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本末転倒な努力
宗教的な悟りや道徳が身につかない根本的な原因は 答えから始めてしまうことに起因するのではないでしょうか。 お釈迦様がああ言った キリストがこう言った 有名人がああ言った 学校の先生がそう言った・・・・・と。 答えがまずあって、それから各々がその答えの出し方を思案する。 これはそもそも本末転倒ではないでしょうか。 このやり方ではいつまでたっても未熟なままのような気がしますがどうでしょうか。
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- cyototu
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#5です。 回答者さんを説得するのは難しいことを承知で書きます。 >科学的な考え方は宗教や哲学では通用しないのではないでしょうか。 そんなことはありません。例えば物理学者とは以下に説明するように変わった連中で、数学者や化学者や生物学者や工学者や人文学者とは全く違った文化や世界観をもっています。物理学者とは「この宇宙には基本原理や基本原理あるいは第一原理と呼ばれるものが存在し、生命現象まで含めて、この宇宙の森羅万象はその第一原理によって統一的に説明できるはずだ」と言う神懸かりを信じている連中です。この宇宙がそう出来ているかどうかをまだ誰も証明しては居りませんし、果たしてそのことが証明可能かどうかすら分かりません。したがって、物理学者とはこの主張を信じ、可能かどうかも分からないのに、このことの実現を夢見て日々研究に勤しんでいる、物理教の信者のことです。この信仰を持つに至った歴史的な理由は、多分、物理学が西欧というユダヤ・キリスト教の一神教文化の中で産み出されて来たことによるのだと、私自身は考えています。 蛇足:質問者さんの戦争に関する認識を読んで、多分質問者さんもご存知の「ソクラテスの産婆説」を思い出しました。ソクラテスが言うには「対話者の心の中に、その方の経験や思索に基づいて、まだ言葉にはなっていないとは言え、すでにそのことに関する胚芽や共鳴可能な琴線が出来上がっていない限り、私は対話者に何も教えることも、また説得することも出来ない。私の役割は、対話者の心の中の赤子を取り出す産婆の役割である」というものです。 この間の戦争の問題を考えるには、アメリカのモンロードクトリンと日本の満州政策との関係や、日本独特な平等主義の現れである、日本陸軍の関東軍の「下克上」、現在のサブプライムローン問題にも似たアメリカ発進型の大恐慌の結果起こった列強のブロック化、ABCD包囲網等々の、歴史的な出来事をいろいろ調べてみるのも面白いのではないでしょうか。
▲ 文字は殺しますが、霊は生かします。 (コリント後書3:6) No.2です。今回は 説教調でまいります。褒められて 頭に乗っていますので 何が出るか 分かりません。 ○ 終えたところから 始める。 →○ 終わりから 始める。 ☆ このように 微調整をいたします。 西欧語では 《終わり( end; fin )》を表わす言葉が 《目的》をも表わします。 われわれ人間にとって 《終わり=目的》は たとえば《安寧》であり それは ふるさとにいるような《やすらぎ》を想起させると思われます。それだけを考えても 《本末》の《本》は その内容が わたしたちに すでに 分かっているもののようです。 目的とは 意志の休息です。意志の休息が われわれの目指すくにです。彼岸と言ったほうがいいでしょうか。 つまり したがって しかるがゆえに わたしたちは 《終わりから始める》のだと思います。 この《終わりから始める》の中に 《終えたところから始める》も 含まれるはづです。ということは 《終えたところについても さらになお吟味する》作業も 含まれて来ます。 しかも 《終わり=目的=意志の休息》は 人に分かっていますが それは 《霊》によって/において/として 分かっているとも言わなければならないのかも知れません。霊として分かるということは 人間の経験合理性を基準とした思考によっては 分からないということかも知れません。 言いかえると 漠然と なんとなく そして――すでにそういう回答もありましたが――全体にわたる直観として また 一つひとつの直感としても 分かるということだと思われます。 つまりは やはりここに還って来て それゆえに 経験思考を 停止させるのではなく 貶めるのでもなく まさにこの思考を用いて 終わりから始めるのだし 終えたところからも始める。 これらは じつに じつは 《意志の休日》の中身をも 経験的なものごとにかかわらせて表現し 説いているという歴史事実が われわれに遺されているわけです。《さとり》とか言われて 伝えられて来ています。 ま それらも わたしたちが 今においても 吟味していけばいいのですが 中には 経験思考によって得た内容を規範化したもの 道徳律としたもの こういうものもあります。人間の言葉で また 文字で 書かれています。 ここで 《文字は殺し 霊は生かす》が 聞かれます。 ありがたいお経を つねに現代語によって解凍して行ってよいわけですが あくまで 終わりから・彼岸から 始めるべきでしょうし 終わりを すでに・つねに今 見据えていないと きわめて つまらないままごと遊びに終わるのではないでしょうか。お医者さんごっこも あるのでしょうかね。 ブのほうは そういうふうですが キのほうは いまだにドンパチをやり続けるというまでに 文字によって 踊らされています。そうですよね?
お礼
恐らく、経験や思考もその役割があるのだと思います。 ただ、人の苦しみは思考や経験の産物ですので、彼岸は経験や思考の延長線上には無いように思います。 brageloneさんの言う終わりとは経験や思考の終焉を指していると私は感じます。 つい先日ですが、己の疑問から始めればいいと指摘されました。 なるほどと思いました。 そもそも悟りを目的にすること自体が本末転倒なのかもしれません。 ご回答ありがとうございました。
- sheep67
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答えから始める、ことと関係あるかどうかわかりませんが。 お釈迦様や有名な人の話に耳を傾ける、その言葉が記憶に残るのは、なるほど、と思うからです。違うな、と思えば、切り捨ててそれまでですし。 納得できる、筋が通ってる、整合性がある、自分の経験に照らして判断した上で、たぶんそのとおりなんだろうという総合的直感的判断がある、という原因があります、たぶん。 問題はこのようにしてこれが正解なんだろうと判断した上で、今の実生活から悟りなどまでの論理的道筋が、ほとんど示されていないことに問題があると感じます。 キリスト教にしても仏教にしても、他の哲学宗教にしても、いつもそれらは実生活とは乖離している、と感じるのは僕だけでしょうか? そのあたりが昔からすごく気に入らないところだったので、ずっと考えているところです。 この論理的飛躍、は、おそらく悟りを開いた人が、直観によるジャンプによって一気に悟りや信仰を得たからじゃないかなと大まかに推測します。 悟りや信仰、というのは、確かに正しいと思うのですが、なんと言うか、体系的な論理を見たことがありません。実生活と完全に接続したものをです。 それをやってくれていないのなら、いくら理屈を言われても、僕には中途半端に思います。信仰や悟りで示されているいろいろな論理は、現実から乖離している以上、最終的結論以上に、なるほど、とは思いずらいです。 それなら、親鸞さんみたいに念仏を唱えなさい、とか、とにかく神様を信じなさい、でいいと思います。 今後の宗教哲学は、この、乖離を埋める作業が主流になってくるのではないかと想像してます。 個人的意見ですが、多少質問と関係があるように思ったのですが。
お礼
>いつもそれらは実生活とは乖離している ある意味、乖離することを目的としているのではないでしょうか。 >一気に悟りや信仰を得たからじゃないかなと たぶんそうだと思います。 恐らく実生活の延長線上にそれは無いということだと思います。 >体系的な論理を見たことがありません 禅ではこれを不立文字というらしいです。 いい言葉を聴くと確かになるほどと思います。 それはまるで手品の種明かしのようなものだと思います。 これはいいのですが、なるほどとも思わない例えば宗教的教義を呪文のように反復することは未熟ではないかと思うのです。 ご回答ありがとうございました。
- maimaisus
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昔の中国の人の話で、似た様な話を聞いたことがあります。 その時そう聞かれた人は、こんな風に答えたとおもいます。 「悟りを開いた者がそう言うのであるならば、それは、正しかろう。あなたは、悟りを開いたのか?」見たいな感じ? まあ、個人的には、そういったエライ人の言った事は、答えとしてではなく、参考意見ぐらいに思った方がいいと思いまんがなー。だって人によって解釈の仕方違うでしょ。
お礼
続きがあるとしたら、 「私はあなたが悟りを開いているかどうか分からない」 「それが分かるのは私が悟りを開いたときだろう」 てな具合でしょうか。 結局、独りで歩いてゆくものなのだろうと思います。 ご回答ありがとうございました。
まさにその通りだと思う。 答えを言うということは無知から知への移行のみなのでそれ以外は 無視される考え方だと思う。 言えば上手くいくという考え方は言った段階での人のモチベーションに掛かっているわけだから言って分かる人とそうでない人の2パターンがでてくるのが必死だと考える、元々のモチベーションが答えを聞いてまっとうな方へかたむく人とそれ以外の人がでてくるというのは物理的に考えても合点が行く筈です、それを「ハイ教えたから身についたな」という安易な感受性のみだと身についていない人を「ハイOK」としているようなもので、それだから差別やいじめが減らないという事につながっていると思う、もちろん教えて分かる人もいるんだから教えない事にこした事はないかもしれないけど、教えて「身につく人」「身につかない人」「よけい道徳心や倫理心が悪くなっていく人」という具合に考えて統計的に予測しても1:1:1で結果平行線をたどる可能性が無くないということは安易に予想できます、ただ教えたということで多少偏りがでるのでその偏りが「身につく」側に傾けばまあプラスだけど逆に「身につかない」もしくは「余計悪くなっていく人」の方へ傾けば総合的にマイナスとう感じになるわけで、その辺も予想して教育というのは本来はやってもらいたんだけど、迎合的な外張りに流される傾向が強いので教育というのが「教えればよい」という一番安全なルートを選んでいるという事だと思う、まあ教えるだけなら塾でいいわけでなんのための義務教育かということをもう少し学校側は認識してもらいたいと感じます。
お礼
確かにどっちに傾いているかで、両者とも同じ方向から力を加えてもその変化は正反対になりますね。 社会にとって都合の悪い方向に傾いた場合、周囲からの非難によって自虐的になるのは必然かもしれません。 ご回答ありがとうございました。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
[このやり方ではいつまでたっても未熟なままのような気がしますがどうでしょうか。] 正しくもあり正しくもない考えですね。 正しいという立場に立てば、個人個人が努力し何らかの悟りを得て師となれば良い。いいことですねこれを百家争鳴といいます。にぎやかだしいろんな思想や芸術、文化が花咲きますね。問題が発生するとすれば百家争鳴故に纏まりがなくなるという点ですね。これを天空の星になぞらえばよくわかりますね。北極星の周りをぐるぐる回り続ける無数の星ですね。半球の裾野から上に向かってぐるぐると回っているでしょう。 これではいつまでたっても北極星に行き届かないよ、目標も定まらないよ、というのが正しくもないという立場ですね。 そこで大宗教家や大思想家はまず北極星を指し示すのですね。これにより向かう方向ははっきりしますからね。 答えを示すから努力しなさいということですね。これは賢くない生徒を見て先生が答えを提示し、何故そうなるか考えなさいという教育のやりかたですね。そのほうが効果があるからそのようなやり方をしてるんですね。一を教えて十を悟るような生徒は60億の人間の中に数えるぐらいしかいないからですね。本末転倒は悟りがピラミッド構造であるが故の必然なんですね。できる人は自身で悟ればいいんです、でもほとんどはぐるぐる回る星にしかならんということでしょう。
お礼
>大思想家はまず北極星を指し示すのですね そもそもこの方向すら正しいかどうか怪しくないでしょうか。 大思想家の言っていることから自由でなければ恐らく悟ることはムリでしょう。 うがった見方をすれば大思想家はあえて間違った道(安易な道)を示しているとしか思えません。 ご回答ありがとうございました。
ほんまつ-てんとう【本末転倒】 根本的な事柄と、些細な事柄とを取り違えること。 >宗教的な悟りや道徳が身につかない根本的な原因は >答えから始めてしまうことに起因するのではないでしょうか ↑ これこそ、「本末転倒」です。 むしろ、「答え」を示してくれているのに、 「なぜ、出来ないのだ?」 と、偉い先人様から、「突っ込み」を入れられますよ。 (笑) >答えがまずあって、それから各々がその答えの出し方を思案する ↑ 質問者さんが、自分で書いてる。 「答え」が有るのだから、思案を続けよう。 「努力しよう」と言う姿勢が大切なのでは? 「一生をかけて」思案してもいいでしょう。 「到達できなかった」としても、「何もやらない」よりは意義があると、私は考えます。
お礼
答えが正しいかも分からないのになぜできないのだと突っ込まれても困ります。 答えが正しいという前提の努力はむなしいと感じます。 ご回答ありがとうございます。
- ecoshopQ
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ま、一生掛けてもまず到達しませんな。
お礼
たぶん私は到達しますよ。 ご回答ありがとうございます。
- cyototu
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本末転倒ではありません。 戦後教育の最大の失敗は、子ども達に理屈抜きに学問の成果や学校や社会の規則を叩き込むことを忘れ、自分んで考えさせるようにさせてしまったことだと思います。子ども達のみならず我々は皆、大変に未熟者です。そんな未熟な者が一生懸命自分で考えたところで、下手な考え休むに似たりで、ろくな考えも出て来ません。小人暇にして悪事を成すは、真実を突いています。大人が子ども達にやってあげることの出来る最低の義務は、自分達や先人達の苦い経験から築き上げて来た世界観を自信を持って、子ども達に教えてあげて、その世界観に習うより慣れさせてあげることです。その間、子ども達に理屈を言わせては行けません。ただただ叩き込むことです。 そのようにして育て上げられた子ども達は放っておいても、自分で物を考えるようになり、大人達の価値観に疑問を持つようになるものです。この子ども達は、大人によって提示された価値観がすでに頭に叩き込まれているので、その価値観に疑問をもったり、あるいは同意するに対して、それをどういう立場から考えたら良いかの視点を持っています。ところが、そのように叩き込まれたことがない連中には、自分で考えろと言われても何も手本がないので、どう考えて良いかすら分かりません。今の若者を見ていると、そのような連中ばかりて、結局自分で考えた結果、安易で感情的な動物的な解法ばかり見つけ出すようになってしまいました。一方、有無を言わせず叩き込まれた連中は、大人に成って自己批判が出来るようになっていますので、もし今まで自分が教わって来た価値観に疑問が出て来た場合にも、それを批判的に考え生産的に改良することも出来ます。 お釈迦様も、キリスト様も、学校の先生も同じことで、先ず、長年の経験を積んだ結果得られた智慧を、未熟な人達に有無を言わせず叩き込み、その結果成長した人々がその権威に有意義に挑戦できるように、人々を導いているのです。 また、物理学で研究生活を続けて来た私の個人的経験でも、#3さんの回答は正しいです。先ずは、経験と洞察から導かれた直感に基づいて、ちちんぷいぷいと、時系列的な論理無しで、神懸かりによってその問題の解答を見当をつけてしまい、その答えらしき物が見つかってから、いよいよそれの論理的正当性を分析する以外に、新しくてかつ重要な発見は出来ないというのが私の経験でした。その逆に、先ず論理から出発して回答など見つけられる物ではありません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 申し訳ないですが、承服しかねます。 戦争を起こしておきながら、教育が悪いと今の若者を批判しても誰も聞く耳を持たないと思います。 親の顔が見たいと言う言葉があります。馬鹿な若者を生んだ親の親は誰ですか。 #3さんのお礼にも書きましたが、答えが正しいかがわからないのです。科学的な考え方は宗教や哲学では通用しないのではないでしょうか。
目的と手段は互いに入れ違います。また何事も前提がなければ始まりません。誰かが言ったことの代わりに自分が考えた(と思っている)ことから始めようとしても、その自分の考えがどうやって得られたかを考えればだれかに教わったことに違いありません。その誰かを今となっては特定できないだけの話だと思います。宗教や道徳における本末転倒というのは人を殺してはいけないという戒律に従っている人がほかの人を殺したり、権限を持っている人が汚職をしたりすることではないでしょうか。
お礼
>何事も前提がなければ始まりません 恐らく初期の段階、例えば子供に善悪を教える場合はそのやり方は有効だと思います。 しかし、悟りを求める様な場合はこのやり方はまずいと思います。 お釈迦様と修行者達のそれに対するアプローチが根本的に違うのではないかと思うのです。 ご回答ありがとうございます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 頑固ですいません。 いずれ科学的といわれるものは証明可能なものであるはずです。 そうでなければオカルトとなるのでしょう。 今は誰も信じていなくても自分の考えが正しければいつかそれは証明可能なはず、科学者はそういう意味では幸せです。 しかし、宗教ではキリストや釈迦でさえ異教徒から見れば唾棄すべき対象でしかありません。どの宗教においても信者は盲目です。 宗教というシステム、戦争というシステム、社会というシステム、 いずれにしろシステムという影にとらわれているなら我々は永遠に未熟なままだと思います。