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本末転倒な努力

宗教的な悟りや道徳が身につかない根本的な原因は 答えから始めてしまうことに起因するのではないでしょうか。 お釈迦様がああ言った キリストがこう言った 有名人がああ言った 学校の先生がそう言った・・・・・と。 答えがまずあって、それから各々がその答えの出し方を思案する。 これはそもそも本末転倒ではないでしょうか。 このやり方ではいつまでたっても未熟なままのような気がしますがどうでしょうか。

みんなの回答

回答No.43

No40です。 またまた、食いしん坊で煩悩全開な例え(悟りとはほど遠い)で恐縮ですが・・・ 私の味覚も好みも、彼の味覚も好みも絶えず変化しています。 いろいろな料理を食べているうちに舌が肥え、年齢とともに味覚が変わったり、体調が変わったり。 すると以前美味しく感じていた、料理を作るきっかけの本を「なんで今までこんなもの美味しいと思っていたんだろう」・・・思ってしまします。 そして、他の料理の本をいろいろと試したり、自分のお母さんや彼のお母さんから料理を教わったり、食材にも凝ってみたりします。 その中には「この本を書いた人を私の料理の師と仰ごう!」というものに出会うかもしれません。 するとますますきっかけの本が色あせるし忘れてしまいます。 でも、ふと、何かのきっかけできっかけの本を思い出したり、読み返したりすることがあります。 すると、(成長しているであろう)自分が今読むと「ああ、ここはこういうことを言っていたのか、ここはしっくりこないけどこれの手順の意味は今ならわかる。こういう料理が好きな人もいるよね~」と以前感じることがなかったことを感じることがあります。 それはとても心のなかに染みるというか・・・滋味深いものがあります。 私をこんなに美味しい世界に入るきっかけを与えてくれた本です、私には必要だったんだなと思います。 ただ、今は本をめくることはめったにないってことだけで。 ・・・という訳で何がいいたいかと言うと・・・ 仏教っていろいろ宗派がありますよね。中には怪しいのもありますよね。 人が仏教の道に入るきっかけっていろいろあるから、それはそういう(仏道へのいろいろな種類の門)の役割でいいんじゃないかなと思うんです。 そこで立ち止まってしまう人はそれまでということなんでしょう。 でも「何か違う」「もっとこういうのじゃなくて」とか思う人は突き詰めていくんじゃないでしょうか? (例えば**経については、これはすごい!これは大事というけれど、結局その「大事なこと」は何なんだ!と突っ込みを入れたいところですし。でも仏道に入るきっかけには十分役割をはたしていると思います。) まあ悟るなら、あれこれ妄想するより実践あるのみでしょう。最終的に在家では無理でしょうけど。

shift-2007
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 おいしい料理を作るのは知識と経験の積み重ねによるところが多いと思いますが、俗に言う悟りというのはむしろ逆のベクトルだと思っています。 今まで自分が無意識、或いは意識的に積み上げてきたものを一つ一つ自覚と理解によって分解、解体していくというプロセスだろうと思います。 もちろん、在家であろうと出家であろうと今ここで生活をしているわけですから積み上げていく部分は必要ではあるのです。 積み上げていく部分と掘り下げていく部分が車の両輪だと思います。 実践という言葉は結果的に積み上げることを意味すると思いますが、そればかりではもう一方の車輪が片方の動きについて行けないので、車は同じところをくるくる回る結果になるのだと思います。

noname#80116
noname#80116
回答No.42

  No.2&12&18&30&38&41です。  あたかも教師ぶったことの締めです。  ○ あやまつ(間違う)ならば 我れ あり。  ☆ これも 直観において わたしは わたしを 全体として 知ったことになると思います。  ○ あざむかれるならば 我れ あり。  ☆ とも訳されます。  失礼をば致しそうろう。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

noname#80116
noname#80116
回答No.41

 No.2&12&18&30&38です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  >《汝自身を知れ》と聞いたとき 瞬時に わたしは わたし自身を知り いわば すでに全体として わたしは 我れに帰ったものと思われます。  恐らくこれが肝心なところだと思いますが、これをいざ行うのは至難の業だと思います。  人間のさまざまな心の動きや構造を理解しておかなければ、これを行うことはムリじゃないかと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 直観ですよ。  幼児の《原主観》です。  肩に力が入ってござるのでは?  

shift-2007
質問者

お礼

直感と英知、共に必要なのでしょう。 >肩に力が入ってござるのでは? 私はそもそも勤勉な性格ではないのです。 ここに書いてきたご大層な質問とお礼は自分自身に向けられたものでもあるので、少しはお尻がヒリヒリするくらいがちょうどいいと思っています。 ご回答ありがとうございました。

回答No.40

小難しくお答えするのは、私の学では無理なので・・・ 私は、料理の本が大好きです。 目に鮮やかでしずる感溢れる写真に目を奪われ、そんな表現ってどんな味?なコピーが踊り、有名シェフや料理研究家直伝のレシピ。 地方で貧乏人の私には、宝くじでもあたらない限り味わえないであろう料理の数々・・・それがこの本で私にも作れることができるかも!! と夢を膨らませることができるからです。(煩悩満載!) じゃあ、今晩は彼にこの料理を作ってみようと、思ったとします。材料を揃えて準備をして、できるだけ本のとおり進めて・・・。 だからといって、美味しいものができるとは思いません。 美味しそうに写っている本の通りだからと言って彼が私が美味しいと思う料理になるかどうかはわかりません。 もともとのレシピが私が求めていた味とは違うかもしれません。 でも、それは作っている最中にひょっとしたら予測できたことかも。 味見をしてみて・・・???と思ったら、ちょっと違う本を見るとか違う方法を試してみるとか、自分の経験をいれるとかしてみてもいいかもしれません。 捨てて一からというのはもったいなくて出来ませんし、彼を呼んでいるので投げ出したりごまかしたりかっこ悪いところはみせれません。 ま、私の失敗の原因は目分量だったり、順番を思いっきり間違えたり、材料を省略しちゃったり、他ごとをしちゃうからなんですけどね~(集中してやれよ~苦笑) 数年前の私は、この料理の本を眺めて本棚に並べるだけで満足していました。 そして最近、いろいろ作ってみています。へこむこともあるし、おおっとびっくりするくらい美味しい時もあります。 ・・・と何が言いたかったというと・・・ 悟るという目標があるなら、良いといわれるものまずはいろいろ実践してみてはいかがでしょうか? 実践してみて「何か違う」と思ったらその「違い」に向き合えばいいし、検証したりしてみてもいいじゃなですか。 ただ気をつけなければいけないのは、自分の“怠け心”。上の文では“彼”として登場するのがその監視役です。

shift-2007
質問者

お礼

>悟るという目標があるなら、良いといわれるものまずはいろいろ実践してみてはいかがでしょうか? そのとおりだと思います。 その実践の中で見出した一つの疑問がこの質問でした。 間違いに気づくというのも考えてみれば不思議です。 何が正解なのか知っていたかのようでもありますから。 『私』にはできないことを私がするのですから前途は多難であります。 ご回答ありがとうございました。

  • ROMIO_KUN
  • ベストアンサー率19% (431/2248)
回答No.39

問いが2つある様に思います。 [その1] 『宗教的な悟りや道徳が身につかない根本的な原因は・・・』 宗教的な悟りや道徳それ自身に根拠がなくそれを語った人の独りよがりであるため他の人には到底受け入れられないタワゴトだからだと判断します。 [その2] 『答えがまずあって、それから各々がその答えの出し方を思案する。』 まず出てきている答えは既に自然科学的事象や過去の経験から明らかであるため 問いを受けた時に即答えが浮かんでしまうほど自明であり、理由を問われる様な内容であるためであると判断します。 本末転倒とか特に考える気になる様な内容とは思いませんが貴殿は哲学者なのでしょうか。

shift-2007
質問者

お礼

>タワゴトだからだと判断します 釈迦やキリストの言っていることはタワゴトだと言うことですね。 >即答えが浮かんでしまうほど自明であり 釈迦やキリストの言っていることはタワゴトなのに自明とはこれいかに。 >貴殿は哲学者なのでしょうか ここは哲学のカテですのでそういう質問をする場なのです。 ご回答ありがとうございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.38

 No.2&12&18&30と お邪魔しています。蛇足の蛇足を さらにえらそうぶって掲げます。    《終わり=目的》とは対照的に 或る種の《初め》を取り上げることを まづおこなっておきます。  吉本隆明は わたしにとって批判すべき対象ですが よいことも言っています。次は 中立的な基礎認識だと考えます。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  胎児にとっていかなる幻想上あるいは現実上の行為も ただ《胎内に・そこに在ること》を意味しており 《行為》はただ《そこに存在すること》以外の意味をもちえない・・・。  人間の個体にとって 《そこに存在すること》自体は どんな関係の空間性も了解の時間性ももたないが ひとたび《そこに存在すること》が対自化しうるようになれば(幼児) そこには自己内の関係の空間性と了解の時間性をもたざるを得ない。これを心的な原関係と原了解と呼ぶことができ この条件のもとでは《夢》は行為そのものを指している。 (吉本隆明全著作集 (1)《心的現象論序説》p.246) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《夢》という観点は いまは措いておいてください。そうすれば これが 《原夢》とも呼びうる《原主観》だと考えます。  ところが 《全体》とか《総合》とか《終わり》とかと言ったその概念把握の瞬間に むしろ直観として 分かるところがあるというとき このように言うとき  それは たとえば  ○ 汝自身を知りなさい。  ☆ と言う・つまり聞くのと あまり変わらないということだと考えます。つまり 取りも直さず われわれは おのおのみづからの 自己の全体を知るということになるはづです。  もっと言えば   ○ わが思念と生の軌跡には 《解体》すべきものがある。  ☆ と言うとき この解体すべき部分は まづは 汝自身つまり わたし自身の全体に 包摂された恰好だと思われます。  言いかえると――これは 必ずしも論証を伴なっているとは言えない推論なのですが―― 《汝自身を知れ》と聞いたとき 瞬時に わたしは わたし自身を知り いわば すでに全体として わたしは 我れに帰ったものと思われます。先の《原主観》を基礎にしてです。  したがって――という意味は むしろ 必ずしも 論理的に従っているのでは ないのですが――  ○ 汝自身を知りなさい。  ☆ という言葉は そのまま  ○ よろこびなさい。あるいは 墓場から立ち上がりなさい。  ☆ と 単純に 言っているのだと考えます。  このようにして 終わりもしくは総合の問題としては わたしたちは それぞれ 自己を愛して来なかったわけではないと言えると 思います。  こうして 《本末転倒な努力》は 避けることができると思うのですが いかがでしょうか。(恰好をつけすぎでしょうか)。

shift-2007
質問者

お礼

相変わらず難しいですね。 >《汝自身を知れ》と聞いたとき 瞬時に わたしは わたし自身を知り いわば すでに全体として わたしは 我れに帰ったものと思われます。 恐らくこれが肝心なところだと思いますが、これをいざ行うのは至難の業だと思います。 人間のさまざまな心の動きや構造を理解しておかなければ、これを行うことはムリじゃないかと思います。 今現時点で私が言えるのはこれくらいでしょうか。 ご回答ありがとうございました。

回答No.37

自分自身を見たと云えます、それは悩んでいる(あるいは疑いを持って居る)自我意識が、悩ませている者そのものと出会う。言い方を替えるなら、有限な身である自我意識が、永遠である自分の中に在るもう一人の自分に出会うという事になります。 この事は脳の機能に関係しています。禅問答は自我意識では解けません。論理的な思考方法だけでは人間の心は満足できない事を意味しています。論理を超えた所に矛盾の解消が有ります。 貴方がこの事を理解するという事であれば、自分の中に二つの人格が存在するという事を認める事です。自分の心が言い争いをしている事実を認めて下さい。そうして自我が関与していない事がうまく仕事が出来ているという事を学んでみて下さい。自我意識が関与していない時、すなわち「我を忘れて仕事に没頭」している時です。この時に貴方は無意識でありながら意識も出来ています。我を忘れている時に自我意識がない時はまだと云えます。我を忘れていても自我意識が目覚めているのです。この事が「道に達している」と云います。 貴方が通勤電車の中で窓の外を見ています。何かを感じます、その時に感じている自分と、感じさせている自分が居ます。自分の感情を沸くままにしていて、足の裏にも心が心が有る事を学んで下さい。

shift-2007
質問者

お礼

なるほど、 なんとなく分かりました。 ありがとうございました。

回答No.36

本末転倒な努力 、 是は見事な問いかと思います。悟りと云うものは自我意識が自分或いは目の前を絶対肯定する事です。 自我意識が目覚めるという事は、ある意味では今を、目の前を否定している事とも云えます。そうして自分自身さえも否定的に見ている事かと思います。自分自身が分からなくなった状態が「無明」とも云えます。その状態で(天国から追放されたという状態)で、天国を求めている状態が、地獄です、何も無いのに自分で地獄を作って独りで苦しんでいる状態です。 それはある意味で「精神疾患」に罹った状態とも云えます。周りにはあまり問題なんかないのに、自分で問題を作って、自分で全てを否定しています。それは自分の中にある「肯定」と云う事を無視してしまう事です。この肯定と云うものが「命の働きそのものです」仏性とも云います。是は肯定で出来ています、全てを肯定する者です。その肯定する者と否定をする者の出会いが「悟りです」肯定が全てを飲み込む事と云っても良いです。 或いは言い方を変えたなら意識と否定を入れ替える。無意識を肯定と入れ替えても同じ事です。無意識が肯定をするが、意識が否定をすると云う事です。 もっと言うなら、否定は有限と云っても良いかと思います。無意識が永遠と云う事になります。 簡単に言うならば意識は有限なものしか理解できません。だから否定的になるという事になります。 無意識はその性質が永遠なものを理解できています。そうして自ずから永遠であります。 その二つの意識が一人の人間の心に有る事から「二元論」が生じます。脳の機能の問題から、人間の心は二つになります。それが悩みと云う事になります。悩みとは心の矛盾と云う事です。 その矛盾の解消が自分自身を知るという事です。自我意識が自分自身の働きの意識と出会う事です。是が悟りと云えます。是は考えても分かりません。お経を読んでも分かりません。好きと嫌いを分別しない事。天国を求めている心が地獄を作っている事。天国を求めなくなった時に地獄が消えてしまう事。 全ては意識が邪魔をしている事が分かる事。本当に良い仕事をしている状態は「意識」が邪魔をしないという事が分かる事。自分を自我意識ではない自分が働かせている時。言い方を変えたなら自我意識が「無」と共に在る時。それが仏陀の悟りの意味です。いつもの貴方の状態かと思います。悟りを求めている事は、ある意味頭に頭を乗せようとしている事になるかも知れません。貴方の場合は貴方の問いが自ら答えになる事と云えます。問いも答えも同じ処に在ると云えます。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 一つ質問してもいいでしょうか。 一般的には『悟り』はなにか特別な境地に立つこと、センセーショナルな出来事と思われていますが、今ここで、或いは通勤の電車の中で悟っている(現在進行形)ということでもあると理解していいのでしょうか。 また、いわゆるセンセーショナルな悟りは何を指しているのでしょうか。別な言い方をすればお釈迦様は何を見たのでしょうか。

回答No.35

No.21です。 宗教的な信者とは殆どの人間が、救いを求めている部類の人間か、その人達を救おうと思っている人間、出来るか出来ないかは別として、まそれ以外にもいるけどね。 べつに、真理にたどり着こうと思って宗教をしている人間はほんの一握り、そいでもって、そう言う一握りの人間は、自分のしている宗教ベースにほかの宗教や考え方を調べたりするわけ、実際そうでしょ皆さん。 まあ、ある意味宗教と悟りは別だと言うこと。 ですから、信者=悟りを求めている者と考えるのは、大雑把すぎ、では?それとも、その一握りの人間がみんな、バイブルを絶対視していると思うならばそれは偏見だと思いますよ。中にはそう言う人もいますけどね。 少なくとも、釈迦や、キリスト自体はそうでなっかたと記憶していますが。 実際会った事ないし、その場にいたわけではないのでなんともいえないのですが。 元々の質問自体が取る人よっては、こう言う解釈に近い感覚の人がいたと思いますよ。 例 学校の授業で生徒が、先生に、自分が勉強出来ないのは、教科書や先生が間違っているから、自分は勉強できません。 見たいな感じに言っているように、受け取れなくもないと思いますよ。

shift-2007
質問者

お礼

確かに信者としたのはまずかったですね。 元に戻しましょう、修行者と。それもごくごく一部の修行者と。 ご回答ありがとうございました。

回答No.34

No.21です。度々すいません。 >バイブルも道具に過ぎません、信者たちはその使い方を間違えていませんかというものです。 そう言う事なら、尚更、最初の質問はおかしいでしょ。その間違いを探すために向き合っているのだから。もちろん別の使い方している人の方が圧倒てきに多いけどね。 感覚的に物事考えすぎなのでは?確かにNo.32のmaggaaさんの様に感覚を磨く事も大切ですが、もう少し有るものを有る様に受け取るための考えかたを、模索してみてはいかがでしょう。今のままでは私の回答が全て無駄になってしまいますからね。

shift-2007
質問者

お礼

ちょっと意味が分からないのですが、 >その間違いを探すために向き合っているのだから これはどういう意味でしょう。 信者とはバイブルを絶対視するものではないでしょうか。 あら捜しのために読む人なんて少なくても信者の中にはいないと思いますが。