• ベストアンサー

なぜ昔の人は自ずから苦労を買い茨の道を歩んだのか?

現代の人は辛いことを避ける傾向にあるという話を聞きました。 それならなぜ昔の人は自ずから苦労を選んだのですか? そうせざるを得ない状況だったから。 そうでもしないと活路がないから。 自らの人としての向上を目的として。また他人のため。 それによって得られるものを欲した為。 またあなたならどういう状況や理由で自ら苦労を買いますか? またなぜ現代人は先代を習わないのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.8

一昨日 61歳になった昔の人からも 回答してみます(^^)。 >そうせざるを得ない状況だったから。 >そうでもしないと活路がないから。 これは ワーキングプアー状況の私のまわりにも けっこう今でもある世界です。 でも たしかに昔 私の時代よりももう少し昔の方が多かったでしょう。 ただ、そういう人達から「苦労は買ってでもせよ」とう話は 今よりも多く聞いていたかと思います。 ただし、これは、上の状況にプラスして 確かにその苦労は今の人の想像を絶するものがあったでしょうけど、逆に丁稚奉公の苦労を乗り越えればその先に希望は待っているとか そういう世界もあったこともあるかと思います。 完全に終身雇用性の時代でもあったわけですしね。 今の若者には また別な生きる知恵とかも必要かと思います。 (ニートやフリーターを全面的に肯定しているとかではなくて、それだったら それこそ「そうせざるを得ない状況」とかもあるわけですし、今は今の体制全体の中での 新しいあり方はあるはずということです。) >自らの人としての向上を目的として。また他人のため。 >それによって得られるものを欲した為。 苦労したほうが いつかゆとりができた時に、あるいは出世してリーダーとなった時に、 より苦労してる人のつらさとかを解ってあげられる親方になれるということはあったでしょう。 しかし、昔にも そして今も 当然、ひどい苦労のもとでは ただ疲れるだけで、心にゆとりもなく、やがて、もともとの能力も、心も萎えおとろえただすっかり心身いじけてゆくだけの状況もあったりするでしょう。 もちろん、人間性を最初から豊かにしたいという意味で苦労を自ら買い込んだ人達も、昔の厳しい生活に慣れてる人達、そんな中でもすでにそれを求めるだけのゆとりを生活力のたくましさの中で持ってた人達の中には本気で求めた人達もいるでしょうね。  また 運よく、最初は生活力も無い若者でも 元気よく 若さや素直さを生かして 苦労からいじけではなく多くのむしろ力を学んだ人達もいたと思います。 まわりがそうだったためもあるでしょう。 今の青年たちがすぐさま それをまねるのは、危険な世界でもあるところもあると思います。   この後の文章の>また他人のため。<というところの意味合いはよく解りませんが、 まれには、そういう人もいたかもしれません。 法を説くため、貧しい人の中に飛び込むとか その修行をするとか、 あるいは、別な仲間のもとにいけば楽できる立場にいながら 人間として苦労をともにしたほうの仲間と 同じ苦労をたとえいじけてさへ選ぶとか そういうのは昔の日本人には あったと思います。でも、それはまれだったと思います。 >またあなたならどういう状況や理由で自ら苦労を買いますか? 私の場合は 最後の文は「買いましたか?」となってしまいますね。(しゅんーー);。 これは、 この歳の肉体労働者ですから 書けば滅茶苦茶長くなってしまいます。 苦労には 自分の意志とか忍耐力とか、ひとへの思いやりとかを高めてくれる部分や状況とかも確かにありますが、 いじけてしまい 心身の力や知力さへ衰えさせてしまう時も ほんとにあります。 へたすれば地獄の世界です。   これを甘く見てはいけないんです。 >またなぜ現代人は先代を習わないのでしょうか? 答えとしては ここに続くことと思いますが、 やはり クーラーや車の快適さの中を生きてきた現代人です。  あらなた 無駄をしない その上での必要なら苦労も辞さない覚悟とか知恵とかは必要かもしれない時代と思います。 情報化時代、まず 多くの先例の真実をよく見極められる可能性のある時代と思います。  旅は人をそれこそ成長させてくれたりしますが、現代ならば、 写真機を片手に 心も磨く旅を求める そういう苦労を目標にするのもいいのかもしれません。    やみくもの苦労に命を預けてみるというのは 現代人であるならば、甘いと思います。 こんな考えです。 参考になりますでしょうか。

hosiboshi
質問者

お礼

今の若者には別な知恵が必要 そうですね。今は物理的苦労よりも、人間関係における苦労が一番大きい時代ですからね。 仲間はずれにされないよう、流れから離れてしまわないようにすることが大切な時代では、自ら苦労を買うという行動は、友達たちからはかけ離れたものかもしれません。 やはり現代人は、無駄をしない、適切に、完璧に、出きるだけ楽に、快適に、そういう知恵のほうが求められているのが主に見受けられます。 年長者様のご意見、有難うございました。

その他の回答 (7)

回答No.7

生きてゆく環境が劣悪(今よりは)だった事だと思います。そうして人間の本性を見抜いていた生き方だったのかと思います。人は楽をしようとすれば昼寝と云う事になります。ですが昼寝も疲れた時には効果が在ります。ですが楽をし続けた人にとっては、腰が痛くなったりと余り楽とは言えません、是は人間の心理を突いた心がけかと思います。 この事が良いとか悪いとかの批判をするという事では有りません、ただ気が付いた事を書いてみます。今の時代は余りにも論理的になって、合理的になっています。昔は余り論理的、合理的とは言いにくいものであったのではないかと推察します。その事が貴方の質問の意図かと思います。 今の論理的な生き方が心の病を誘発する事を昔の人は知っていたのかと思います。昔の生き方や、考え方は人間の精神生活にとっては、今よりは良いのではないかと思います。考えては体を使う生活それは精神生活にとって最高の恵みかと思います。その事が分かっていての、人は自ずから苦労を買い茨の道を歩んだのか、と云う事かと思います。 合理的に楽な事を考えて体を使わない生活が今の心が病んだ人を多く作っているのかと思います。

hosiboshi
質問者

お礼

昔は骨太な時代だったと思います。 今は繊細でデリケートで、ちょっとしたことにもレベルの高い低いに関係なく、気を使ったり、考えたり、思考したりする人が多いです。 が、その中にも全然別のベクトルの人もいます。 また、武士道精神とかにあふれた人もいますが、そういう人もなんだか現代にかぶれていて、少し変わった人だったりもします。 なんだか不思議な時代ですよ。

noname#194289
noname#194289
回答No.6

昔の人も同じだったのではないでしょうか。後から考えればもっと楽な方法があったのにと思えても、その時はそれが一番楽な方法だったのだと思います。だんだん世の中が悪くなるように思う考え方も同じで、小売店がコンビニやスーパーに変わったことと同じです。ただこの例が示すように人がお金の犠牲になっているような感じもあります。昔の人はお金より人を大切に考えていたということは言えるかと思います。今は人よりお金の方が信頼されているように思います。こういう状態では人として行ってもあまり説得力がないのでとにかく今楽なら良いという考え方が主流になるのではないでしょうか。お金を手に入れるにしても弄せずというのがはやりではないでしょうか。

noname#117439
noname#117439
回答No.5

自分に責任をとっていただけです。 助け合う思いやりの報われない現代は忘れられています。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

それならなぜ昔の人は自ずから苦労を選んだのですか? 昔の人は転生輪廻ということを信じていたからですね。長い転生の中でいつかやらねばならないことであるならできる時にいっぱいやっておこうという考えですね。吉田松陰先生などは学ばずして死ぬことほど恥ずかしいことはないとおっしゃって首を切られる寸前まで学ばれていたようですね。この世の方があの世よりより多く勉強できるということなんですね。 命も何もかもこの人生で終わりという考え方では、「我に艱難辛苦を与えたまえ」といういにしえの人々の意図は到底理解できないでしょうね。 人生今回限り、いや転生輪廻するは単純な2択の問題ですからどちらかが正しいんですね。 どちらを信じるかで考え方は違うでしょ。ちなみに私は転生輪廻を信じる方、だから苦労は買ってでもするほうです。

hosiboshi
質問者

お礼

なるほどです。 学ばずに死ぬことほど恥ずかしいことはない。 見習わなければならないお言葉です。 ありがとうございました。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.3

成熟した文化では、先人達が培って来た経験や歴史を大切にするものですね。長い間の経験から、この世の中には苦労無しで手に入れた物で、自分を幸福にしてくれるものなどないことを認識して来たのです。 私の先生がおっしゃっていたことですが、「教育者の役割は、その人がほっといても分かるようになることを教えることではない、もしその人が教わらなかったら、そのことに一生気付かずにいてしまったり、あるいは、気付いてももう手遅れになってしまうことを教えることだ」とのことでした。楽をして手に入れた物で幸福にしてくれるものがないことに気付くのは、その後者に当たる例です。戦前までの大人達はそのことを、経験と教育で知っており、自分の子ども達が幸せになれるように、苦労の有り難味を教えていたのです。 ところが、敗戦で日本の大人達は自分たちの価値観に自信を失ってしまい、子ども達に過去の経験や歴史の重みを教えるよりも、動物達のように、今だけに生き、今だけを大切にするように、そして、大人達から何かを教わるのではなくて、自立して自分で考えて生きるようにと教え出してしまいました。未熟で経験のない動物達のような子ども達には、自分のまだ経験していない十年後、二十年後の自分の世界観のことなどを前もって想像することは無理です。そのため、その子ども達は、この60年程の間、苦労を避け、楽な方に楽な方にと生き方を見いだそうとして来てしまったようです。その結果、苦労の結果やっと手に入れることができる、質の高い達成感に伴われた幸福感が存在することすらも理解できなくなってしまったようです。 もし、本気で私の言うことを聞いてくれる若い方に巡り会えると言う幸運を私が持つことができたなら「これぞと思ったことに対して、石に齧り付きながら、血の涙を流しながらでもやり遂げる何かを手に入れなさい」と忠告します。その努力をした後でなら、運良くそれを達成した時のみならず、たとえ運が悪くて、それを達成できなかったとしても、もしかしたら、「これで善し」とする悔いのない充実感や満足感を味わえるかもしれません。だだし、その苦労をしない人に、その充実感を味わえことなどないことは保証致します。

hosiboshi
質問者

お礼

確かにおっしゃられるとおりだと思います。 現代では逃げるように、避けるように、そして多少ずるしてでも得をするようにと教えられます。 それは社会自体もそうでないと生きられない社会ということを現していると思います。 質の高い達成感は、自分で自力で獲得しないと得られないしわからない。 それはこの社会では特にハードルが高くなっているように思えます。 まず自己が弱い。 その上に鍛える環境も、教えてくれる教育者も、正しく導いてくれるものも、共に艱難辛苦を喰らおうという友達も、全てがありません。

  • lalulalun
  • ベストアンサー率21% (164/772)
回答No.2

私なら苦労なんてわざわざ買いません。 昔の人も本当に買ってまで苦労したい人はいなかったんじゃないですか?でも世の中は苦労に満ちていて、苦労の代償に何かが得られると考えると乗り越えられる人も少なくなかった。またそう言い聞かせて、人に苦労を与える正当性を主張したい人も多かった。だからそういう考え方が流布したのではないかと。信念は人を強くしますから、実際に何かを得た人もいたでしょうし。 本当に純粋に買ってまで苦労したいのなら、すでにそれは苦労ではないでしょう(笑) なぜ先人に習わないのか?これに関して言えば容易ではないからかな。 先人の経験を全て活かせれば、戦争もなくなるんですけどね。。

hosiboshi
質問者

お礼

やはりどこかがひねてしまうのだと思います。 自分もそんなところがあるようです。 勉強させていただきました。 ありがとうございました。

  • Mumin-mama
  • ベストアンサー率45% (1140/2503)
回答No.1

昔は、個人よりも身分や家柄、本家、分家、男女差、長男か次男、三男…の差。 と言った今の民主主義では味わえない「差」がありました。 その差は母のお腹に宿ったとき、生まれ時からほぼ決まっていました。 特に若いときに、貧しさ、空腹、恥ずかしさ、悔しさ、己の知識の無さ失恋や死別等の心の痛み、などを知ったとき、それを乗り越えようとする本能があると思います。過保護だと親がそれを知る前に解決してくれるので、忍耐が養われないのではないでしょうか。また、人生50年だった昔に比べると親が長生きして、遺産まで残してくれる時代です。 これからはどうなるか分かりませんが…。

hosiboshi
質問者

お礼

やはり環境などが強く影響しているということでしょうか? 最初から苦労したため、自ら乗り越えようとか、苦労を買ってでも自らの為にしようという概念が既に存在しているということでしょうか。 ある一部の人を除き、昔に生まれれば苦労をし、現代人なら楽を、お金を、名誉をという生き方を、誰しもがするのが、いわゆる普通であると言うことなんですかね。 現代人、またこれからの人はまた違った特殊な苦労をしそうな気がします。 心の渇望というか、孤独感などを味わう人が増えそうです。

関連するQ&A