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本末転倒な努力

宗教的な悟りや道徳が身につかない根本的な原因は 答えから始めてしまうことに起因するのではないでしょうか。 お釈迦様がああ言った キリストがこう言った 有名人がああ言った 学校の先生がそう言った・・・・・と。 答えがまずあって、それから各々がその答えの出し方を思案する。 これはそもそも本末転倒ではないでしょうか。 このやり方ではいつまでたっても未熟なままのような気がしますがどうでしょうか。

みんなの回答

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.23

#13です。 科学者が対象にする現象は、単純な現象から大変複雑な現象までいろいろです。例えば、地球が自転しているのかいどうかと言った単純な現象では、科学者の意志や個性がほとんど入ることなく、答えが決まってしまいます。 ところが、物理学の非平衡非線形現象や不安定現象、あるいは生命現象を論じたり人間社会の構造を論じる、所謂、複雑系の科学と呼ばれるものが対象する現象では、ある与えられた一つの状況から、例えば右と左の現象なり認識法なりがどちらも可能な場合が日常茶飯事に起こります。それは、ちょうど生物の進化の過程で、それがトンボへと進化して行くのか、チョウへと進化して行くのかの分岐点に立つようなものです。この場合、それがどちらに進化したものが正しいのかという問い掛けや、それに関する解答の正しさを証明するという認識法は余り重要な意味を持たなくなります。実際、トンボになるかチョウになるかの二者択一の状況で、トンボの選択の結果トンポが正しく環境に適応したので、トンボの選択の正しさが実証的に証明されたとしても、その二者択一の反対を選んだチョウの正しさも実証的に証明可能です。したがって、複雑系の世界は、数学の世界のように背理法が適用できるような単純な論理的世界ではないのです。 同じように、分岐点に立たされる状況は研究生活の中で、しばしば起こるものです。その場合、右に行くか左に行くかを決めるのは、研究者の個性や、その研究者がたまたま埋め込まれていた文化などの偶然がしばしば決定的な役割を演じます。そして、たまたま右に進む決心をした結果、ある世界が見え出し、その研究者にとって意味のある、ある世界観が構築されて行きますが、その反対に左に進んでも、別な意味のある世界観が構築されて行くと言う経験を、科学者達はいつでもしているものです。 ですから、 >いずれ科学的といわれるものは証明可能なものであるはずです。 という言葉も、どういう意味で使われているかによって、正しいとも間違っているとも言えます。例えば、極端に単純な現象を扱う場合には正しいでしょう。しかし、我々に取ってはるかに直接的で興味のある複雑な現象に対しては、ある主張が科学的に証明されたとしても、その主張の反対の主張が否定されたことにはなっていないという点で、本質的には、哲学や宗教の主張とかわらないのではないでしょうか。我々は幸運にも、背理法のみでは証明不可能な、複雑で高度な論理的認識が要求されるような、豊かで退屈のしない世界に生きているのです。 質問者さんの世界観をより大きく育てるために、「複雑系」、「散逸構造」、「非平衡熱力学」、「非線形現象」などの科学用語を調べてみることをお薦めします。

shift-2007
質問者

お礼

>ある主張が科学的に証明されたとしても、その主張の反対の主張が否定されたことにはなっていないという点で、本質的には、哲学や宗教の主張とかわらないのではないでしょうか。 なるほど、そういうことだったんですか。 そうすると宗教も科学も似た部分がありますね。 量子力学でしたっけ、難しいことはよく分からないのですがあの分野はなんだか哲学的、宗教的な気分にさせますね。 さて、信者たちはこの知見にたって世界を見ることができるかなー ご回答ありがとうございました。

noname#155689
noname#155689
回答No.22

ご質問者さまの仰っていることの方が正論なんだと思いますが 私は最近、ココにはないモノよりも いまココあるモノを大切にしたいという思いが強いのです。 いまココにまず答があるなら、まずそれを大切に扱いたい。 どこが遠くにある桃源郷を探すよりも、いま居るココを愛したい。 地産地消を大事に考えて・・・? ちょっと違うか。 答は正しくないかも知れません。 本質はココにはないのかも知れません。 でも、今さらイデアのようモノを希求する気にはなれないのです。 そんなに高みを目指さなくてもイイです。 それよりは今いる仲間、今ある環境、今ある関係を大切にしたい。 別に新しいモノを拒む、ということではなくて 目の前にあるモノから受け入れていきたい 与えられたモノを大切にしたい、という感じです。 正しいか分からなくてもイイです 自分がいる環境や関係とがっちり結ばれている感覚があれば。 悟りに到達しなくてもイイです 地に足がしっかり着いている感覚があれば。 理屈や理性ではないんですけど、直観がそれを求めている感じです。 ダメですかねぇ? 堕落してきてますかねぇ?

shift-2007
質問者

お礼

いやいや、ごもっともです。 本当に言われる通りだと思います。 ただ私はそれでは満足或いは納得できなかった。 ただそれだけの理由で始めたのです。 私という人間の特性だったのでしょう。 だからこれは自分の仕事だと思っており、 そこに足を踏み込まなくていい人はそれでいいと思います。 ご回答ありがとうございました。

回答No.21

No.10です。 回答のお礼を見ていると悟りを求めている方のうですが、この質問は悟りを開いた方でないと、はっきりした答えは出ないじゃないの?って思うのですが・・・・。 ちなみにNo.6での回答のお礼「たぶん私は到達しますよ。」にはびびったね。私なんか、考えれば考えるほど遠くなんのに、だって思考面と感覚面のバランス難しいでしょ。 思考面進めすぎると感覚面が鈍るし、感覚面進めると思考面鈍るし、両方進めようとすると、社会に順応難しくなるし、なんか無理って感じ。

shift-2007
質問者

お礼

>この質問は悟りを開いた方でないと、はっきりした答えは出ないじゃないの? そうですかね。何が正しいかは分からなくても、これは間違いだというのは分かると思うのですが。 >なんか無理って感じ。 うーんどうなんでしょう。 自分の内面に向かってアンテナを張っていればどちらも敏感になるし、 その結果、社会、他人への理解が進むと思うんですが。 >たぶん私は到達しますよ 恐らく皆さんとはベクトルが逆だと思います。 まぁそれはいいんですが。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.20

NO11のものです。 質問文の質問ですが、 これは、他人の意見を鵜呑みにしてしまう愚を言ってるのでしょうか? それとも正しいと分かっていても、だれもが自分の頭で1から考えていかないと習得はできない、ということを言いたいのでしょうか? 本末転倒、の意味はどういうことでしょうか?

shift-2007
質問者

お礼

例えば、菜食主義 恐らくまじめな仏教徒はこれを実践していると思いますが、 そもそもなぜ動物の肉を食べてはいけないのでしょうか。 また、なぜ植物ならいいのでしょうか。 その理由を理解している仏教徒がどれだけいるでしょうか。 単にそれが教義だからそれにしたがっているのだとしたらそれは正しい行為といえるのでしょうか。 お釈迦様が動物の肉を食べなかったとしても、それはお釈迦様の考えがあってのことで、それを真似て何になるでしょうか。 例えるならピカソの絵を真似てどうしますか。 小さな子供なら分かります。しかし大の大人のやることではありません。 自分の敬愛する人の真似をして、少しでもそれに近づこうとする心理はよく分かります。 しかし、その行為が何を意味するかも分からずに真似ることは未熟ではないでしょうか。 行為(例えば菜食主義)には理由(考え)があるはずです。 理由→行為 つまり、理由(考え)が先で行為(菜食主義)が後です。 しかし、いわゆる修行者は、 行為(菜食主義)→理由(考え) というように逆です。 私はこれを本末転倒じゃないかと思いました。 国語としては本末転倒は正しい表現じゃなかったかもしれませんが勘弁してください。 もちろん順番が逆でもその理由が自分自身の中で明確になればいいのですが恐らくムリです。 実生活で言うなら ・私は学校に通っているがそもそもなぜ勉強をしなければならないのか(修行者) ・私は医者になりたい、だから学校に通って勉強するのだ(お釈迦様) ぜんぜん違うと思いませんか。

回答No.19

こんばんは、shift-2007さん。 お釈迦様がああ言った キリストがこう言った 有名人がああ言った 学校の先生がそう言った・・・・・と。 ↑ 経験的結果の帰結? 誰がやっても答えは同じ? 何が何でも答えを同じにすることが要求される? 同じであれば正解? 同じでなければ不正解? 証明以前に答えあり? それ以外は認められない? それ以外の可能性をはなっから排除? あほらしくて? 【結果の帰属と因果関係】 http://www.users.kudpc.kyoto-u.ac.jp/~b50999/inga2.html

shift-2007
質問者

お礼

経験的結果の帰結? 今となっては誰の経験だかわからないですね。 誰がやっても答えは同じ? そのグループに属している人にとっては答えは同じなんじゃないでしょうか。 何が何でも答えを同じにすることが要求される? たぶん強要されると思います。 同じであれば正解? そのように評価されると思います。 同じでなければ不正解? そのように評価されると思います。 証明以前に答えあり? 経典にはたくさんの答えが載っています。 それ以外は認められない? 教義は絶対じゃないでしょうか。 それ以外の可能性をはなっから排除? 疑問を持つなと怒られると思います。 あほらしくて? ??? アホウドリは特別天然記念物だそうです。 全問回答!!

noname#80116
noname#80116
回答No.18

  No.2&12です。    前回は 今度は 不興を買いました。  ★ そもそも悟りを目的にすること自体が本末転倒なのかもしれません。  ☆ おそらく もし《さとり》を持ってくるのでしたら 《さとりを終わりとして その終わりから始める》というのは 《さとりが すでに 日常生活の動態になっている》という意味だと考えます。すなわち  ★ 恐らく、経験や思考もその役割があるのだと思います。  ☆ という事態だと思います。いいたとえではないですが その《終わり》が すでに ビルト・イン・スタビライザーになっているということのように思われます。相手との関係が 誰であっても どんな情況においても つねに 自己の存在そのものとしての安定装置がはたらくということではないでしょうか。  ★ brageloneさんの言う終わりとは経験や思考の終焉を指していると私は感じます。  ☆ そういう感じが たしかに しますね。でも 想定ですから。人間が すでに そのような想定を 歴史的におこなっているので その思想形態に わたしたちは 合わせて 表現する必要があると思います。  ★ つい先日ですが、己の疑問から始めればいいと指摘されました。 / なるほどと思いました。  ☆ じつは このご指摘に 必ずしも ぴんと来るように 思い当たることがなくて・・・。困って 弱って います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 言葉にできないものを言葉にするのは難しいです。 或いは分かってしまえば一言ですむのかもしれませんが。 私は終わりとは積み上げてきた自己の解体と解するのです。 それは悟り、大覚のようなセンセーショナルなものではなく、 今まで一つ一つ積み上げてきたものを一つ一つ解体していく、 たくさんの終わりの後に自我の終焉のようなものがくるのではと、 そんな感じです。 私という不安定要素が少しずつ少なくなって、結果的に安定 していきます。 そういう意味ではスタビライザーといえるのかもしれません。 そういう姿勢が私のベースにあるため、己の疑問から始める という言葉がピンと来たのでしょう。

回答No.17

宗教的な悟りや道徳は自らが自分自身の力で学ぶことであり、自分以外の人が悟ったことはただの参考にすればいいと思います。自分自信が人生の中で悟ったことが、先人たちのそれと一致すれば、それがひとつのこの世の真理と言ってもいいのではないでしょうか? 人はそれぞれ、己の修行のため、自分自身の霊格を高めるために生きているとすれば、人はどうあれ、自分自身の悟りを持つべきだと思います。先人の経験を参考に出来るのは、ある意味ありがたいことですね。 そういう意味では、私たちは過去の人より、もっと高度な悟りを求められているのかもしれません。

shift-2007
質問者

お礼

真理というものが「ある」と言われますが私にはどうも腑に落ちません。 それと、自分自身の霊格を高めるために生きていると回答者さんは思うのですね。 ご回答ありがとうございました。

noname#152554
noname#152554
回答No.16

お早う御座います。 >答えが正しいかも分からないのになぜできないのだと突っ込まれても困ります。 >答えが正しいという前提の努力はむなしいと感じます ↑ 明らかな「屁理屈」です。 私は、回答の何処にも「答えが正しい」などと書いていません。 自分にとって、その答えが「正しいか」、「間違いか」。 確かめてみては? >答えが正しいという前提の努力はむなしい ↑ 「サボる」為の、いい口実ですね。 (大笑い)

shift-2007
質問者

お礼

>私は、回答の何処にも「答えが正しい」などと書いていません。 そうです。これは質問者さんに対して向けられた言葉ではありません。 >自分にとって、その答えが「正しいか」、「間違いか」。確かめてみては? 自分にとっての正しさを求めるなら簡単なことです。 世界中の人間が日々行っていることですから。 >「サボる」為の、いい口実ですね。(大笑い) うひゃひゃひゃひゃ。 ご回答ありがとうございました。

shift-2007
質問者

補足

あっ間違えました。 質問者さん → 回答者さん

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.15

こんにちは。 あなたの言うとおりだと思います。その自ら確認していない真から納得する努力をしていない、答えを「事実」と固定化し、その固定した概念・見解を信仰(根拠無く信じ仰ぐ)に持っていき、「これこそ正しいほかは間違っている」という頑固な邪見に陥り、現実に即して自己の見解を柔軟に改変するようなものの見方を出来なくしていくことで、道徳から離れ、軋轢を生み苦しみ悩みに苛まれる…。となっていくのだと思います。 私は、大元のお釈迦様の教えと定評の有る「パーリ語の三蔵」を学んでいます。 この仏陀の教えは、むやみに根拠無く、信じることより根拠を大事にし、理性的に納得し、実際に何度も確認し、柔軟な見解を持ちなさい。という教えです。私(仏陀)が言ったからって信じるんじゃないよ。とwその方法論を厳密に具体的に語っているように思います。心について科学的な手法を持って行う反宗教的な教えです。 やはり絶対的な根拠も論理的にでも無い前提条件を置いてしまうと、何をするにも失敗することが多くなりますよね。 当たり前と思っていることすら、分別して組み立ててやっと使えるようになると思います。科学なんかもそうですねw 科学の世界自体も…まったく科学的でない科学信仰のようなことをやっている学者・メディアなり権威者なる方々とそれに騙される多くの人々…なんて光景も良く見られますが…

shift-2007
質問者

お礼

一口に仏教といっても色々あるのですね。 教祖からの自由、それはもはや宗教ではないのかもしれませんね。 ご回答ありがとうございます。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.14

#13に誤植がありました。 基本原理や基本原理あるいは第一原理と呼ばれるものが存在し、 は 基本法則や基本原理あるいは第一原理と呼ばれるものが存在し、 と読んで下さい。

shift-2007
質問者

お礼

訂正ありがとうございます。