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レヴィナス『全体性と無限』における<女性的なもの>について

こんにちは。『全体性と無限』で卒論を書こうとしている大学四年生です。 レヴィナスにおける<女性的なもの>の概念について質問させてください。具体的には、エコノミーの文脈とエロス論が、<女性なもの>においてどのようにつながるのか、あるいは「女性とは存在論的なカテゴリーである」というレヴィナスのことばがどのような意味を持つのかについて、質問させてください。 上巻第二部Dの二「住まうことと女性的なもの」の項で、レヴィナスは「女性とは集約することの条件であり、<家>という内部性の、住まうことの条件なのである」(熊野訳 上巻p.313)と書いていました。 労働によって始原的なものにかたちを与え、それを所有し、そうすることで始原的なものから分離されるためには、<家>を持つことが必要である。というのは、所有が可能であるのは、<家>が所有者を迎え入れるからであり、つまり、すでに<女性的なもの>が<家>のなかで<私>を(不在という現前によって)迎え入れているからである。さしあたり、私はこのように理解しました。ここでは、<家>を成り立たせる<他なるもの>として<女性的なもの>が挙げられており、だとすれば人が生きている限り、<女性的なもの>は絶え間なく(不在という現前によって)私を迎え入れているということになるように思います。 しかし第四部(特にBとD)のエロス論においては、<女性的なもの>は一貫して性愛の行為における<他者>として論じられており、第二部の文脈でのそれとは違うことを意味しているように思えます。二部と四部の<女性的なもの>に共通しているのは、主体がそれを完全に把握するということはありえないということ、むしろ、まさにその把握不可能性によって、それが主体の成立を可能にしているということぐらいであるように思えます。 第四部における<女性的なもの>は主体を多産性へと結びつけることで、主体が死を乗り越えることを可能にする<他者>でした。それは第一義的にはエロスにおけるパートナーとしての<他者>であるようです。 そしてその性愛の場面へと向かう主体を可能にするのが、第二部で述べられている<女性的なもの>であるのだと思います。しかし、それでは このエコノミーの文脈における<女性的なもの>とは「誰」のことなのでしょうか。<家>の条件をなすという意味では、全面的な享受からの脱出の契機、すなわち生存競争のただなかに現れた<私>の「おちつき」、あるいは「ほっとする感じ」を可能にするような、「私自身を迎え入れる、それ以上遡行不可能な私の歓待性」のことを指すのでしょうか。 おそらく、「女性とは存在論的なカテゴリーである」というレヴィナスのことばが、この辺りの事情を解き明かすためのキーになるのではないかと思っています。「男性的な要素と女性的な要素が分有されているということが人間存在というものの特性なのである」(『倫理と無限』)ということばは、エコノミーとエロスにおいていかなる意味を持つのでしょうか。 ご解答のほど、どうぞよろしくお願い致します。長文失礼致しました。

みんなの回答

noname#117439
noname#117439
回答No.1

心理学の分野では実証の段階に移っていますが、個人の生命の根幹を支える「本能」的部分とは心に内在した女性的従順さです。 ご質問の哲学はこの生命の根幹について神話的で遠回しな考え方で探求しようとする試みです。 ソフィーの世界にも紹介されていますがソクラテスの生きた時代は馬のイデアは有っても人間のイデアはなかった。 つまり普遍的人間性に関して人知の合意がないのです。 したがって女性をほじくっても試みに過ぎなく結論に至る可能性は、現代においてすぐに氷解する可能性においてゼロパーセントです。 疑問の本質には迫れません。

tsh_mzch
質問者

お礼

>「普遍的人間性に関して人知の合意がない」 おそらく、レヴィナスは普遍的人間性としての女性性を問題にしようとしているのではないのではないかという気がするのです。 普遍的人間性は全体性へと解消されてしまう。それゆえにレヴィナスは古典的論理学の諸カテゴリーへと還元されないような<他者>という次元を開き、<他者>のエロス的形態として<女性的なもの>を位置づけたのだと思うのです。 だとすれば、<女性的なもの>は日常的な意味での従順さを超えるものでなければならないはずなのですが…。 ご回答頂きありがとうございました。

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