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幸せになるには
人間は、他の動物と同様に、何ものかを欲望する。ところが、人間に於いては、いくら対象を獲得しても、欲望の真の充足に至らない事がある。欲望していた対象の獲得が、更なる対象への欲望を、従って不充足の感覚を、誘発する事があるのだ。言い換えれば、人間の場合、対象を得れば得る程、対象が不足しているかの様な感覚が生ずる事がある。欲望の対象への真の到達が遅延させられ、先送りされて行く、この様な事が、人間には屡見られるのだ。最も典型的なのは、我々の貨幣への欲望である。我々は貨幣を得れば得る程、尚一層貨幣を欲しくなる。貨幣の獲得は、貨幣の不足感を生み出している。同じ事は、地位への欲望、人生の成功への欲望等に関しても、屡見出される。 欲望の対象と原因を区別する。主体は、直接には対象を欲望しているが、欲望を真に引き起こしているのは、その対象ではなく、原因である。従って、主体が対象をいくら得たとしても、原因は残っている為に、欲望は消える事がないのだ。対象は、原因の代理物、然も原因に対して決して互換的にはなり得ない代理物だったのだ。それならば、原因と対象の乖離は如何して生ずるのだろうか?如何して原因とは異なる所に対象が浮上し、主体は、対象の方を、つまり一種の虚像の方を目指すのだろうか? 結論を急ごう。主体は、欲望していた対象を得た筈なのに、充足を得られない。その理由は、欲望の真の目的、真の原因は、その対象ではなく、他者のーー主体にとって重要な意味を持つ超越的な他者のーー愛や承認にあるからである。主体は、その特定の対象を所有する事が、その超越的な他者の愛や承認を得た事の保証になるか、或いは他者の愛や承認を惹きつける理由になり得ると感じている時、その対象を欲望する。然し、実際には、その対象は、他者の承認や愛の保証にも根拠にもならない。つまり、得られた対象は、「求めていたそれではない!」「これじゃない!」として拒否されるのだ。それ故、更に、対象を求めてしまう。この様な欲望を規定している他者こそ、超越的な他者である。 こうした構成を示す原初的な状況として、次の様な場面を思い浮かべれば良い。幼児が、何かケーキか玩具を母親に強請って泣き喚く。母親が、それらを、子供に買い与えても、子供は、「もっと」と言って更に強請る。母親は、「なんて我侭な子でしょう」等と言って、子供を叱るが、子供は一向に泣き止まない。然し、この時、ケーキや玩具を与える代わりに、母が子供を抱き締めてやったら如何だろうか。すると、子供は泣き止んでしまう事がある。子供が真に欲していたのは、ケーキや玩具ではなく、母の愛だったからである。 ところで、もし、欲望の真の原因が、他者の、第三者の審級の愛や承認であるとすれば、その欲望には、原理的に、完全なる充足が齎される事はない。件の幼児は、玩具を自分に与えてくれるか如何かで、母の愛を試しているのだが、実際に与えられてみると、それだけでは、母の無限の愛の保証にはならない。母は本当に自分を愛してくれているだろうかという疑惑・謎は、決して消えはしない。同じ困難は、愛する者、つまりーーこの場合はーー母の側から表現する事も出来る。母としては、子供に自分が愛している事の確証を与えたい。自分の愛を示す為には、結局は、子供に何かをしてあげる事、何かを与える事しかないのだが、然し、それだけで、子供に永続的な安心感を与える事は出来ない。結局、他者は、正に謎である限りで他者なのである。それは、他者が他者である事の本質的な条件である。他者が私を愛しているのか、他者が私に対して何を求めており、私が何者であった時に他者からのトータルな承認が得られるのか、その事は、究極的には、決して解消出来ない謎である。斯くして、欲望の対象と原因との間のギャップは、決して埋まらない。欲望の対象とは、ーーそれが得られていない限りに於いてーーこのギャップが埋められたかの様な錯覚を与える対象の事である。つまり、対象を得る前には、主体は、「あれさえあれば、私はあの人に愛されるに違いない」とか、「あれさえ与えて貰えれば、私は愛されていると確信が持てるのに」等と思っている。つまり、「あれ」が得られない間は、主体は、この様な強い予感を抱いている。が、然し、実際に「あれ」を得た時には、他者に関する主体の不安は消えない。 大澤真幸『生きるための自由論』より抜粋しました。 以上を前提に質問したかったので、この様な長文になってしまいました。すみません。 では、質問です。 私達は幸せになれないのでしょうか? 満たされたいのに満たされない。 生きるのが辛いです。 一体如何すれば良いのでしょう? 又、この疑問に答える本や、お勧めの本等がありましたら、教えて頂けるととても嬉しいです。 本でなくても、何でも構いません。 ここまで読んで下さって、有り難う御座います。
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- booter
- ベストアンサー率34% (269/769)
ウェブに書いているのに何という名文なのだろうと読みふけっていたのですが、引用でしたか。すっかり質問文として書いているものかと思って感心していたのですが・・・いやいや、ともあれ勉強になりました。 さて、 >私達は幸せになれないのでしょうか? ある種、宗教チックな回答になりますが、回答します(ちなみに私は特定の宗教とかを信仰している訳ではありません)。 我々はそれぞれ天の神様から与えられた天命みたいなものがあります。 頭は悪いけど運動神経が良かったり、あるいは運動神経はにぶいけれど頭が良かったりと様々です。もっと細かい特徴を追えば、人によって得意、不得意や、あるいは環境や運命によるその差は千差万別でしょう。 人はこの与えられた天命を一生懸命生きればいいのだと思います。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
"私達は幸せになれないのでしょうか?" ↑ 必ず死ぬ人間に、真の幸せはありません。 仮の幸せならあります。 ”満たされたいのに満たされない” ↑ 満たされないから不幸だ、満たされたら幸福だ、 という考えそのものが間違っていると思います。 満たされても、またすぐ次の欲求が出現する だけです。 それは死ぬまで続きます。 昔に比べれば、日本人はけた違いに豊になって いますが、飢餓感は相変わらずです。 次から次へと新しい欲求が顔を出します。 ”一体如何すれば良いのでしょう?” ↑ 自分が幸せになろうとしても、幸せになることは 困難です。 他人を、それも身近な人を幸せにするよう頑張って 見てください。 意外と簡単に幸せが手に入るかもしれません。
お礼
御回答有り難う御座います。 親切介入法ですね。 大切だと思います。 前向きに生きようと思います。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
Ano.6です。 >「私にとっての幸せは完璧を意味していないので、解決策を教えて頂きたいです。」 キーワードは(抜粋にも何度か出て来る)「保証」ということになるかと思います。 これまで、そうした「保証」は、「最低限度の生活を営む権利を有する」ということで、有ったのです。 (行き過ぎた自由は、認められない) 社会的に、「どんな者であっても、どんな理由があっても、人は「最低限度の生活を営む権利を有する」」 つまり、この「保証」です。 その保証があれば、 >「が、然し、実際に「あれ」を得た時には、他者に関する主体の不安は消えない」 というような心配も不要です。 (どうしても「社会的名声(競争)」だ、という立場は、それはそれで辛いこともあるのでしょう)
お礼
御返事有り難う御座います。 完璧を求めなければ幸せになれる、という事でしょうか。 ANo:5のkoiprinさんが仰る様に、「足るを知る」ですかね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ 満たされたいのに満たされない。 ☆ ものごとは 相手のある問題と ひとりだけの・つまり自分だけの問題とがあります。 食欲を満たすのは おおむね――と言っても確かに社会的な背景があってのことですが それでもおおむね――自分が食べるかどうかのひとりだけの問題です。 相手のある場合 たとえばここで質問をするというばあい。ひとつに回答がつくなら それとして もとめたところは満たされます。 もうひとつに これぞのぞんでいた内容だという回答が得られれば 欲したところが満たされます。 つまり ここまでの例示にかんするかぎりで ★ 満たされたいのに満たされない。 ☆ と言い切るのは 必ずしも妥当ではありません。いくぶんかは満たされているはずですから。一般にも そうであるはずです。 かくなる上は 道は ふたつにひとつです。 欲するところのものごとを完全に得たい・それによって満たされたいということなのか。 それとも じつは或る程度はすでに満たされて来ているけれど 上のように完全にではないので 部分的な満足については 顧みない・つまりその意味で ウソをついておくということなのか。 つまり ★★(No.4お礼欄) 嘘は幸せの為に不可欠な物だと私は思います。 ☆ というお考えであるようですから 後者の場合ではないかと勘繰るのですが どうでしょう? つまり 前者の場合なら それでは《欲するものを完全に得る》ためには どうすればよいか? という問いに替わります。それの探究をおしすすめるべきです。 後者の場合 いま言ったことは 文脈を無視していますので もう少し述べます。すなわち ★★(同上) ~~~~~~~~~~~ 嘘を吐くなら、最後まで吐き通しさえすれば(吐き通す必要がない場合もあると思いますが)、嘘を吐かれた側にとってそれは真実となるので、毒を孕んだ真実を語ってしまうよりも良い選択だと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このようにうかがうと 部分的に満たされているのにウソをついて 満たされていないと言ったり そのときウソをつかずに 完全に満たされることを欲するという路線をすすむと決めたりする場合は 別だとなるようです。 欲することを成就する問題で 《毒を孕んだ真実を語る》よりもウソをつくほうをえらぶというような必要は 一般に ないと思われるからです。 でしたら 満たされたいとき 或る程度は満たされている。 というふうに――ウソをつかずに―― そのモノゴトをあつかう過程でそのつど捉えて行けば 問題はない。こう思われます。 この路線で行けば しあわせに成れると保証できなくとも ふしあわせになるということは まづ ないのではないでしょうか。 ▲ 超越的な他者 / 第三者の審級 ☆ というのは 《部分的に満たされている》のに なお《完全》を欲してそれとのあいだに へだたりがあるのだと わざわざ人びとに意識させ どこまでも欲望を掻き立ててやろうと思っている〔つまりその文章を読む人間を得るならば 印税や原稿料をかせぐことが出来る〕物書きの商品のひとつです。 《煩悩》とか《ブッダのさとり》というのも そういう商品でした。 プロの思想家らよりも われらふつうの社会生活をいとなむ市民のほうが すでにさとりを得ていると ほこるべきです。ゴータマ・ブッダや 《超越的な他者》論者らは 言ってみれば オレオレ詐欺や振り込め詐欺に近い。のでは?
お礼
御回答有り難う御座います。 嘘に関しての部分はよく理解出来ませんでした。 出来ればもう少し簡単に教えて頂けないでしょうか? ▲の部分は、成る程と思いました。 是非、bragelonneさんお勧めの本を教えて頂きたいです。
- mesenfants
- ベストアンサー率31% (43/136)
「幸せ」になるには、失礼ながら、 まず、引用された社会学者の文章から自由になることが大切だと思います。 この文章から推察できる人間観、人生観は(私には)貧しいとしか思われません。 ほとんど神経衰弱のような人間観です。 人生はウサギとカメの競争ではないし、じっさいウサギはカメを追い越してしまいます(笑)(幸せを得ます)。 ――念のためにいえば、ジラールやラカンなどフランス流ヘーゲル主義者が数十前に流行らせた思潮を薄めたら、こういう引用文になりそうです。 引用箇所には「子供と母親」の例がありますが、せいぜい、「幼児期」にだけあてまるような「理論」というほかありません。 私たち(幸せを問う大人)は、幼児ではありません。 これでは「欲望」とやらを「捨てる」しか道がありません。座禅でもしますか? 「欲望」とどうつきあうかですが、それは各自が独自に身につける処世の技です。 私たちは、すでに「幸せ」です。 そのことを見るには、たとえば、 人に対して、心から挨拶をするだけでいい、 愛されるのではなく、愛するだけいい、 愛することができる、それ自体、ありがたいこと、と思えばいいのではないでしょうか。
お礼
御回答有り難う御座います。 考えれば考える程、幸福は遠ざかって行ってしまう様な気がしたので、もうこの件に関しては深く考えるのは止めにしようと思います。 感謝介入法ですね。 大切だと思います。 自分が如何に恵まれているかを意識し、どうせ生きねばならないのなら、楽しく生きます。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
こんばんは、 >「子供が真に欲していたのは、ケーキや玩具ではなく、母の愛だったからである。」 >「件の幼児は、玩具を自分に与えてくれるか如何かで、母の愛を試しているの」 へえ。 >「それだけでは、母の無限の愛の保証にはならない。」 「「何が欲しいの」「おとぎ話よ」」って、CMも昔見ましたね。 >「結局、他者は、正に謎である限りで他者なのである。それは、他者が他者である事の本質的な条件である。他者が私を愛しているのか、他者が私に対して何を求めており、私が何者であった時に他者からのトータルな承認が得られるのか、その事は、究極的には、決して解消出来ない謎である。斯くして、欲望の対象と原因との間のギャップは、決して埋まらない。欲望の対象とは、ーーそれが得られていない限りに於いてーーこのギャップが埋められたかの様な錯覚を与える対象の事である。つまり、対象を得る前には、主体は、「あれさえあれば、私はあの人に愛されるに違いない」とか、「あれさえ与えて貰えれば、私は愛されていると確信が持てるのに」等と思っている。つまり、「あれ」が得られない間は、主体は、この様な強い予感を抱いている。が、然し、実際に「あれ」を得た時には、他者に関する主体の不安は消えない。」 ん、いっすね。つまり、フロイト的「完璧」志向(この「印籠」さえ見せれば、相手は平伏す)してる限りは、ということじゃない。(だから、助さん角さん・・・) コフートによれば。人間は不完全なものだと認める。どれくらい不完全か、調子が良い時もあれば、悪い時もある。そんなものだ。 >「では、質問です。 私達は幸せになれないのでしょうか? 満たされたいのに満たされない。 生きるのが辛いです。 一体如何すれば良いのでしょう?」 「幸せ」と仰るのが「完璧」である限り、無理じゃないでしょうか。 「100か、0か」みたいな話
お礼
御回答有り難う御座います。 本文では言及されていましたが、フロイトが「快感原則を越えて」と呼んだ現象、「欲望の対象に辿り着かない事」、その事自体が欲望されているかの様な転倒にまで至る、に就いては共感出来ないので抜粋しませんでした。 私にとっての幸せは完璧を意味していないので、解決策を教えて頂きたいです。
- koiprin
- ベストアンサー率23% (72/306)
『足るを知る』ことでしょうか。 「老子」を読んでみてはいかがでしょう?
お礼
御回答有り難う御座います。 欲望を制御出来れば万事解決ですね。 『老子』読んでみます。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
>一体如何すれば良いのでしょう? 1.健康を維持し、 2.嘘をつかず、 3.借金をしない。 それで人間は幸せになれます。
お礼
御回答有り難う御座います。 健康を維持する事と借金をしない事、幸せの為に大切な事だと思います。 ですがそれだけで人間が幸せになれるとは到底思えません。 嘘を吐くなら、最後まで吐き通しさえすれば(吐き通す必要がない場合もあると思いますが)、嘘を吐かれた側にとってそれは真実となるので、毒を孕んだ真実を語ってしまうよりも良い選択だと思います。 嘘は幸せの為に不可欠な物だと私は思います。 真実だけを語れば良い、というものなのでしょうか?
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
幸福感を形成するのは、まず意志があり、その達成度に基づく でしょう。 ただ、自動販売機が「ありがとうございます」と言っても、誰も それが喜んでいるとは思わないように、意志を展開する環境 認識、達成度を把握する感受性も、精神的充足量を構成する 関数として必須です。 ところが人類においては、社会性を発達させる過程で、個人の 意識の社会性(自己の生存が社会的に拡張されるのをフォロー する認識の深まり)の発達を怠り、自己チューな意識のまま、 お金や出世といった“馬車馬の目の前のニンジン”によって、 他律的に生かされる(お金をもらうためにイヤイヤ働く)ように なったのです。 本来、死による幸・不幸±0の状態から、意志に基づきプラスを 目指して生きているはずの生が、いつの間にか苦痛(マイナス) から逃げる事によりかろうじて±0に近づく、死人に等しい生に 堕してしまっているのです。 生きる目的は基本的に、意志の発現=精神的充足の追及であり、 一般的に目的化しがちなお金や物質的豊かさは、その過程上の 二次的目的に過ぎないのです。 しかし、そうした外的価値は、自覚的な充足追求行動と対立し たり、あるいは外的価値同士で矛盾したりして、「人生を通算 した精神的充足量の最大化」という本質的目的に反するもの になりがちです。 何より、そうした希薄な環境認識は、精神的充足量の関数と して、最大充足化に反します。 そうした外的価値(お金、出世、自己顕示)を排し、社会全体を 1つの生命として意識した、自律的社会行動=愛による社会の 実現において、個の成果は全てに共有され、全ての人が最大限 の充足を得ると同時に、その総和において(最高効率の社会性 において)最長の充足量も実現、さらにそうして自己の肉体を 超越(他我)した意志において、自己の死を超えた未来における 意志の達成も(他への信頼の限りにおいて)得られるのです。
お礼
御回答有り難う御座います。 その愛が不足していて困っています。
私は、今ここでできることをやってみることに尽きると思っています。それが幸せと呼べるかどうかは人によって違うかもしれませんが・・・
お礼
御回答有り難う御座います。 一理あると思います。 ただ、出来る事があまりに限られていると辛いです。
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お礼
御回答有り難う御座います。 残念乍ら、私にその様な文才はありませんw 一生懸命ですね。 意識していこうと思います。