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本末転倒な努力
宗教的な悟りや道徳が身につかない根本的な原因は 答えから始めてしまうことに起因するのではないでしょうか。 お釈迦様がああ言った キリストがこう言った 有名人がああ言った 学校の先生がそう言った・・・・・と。 答えがまずあって、それから各々がその答えの出し方を思案する。 これはそもそも本末転倒ではないでしょうか。 このやり方ではいつまでたっても未熟なままのような気がしますがどうでしょうか。
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確かに未熟なままだと思います。 それぞれがそれまでに到達した理性に基づいて真実なのか答えなのか どうか判断すべきだと思います。 また、疑うということ、信じられないことにもちゃんと理由あっての ことだと思われます。やはりそれぞれが自身の知識、理性に照らし合わせつつ、 それ相応の反応が個人個人に結果として返ってくる (未熟なら未熟なまま)という事だと思います。
- magga
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<<サンガ出版の「仏法」はこのカテでもちょくちょく耳にする本の名前です。機会があったら読んでみたいと思います。>> ぜひw <<釈迦は『答えの検証』をしたのだろうかというものです。お釈迦様が生まれる前にも宗教はあったと思われますが、お釈迦様はその正しいと想定される答えの検証を行ったでしょうか。もちろんお釈迦様の人生の中でそういったことをすることはあったでしょうがその延長線上に悟りがあったとは思えないのです。>> 記録によればw 生命の悩み苦しみを乗り越えることを目的として出家して修行を始めました。 仏陀(ゴータマ)はその時代の色界禅定の達人と無色界禅定の達人の元で弟子入りして学んで、会得しているようですね。 個人的見解では、現在もほとんどの修行法は色界無色界の禅定を体験するサマタ冥想の類と思ってます。 その後、これは根本的な解決にならないと言うことで、その時代の行者のやっていた苦行(今も多くいますね)をやってみたんですね。6年間も。 そしてこれもまた、根本的な解決にはならずに、心の問題は解決せず、身体を損なうだけだと言うことで。 子供のころ呼吸などをただ見つめることをしていたことを思い出し、現象をありのままに観てみようと思い、悟りを体験し、物事をありのままに観た。 そしてこの境地に至る方法を教えた… 検証の後、違うと、これではないと理解し、他の方法を取ったといったことでしょうね。 <<なぜなら、その後に続く修行者も同じことをしているからです。それならばもっとたくさんの解脱者が出てもいいのではないかと思います。>> 上記に記したことでわかると思いますが。ほとんどが何かに集中したり概念に集中したりするサマタ冥想ですから仏陀の発見した方法であるとされるヴィパッサナー(パーリ語で、ありのままに観る)実践を・身受心法の観察をなす人はごく僅かだと思います。 その方法に納得した「僅かな人々の中」でも、その中でも「ほんの僅かな人」が在家なりに熱心に実践するでしょう。その中でも「僅かな人々」が出家するでしょう。その中でも「僅かな人」が出家として真に熱心に実践するでしょう。 このような状態と思います。 <<これはお釈迦様の才能で片付けられることではないと思います。>> 独覚(独りで悟る)でそのまま死んでいく人々もいたと記されています。その道を行かず、方法を教えたからゴータマさんは師えの尊敬の念を込めて「仏陀」といわれているようです。 仏陀でさえ納得のいった実践法を師に弟子入りして徹底的に実践なされたんです。 その後、悟り、サマタ冥想の安全な方法を説き、その時代あった他の論(他教)の不完全なところをきちんと指摘し(現在のほとんどの論を論破していると感じます)、正しいものの見方はこうではないかと反論が成り立たないほどに厳密にその提起し、その正しいものの見方をなせる実践方法をこのようにしたらどうだろうと提案してくれています。 仏陀の教えが正しいのか、納得がいった範囲から徹底的に実践なすことが我々に出来ることと思います。 その上で、不完全と思えば、自分で考えるしかないでしょうねw それもせず「いろいろ方法は知ってるけど、カッコ良いからオリジナルの方法で独覚になるんだ!」と実践すると傲慢が重くのしかかり、謙虚さを壊し、頑固さを増し、ありのままに物を見る障害になるでしょうねw <<根本的にお釈迦様と修行者とのやり方に違いがあるのではないかと思っております。>> ですね。その修正方法もお釈迦様が遺されていますね。 仏法僧に感謝です。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
お礼
こうしてお釈迦様の物語を聞いているとなるほどと思います。 何か神がかり的なものではなく、人として行うだろう事、感じるだろう事を感じながら生きて行ったようですね。 結局はその人の心のあり方が全てを決めるのかもしれません。 だいぶすっきりしました。 ご回答ありがとうございました。
- maimaisus
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No.21です。 >その答えをまとめたものがバイブルだと思います。 あーそう言う意味でしたか。そん訳ないでしょ。よく考えれば分かるはずです。 そう思っていたのなら、間違っているは、正しいです。 そう思ったことが間違いです。 ある意味それは、歴史の教科書見てこれが正しい事だったと言うのと同じ事ですよ。 しかし、そうっだたら、最初の質問自体がちょっと・・・。(-_-;)
お礼
ご回答ありがとうございます。 私の質問は答えがあっているとか間違っているとかを問題にしてはいません。 言葉は悪いですが、バイブルも道具に過ぎません、信者たちはその使い方を間違えていませんかというものです。
No.2&12&18です。 もうこの質問への回答は終わったと思ったのに 読み継いでいると 欲望が起きてくるものですね。というわけで・・・。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私は終わりとは積み上げてきた自己の解体と解するのです。 それは悟り、大覚のようなセンセーショナルなものではなく、 今まで一つ一つ積み上げてきたものを一つ一つ解体していく、 たくさんの終わりの後に自我の終焉のようなものがくるのではと、 そんな感じです。 私という不安定要素が少しずつ少なくなって、結果的に安定 していきます。 そういう意味ではスタビライザーといえるのかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ お門違いの文章を掲げます。《解体》も《包摂》も 同じ道に伴なう二つの側面だと考える その内容になりますかどうか。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(* 経験的なものごと)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。 私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。 * (bragelone ) この《試練》の内容が 《自我》が《今まで一 つ一つ積み上げてきたもの》のごとくであると解して 引用してい ます。 それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。 しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。 魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。 自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(《集会の書=ベン・シラの知恵》19:1)と聖書に記されているようになるのである。 (アウグスティヌス:三位一体論 12・10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 解体だけではなく 総合という側面にも 注意を向けられてはいかがですか。 人は 《総合》とか《全体》とか あるいは《終わり》とかと言った場合 その言った瞬間に それらの中身を 直観として 分かるのではないでしょうか。それゆえに《解体》もできるのだというふうに 見られるのですが? ちょっと くどかったですか? 中身は 一言 くどいと言っていただけばよいと思います。流れを そのままには 放っておけなかった。
お礼
初めて読むし難しい文ですがなんとなく分かる気もするのは不思議です。 直感的に中身が分かるかは自信はないですが、なんとなくはじめから知っていたような気がするのは事実ですね。 まぁ大工と解体屋は同一人物なのでそう感じるのも当たり前かもしれませんが。 総合、全体とは自分の外の世界を指すのでしょうか。 外の世界は内面の写し身でしょうからそれらが二つの側面であり、同時進行的に理解されるのは理にかなっていますね。 ご回答ありがとうございました。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
<<専門家がいらっしゃるのでちょっと質問していいですか。>> ちなみに僕は専門家ではないですよw 学んでいるものですw 専門家は熱心な実践者である「お坊様方」と考えてます。 専門家でないながらも思うところを答えてみたいと思います。 <<先人たちの功績に対するアプローチはそれで良いとして、そのほかになすべきことは何だと思いますか。>> 僕の知る範囲では、「パーリ語の仏典の方法論とその知る範囲」の外に生命が知るべきものは発見できていませんw <<答えの検証作業だけでは十分ではなく、自分自身で答えをだすことが車輪のもう一つの片側だと思うのですが、実生活の中でそのアプローチはどのように行っていくのかご意見をいただけないでしょうか>> 検証作業こそ自分自身で答えを出すことでもあると思います。そうでなければ検証作業ですらなくなってしまいますもんね。 論理的に道徳的に理性的に「思考」によって妥当と言える道筋を導き出した気になっても、実際に確認する実践による確認と納得を繰り返さなければ事実確認・検証作業とはいえないと思うのです。 多分この「事実確認・検証作業」を日常の中での実践方法を言っているのだと憶測します。 僕の学んでいるパーリ語の仏典には、日常で行う実践項目が多種多様に語られています。八正道を順に具体的に項目を挙げてその方法を詳細に語っているものもありますし、いろいろなパターンに対してこのようにしたらどうだろうという提案も多々あります。 サンガ出版の「仏法」は解りやすくまとまっている教科書のような書籍です。オススメです。 そして、スマナサーラ長老などの書籍などにも多く実践を勧める方法がしめされています。納得がいったところで実践しやすいものからやってみれば良いと思います。 教えにしろ経典にしろ、参考にする対象ですよね。 それを使って、どのように検証するかだと思います。 きちんと論理的道徳的危険性などの項目のふるいをきちんとかけて実践なさってください。 抽象的でわかりづらい、教えが多い中、パーリ語の仏典には多く具体的に実証できるものが詰まっていると思いますので、参考になさってみてください。 チョっとオススメしたいのは、自分の体の感覚を動詞で実況中継することです。 自分の体の動き感覚を知り確認することは、生命として最低限の基本的な要素のように思いませんか? でも結構出来ていない。今ここにありもしない過去や未来ばかり観て…。それを一日中できるようにチャレンジすることも面白いと思いますよ。 そして出来る時に出来る範囲で、実況中継しながら、一定のスローモーションにするのもオススメです。これをするには集中力が欠かせません。集中力の育成にも役立つと思います。 「集中力を持って自分の動く感覚をきちんと確認できる。」 この生命として基本的で単純・当たり前のこととも思える実践を寝ているとき意外どれだけ出来るかチャレンジしてみるのは有意義なことと思います。あげる・はこぶ・おろす・引く・押す・まわす・ふくむ・飲む・噛む…などの動きの感覚の実況中継 出来れば、痛み・痺れ・おと・匂い・味・見ているなどの五感の感覚の実況中継も。 さらに出来れば心の状態の実況中継…。 私が思う仏陀の教えの実践の基礎「四念処」実践なさって観てくださいw あと「呼吸以外の動きを完全に止める。」と生命が良く動く理由がわかるかもしれませんよw 一ミリも動かないで、全身の感覚を感じながらほっておいて、「座っています。感じています」と確認して、五分・十分・三十分と伸ばしてみるのも有意義なものになると思います。妄想に飲まれれば感じるところから離れますので「妄想妄想妄想」と確認し、それ以上広がらないように排除し、また実況に戻ってください。 自己と呼んでいる生命は何なんだろうと。 それを見ることもお勧めですよw 興味があったらやってみてください。 慈悲の冥想も比較的早くで心に変化が感じられると思いますよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 サンガ出版の「仏法」はこのカテでもちょくちょく耳にする本の名前です。機会があったら読んでみたいと思います。 私には一つ懸念がありそれゆえこの質問をしました。 釈迦は『答えの検証』をしたのだろうかというものです。 お釈迦様が生まれる前にも宗教はあったと思われますが、お釈迦様はその正しいと想定される答えの検証を行ったでしょうか。 もちろんお釈迦様の人生の中でそういったことをすることはあったでしょうがその延長線上に悟りがあったとは思えないのです。 なぜなら、その後に続く修行者も同じことをしているからです。それならばもっとたくさんの解脱者が出てもいいのではないかと思います。 これはお釈迦様の才能で片付けられることではないと思います。 根本的にお釈迦様と修行者とのやり方に違いがあるのではないかと思っております。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#23です。 #24さんへの回答へのお礼の欄で、 >専門家がいらっしゃるのでちょっと質問していいですか。 とのことですが、私以外に専門家と宣言した方がいないので、私に聞いているのですか。しかし、気になるのはその質問を#24さんのお礼の欄で述べていることです。回答のへお礼欄以外に補足要求の欄がありますので、貴方の質問を私がどう捉えたら良いか混乱しております。私への質問でもないのにお答えすることは僭越になりますので、その所を明確にして、意思伝達に混乱をしない努力をして頂けませんか。
お礼
これは失礼しました。 #24さんのお礼に書いたものは#24さんに向けられたものです。 たいていの人は自分のお礼しか読みませんので、まさかcyototuさんが反応してくれるとは思いませんでした。 今後注意いたします。
- sheep67
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すみません、26の付け足しです。 行動と理由については、フィードバック、と考えればいいのではと思うのですが。 先生を絶対視するのはよくありますが、自分のものとして身につけるときの方法としては、理由と行動という2つは、フィードバックによって結びついてると思いますし、 また、階層の問題もあると思います。先生が正しいという前提でいろいろやったり考えてみる。でももし先生が間違ってるならどうなるだろうかという前提で考えたり行動したりするのもアリですし、それは階層の壁を破る形でのフィードバックになるのかなと思います。つまり、ある種の前提条件とも言えると思います。がむしゃらにやってるときにそんな理性的にはなれないですが、やってることを分析したら多分そうなるかなと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 おっしゃるとおりです。 回答者さんの言われている部分はいってみれば積み上げていく部分ですね。 ただ、私の質問というか私の基本的な姿勢は分解、解体だと思います。 自分を内観することにより無意識に構築されてきた自分を理解しそれを分解、解体することによっていわゆる悟りへの道が開けるのではないかと思っています。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
こんにちは、NO20です。 理由と行動についてですが、 僕は、心と自分のもっとも深い部分においては、理由と行動のふたつは同じものだ、あるいは等価値だ、と思っています。いちいち分かれてないと推測します。 赤ちゃんや小さい子供などの自我?の発達してない人たちを見ると分かりますが、この2つが全く同時に起こっている、というように見えます。 この2つが分離するのは、成長の過程において、まわりに気を使ったり、心に恐怖心が進入したりして、自分と心が乖離したときに発生するのではと思います。 大人でも、非常に深い理由の場合、意識や人格を経由せずに、行動と理由付けが同時に起こる場合もあると思います。でも普通は、この2つは分裂しているのが大多数だと思います。僕もですが。 考え、理由とは、本来心の具体化された性質のものであり、リンクしていないとおかしいと思いますが、むつかしいです。 当初の質問は、この乖離をなくす方法論についてのもの、ともいえるのでしょうか?
お礼
いきなり核心を突きますね。 おっしゃるとおり、深い部分において理由と行動の乖離はないのかもしれません。 自我の発生によってそれは乖離し始めるのかもしれません。 そういった人間の心の構造や動き方を理解することは重要だと考えます。 ただ、その辺はまだ私にははっきりとは分かりません。 乖離があったとしてもそれをなくすことが目的ではありません。 目的があるとそれば理解すること、乖離がありそれが問題を引き起こしているなら、それを理解した時点でその溝は埋まるでしょう。 埋めるのが目的ではなく、理解することにより結果的に埋まるのです。 たぶん ご回答ありがとうございました。
- maimaisus
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No.10&21です。初めに、元の質問に関しての私の答えは、どちらとも言えないが答えです。 >何が正しいか分からなくても、これは間違いだというのは解ると思う。 何故、これは間違いだと思うのですか?感覚的に?理論的に? 悟りとは全てを理解し、感じ取ると言う事であるならば、答えは一つでは無く複数あると考えます。 例えば、お金、100円玉、物理的に見ればただの金属、一寸極端すぎたな、大人と子供でも価値の感じ形が微妙に違うし、10000万円持てる人と100円しか持っていない人では、同じ100円でも価値観がちがいますよね、ある意味で。この他にもまだ見方、感じ方色々あるからです。 なので、それは、人によって積みかね形が違うので、答えを見たときにどう感じるか、どう理解するかは、その人次第なのでは?人によっては好いきっかけけになるかもしれないし、人によっては間違った解釈を与えるかもね。 んー、一概には、言えないのですが、基本的な考え方として、思考は内面的ですが積み重ねる物なので感じるものでは無いですし、感覚は認識する力。なので内面に向いていれば敏感になるのは内面認識で外面での五感+αの感覚は内面で思考して、何らかの方法で身につ付けるとゆうことは、別の事をすると言うことになる訳で、またそれがどれ位の数有るかも分らんわけで、いや意外と簡単な答えがあるかもしれないけど。まあ、そう言う能力ねーからわかんねーけど。 ちなみに私は、思考面先行派、なので感覚がかなり鈍くなっとります、能力かなり低くなとおります。いかんね。「外面的多角感知」身につけないと。 しかし、感覚面・能力面ばかり先行している人より、楽ではないけど幸せだとは思う。人によったら負け惜しみって感じる人いるかもね。でもどちらかを取るかは自分の好みでしょ。両方出来たらそれに越した事はないんでしょうけど。 余計な話をしてしまい申し訳ないっす。
お礼
例えば円柱は視点を変えると円にも長方形にも見えます。 しかし、それは円でもなく長方形でもなく円柱です。 私は円柱が答えで、円、長方形は視点と考えます。 視点は人それぞれですが、その答えはある程度集約されるのではないでしょうか。 その答えをまとめたものがバイブルだと思います。 繰り返しますが視点=答えではないと思います。 恐らくその筋の人から言わせれば、思考も感覚も超えたところに究極の目的地があるのでいくらそれを鍛えても無駄だといわれると思います。 その辺は門外漢なのでお調べになってください。 ちなみに内面にアンテナを向けるとは自覚を促すという意味で使いました。 自分が何を感じ何を考えているのかを自覚することによって自分自身を理解します。それによって他人への理解も進むと考えます。 ご回答ありがとうございました。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
ちょっと目にとまったので考えるところを書きたいと思います。 <<お釈迦様が動物の肉を食べなかったとします。菜食主義という答えは正しいですか?>> まず、お釈迦様が行わないほうが良いといったのは肉食ではなく、殺すこと殺させること… なまぐさ経(確か…)にはそう記されていますね。 もし仮にお釈迦様が菜食主義の行動をなしても、それが正しいとはなりえないと思います。 あくまでも参考にする対象であって、自分の理性を持って納得がいった所を自らをもって、実証し確認し、柔軟に構築していくしか、理性的な思考は叶わないでしょう。 仏教は反論・疑問はOKですから、自らに関わることで根拠論拠が解らなければとことん質問し、柔軟に考えていくものです。 「根拠無く、答えありきでそれを絶対とする姿勢」はパーリ語の仏典・仏陀の教えにはそぐわないと思います。 まずは頭で論理的に道徳的に実際的にどうなのか納得。 ついで実践で納得。 確信が強まる。 が仏教的な理性的な実践方法と思います。 お釈迦様がああ言った キリストがこう言った 有名人がああ言った 学校の先生がそう言った という「仮の答え」に関しても、事実として受け入れず そもそもその問い自体が成り立っているのか 成り立っているなら論理的に道徳的に穴は無いか精査 穴が無いならそれを実践して危険は無いか徹底的に考える 危険性が無いなら、実践し実際にそうなるのかならないのか確かめる 何度も確かめる。 自分の見解を柔軟に範囲を区切って構築しなおす。 としていけば、「未熟なまま」で終わることは無いと思います。 ほとんどの論は最初の二つの項目で振り落とされると思いますw 意味不明な論も多いですからねw そのような見解を持っています。 参考になれば幸いです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 専門家がいらっしゃるのでちょっと質問していいですか。 先人たちの功績に対するアプローチはそれで良いとして、 そのほかになすべきことは何だと思いますか。 答えの検証作業だけでは十分ではなく、自分自身で答えをだすことが車輪のもう一つの片側だと思うのですが、実生活の中でそのアプローチはどのように行っていくのかご意見をいただけないでしょうか。
お礼
先人たちがいくら偉大な功績を残そうとも私たちは自分のできることから一歩ずつ歩いていかなければならないようです。 ご回答ありがとうございました。