• ベストアンサー

昔の人は冬の寒さをどうやってしのいだのですか。

灯油ストーブが各部屋に普及するのはいつ頃なんでしょう 。 上流階級から庶民まで各時代の日本人はどのように寒さをしのいでいたのでしょうか。 素足で粗食、隙間風。 あるじ以下全員集合で囲炉裏ばた? 殿様もヌクヌクとはいかなかったのですかね。 日本人らしいですよね。何でですかね。日本人はケチ文化なんですかね。 私は暖房入れていないのですがこれでは冬に寿命が縮みます。昔をしのばれる状況です。 昔の人はどのくらい寒い思いをしていたのですか。平成の現代人には耐えられませんよね。 ご教授のほど宜しくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.13

こんばんわ。 bungetsuです。 お読みいただきありがとうございます。 >>行火も含めて炭にかかる出費は生活を圧迫したり無駄遣いとはされていなかったのでしょうか。 江戸時代は士・農・工・商と言われましたが、江戸市中を見る限り農業は0%、工業(鍛冶職、鋳物職など)は10%、商業は30%、後は、大工や鳶職などが10%、武士は軍事上の秘密から公表はされていませんが50%。 従って、江戸は一大「消費都市」だったのです。 さて、話を戻しましょう。 以外と思われるかも知れませんが、江戸の周辺には「炭焼き」が非常に多かったのです。 武蔵(八王子、川越、秩父など)・・・・東京都および埼玉県 伊豆、駿河、遠江(とおとうみ)・・・静岡県 相模・・・・・・・・・・・・神奈川県 甲斐・・・・・・・・・・・・山梨県 常陸・・・・・・・・・・・・茨城県 上野(こうずけ)・・・・群馬県 下野(しもつけ)・・・・栃木県 上総(かずさ)、安房(あわ)・・・千葉県 下総(しもふさ)・・・・千葉県の一部と茨城県の一部 「享保通鑑」という史料によると、享保11年(1726)に船などを使って江戸へ運び込まれた炭は89万9710俵、薪は1829万9687束とありますが、薪は当然のことながら、主に煮炊き専用でした。 前回も述べた通り、江戸では囲炉裏などで大々的に火を焚くことは禁じられていましたので、必然的に暖をとるためには炭に頼らざるを得ませんでした。となると、値がどんどんと吊り上ってしまいます。 そこで、幕府もたびたび炭の値段については「御触れ」を出し、庶民でも気軽に購入できるよう「価格統一」などを行いました。 しかし、薪に関しては、なぜかこの「価格統一」がされませんでしたので、大量に出回るにもかかわらず、結構な価格となってしまいました。 従って、炭は割合安く購入できたようです。ただし、備長炭のように長持ちはしなかったようですね。 まあ、長屋暮らしなどでは家計費を圧迫はしたとは思いますが、寒さにかえられなかったのではないでしょうか。 ご存じ、赤穂浪士の討ち入りで吉良上野介が隠れていたのが「炭小屋」でしたね。 武家は炭は安かったので、結構溜め込んでいたようです。 >>明治以降戦後についてもご存知であればご教授ください。 明治に入ってからは、近代化が進み、西欧諸国から工業技術を積極的に取り入れたため石炭の採掘に力を入れ始め、年間200万トン余りも生産されていた炭も火力が弱いために、10年も経たないうちに約6万トンの生産量・・・と言うよりも使用量に減ったと言われています。 そして、現在のように一般家庭で電気、ガス、石油が使われ始めたのは、何と、第二次世界大戦の後の1950年後半で、それまでの木炭(炭)、薪、石炭から電気、ガス、石油への転換が急速に進みました。 これを「燃料革命」と呼ぶ学者もいます。

thegenus
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございます。とても勉強になります。 吉良は炭小屋でしたか。ドラマで炭を転がす演出でもあれば私の理解も深まったのですが。 今後ともご教授よろしくお願いします。

thegenus
質問者

補足

江戸城や江戸以外の武士も囲炉裏のようなものは無しですか。 中国や韓国の方が暖かかった? 冬を暖かくというのは最近の流れですね。それがエコと並行しているのだから落語有権者です。 ホットジャパン。 家計を圧迫したら革新的な変化があってもいいように思うのですが。素足で障子一枚のまま?食い物よりも炭代ですかね。 老若男女、馬鹿も利口も、障子一枚というのが解せません。 短命だったはずですよ。

その他の回答 (14)

回答No.15

こんばんわ。 bungetsuです。 >>江戸城や江戸以外の武士も囲炉裏のようなものは無しですか。 答えから先に述べますと「ありません」。 登城してきた大名も、詰所に詰める時、夏はともかくとしても、冬には座布団さえありませんでした。当然、火鉢などもありませんでした。また、行火などの持ち込みは厳禁でした。 また、弁当を食べた後、湯茶が飲みたければ、湯茶場へ行き、自分でお茶を淹れて飲みました。 どんなに偉ぶった大名でも、千代田城の中では、すべて公方さまの「家来」だったから仕方がありませんでした。 ★江戸時代、「江戸城」とは呼ばず、「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。 ★良くTVなどで「将軍さまのお成り~」などと放映されることがありますが、「公方さま」と呼ぶのが正式。あるいは、略して「上さま」。TVの視聴率を上げるための所業。 なお、大奥には囲炉裏がありましたが、これは茶室で、使用するのはもちろん「炭」でした。 >>中国や韓国の方が暖かかった? 江戸時代の世界の気象状況は解りませんが、中国も韓国も日本より北に位置していましたので、おそらく、日本よりは寒かったと思います。 >>老若男女、馬鹿も利口も、障子一枚というのが解せません。 障子をバカにすることなかれ。 障子(戸)は紙一枚ですが、思っているより、夏は涼しく、冬は暖かですよ。 >>短命だったはずですよ。 少々、古い歌ですが、 昭和16年・武内俊子作詞・「船頭さん」の歌詞に、 「村の渡しの船頭さんは 今年60のおじいさん・・・・」 とあるように、昭和の初期でさえ、60歳で、もうお爺さん扱いです。 また、戦国時代の信長が好きだったと言われる舞で「敦盛」では、 「人生わずか50年・・・」 昨今では、65歳の定年制を導入しようとしていますが、60歳では、まだまだ現役バリバリですよね。 そして、小説などで江戸時代を扱ったもので、「はやり病」と一言で片づけられているものが多く見られます。 主に、「赤痢」、「コレラ」などがあげられますが、意外と口にしていないのが「インフルエンザ」だったのです。 江戸時代であっても、現代であっても、「寒いものは寒い」だったと思いますよ。 江戸時代には長寿番付などがありませんでしたので、どれだけ長生きをしたかの「統計」などはありませんが、 60歳を「還暦」と呼ぶように、60歳が人生の折り返し点。 そこまで生きれれば「長生き」と言われたのではないでしょうか。

thegenus
質問者

お礼

こんばんわ。なるほど。ありがとうございます。 中国や朝鮮の方が暖かったというのはあちらの方が防寒文明が発達していたのではという質問です。布団だかなんか忘れましたけど大陸での起源は防寒用のカーテンじゃありませんかね。障子じゃ話になりませんよ。紙コップのコーヒーですよ。特に雨戸のない障子窓の夜は。 日本中の武士が火鉢だってのが解せません。その心理が。別に江戸に合わせる義理はないでしょ。 戦国時代はどうなんでしょ。 寒さを無視する珍しい民族じゃありませかね。西洋じゃないでしょ。中国もそうだと思います。だから前のお礼文でも日本はケチケチかストイシズムの呪縛なのではと質問しておりますが。

  • izumi044
  • ベストアンサー率36% (1333/3622)
回答No.14

NO.5です、お礼をありがとうございました。 >動き続けるには高カロリーの食事が要りますし指先や足の裏など部分的に低温にさられ続けます。鼻を赤くしながら一日中マラソンできません これは、ちょっと違うように思います。 マラソンランナーやF1選手が、持久力を保つために摂取するのは「炭水化物」だと聞きます。 炭水化物に加え、味噌や生姜、ネギなど「体を温める」といわれる食物は摂取出来たと思いますので、食事の面でのハンデはそんなにないんじゃないでしょうか。 >当時を再現されてみてドテラだけで暖かいと感じられるでしょうか。 基礎代謝は低いと思います。(お恥ずかしながら定期的な運動をしておりませんので) 暖房は、旦那さんの帰宅に合わせて深夜の零時前後からつけます。(つける前は6~9度くらい?) 部屋ではTシャツとカーディガン+ひざかけを肩にかけて過ごしております。 ※肌襦袢、着物、ハンテンとすれば同じくらいかも? 帰ってくる頃に温かいご飯をと思い、晩御飯の仕度をするのは23~0時頃から。 その際に一枚多く着込みます。Tシャツと裏起毛のトレーナー、カーディガンという具合に。 水仕事を真夜中にすることになりますが、水道水です。平気です。 ※裏起毛や厚手の部屋着があるとないとでは、かなり体感に違いがあります。 くつしたは好きではないので、普段は裸足です。 (深夜の台所は、キッチンマットがないとさすがに辛いですが) 代謝の低い私でも寒さに対抗を出来ているので、体を多く動かし代謝が高かったであろう昔の方ならば、寒さに「耐えられない」ことはなかったんじゃないかと思うのですが、質問者さんはどう思われますか。

thegenus
質問者

お礼

ご丁寧にどうも。参考になります。今日は8度なり。 やはりキッチンマットですか。あなたが口先エコロジーの偽善者ではないことが分かります。 昔の女はキッチンマットなんかなかったですよね。戦前?明治以前は素足に板の間じゃない?長生きは出来ないよ。 カロリーは総カロリーが低かったんじゃないですかね。特に女は。 代謝というよりもキッチンマットですよ。暖房しないと抹消がやられるんですよ。 そして、動いた時の熱は保存できないんですよ。 動かない時の熱が代謝熱です。必要に迫られた自律神経に育成された昔の人の体は脂肪を溜め込まない体質だったかもしれませんね。脂肪は冬のためにあるとも言えるから昔の人の体は使ったのかも。体脂肪率が一年周期で上下する?土用の鰻を大晦日に燃やすみたいな。 水道水は手袋をしてですか? スゴいね。20代? エライと思うけど体力にまかせていませんかね。昔の人の老化が早いのも貧しい青春時代からではないかと。

  • ikoan7632
  • ベストアンサー率42% (104/245)
回答No.12

温石(おんじゃく)とか桐灰懐炉とか。 桐灰懐炉と言っても現代のとあるメーカが販売している使い捨てカイロのことではなく、 桐の木の炭の粉を固めた物を燃やすものです。 木炭懐炉と言った方がイメージしやすいかな。 温石は火の中に入れておいた石を布でくるんだものです。 石焼芋の石をイメージすればよいかと。 もう少し時代が下れば、ベンジンを白金触媒で分解・発熱させる 白金懐炉というものもありますね。 ちなみにうちは今も実家暮らししていたときも、暖房は使ってなかったですよ。 今の部屋は気密、断熱が少しはマシだけど、実家は隙間風だらけでした。 ウィンドブレーカを着込んで毛布にくるまっていましたけど。 冷えやすい足先は、胡坐をかいて膝の裏側に挟んで温めるといいですよ。 ケチと言うよりはそれが当たり前の環境で育っただけですから。 そういえば兄嫁が実家に泊まると「寒い」を連発していますね。 客観的に見たらそうなんでしょう。 慣れってこわいですね(笑 平成の現代人でも、秋から冬にかけて気候に合わせて 徐々に寒さに慣らしていけば 寒さでも耐えられるようになるはずです。 少々寒いと感じても暖房を入れないことがポイントかな。 徐々に寒さに慣らしていかなくても、 寒い中で生活していたら そのうち慣れて平気になりますよ。きっと 生物の適応能力を甘く見てはいけない。

thegenus
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 馴れはあります。 がしかし物理的・生物的な限界もあります。霜焼けや血行不順のような。 いろいろな欲得がありますが防寒に対しては熱意が足りない民族のような気がするのです。 寒さは耐えてきたというのが日本人の生活史でしょうかね。

thegenus
質問者

補足

同感ですが、現在は生物の適応能力を発揮されないご生活ですか。 発揮したところが所詮どの程度かを熱増ししないようにしないと。

  • cherry77_
  • ベストアンサー率23% (291/1261)
回答No.11

明治時代や大正時代のことは知りませんが、わたくしの子供時代は、”練炭堀コタツ”に、家族全員が集まっていました。 練炭のおかげで、長時間コタツに入っていると、必ずと言っていいほど頭痛になります。 一酸化炭素中毒で死ななかったのが不思議なくらいですが、皮肉なことに、その頃は、逆に隙間風に守られていたのかもしれませんね。(連桁付き8分音符) 台所仕事は火を起こすことから。 風呂は、薪割りから。 布団は、長年使用した、重くて硬い布団、硬いので冷たい。 布団に入って三十分くらいは、震えていました。 震えて、布団と体の周りに熱を蓄えるのです。(連桁付き8分音符) 粗食でしたね。 今、思い出しても不思議な、”灰色の肉のすき焼き”。 父が、どこかから手に入れてきたという肉?で、ときどき「すき焼き」をしてくれましたが、この肉の色が灰色。 噛むと、やたらに固くて、肉独特の甘みは無く、ほろ苦いのです。 あ~~あの肉は何だったの? ♪ 今思えば…笑えます。w ”足りない生活”から抜け出したい。 今の時代は、素晴らしい!(連桁付き8分音符) この素晴らしい時代を知ってしまった我々は、いったいどうなってしまうんでしょう?

thegenus
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 隙間がかなりあった証拠ですね。というか隙間だらけです。 古い家の断熱はエアコンの冷房の効きを考えると分かりますね。 熱源周辺が強力に温もっていたのです。電気ストーブとは違います。 素晴らしい時代に生きてすっかり偽善者になっています。頭に悪い。浅知恵で迷走する次第です。

回答No.10

  #1>今も耐えられますか。 我が家は炬燵だけですが、私は入りません。 だから私は暖房なしです。 リビングは11畳あり、リビングに続くキッチンは窓が開いたままなのでリビングにも風は入ってきます。 そのため夜の室温は15度程度、朝は10度以下になってます。 これくらいがちょうど良いです。 夏もエアコンは使いません、リビングでは扇風機を回しますが、私は扇風機の風が嫌いなので寝るときは団扇を使います。  

thegenus
質問者

お礼

同じくですが、手足の抹消の血行や冷えは大丈夫ですか。職人の手みたくなってませんか。 私は摂取カロリーが低いのですが食事は現代的に腹てんてんでしょうか。 我が家は高断熱住宅なので昼夜の温度差がありません。常に6度です。来月は4度になるでしょう。 エコブームどう思います?偽善も偽善ですよね。回答者さんにエコを強制する資格はないと思いますが付き合わされるでしょ。

回答No.9

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 皆さん色々な素晴らしい意見が回答されているようですので、 私は「大江戸事情」についてお話ししましょう。 「家の造りやうは、夏をむねとすべし、冬はいかなる所にも住まる」 は兼好法師の「徒然草」の有名な一節。 つまり、冬は着込めば凌げるけれども、現代のように冷房器などありませんでしたから、夏の暑さから逃れるすべはないということです。 暖房として住まい全体を暖めるには囲炉裏が一番でしたが、江戸では火事が多発したため、囲炉裏で薪を燃やすことは禁じられていました。そして、農家から買い入れる薪も大変高価でした。 従って、深川芸者の置屋や舟宿には囲炉裏が設置されていましたが、炭を置く程度で暖房としての効果は全くありませんでした。 深川芸者などは寒さのあまり、お座敷では華美な着物で芸を披露しましたが、客待ちなどの時は、ありったけの着物を身体に巻きつけて寒さ凌ぎをしていました。そんな姿を見たら客も幻滅したことでしょう。 庶民は・・・と言うと、 まずは、せいいっぱいの厚着をして、火鉢に手をかざしたり炬燵に足を入れたりするていど。 火鉢には金属製、木製、陶器製などがあり、形は丸火鉢、角(箱)火鉢、長火鉢、提火鉢などがありました。 町屋でも、ある程度裕福な家では木製の長火鉢で、片側に猫板といわれる部分があり、茶器などを置くことができ、引き出しになっているので、小間物を仕舞うにも便利で重宝がられました。 では、熊さんや八っあんたちの長屋では・・・ 江戸時代の初期の頃は、もちろん厚着をして、丼を大きくしたような鉢に灰を敷き炭を入れて、せいぜい手を暖める程度。 江戸も中期以降になると、陶器製の行火(あんか)が登場。どこへでも持ち運べるので大変な人気になりました。 そして、一工夫加えて、行火の上に蒲団をかけて何人もが手足を入れて暖をとることができるようになりました。また、辻番が好んで使用していましたので、別名「つじばん」とも呼ばれました。 さらに発明がされて、行火の上に現代のような櫓(やぐら)を置き、その上から蒲団をかける「櫓炬燵」が登場しました。 これにより、家族全員が等しく暖をとることができるようになりました。 しかし、現代のように「炬燵板」の考えがなかったため、茶器などの道具類が置けないのが難点でした。 狂歌に、 「四角でも炬燵は野暮なものでなし」 と詠まれたほどでした。 寝具: 江戸では、現代の掛蒲団にあたる「夜着」(よぎ)が一般的でした。 「夜着」は、袖と襟のついた大形の着物のような形で綿が入っていました。 上方では、元禄年間頃には敷布団よりも薄くて幅広い、いわゆる現代風の掛蒲団が庶民の間にも定着したと言われています。 また、「寝間着」といった独立した衣服は存在せず、昼間着ていた下着や肌着のまま寝るのが普通で、夜着も持てないような貧乏人は、ありったけの着物を身体に巻きつけて寝ましたので「寝間着」ではなく「寝巻」と書くのが本当。 次に、農家ですが、こちらは「囲炉裏」が一般的でした。 囲炉裏は局所的な暖房と思われがちですが、平屋造りなどであれば、結構、家全体が温まります。少々の隙間風でもさえぎってくれました。 さて、殿様(大名や公方さま)ですが、 冬用の綿入れの着物を着て、足袋を履きました。 暖房としては、火鉢しかありませんでしたので、ヌクヌクとは程遠いものでした。 しかし、例えば、戦国時代を見てみると、冬の戦いなども繰り広げられていて、陣中では篝火(かがりび)は焚きますが暖房のためではありません。 従って、「武士は食わねど高楊枝」 と言われるように、寒さ暑さに耐えることも武門のならいだったのです。 つまりは、「ひたすら耐える」だったのです。

thegenus
質問者

補足

こんにちは。とりあえずこの冬一番の面白さです。 江戸時代は人間らしい暮らしだったという懐古趣味人はまずエアコン切っからでしょ。低栄養で火起こし行灯暮らしは日夜、死との戦いですよ。私は寝巻き状態ですが寝るまでに暖がないのと既に体が保冷ボックスと化しているから極寒なのです。 布団自体があんなものなのに近代的なんだ。熱源が重要だという裏返しですね。実は人類史において燃料などは安いものであり続けたという事ですかね。寝巻きの私はバカみたいですね。 それにしても同時進行に衣類を開発した方が賢くはなかったのでしょうか。値が張っても金持ち向けを手始めに商品普及してよさそうな。西陣織があるくらいなのですから。なぜ日本中、防寒に関心が低いのか。朝鮮や大陸の方がしっかりしてると思いますが。 武士のケチさが利いているわけだ。役所はエアコン撤去してウォームビズです。 しかしなぜ大名クラスもボンボン燃やして暖をとろうとしなかったのでしょうか。ストイシズムの呪縛ですか。江戸時代の武士道が大事だったような気がしてきました。鎌倉・室町時代は囲炉裏みたいに火を焚いていたのでは?一日中寒くちゃ体壊して動けませんよ。 行火も含めて炭にかかる出費は生活を圧迫したり無駄遣いとはされていなかったのでしょうか。 明治以降戦後についてもご存知であればご教授ください。

  • tpg0
  • ベストアンサー率31% (3785/11963)
回答No.8

ANo6です。 雨戸は日没後に閉め、朝になると開けてましたが、雨戸の開け閉めは、私や弟が小学生になってからは私と弟が交代で行ってました。 なお、雨戸の内側は「木枠のガラス戸」で廊下を隔てて障子戸の部屋でしたから、雨戸の戸袋が室温に影響することはなかったと思います。 また、部屋同士は襖での間仕切りでしたが、我が家の父親(機械技師)は子供の頃は建具職人になりたかったぐらい工作が得意で手先が器用でしたので、襖や障子戸の隙間は自ら修正してましたから隙間風は我が家では無縁でした。 ちなみに、昭和40年代半ば頃には、私は都内(大田区)の電子専門学校に通うために大田区内で約2年間借りた6畳1間のボロアパートは家賃が安かったせいか、安普請の造りで火の気がないと冬は寒かったですが、この頃には「赤外線式電気炬燵」と反射式電気ストーブを使って寒さを凌いでました。 従いまして、昔も現代も「建物の造り方」で家屋の保温性は全然違うと思います。

thegenus
質問者

お礼

具体性のあるご回答ありがとうございます。 戸袋は回り廊下に開口していという意味です。雨戸を閉めた夜などはそこが二重になっていません。 ボロアパートは火の気がないと寒いでしょうが旧家は火の気がなくても暖かかったでしょうか。同じ熱量を消費したらボロアパートも大丈夫ではありませんか。寝室は回り廊下に囲まれていませんよね。屋外との隔離に関してアパートと同じ配置図ではありませんかね。 熱容量の差はあるでしょうね。 旧家は暖まるまで時間がかかりますでしょ。 戦前戦後にどこにも熱源がなくて暖かい家があったでしょうか。

  • tpg0
  • ベストアンサー率31% (3785/11963)
回答No.7

ANo6です。 「渡り廊下」は建物同士を繋ぐ廊下のことでしたね。 部屋の周りの廊下は「回廊」で、我が家ではL字型の廊下がありました。 そして、夜間は悪天候でなくても「雨戸を閉めて」ましたから、現代の二重窓住宅みたいに室内は厳しい寒さにはならなかったです。

thegenus
質問者

お礼

貴重な実話と補足有り難うございます。 昼間は雨戸閉めないでしょ。 冬の縁側は寒いですよ。壁じゃないのですから。それと戸袋がツーツーなんですよ。 全てが夏向きです。断熱ではなくて、熱源があってこそですよ。 光熱費というか熱源が屋内にもたらすカロリーは昔だから少なかったという事もないのですかね。 里を離れた江戸っ子や大正の勤労者は震えた下宿生活のイメージがあるのですが。

  • tpg0
  • ベストアンサー率31% (3785/11963)
回答No.6

こんにちは。 私は、昭和20年代半ば生まれなので昭和20年代後半頃からの記憶しかありませんが、当時の我が家では「掘り炬燵」と「火鉢」が冬の主な暖房器具でした。 掘り炬燵の中には火鉢が入っていて燃料は「炭(木炭)」または「練炭」を使ってましたが、昭和30年代前半にニクロム線式の「電気炬燵」を使うようになりました。 その後、昭和30年代半ば頃に「対流式石油ストーブ」を我が家では使うようになり火鉢は使わなくなりましたが、小・中学校の暖房器具は石炭を燃料とする「達磨ストーブ」でしたから、当時の子供達は小学生でも「石炭の熾こし方」は手慣れたもので、日直当番になると早目の時間に登校して手際良く石炭を熾こして教室内を暖めてました。 そして、昭和30年代後半になると石油ストーブが普及し始めて、石油ストーブを使う学校や商店などが多くなりましたが、熱量の大きい対流式石油ストーブが主流で「家庭用の反射式石油ストーブ」が普及し始めたのは、昭和40年代半ば頃からです。 なお、昔の木造家屋は「渡り廊下」が当たり前のようにあり、壁は土壁でしたが、渡り廊下が外気との緩衝材の役目をしてたことで障子や襖で間仕切りした部屋でも意外と暖かく冷たい隙間風が入ることは我が家ではなかったです。 また、冬季の大人達は足袋(たび)を履いたり、褞袍(どてら)や丹前(たんぜん)を着たり、子供達はセーターやジャンパーを家の中でも着てたので意外と寒さは感じなかったです。 ちなみに、私の父親(故人)は明治43年生まれで、母親は大正9年生まれで92歳になった今でも健在ですから、大正時代や昭和初期の生活の様子などをリアルに聞いてますが、冬季の暖房の様子は昭和30年頃までと殆んど変わらないようです。 実際に、昭和30年頃に母方の実家がある会津地方に祖父(明治12年生・故人)や祖母(明治15年生・故人)に冬季の雪深く積もる会津地方に蒸気機関車に乗って遊びに行った記憶では、祖父は長火鉢の傍で煙管煙草を吸い、祖母は大きな竈のある台所に薪をくべて煮炊きをしてましたから、明治・大正時代も同じように厳しい寒さを堪えての生活ではなかったようです。

thegenus
質問者

お礼

この度は大変ご親切なご回答ありがとうございました。 今後とも宜しくお願いします。

  • izumi044
  • ベストアンサー率36% (1333/3622)
回答No.5

どてらやはんてん、(そでのない)ちゃんちゃんこといった綿入りの着物がありました。 (私の子供時代には、寝る時にかいまきを使っていました) 着る物でも暖はそれなりにとれていたのだろうと思います。 「四月一日」とかいて"わたぬき"と読みますし、綿入りの物が日常に多くあったのではないでしょうか。 また、現代よりも昔の人はよく歩いたでしょうし、家事などの肉体労働も多く、代謝も高かったのだろうと思います。代謝が高ければ、同じ気温であっても寒さを感じることは少なくなると思います。

thegenus
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 動き続けるには高カロリーの食事が要りますし指先や足の裏など部分的に低温にさられ続けます。鼻を赤くしながら一日中マラソンできません。問題はその間の時間ですよね。 当時を再現されてみてドテラだけで暖かいと感じられるでしょうか。一日中それですからね。 内風呂も自動洗濯機もない時代の衣類を着込んで。 食い物も低カロリーでしたよね。

関連するQ&A