‥ )( ¨ )( .. )( ‥) (◎◎)いま何時??? ~「底が突き抜けた」時代の歩き方~ http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/seiji-05.html
お礼
なるほど、~「底が突き抜けた」時代の歩き方~を読ませていただきました。「現在からのまなざし」、「未来からのまなざし」として、筆者は、視点を定めていますね。このうち、「未来からのまなざし」を考察できる人は、かなり知的だと思います。そして、「未来からのまなざし」を持てる人が、理想主義者、きれいごと論者のように見られるということは、「知的な」何かに対する世間的なアレルギー反応のようなものだと推察しました。未来と理想は、親戚関係のような氏素性の近さを感じます。過去と現実も同様です。そして、理想も現実も、現在の場/時において、想定し、又は、想起するのでしょうね。
No.59です。 最後の問いかけについては あやふやですが お応えします。 ★ 光速以下の運動にどのように変換されるのでしょうか。 ☆ この経験世界での出来事という意味で 《光速以下の運動》と言いました。すみません。 ★ 愛は、「理性・知性そして なかんづく 感性」にどのように関わるのか、文脈から読み取れません。 ☆ 《愛》は 《意志》ですので 広い内容を持った概念ですが 感情や愛情を その先頭に持っているとも考えられます。そのときの感性として しかも 愛は 理論家である要素があると捉えたものです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 自由と責任との関係は、過去にこそ向けられるべきとカントは教えてくれていたと思います。未来からは読み取れないと思います。まだ起きていないことの責任に対して、現在の自由選択を語るのは滑稽です。「未来への志向」と「現在での決意」との関係について、今まで僕は展開してきたつもりです。「未来はまったく自由な どこまでも自由な 言語ゲームだ」とは、どのような意味でしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もし《無責任であり 許されない》ということでしたら 考えなおさなければなりませんが ★ 現在の自由選択を語るのは滑稽です。 ☆ ということでしたら つまり 《滑稽》なだけでしたら そのまま 未来としての現在を 夢見て進もうとしたいと思うのですが。 わたしのほかの質問で ○ 競争や権力闘争を このまま 続けていくなら しかるべき会社なりしかるべき指導者なりが 発展をほしいままにしたり台頭したりして 要らない競争も 洗練されつつ 棄てられていき 要らない権力者も やがて 消えていく。 ☆ というような夢想を描いたところです。夢想をゆるすという意味で 自由と言っています。これを 言論を基礎として おこなっていくという意味では 言語ゲームという言葉を拝借したというものです。 なにか ここにも 文法破りがあったのかも知れません。さらに具体的にご指摘いただけると なおさいわいです。
お礼
超光速も光速未満も、全く相対的で、全く絶対的ではないようですね。ぐにゃぐにゃの絶対では、似非絶対でしょう。真の絶対ならば、虚時間こそが棲みかだと思いませんか。超光速も光速未満も関係ありません。ただ、それは、超経験であり、沈黙すべきものです。超言語ですから、記述不能です。そして、絶対が未来と関わるなら、虚時間も未来と関わらねばなりませんが、記述不能なのでこの先に進めません。何か迂回路を探し出して、技術的に高度な手法でアプローチできればいいなあと思う次第です。願望です。「絶対」は迂回路としてはあまり成功していないと思いました。単なる感想です。
補足
「未来は自由であるべきだ」という言及は、「まだない未来」における願望を表現していて、決意ではありません。決意ならば、「未来は自由にしてみせる」という言及になりますが、決意して実現できるものでしょうか。完全なる自由などなく、様々な因果・因縁の下で許容されている程度だとすぐに分かるでしょう。「過去は自由であるべきだった」という言及は、「すでにない過去」を反省して表現していて、意味があります。未来と自由との関係は空虚なものです。自由と親和的なのは、過去と現在(幅のある今)だと思います。自由という視点からの未来へのアプローチもあまり核心にふれないように思うのですが。
No.58です。 重箱の隅の問題です。隅の隅まで 今回は つっつこうと思います。 ★ 「絶対」は、ブレない・頑なな指針のように思うのですが、・・・ ☆ 光速を超える《絶対》とわたしとの虚構関係において わたしが この世界の中で 光速以下の運動にかかわって ブレたり頑なになりブレなかったりします。超光速に対面したという仮構を 舞台の土台とすれば わたしは 自由に ブレたり 頑なになったりすることが出来ます。そのようなわたしたちが います。 そのような揺らぎも揺れも 互いにまったく自由に 受け容れ合うことができます。言いかえると 互いに批判も 自由に行ない得ます。絶対体験が――それが 仮想であったとしても また それを 無であったと見なすとしても―― はたらいているように考えます。 ★ ・・・ブレない・頑なさを排除し、恣意性のない「あらゆる可能性を生む元」としてであれば、理性・知性こそ、絶対に通じる窓になると思うわけです。 ☆ 絶対は 表象し得ません。《語り得ぬもの》です。もしそれでも 代理表現によって表わそうとすれば ○ 《〔わたしが〕ブレない〔も ブレるも〕・頑なさを排除〔するも しないも〕 恣意性の〔あるも〕ない〔も〕 〔善も悪も すべてをひっくるめて〕「あらゆる可能性を生む元」〔であり 土台であり 推進力であると喩えられる。しかも わたしがたとえ悪をおこなうにしても つねに 日本晴れのように 心はすっきりとした境地でいなさい――そして たぶん 悪はやめるようにしなさい――と 言っている〕》。 ☆ でしょうか。 ★☆ 理性・知性そして なかんづく 感性こそ 絶対に通じる窓になると思うわけです。 ☆ 愛は 理論家です。愛が 何を愛すべきか ほんとうに知らないとは 考えられないからです。悪を愛している場合にも 悪を愛していると知っているのだと思います。(自他未分化であって 何事にも憑依することによって行動する原始心性のばあいは むさぼるなかれといった規範の洗礼を受けていないので 別であるかも知れません)。 ★ 信仰を持ち出さずに、理性・知性を深めることで探究できると期待しているわけです。 ☆ 絶対体験を 有とするも 無とするも その絶対との対面という事件じたいは 非思考であり信仰なのだと捉えます。そのあと 信仰論を 神学として 追究する人もいるでしょうし 神学も信仰論も もはや うっちゃって 《理性・知性〔および感性〕を深めることで探究できる》とする人も いるわけです。どちらも 自由ですし 互いに 対等なのだと考えます。 かくて 未来は――未来としての現在は―― まったく自由な どこまでも自由な 言語ゲームだと考えます。無根拠で そう想定している――しかも 無理なく想定している つまりは ビッグ・クランチが来るなら来いと言っている――のだと思います。 感性をも 言語表現をつうじて 理解し合っていければよいと思います。それは 特に 異なる民族=言語のあいだで 望まれることだと考えます。この情感のゆたかな日本人は これから 世界を《侵略》するかも知れません。
補足
>この世界の中で 光速以下の運動にかかわって ブレたり頑なになりブレなかったりします。 光速以下の運動にどのように変換されるのでしょうか。 ☆ 絶対は 表象し得ません。《語り得ぬもの》です。 これは納得です。そのとおりだと思います。 ☆ 愛は 理論家です。愛が 何を愛すべきか ほんとうに知らないとは 考えられないからです。 愛は、「理性・知性そして なかんづく 感性」にどのように関わるのか、文脈から読み取れません。 >信仰論を 神学として 追究する人もいるでしょうし 神学も信仰論も もはや うっちゃって 《理性・知性〔および感性〕を深めることで探究できる》とする人も いるわけです。どちらも 自由ですし 互いに 対等なのだと考えます。 異論ありません。そのとおりだと思います。 >かくて 未来は――未来としての現在は―― まったく自由な どこまでも自由な 言語ゲームだと考えます。無根拠で そう想定している――しかも 無理なく想定している つまりは ビッグ・クランチが来るなら来いと言っている――のだと思います。 自由と責任との関係は、過去にこそ向けられるべきとカントは教えてくれていたと思います。未来からは読み取れないと思います。まだ起きていないことの責任に対して、現在の自由選択を語るのは滑稽です。「未来への志向」と「現在での決意」との関係について、今まで僕は展開してきたつもりです。「未来はまったく自由な どこまでも自由な 言語ゲームだ」とは、どのような意味でしょうか。
No.54です。 わたしは いぢわるな側面を持ち きわめてずるい――つねに最短距離を行こうとする――くせがあります。今では それを出してよいと判断したときにのみ出すように みづからのつもりとしては しています。 ですが 《〈絶対〉の想定》にかんしては そもそもの大前提からして 横着な《想定》の問題です。初めっから それが 受け容れられるかどうかで 話は 決まってしまいます。きわめてでかい声でしゃべっていますが これでも 肩身を狭くして述べております。そういう前置きを かさねて 述べつつ。・・・ ○ 絶対は 光速をも超えている。 ☆ のです。想定の限りで。だとすれば この絶対に直面するなら 大虐殺も まづは 相対的な出来事だとなります。その意味は たとえばパウロという人間が 新興のユダヤ教イエス派に対して 伝統ユダヤ教の立ち場から 迫害をおこなっていましたが その迫害行為も 相対的なものだと見られると同時に そのぶん おそらく のちには――更生のためにも―― 必死でかれは生きようとしたはづです。 * もっと言えば かれは 体も心も 掬(すく)われて(つまり救いと言うよりは たもで掬われて) あとは その〔疑似〕復活の雲に乗って その体験を語り続け 語り尽くしました。 加害者も みづからのあやまちを ―― 一般に いい意味で――相対的な出来事だと見ることが出来るようになります。どれだけその《前科》のことを非難されようとも もうなんともありません。ひたすら 《絶対》の前に みづからの全存在を投げ出し それでも みづからの心の白きを賭けて 生き続けます。生き切ります。 そういう意味で 未来論の 舞台が 確かなものになると思いましたし 述べました。もはや 通常の科学哲学の範囲を超えています。あるいは経験科学としての哲学の文法を 勝手に破り かなぐり棄てた理論です。理論と言えば 理論です。 ★ [1点目] 絶対と相対は接しているのか。それは接点なのか(あるいは線や面さらに空間とか時空なのか)。 ☆ 《超絶》という想定のあとは どうとでも 第二次の想定が出来ます。《包む / 覆う / ニュートリノのごとく貫通しつづけている / あれっ いま どこかに 指先のようなものが触れたような感じがした / このちっぽけなわたしというものが みづから分からしめられた / しかも どうも 恩恵を受けているようだ / ・・・》。 ★ [2点目] 絶対的な未来が全くなくても、明日世界が消滅するとしても、それを事前に知らない我々は、一般的に、日常的に、明日以降の計画を立てているものです。「行動や生の舞台」は、必ずしも「絶対」を必要としていません。「絶対」では、有意義な展開が望めないように思えます。「そうではないよ」という視点があれば、教えてください。 ☆ 上に述べたように 《行動や生また その舞台のほうから 絶対を要請する》というのは 稀れです。或る日 絶対と遭遇し その結果 この虚構を こころに 受け容れて さらにその結果 生とその舞台が 確かなものになったと感じられるのだと思います。 ★ [追加] 虚構であるという点は、全くそのとおりだと思います。虚構たる絶対と相対世界との接する場/時があるとすれば、当然、「現在」・「幅のある今」であるのは、疑いのないところだと思います。でも、本当に接しているのですか。隔絶しているのではありませんか。隔絶を前提として、それでも軌道修正しつつ方向性を示してくれる「コンパス」のような未来観で充分なのではないかと思うわけです。 ☆ 《軌道修正しつつ方向性を示してくれる「コンパス」のような未来観》 これは 《絶対》のことではありません。すでに精神の知解の対象になったものは 精神の産物であって 相対的なものごとです。つまり 理性であり知性のことです。 その《コンパス》を どう使うか このことを どこかで 絶対と直面したところの《わたし》が あたかも推進力を問い求めるかのように 考えているという姿が 未来論の舞台にいると思うわけです。 実際には 《コンパス》があるだけです。 そして それで 充分だというのは 絶対との直面を 無(無神)だと見なす信仰であり 思想だと思うわけです。つまり 無神論のばあいも そのようにして 舞台が 確かなものになったということではないでしょうか。絶対との対面を経た結果から そう言えるのではないでしょうか。それがないと いつまでも 相対の大海をおよぐ姿があるだけのように思います。生涯にわたって 信念のつよい人は いらっしゃいますが。 つつしんで申し述べました。
お礼
>《行動や生また その舞台のほうから 絶対を要請する》というのは 稀れです。 なるほど、やはり万人に共通して必要ではないようです。 >或る日 絶対と遭遇し その結果 この虚構を こころに 受け容れて さらにその結果 生とその舞台が 確かなものになったと感じられるのだと思います。 「絶対と遭遇」したと感じたときには、感覚的に確かになるようですね。その未知なる絶対に遭遇できない多くの人々には、無理なようですね。 >《軌道修正しつつ方向性を示してくれる「コンパス」のような未来観》 これは 《絶対》のことではありません。すでに精神の知解の対象になったものは 精神の産物であって 相対的なものごとです。つまり 理性であり知性のことです。 全くそのとおりです。我々の持つ行動指針は、相対的で「軌道修正しつつ」歩むものだと思うのです。「絶対」は、ブレない・頑なな指針のように思うのですが、ブレない・頑なさを排除し、恣意性のない「あらゆる可能性を生む元」としてであれば、理性・知性こそ、絶対に通じる窓になると思うわけです。信仰を持ち出さずに、理性・知性を深めることで探究できると期待しているわけです。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
ループ回路、フィードバック回路は、アウトプットをインプットにすことで希望する未来を得ようとしますね。 簡単な例として安定した未来を目指す安定化回路では、出力が下がってきたら、入力をあげる、 出力があがったら、入力を下げますね。 これは、 今 がアウトプットにあってこれを観察して、次の未来でインプットを調整して、次の次の将来を安定化させると言うことですね。 初期値またはアウトプットがないと次のインプットが出来ません。 他方、このループ系、フィードバック回路がなければ、今 はインプットにあって、アウトプットは未来にあります。 勝負脳状態だと、主役は、インプット側となります。アウトプットの認識の前にいる本人です。 前者は、インプットもアウトプットもいわばアウトプット脳がやります。幅のある時間側の脳がやります。 後者は、インプット脳とアウトプット脳が分裂してます。 アウトプット脳が意識する前に、インプット脳が 今 インプットはやっています。 拡張した幅のある今の内部において、アウトプット脳がそのインプットを知るのは少し後の未来となります。 それは、ともかくとして、過去、現在、未来は結局すべて幻想なので、 あまり論理性に固執しても意味が薄いと思うようになりました。 この幻想側の未来の答えは、時と場所を超越した直感なのではないでしょうか。 未来を見通す力とか予知というのは、論理思考を利用したとしても、結局、直感です。 大予言者とかオカルトの話をしているのではなくて、日常的直感を言っています。 正誤は別として、アウトプットを直接感知しています。 あっ、ぶつかりそう。電話が来そう。明日は、雨になりそう。天皇賞取れそう。来年は、合格しそう。 過去、現在の延長線上に論理思考として未来のレールを敷いても、その入れ物に入るのは 物理法則以外は、直感ですよね。 過去は断片的記憶、未来は断片的直感。似て非なるもの。非て似たるものかもしれません。
お礼
>それは、ともかくとして、過去、現在、未来は結局すべて幻想なので、あまり論理性に固執しても意味が薄いと思うようになりました。 論理性はともかく、過去、現在、未来(A系列)という認識は、日常的に利用できていて、(過去)役に立ってきたと今、思うし、(未来)今後も役に立っていくだろうと今、予想するわけです。この予想が、確信であるはずはないというのも事実で、「先のことは誰も分からない」という発言は正しいと思います。 >過去、現在の延長線上に論理思考として未来のレールを敷いても、その入れ物に入るのは物理法則以外は、直感ですよね。 直感は、幅のある今に属しているので、今の中に未来の先取りがあれば、未来はあるかもしれません。でも、先取りってないでしょう。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、qsxdrfvgyhさん。 No.50へあてた《この回答への補足》 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 今話題の村山談話の一部を引用します。 http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/press/danwa/07/dmu_0815.html >わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。 >敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ ↑ ほーい、ここ読んでて思ったの。 日本人って外国へ行くと真っ先に“I am sorry.”と、反射的にこの言葉を口にしちゃう。《「日本の常識、世界の非常識」》。http://www.ch-sakura.jp/oldbbs/thread.html?id=158567&page=1&genre=sougou日本人からみれば、「ごめんなさい」と、一言声をかけるのは礼儀のひとつでもあんだけれど、これを他所の地で通じるかといえば、ハテ「?」とクエスッチョンマークが踊る。“心からのお詫びの気持ちを表明いたします。”といったならば、即座に過失責任を認めたとなり賠償請求といった流れへと転嫁していくから恐ろしい。なんじゃこりゃ?そんなアホなぁー???と、日本人からしてみれば信じれんような話。神も仏もあったもんじゃない。縮小して日本国内を世界に見立てても同じ様なことは日常茶飯事で起きている。そうそう、今日も朝から井戸知事が不適切発言をしたと新聞紙面やTVのワイドショー番組が賑わいを見せる。“心からのお詫びの気持ちを表明いたします。”の言葉をおしだまらせているのは即座に過失責任を認めたとなり賠償請求といった流れへと転嫁していくおかしな風潮があるからじゃないのかな?言葉のいい間違いひとつとって吊るし上げるのを楽しんでいるのか、人が人に対して寛容になれないことの方が逆に危ないものを感じるよ、ここのところの世の風潮に。んで、思うんだけど、仮に過失責任があったとしたらば割合ってものが何故だか度外視されてるように思うんだ。非を認めたらば100:0で先に認めた者に責任を100%科すのは如何なものなのですかね?“心からのお詫びの気持ちを表明いたします。”の言葉をおしだまらせているのは過失責任を認めたとなると即座に賠償請求といった流れへと転嫁する。これって、中身を吟味もせず片側におっかぶらせるみたいでヘンじゃん。 未来は、存在している=世界は、日本に存在している
お礼
なるほど。でも、過失の割合って、恣意的だと思いませんか。 まあ、あまり深く追求すると本題からどんどん反れるので、過失や賠償の話は、打ち止めにさせていただきます。 >未来は、存在している=世界は、日本に存在している この相似的な類似・類推は、面白いです。 「世界(未来)は、日本(現在)に存在している」だと、もしかすると日本による世界征服の野望を暗示しているのかもしれませんね。
- moritan2
- ベストアンサー率25% (168/670)
未来が存在しているという確実な証拠は無いと思います。この瞬間にも宇宙が消滅するかもしれないでしょう。そうなったらそれを認識することすらできないわけですが。 ただし、この質問は哲学向けかも・
お礼
ご回答、ありがとうございます。 まったく、そのとおりで、確実な証拠なんてないと今も思っています。 しかし、誰かが、「違うよ、あるよ、確実だよ」と教えてくれたらいいなあ(期待を込めて)と思っているわけです。その根拠を言語化するのは、困難なのでしょうが。
No.53です。 どうしても わたしは 《絶対》を想定したいもののようです。 ★ 絶対が相対に属すると、「絶対」ではなくなってしまいます。万能物差しとでも言うようなイメージなのでしょうか。絶対の意味が、相互にずれているように思います。 ☆ とにかく 《この経験的な相対世界》を超えたところに 《絶対》を想定するわけです。 ですから この絶対は 相対世界を超えていて――そのあと さらに むしろ恣意的に憶測を加えて―― この相対世界を包むという意味あいをつけ加えます。つまり ★ 絶対が相対に属する ☆ のではなく 絶対は 相対を包みつつ 相対と接することになります。この接点において 《絶対(たとえば 霊)が 相対(つまり人間)に宿る》と表現するまでになります。 場違いであり 雲をつかむ話です。 ところが この絶対を前提にすると ☆☆ 未来論が 確かなものになる。 ☆ ではなく ○ 未来論の 舞台 が 確かなものになる。 ☆ と言うべきところでした。なにしろ――勝手な想定の限りでは―― ○ 絶対は 光速をも超えている。 ☆ からです。 ○ すべての相対を超えているからです。 ○ 未来の時空間を超えたところの絶対と 想定としてでも あい向かい合うならば その時空間が わたしたちの行動や生の舞台として もはや すでに 確かなものとして 捉えられるのではないでしょうか。 ○ 言いかえれば 村山談話を例にとるなら その中の歴史事実とそれらの捉え方が すべて まったく相対的なものごとであるとして 互いに誰もにとって――想定の限りで―― 共通の認識を得ることができます。 ☆ むろん 申し訳ないことは 申し訳ないことですし これからそうしないようにすることも そのとおりに従うわけですが すべてが 加害者・被害者いづれの側かを問わず 相対的な出来事であると 共通に認識できるなら なお紆余曲折はあるかも知れないとしても これからの未来論としての舞台は 確かなものとなったかたちで 進むことができると考えます。 今後のすべての行為を 相対世界の中におさめ 言ってみれば封じ込めるがごとくして 互いに その視点で 実行に移してゆくことができる。のではないでしょうか。 絶対は 無神にしても有神にしても 神であって その神から わたしたちが 見られているという想定を持てば しかも その神のあたかも力(ないし視点)を分有するとすれば 相対の世界を 未来に向かって おさめていくことが出来るのではないでしょうか。(いちいち 神と言い替える必要もないのですが)。 でも 確かに 虚構ではあります。いかがでしょうか。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 論点は、次のとおりです。 >絶対は 相対世界を超えていて ★ 絶対が相対に属する ☆ のではなく 絶対は 相対を包みつつ 相対と接する・・・この接点において 《絶対(たとえば 霊)が 相対(つまり人間)に宿る》と表現するまでになります。 ○ 絶対は 光速をも超えている。 ☆ からです。 ○ すべての相対を超えているからです。 超越していれば、接することは有り得ません。だとすると、接するという比喩は正確ではないと思います。齟齬があるようです。 [1点目] 絶対と相対は接しているのか。それは接点なのか(あるいは線や面さらに空間とか時空なのか)。 ○ 未来の時空間を超えたところの絶対と 想定としてでも あい向かい合うならば その時空間が わたしたちの行動や生の舞台として もはや すでに 確かなものとして 捉えられるのではないでしょうか。 [2点目] 絶対的な未来が全くなくても、明日世界が消滅するとしても、それを事前に知らない我々は、一般的に、日常的に、明日以降の計画を立てているものです。「行動や生の舞台」は、必ずしも「絶対」を必要としていません。「絶対」では、有意義な展開が望めないように思えます。「そうではないよ」という視点があれば、教えてください。
補足
お礼欄記入の後に追加します。 >(「絶対は 無神にしても有神にしても」)確かに 虚構ではあります。 虚構であるという点は、全くそのとおりだと思います。虚構たる絶対と相対世界との接する場/時があるとすれば、当然、「現在」・「幅のある今」であるのは、疑いのないところだと思います。でも、本当に接しているのですか。隔絶しているのではありませんか。隔絶を前提として、それでも軌道修正しつつ方向性を示してくれる「コンパス」のような未来観で充分なのではないかと思うわけです。
No.51です。 ★ 物理学的な時間でさえ、相対性理論によれば、万人共通なものではなく、ゆえにニュートンの絶対時間・絶対空間は否定されているのが現状です。 ☆ これに反応します。 《絶対時間・絶対空間》は とうぜん 経験領域つまり相対性の世界に属します。もともと そうです。この場合の《絶対〔時間・空間〕》は ちょうど光速を最高・不変だと前提するごとく 経験世界の基準にしたというような意味だと思います。 ふつうの《絶対》つまり それとしての神は むろん 光速をも・絶対時間をも 超えています。というよりも 人間にとって 単なる想定です。そう想定するから そうだという意味です。 けれども この神ないし絶対を 概念として用いると いろんな発見に出会うことがあり 人間の経験可変的な真実ではあっても その真実を表わすことが容易になり しかも その相対真実をとおして 相対真実を超えたところのなぞについて 触れ得たかに思われることもあります。 ですから ひとつの見解としては この絶対との向き合い つまりは 《絶対‐相対》関係としての全体観をもつところに 《未来》論が ある程度は 確かなものになるという側面もあるように思います。 なお No.49のアウグスティヌスの引用は むろん おっしゃるように 単なる余興です。古代に現われた近代人というあだ名が それほど奇怪なことではないという例示でした。マクタガートが アン何世でしたか 女王の死を例にして 時間論を展開していたと思いますが このように死を例にして論じるところも アウグスティヌスにあったはづです。これも 余興です。
補足
>《絶対時間・絶対空間》は とうぜん ・・・相対性の世界に属します。・・・経験世界の基準にしたというような意味だと思います。 絶対が相対に属すると、「絶対」ではなくなってしまいます。万能物差しとでも言うようなイメージなのでしょうか。絶対の意味が、相互にずれているように思います。たとえば、メートル原器は、絶対ではないと思います。それは、任意の(恣意的な)長さの単位でしかありません。時空一体(一如)の視点では、不変の基準は光速のみで、時空は伸び縮みしますから、現代物理学においては、絶対時空なんてないことになっているはずです。ただし、近似値計算が許される範囲で絶対時空にしておくだけだと思います。 >《絶対‐相対》関係としての全体観をもつところに 《未来》論が ある程度は 確かなものになる たとえば、どのような例示ができますか。「村山談話」を使ってできますでしょうか。ほかの例示でもいいので、「絶対なる基準」と相対性から全体像や確かな未来論をできるだけ簡潔に例示していただけないでしょうか。
お礼
一般的に、企業の採用人事担当職が、面接で応募者の採用を決定する重要な要素の一つとして、「当社における将来的な貢献度」をその応募者の言葉と行動から、今実感できるかどうかという点があると思います。 「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)する」その応募者の状況が、その言葉と行動から想像でき、面接者がそれを納得できるかどうかが重要であろうと思われます。 「まだない未来」だけれども、そうなる努力(たとえば資格取得)、資質向上方策の実践、業界や経済情勢などの情報収集・現状認識・応募者独自の判断から、応募者の将来像がイメージできるかどうか次第で、合否が決すると思うわけです。 >《〈絶対〉のもとで夢見る非現実ないし未来》 これが 《迂回路》を含んでいる > ○ 《〈絶対〉 ≫という無根拠≪ のもとで ≫一人ひとりが それぞれ 主観として≪ 夢見る非現実ないし未来》 ☆ と読んでください。 このような《言語ゲーム》としての「未来論」を持つ人物では、採用人事担当職としては、全く、その応募者に魅力を感じません。夢見るだけでは弱すぎます。「所与の絶対的な」模範解答のような借り物を持ち出してもだめです。自分の言葉で語り、自分の能力に対するできるだけ客観的な現状認識に基づき、何ができ何ができないのか、明確に理解した上で、会社や社会にどのように貢献できるのかを熱く語り、「未来に対して自己をプロジェ(投企-投げ入れ)」した将来像がイメージできるような応募者でないと合格にしません。 その意味で、現実味を帯びた未来を熱く語れるかどうかは、その応募者の人間力に通じると思うのです。 そろそろ未来論を総括できる時期が近づいたようです。ここ数日、どのような例示がいいか悩みましたが、分かりやくいものにできたと思います。そして、「未来という想定の確かさ」は現時点(幅のある今)における個々人の言葉と行動・実践の差異によって、それぞれ全く違うと分かりました。自信のない人の未来は、全く確かではないようです。また、根拠のない自信過剰の未来は、完全なる虚構になっていると思います。根拠のある、実行・実践の事実の裏づけのある、未来の想定は、説得力があり、確かなものだと言っていいと思うのでした。これが結論になると思います。長い間、ありがとうございました。