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命が大事ならば

命が大事ならば なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう。 この矛盾について解答があればお願いします。 なお、命が大事というのは人間の勘違いという解答は却下です。

みんなの回答

回答No.28

 翻弄されていると、そういう思いですよ。  本当らしくしないと、誰も真剣になってくれないですね。  ご自分がその主犯だということを忘れておられます、という境地からの説明でしてね。

shift-2007
質問者

お礼

遊びという表現以外表しようがないのですね。 自覚の無い神、それが人間ということでしょうか。

shift-2007
質問者

補足

そういえば子供の遊びには残酷な部分が多く含まれてましたっけ。

回答No.27

 ANo.23  ☆命が本流と支流に分かれた理由はなんでしょうね。  私はあるひとつのヒンドゥの哲学の徒です。  生命は意識であり、当為であり、力です。  唯一存在は創造を遊び、夢見ている至高のブラフマンという意識です。  夢という彼(一応男性ということになります)の意識の中の創造、幻影がこの世界です。  私たちとブラフマン(夢の外の意識)は遊びでこの世界を造り、分化(という仮初の意識、錯覚、幻想)してきております。  分化してきれいる意志が魂ですが、それは直截至高のブラフマンになります。半分目を開けているという状態だと、イメージすることができるでしょう。  枝の別れは日本語の菩提樹、私たちはアシュワッタという生命の樹に比喩されてます。宇宙の生命樹、つまり創造の経路ですね。  これをマハ・バーラタではアシュワッタマンという武士で象徴しながら、創造とその中の闘いを象徴しながら、描いております。  その闘いの仕方を教えているのがバガヴァッド・ギータです。  クリシュナは宇宙のクリシュナであり、人間に分流してきている魂でもあるわけです。これの声がバガヴァッド・ギータであり、ブッディのこえでもあります。  ブッデイのことについては下の聞きたいでも多少説明しました。  どうかご参考にしてください。

参考URL:
http://kikitai.teacup.com/qa4279578.html
shift-2007
質問者

お礼

>私たちとブラフマン(夢の外の意識)は遊びでこの世界を造り ここは心情としては受け入れがたいです。命のやり取りがブラフマンの遊びなら蹴りの2,3発も入れないと。 また、支流がやがて本流になるとしてもやはり本流と支流とが分かれた理由にはならないと思うのですが。 リンク先、 解説者 vs 実践者そんな感じでしょうかね。

shift-2007
質問者

補足

生物的進化(出産) 精神的進化(分化)かな? 共通点があります。 だとすればブラフマンも完璧な存在とは言えないのかもしれません。 ああ、なるほど確かにそう考えると私たちはブラフマンの子であり、主犯ですね。

回答No.26

遺伝的組み換えなしにクローンの子孫を作ることができる単細胞生物、植物、無性生殖動物の場合は、どの時点で命が失われたと考えればよいのでしょうか。ウイルスやプリオンなどの蛋白質も自己複製しますが、これらには命はないのでしょうか。 人間の属する有性生殖動物の場合は、親の半分の遺伝的情報しか残せないですが、この場合は半分の命が残っていると考えればよいのではないでしょうか。 遺伝的情報だけでなく両親が有していた文化、知識、言語、信念なども子孫やその他の生物に無意識や記憶として伝達されるので、命は決して奪われることはないのではないでしょうか。 生物は一個体として独立して存在しているのではなく、時間軸、空間軸の中で、関係性の上で存在しています。 決して命が奪われるということはないのですよ。

shift-2007
質問者

お礼

遺伝子の乗り物でしたっけ。 遺伝子さえも道具にすぎないと私は思います。

noname#80116
noname#80116
回答No.25

 割り切るかどうか だけではないの?

shift-2007
質問者

お礼

それはもうしているので、あえてぐずっています。 皆さんの回答に突っ込みを入れながら何かを見出せればいいのですが。

  • o-sai
  • ベストアンサー率19% (199/1001)
回答No.24

地球上の全ての生命の塊が、生命系としての「生命」だからです。 生命は現象であり、地球物質のエネルギーを運動エネルギーに転換し、 より広範囲に熱伝承させるというエントロピーです。 エントロピーという法則に従い、より広範囲に、より効率的にその存在を広げていきます。 いわば地球に巣食うウイルスのようなもの。 近い将来には地球外にもその存在を広げていくでしょう。 個々の生命は他の生命を取り込むことにより活動します。 これは生命系としての結びつきであり、この食物連鎖の競争により個々の生命体は安全な地や新たな形態を得ながら進化していきます。 進化とは、生命系がより広範囲に、より効率的にその存在を広げていくというエントロピーの法則に即した方向です。 ということで、ご質問の答えは「進化」の為、といことです。 エントロピーの法則については長くなるから詳細は省きますので、興味があれば検索してみてくださいね。

shift-2007
質問者

お礼

科学と宗教は生きていくうえでタイヤの両輪ですね。

回答No.23

 正直いえば、私もみなさんも疑問でしょうね。shift-2007さんのご質問という確認をして、不十分ですが思いを投稿させていただきます。  類似のご質問は過去にもありましたね。どうかそれもご参考に為されてください。    確か命の尊重というのは、精神文明の一定の発達段階からの当為や願いなのでしょうね。そして仏教などの宗教的教えなのでしょうね。  それをどう実行し、どう実現していくかの問題とも考えられますね。  誰も普通の状態ならば、食事のことは措いて、この命題を否定や、排除するつもりにはならないでしょうからね。  インドのヴィヴェカナンダ(ラージャ・ヨギ グル)も人はひと呼吸するごと、動作のたびに数万の生命を途切らせている。ということをいっています。本は今持っていますが、日本のヴィーヴェカナンダ協会のURLをご参照ください。  私たちのラージャ・ヨガの教えでも、至高の最終(究極)神が何億という人間たちを口に頬張る様相を、クリシュナ神が弟子に目の当たりにみせる聖句があります。  詳細な解説と解釈で進んできているが、この聖句のこの事項については、自ら思うことを薦めているのか、解釈は特に記憶ではありません。  個々の個体に宿る(本流からながれてきている)生命と本流の生命という論理や見方があるのでしょうか。  個々の個体の生命はエゴや自己保存本能がくっつき、作用しますね。  そういう次元での生命尊重論も当然あるのでしょうね。  それは他の生命の犠牲を宿命としていますね。  私たちの教えでは生命も意識も、そして理性や知性も決してないところから、自然に、何かのメカニズムや拍子ででてきてはいない、ということをいわれています。つまり淵源があるというのです。価値と理念を目指す立脚根拠からの当為という力、原理、命題であるというのです。  はっきり言えば創造の意識から発し、創造の意識に向かう命題である、力であるというのです。  この生命も意識も、そして理性や知性は存在するものには全て内在・普遍している。だから在り方の違いはあっても、微小のばい菌にもあり、どんどん複雑な存在の生命維持のプロセスで活用されている。  というわけなんでしょうね。  そうすると尊重する生命って、結局基盤の根源者であり、価値理念という生命なのでしょうかね。  そして個々の個体生命はそのエゴで、その尊重の仕方を誤解して必ずしも本来の尊重の仕方をしていない。ということなのでしょうかね。  基本的人権とか個人は尊厳であり、尊重されなければならない、という法的、社会思想的命題は事実として、そのままの個人が神と同じ尊厳であり、尊重されなければならないという、意味でありますが、ねばならないという当為命題ですね。  そして事実としてもどの個も尊崇できる尊厳性があるかどうか、みなさんのよく知っているところですね。無論根源的には尊厳ではありましょう、法的、政治的、社会的に。  普通、宗教の創造論などでは、人間は価値体系では頂点にすえられますね。そういう視点意味からの、勝手な生命尊重論かも知れませんね。  或いは生命のために、よんどころなく犠牲にした、生物たちの生命は大生命の中で、存続し、決して犠牲になっていない、という理屈(理論)構成なんでしょうかね。  インドでは枯葉にやどる露しか口にしない、宗派もあります。  そして私たちも、鼻から呼吸する存在(自分を含め)に依拠することは愚かであると、言われております。  人間は呼吸に頼ることなく生きることができるものだ、といわれており、実際相当長く、無呼吸状態は可能ですね。食事もかっての如くではなく、なくても、しかも少量で、病気にもならず、爽快ですね。けんこうですね。  一応技法はあるのですが、これが万全にできれば、長寿もおかしくないですね。  このことはご参考の話ですが、信仰や一定の段階に行かないと難しい話ですが、他の生命体を食さないと生きていられない意識体(人間たち)は、発達してそうしなくても、存在もしていられるし、大意識に溶け込んでしまうこともできる、といわれています。  外部から聞くと、何かオームのカルトやオカルト臭い話ですが。  オームって、結局インドの本店からいろいろパクッてきていまして、オームが本家ではありませんからね。  まだ半信半疑でしょう、shift-2007にとっては。  所詮、何事も経験ですね。みなさんにとっても。  聖典のいうことは結局、その地点、段階に行かないでは、論議しても分からないことばかりですね。  それにしてもいつになったら多くの人類はそうなれるのでしょうね。  聖典のことばを言っている人などの、少数の人類はそうなって、経験していることなのでしょうね。  それまで分からない、矛盾だの連続が続きますね。なんか自分の思っていることしかかけませんでしたが、あまり突っ込まないでください。

shift-2007
質問者

お礼

命が本流と支流に分かれた理由はなんでしょうね。 私も昔はいわゆる聖典的なものを読みふけった時期もありましたが、最終的に分からないという結論になってしまいました。 なぜ分からなかったのかと今思えば、答えから初めてしまったためじゃないかと思います。聖書を丸暗記しても詮無いことで、たぶん重要なのはその答えの導き方なのでしょう。

shift-2007
質問者

補足

命と魂(精神)は別物なんですかね。 命とは魂を入れる器のようにも思いますが。

回答No.22

命が大事と言う事は頭では理解できます。 ですが、自分の命さえも限りがあります。 では自分の命はどうなのか? どんなに『祈りを捧げても』是はどうすることも出来ません。 自分の愛する人も、友も、親でも、子でもその業からは逃れられません。人生に救いは在りません。自分の心とは別に人生は無常に流れて生きます。こう考えた時に『全てが』ストレスになってしまいます。 この事を『とことん突き詰めて言った場合』人生は『矛盾に満ちたものになってしまいます。』この矛盾を解消したいと思った人が、お釈迦様であり、キリストです。 限りある人生を、矛盾に満ちた人生を、永遠の『生』に変えることができるのか?是を可能にするのが『信仰』であり『悟り』です。 信仰や悟りで『人類は』この矛盾を解消してきました。是は『究極の心の癒しです』心は追い詰められた時に一度死にます、それが『大死一番』です。その時に自分の中の『神、仏』が、自我意識に代わって『生死』の問題を解決してくれます。 誰でも『神、仏』を持っています。頭の半分は宗教で出来ています。ただ気が付かないだけです。お釈迦様の言葉です『一切衆生悉有仏性』 それに気が付いた時は、命が大事となります。ただ一つ違うと言うことならば『只あるがままに、頂く』という事です。『好きなもの、嫌なものの区別無く』という事です。 ハッキリとした言い方をするならば『絶対肯定』という事です。 キリスト的に言うならば『神の思し召しのままに』という事です。 是は『神と和解した事』です。自分の中の神と会うと言うことです。 仏教的に云うならば『悟りを開く』という事になります。 是は自分の自我意識が自分の『仏性』と会う事です。 是は『精神疾患』の解消を意味します。言い方を替えたなら『精神疾患』の完治という事です。お釈迦様は『精神疾患』と言えます。そうでないならば『一切皆苦』と言う言葉は無いと思うからです。健常者が『一切皆苦』とは言いません。 『一切皆苦』は精神疾患を意味しています。是は私の独断と偏見ですが?

shift-2007
質問者

お礼

私は神の思し召しの意図を知りたいのとおもいます。 なぜ食物連鎖というルールにしたのか。 悟るまでは分からないままなんでしょうかね。

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.21

ANo.14です 補足を。 「命が大事」だとか「命を奪う」とか、そもそも「命」という概念事態が、人間の観念が生み出したモノです。 食物連鎖が支配する自然界には、そもそもそんな「観念」はありません。 ただ、自己を保存するために捕食し、捕食から逃れるだけです。 で、倫理学というのは主に人間社会の事を念頭に考えます。 人間社会を維持するためには、人間を維持するための自然環境が必要です。 人間は観念的な生き物なので、時に行き過ぎる事があるのですね。 なんで、観念的にブレーキをかけてやる必要があるんですよ。 そこで生まれたのが倫理学。 だから、学校の教育とかでも「命が~」ってのは道徳の時間にやるんですね。 ということで、 >命が大事というのは人間の勘違いという解答は却下です これを却下するかどうか、ここに立ち戻って考えないと、「思考の袋小路」から抜け出せない気がします。 ・・・という事を言いたかったのですが、言葉足らずになってしまいすいませんでした。

shift-2007
質問者

お礼

なるほどです。 私は今回こう考えました。 >そもそも「命」という概念事態が、人間の観念が生み出したモノです これを口にするのは確かに人類だけですが、それは自然の法則を人が言語化したに過ぎず、このことは地球に生命が誕生してからずっと変わらずにあったのであって人間が作り出したものではないと考えます。 ゆえに倫理学も人が発明したのではなく、単に自然の法則を明文化したものではないでしょうか。 だから命が大事は人の作った定義ではないと思い、ここは譲れないのであります。

  • yukigle
  • ベストアンサー率14% (9/63)
回答No.20

人間ぬきにしても、生物にとって命は大事ですね。どんな生物でも、命を軽んじたら命はありませんので。 でも、命が大事だからって勘違いしないでくださいよ。他の命を奪わない(食しない)は、一見他の命を大事にしてそうで、自らの命の糧を見捨てたに等しく、お互いの命を粗末にするも同然ですから。 安直に延命したところで命は育まれませんし、糧なしでなんて、まともに生きていけません。命は引き継いでこそ、命となりますから。 

shift-2007
質問者

お礼

魂という存在もあるといわれる中で、命が引き継がれていく目的はなんでしょう。

noname#96295
noname#96295
回答No.19

> 蜘蛛の巣にかかった蝶がその境地ならOKです。 蝶を啓蒙したほうが蝶のためということでしょうか。 命があることを知らない蝶が蜘蛛の巣の上で救われようともがくのは、ほんとうに命のためなのでしょうか。わかりません。

shift-2007
質問者

お礼

>蝶を啓蒙したほうが蝶のためということでしょうか。 蝶がその気ならもがくはずがないという意味です。 >命があることを知らない蝶が蜘蛛の巣の上で救われようともがくのは、ほんとうに命のためなのでしょうか 蝶を含め私たちは、生きたい、死にたくない、という意思があります。蝶にその自覚がなくても人間から見れば人のそれと同じです。蝶に代わって私たちがそれを代弁しているに過ぎないのではないでしょうか。 蜘蛛に命を与えるという崇高な目的がありながら、なぜ蝶は逃げようともがくのでしょうか。

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