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昔の人は何をもって「死」としていたのですか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB 上記サイトによれば 死とは ・鼓動と呼吸の停止 ・生命活動が不可逆的に止まること とあります。 しかし、これは現代における一般的な死の定義であって 古には死の定義も異なっていたのではないか、と思います。 たとえば、日本の古代には殯(もがり)が行われていたようですが これは一定期間遺体を置いておくことで、 本当に死んだのかどうかを確認するという目的があったのではないか と思います。 (間違いでしたらご指摘ください。) 昔の人は何をもって「死」としていたのでしょうか。 日本、外国を問いません。 またいつの時代のことであっても構いません。 よろしくお願いします。
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聴診器(患者の体に直接耳を当てて振動を聴くことは、古代エジプトや古代ギリシアでも行われていましたが、現在の聴診法の基礎を築いたのは、フランスの医師ラエネクで、1819年児戯にヒントを得てノートを筒形に巻き、聴診に試用したのが始まりだそうです)、心電図のない時代は「脈が触れない」「息をしていない」「瞳孔の開大、対光および瞳毛反射の消失(脳幹反射の消失)」で死の確認が行われていました。おっしゃるとおり誤診が起きないようにもがりの期間を置いたのです。 ただし、ヨーロッパでも天然痘、チフス、コレラ、ペストなどの感染症では感染の恐れがあって死の確認も不十分のまま早く埋葬されたこと例も少なくなかったようです。そのため、生き返ることがままあったのです。ヨーロッパではペストで都市人口の3分の1なくなることも多かったのです。 誤診例をなくするために、死が厳密に規定されていくのです。無呼吸、心臓の鼓動停止、心電図の脈波平坦化が現在でも使用されています。脳死判定というのはまったく現代の概念です。
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- パブクシャンnoチビ枯淡(@tibikotan)
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他のご質問「即身仏となった人は何を持って死んだとされたのですか」を読み 「宗教・哲学的見地からの死の定義を知りたい」と言うことと理解しました. 書き上げ途中の時点で,ご質問が既に閉じられていたので, ご質問者さまが同一であり,こちらに再度投稿します. 結論から言えば,仏教の基本的な生命観は, 「『生命は常住』であり,『生命の本質』は『死と生の両面』を繰り返している」と, つまり「仏教哲学では死に対する認識は,意味が無い」と言うことです. すなわち,多くの宗教界を含め俗世間や考えられている『死』と言うものとは, まったく本質に対する認識が違っているのです. 42年前に学んだ記憶を基に, 想い出しながら記述を試みます. 古い記憶を辿りながらの作業ですから, 当然記憶違いの部分もあるはずです. そのため齟齬の部分も当然含まれている可能性があり さらに生来の乱文となっており, ご理解しにくいでしょうが. その点お許しをいただきたいと思います. 仏教全般・世間一般の生死観を一括りにして, 死についてご質問されてるように感じましたが, 仏教にはさまざまな時代に発生した宗派や, 世間に迎合した宗教人に拠るさまざまな意見, または新興宗教の理論武装による体系化されたものまで, 更にさまざまな仏教系列思想を持つ一般人の認識など, 実に無数と言ってよいほどの数が存在します. ある人いわく,「人の数ほど死の定義がある」です. 仏教の本質的理論の流れの変化面から少し考察して見ます. 釈迦が説いたいわゆる仏説が,シルクロードを伝って 中国に伝播したのですが,その後の中国で仏教哲学が興隆し, 盛んにさまざまな宗派(学説)が成立していきます. 私が知る限り国内の宗派のほとんどはその系列です. 記憶が定かでないのですが, 私としては「釈迦は『阿含経(部)』を説いただけである」との説が, 信憑性があると私自身は認識しています. その根拠は私見ですが以下のとおりです. 『日本仏教では釈迦が説いたというのに, 発祥の地であるインドから伝播する古道に沿って, 法華経寺院の古刹が存在しない』 しかし生死についての『因果律の存在』は, 仏教系宗派であれば基本的に教義上の根底に存在しています. 例えば, 仏教:法華経での生死観は,生命のその時の状態であり, 「生きている」「死んでいる」と分けないのです. 生命を,一般に『魂(たましい)』:厳密には違っています. 正しくは『我(が)』と言いますが,それは不変であり, その存在は『無始無終』と云われます. 常に宇宙に存在しているということです. この考えは中国で仏教理論が体系化された法華経によって 理論的説明が一応完成されています. それには 『空仮中(くうけちゅう)の三諦(さんたい)』という理論が出てきます. 簡単に説明を加えると, (1):仏法で生きていると言う状態は, 『生きた姿の生命=普通の生きている意味』で, 『さまざまな物質』が,『仮』にある『縁』から『和合(集合)』することで, 『肉体:身体が構成されている状態』で, いわゆる生物(個体)が生命活動を行っている状態を指しています. この場合,肉体(身体活動)に伴って精神活動も惹起され, この身体と精神の両活動は相互に補完しあっている. その活動の根本に『我:生命そのもの』が存在すると言うことです. その『我』が基本的な苦楽を感じている. 生命(生体)には精神活動であるがゆえに現世で『生老死病』の いわゆる『四苦』を感じると考えているわけです. これは西洋哲学に無い達観だと思います. (2):死んでいる状態の説明: 『死』とは,単に『仮』に『和合』していた肉体が『縁を失い』, 大地の循環に従って還流している状態と考えられます. ところが『我』そのものは,精神活動の基になる身体を構成する, 『縁』を失い肉体との関係性が無くなっている訳ですから, 『生命活動としての自己表現』ができない訳です. この場合は宇宙に溶け込んでいると考えられています. いわゆる『我』が『妙伏(みょうぶく)した状態』が, 死の生命であり『死の姿の生命』ともいわれる考えです. 仏教にはそれぞれの物にも,生命(我)が宿っていると考えています. 私の狭小な知見ですが,仏教哲学以外では『我』の認識は無く, 生存時の精神活動をもって「死んだらお母さんが待ってる」と, 世間では言っているが,それは誤りと認識しています. 精神活動を感じる事が出来るのが, 仮体(肉体)を通して演じる精神活動の本質が, 生命のそのものである『我』なのですから… 個々の本質である『我』が,生の生命の状態で仮に和合した肉体で現れた, その『無始無終の経過の中で,仮に和合した肉体での人生なんて, それは刹那(一瞬)でしかなく,高次神経活動で起こった一期一会の, 人格を持った精神活動でしかないのですから. つまり,一般で言う「生きている時の情緒など含む感情:個人特有の人格」は, 仮の体が崩壊した時点で消失するのですから. ただし,死の生命状態といえども『我』は生存時の行動によって, 原因を積み,再び『生きた生命』としてこの世界に誕生した際に その過去世に積んだ原因によってさまざまな結果を持って誕生すると云います. その時に過去に作った原因を縁として, 生まれるときに『我』が持つ因縁が, 『身体の差:五蘊世間』の『人間の差:衆生世間』として 『環境の差:国土世間』に,その結果として差別が現れる. 巷で『世間』とは普段からよく使われる単語ですが, 本来は仏教哲学用語であり,差別(違い)の意味を持っています. 宇宙の森羅万象の中で,まったく変化しないそのものが, 『生命そのものの本質』であると捉えたのが, 仏教哲学での『我』であると認識しています. その『我』が, 無始の過去から無終の未来永劫に 生死の二形を見せながらも その『我』の『本性は変わらずに存在している』と考えられています. ゆえに,仏教では語弊を覚悟で述べると, 本来『死』は特別な意味が無いのです. 長文になりました. なお回答者は宗教に対する信仰心はありませんことを付記しておきます. ご質問者さまの参考の一助になれば幸いです.
お礼
「即身仏・・・」の質問は何が聴きたいのかわからない変な質問で申し訳ありませんでした。 それにもかかわらず丁寧な回答をありがとうございます。 興味深く拝読いたしました。 >「『生命は常住』であり,『生命の本質』は『死と生の両面』を繰り返している」 輪廻転生という言葉を聞いたことがありますが、これがその意味なのでしょうか。 『空仮中の三諦』という概念はすごいですね。 私のような無宗教者でも何か希望が湧いてくるような、そんな感じがします。 その一方で、 >その過去世に積んだ原因によってさまざまな結果を持って誕生すると云います. と聞くと、 「私が今貧乏なのは過去の行いが悪かったから?」 と納得できないような(笑)。 後白河法皇が全盛、高僧で徳があったために 法皇としてこの世に生まれた、というような説話を聞いたことがありますが こういった説話が作られた背景には このような仏教観があったのでしょうね。 大変参考になりました。
No.2の追加です。かなり詳細なことをお知りになりたいようなので以下の本が参考になりますの。でお読みください アーノルド・トインビー、他「死について」(筑摩書房)
お礼
ありがとうございます。 ぜひ読んでみたいと思います。
- nene-k
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学術的な事はわかりませんが、昔の人は、やはりおっしゃる通り >・鼓動と呼吸の停止 >・生命活動が不可逆的に止まること という事に陥ってから、一定期間が経ってはじめて「確実に死んだ」事を確認してたんじゃないでしょうか? たとえば、合戦の場で敵将の首を取ったり、犯罪者を斬首刑にしたりという行為・・・ これは、もちろん合戦の場合は有名武将を討ち取れば恩賞が発生しますから、本人確認の意味もあったでしょうし、罪人の場合はさらし首という方法で、万民に悪人が捕まって処刑された事を知らせる、現在の新聞やニュースの役割もあったわけですが、何より、「確実に死亡させる」という意味があったという事を小耳に挟んだ事があります。 だから、明治になって絞首刑以外の刑が廃止されるのは、医学の発達により確実に死んだ事がわかるようになったからで、「そうなると斬首や火あぶりといった野蛮な刑はやめよう」てな感じになったんだと思います。 もっと古い時代では、やはり、亡くなった直後は「死んだように見えるけど、確実に死んだかどうかわからない」という感じだったのではないでしょうか? たとえば・・・ 「六条河原にさらされていた、あの平将門の首が、胴体を求めて空を飛んだ」なんて話がありますよね。 もちろん、これは、単なる伝説でしょうが、こんな伝説が生まれる背景には、「たとえ首を斬られたとしても、強い情念があり、首と胴体が寄り添えば生き返るかも知れない」という観念が、昔の人にあったからだと思いますが、どうでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 なんで私の考えてることがわかったのかと思いました(笑)! 私がこの質問をたてたのは、nene-kさん御指摘の 平将門の首がとんだ、という伝説がなぜ生じたのか、と 疑問を持ったためです。 おっしゃるとおり、首を取ることは 確実に死んだことを確認するために行われたという一面があるのではないかと私も思います。 また、即身仏となるのは 腐らない体を持つことで、死後復活できるという 信仰に基づくものだと聞いたことがあります。 斬首するのは、死後復活しないようにするためだという ことを聞いた記憶もあります。 生と死のさかいがあやふやだったという話もありますね。
- パブクシャンnoチビ枯淡(@tibikotan)
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私の個人的な著書(未公開)の一部を転載します. 『死』: このような神業とも思える体内の驚く調和も,怪我・病気・老化を起因に,生体維持に不調和が発生します.それらはいずれ『生体維持の機能を担う内臓の機能低下』を引き起こし,結果として『死』が訪れるのです. 『 “死” の 定 義 』 日本では死の判定は多くの場合『医師』が関わっている.そこで医師が“死の宣告”を行う際に先んじて実施する,下記の身体特徴の確認が有意義であると認識している. (1)血液循環:心停止,(2)自発呼吸:肺機能の停止,(3)瞳孔散大:脳幹の不可逆的な機能停止. 母が死に至った経過を語れば,『肺結核』と言う感染症が引き金になっていたと理解している. すなわち『肺』と言う『ガス交換機能』を受け持つ臓器が充分に機能しなくなった事がその起因である. 簡単に言うと,肺は生体維持の上で必要な『酸素』を,『呼吸』により外界から体内に取り込み, 酸素の化学反応(酸化作用)を利用して,筋肉などのエネルギーに変換し, 更に各臓器では生体の恒常性を維持する機能に使われる. これらの活動によって産生されたいわゆる副産物の中から 不要な『炭酸ガス』を体外に排出する機能を分担するが, 肺でのガス交換が正常に機能しなくなると,それが引き金になって身体各部の統制が取れなくなる. いわゆる『多臓器不全』を誘発する事に因って,恒常性の維持が出来なくなる. 最終的には生体維持の基本指令を発する最も重要な『脳幹の中枢機能』の働きまでもが停止する. それが『不可逆的な脳幹・心臓・肺機能の停止』となる. すなわちこれが『生物』としての『個体』の『死』である. ただし!これまで示した『死の判定基準』は,古典的と言うか旧来の『医師の判断基準』である. そこで近年世間で話題となった,別の『死の判定基準』を語ろう. 脳死:『脳機能の不可逆的停止=脳死=母の死』. 身体で最も酸素を必要とする器官が『脳』である. 結核病巣の空洞化が進み,肺機能が阻害され脳に充分な酸素が供給されなくなると,精神活動である意識が朦朧となりついには意識を失う.さらに大脳に酸素の供給が5分以上継続して阻害されると,脳組織が壊れ… 母が母たるゆえんとなる, それまでの母の人生で体験した心理的活動の経験,いわゆる脳組織に蓄積された精神の表現活動によって 他者と区別される個性を持つ母の心(意識や情緒を含む“高機能神経系の精神活動”)が,永久に停止する. すなわち,これが『脳死』であるが,『脳の物理的損傷や機能的な要因による 自己認識など人格の発現が不可能な脳の状態』は『個人の死』とする判断も可能であると認識している. ただ,論理的には道理は理解できるが,脳死者と深い情のつながりが存在し, たとえば一見眠るような状態にある妻を目前に, 医師から「脳死です.つまり,死んでいます」と説明された場合, 素直にその「死」を認めることができるか,私にはまったく自信がない. 実際に20年以上も昔の話だが…交通自損事故で既に意識不明だった,仕事関係の知人であった人物を別府橋の病院に面会に行った際, 「脳はドロドロの液状で既に脳死の状態で意識は無い,一週間程度で脳幹機能が停止すると心臓もとまる」と,担当医師から現状説明を受けた後に,ベッドに横たわる呼吸器などでつながれた彼と対面したが, そんな彼の父親は脳死状態になっている彼の体に触れ 「手も温かく顔色もピンクでほんとに死んだと思えん」と泣き腫らした顔で嘆いていた. このように『現在の死の判定』には,医療技術の進歩に伴い『死』の医学的定義にも既に変化が起きている. それは医療としての『臓器移植』に関わる問題でもあり,一時は新聞などマスコミによっても議論されてきた. いずれは医療界の真摯な啓蒙活動によって,一般社会でもこの『脳死』は認知されるに至ると思われる. 最終加筆:2008(平成20)年09月3日20時07分 なお,ご指摘の『殯』については,遺族の心情から充分理解できます. 参考になれば幸いです.
お礼
少し質問の仕方に無神経なところがあったのではないか、と反省しています。 申し訳ありませんでした。 私のようなものに、 貴重な未公開の著書を紹介いただきありがとうございます。 そうですね、脳死というものがありました。 私は身近でそういう経験がなく、どういうものなのかと漠然と考えていましたが、 回答を読みまして、なんとなくわかったような気がしました。 昔、何かの記事で、脳死は死ではない、とする論文を読んだ記憶があります。 詳しく覚えていないのですが、 何か刺激を与えると、体が何らかの反応を示す、というようなことだったと思います。 脳死というものは当然古よりあったものと思われますが 当時の人々はどのように脳死を捕らえたのでしょうか。 >なお,ご指摘の『殯』については,遺族の心情から充分理解できます. 私もまったく同様に思います。 大変参考になりました。ありがとうございました。
お礼
いろいろな情報をありがとうございます。 「脈が触れない」「息をしていない」「瞳孔の開大、対光および瞳毛反射の消失」 をもって「死」とするということはいつくらいから行われていたのでしょうか。 疫病で都市人口の3分の1がなくなる・・・ 我々の先祖は実に厳しい時代を生き抜いてきたのですね。 大変参考になりました。ありがとうございます。