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人の命の重さは同じか?

皆さんこんにちは。 人の命の重さは同じなのでしょうか? 例えば、強盗、強姦を繰り返して刑務所から出所してきた 人間と、真面目一筋で生きてきた人間の命は、後者のほうが 重くなければいけないと感じるのですが、どうなのでしょうか? 観光船で遭難したとき、社気的地位のある人が、自分は世の中で 必要な人間なんだから先に助けろ。と、主張したりするのを 映画やドラマで観たことがあるのですが、これはある意味あって いるようで、そんなことくらいでは人の命はかわらないとも 思えるのですが、どうなのでしょうか? 仮に人により命の軽重があったときの線引きはどこなのでしょうか? 社会的地位、金のあるなし、性別、年齢。。など、考えられると 思うのですが、「人の命は同じではない」と思われてる方は、どの 辺りの線引きでそれを考えられるのか、教えていただけば幸いです。 なお、先ほど「正しい宗教とは? 」という質問をポイントを 入れて締め切りましたら、ポイントを入れた以外の人の回答が 全部削除されてしまいましたー   どうやら最近システムの変更があったようなのでご容赦ください。

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回答No.4

人の命の軽重を線引きするというのは、まるで神の領域に関わるような不遜な観念になるので、その重さは同じということにしているのでしょう。 しかし、そんなことを悠長に言っていられない場合もあるでしょう。例えば、大震災が起きて負傷者が多数いる際に、医者がこの観念に拘泥してトリアージの際に躊躇していたら、助かる命も助からないでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B8 要は、人命の軽重には普遍的な定理があるわけではなく、ケースバイケースになると思います。 仮に、新型インフルエンザが発生して、急遽そのワクチンを作った場合、医療関係者に最優先で投与するという計画があるようです。医師は一人で何人もの命を救うことができるからです。このように、人命に関わる立場にある人が優先される場面はあるでしょう。だから、人の命の重さは、場合によっては相対的だと思います。 自分が観光船で遭難して救命ボートが足りない場合、まず、自分より年下の人には無条件で譲ります。自分は人生をある程度は経験してしまったし、その人には未来への可能性があるからです。 それから、扶養家族や介護すべき家族がいる人にも、無条件で譲ります。その人がいなくなると他の人の命にも関わるからです。 結局、中年で家族のいない私は、救命の途をみんなに譲ることになりそうです。しかし、そのような人の命が軽いということではなく、あくまで自分だけに当てはめる自己犠牲の基準に過ぎません。 このように、緊急時における自らの身の処し方を考えてみると、わかりやすいと思います。 それから、単なる社会的地位や犯罪歴の有無が、緊急時の判断に影響すべきではないと考えます。 なお、先程の質問では、ポイントを入れた以外の人の回答が全部削除されたわけではありません。質問のフレームの右下にある「良回答のみ表示」がアクティブになっているだけで、「最新から表示」か「回答順に表示」をクリックすれば、元の状態に復帰します。 このことをお知らせしたくて投稿した次第です。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー まことにありがとうございます。 おかげで助かりました。 おっしゃるとおりです。 人の命はその場のケースバイケースであり、 相対的なものですね。 観光船の話もおっしゃるとおりだと思います。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (12)

回答No.13

人間の命のかけがえの無さという時の重みは、すべての人が同じだとおもいます。   わたしも その命が短かろうが長かろうがそれには関わらず、未来永劫、過去幾百億、何万光年さがしても他にいない その意味では同じかけがえの無い命ですし、rin00077さんにしても同じなわけです。 でも、そのように思考しても、実際には社会での価値の重みと関わる人の方を価値ありとしてそこに差別をしてしまいがちなのが私たちの意識の中にあるおおきな欠点の一つだと思います。 かけがいの無さでは、 刑務所の内外はいっさい関係ないはずです。 観光船での 社会的地位のある人の例では そんな場では「助かりたい」ための理屈であることが多いと思いますし、其の主張自体は認められるものではなくても、 その人にとってはそう言うのも仕方が無いほどの屁理屈だろうと思います。 弱い生物でもある人間にとってその状況は極限過ぎると思います。    が、地位とかではなく、人間性が深い人、そういう経験が豊かな人であったらどうかというと、 こんな場にても人を押しのけることができるかどうかはなんともいえないと思います。 そういう人は自分に社会的な力があっても、自分の力の相対性を知っているだろうと思いますし、真の力は人間の命のかけがえの無さを知ってるとことからしか生まれないとも知っているでしょうから、悩み迷いとまどいはしても、結局矛盾したことはできないと思います。 線引きは その状況の苦の深さと、生物としてのそのへんの弱さと、その人がその時点までにどれだけ人間性を深く強く獲得しているかの3点によってたぶん、其の時その場にて決まってしまうと思うわけで、 もちろん、私のこの見方からすれば、 人間性が深いほど、 人に命を譲る方向が強くなるということになります。 無差別に殺人するのとは逆に無差別にゆずる方向にです。 でも、理屈ではそんな線引きとなるかと思うのですが、 さて、ではこう書いてる私自身(arayata333どの)はどうなのか? ことはそんな簡単に割り切れるような、計算できるようなものなのか? 私のほうからは、私の恥ずかしい失敗談を書いておきます。 参考になればと おもいます。 私は 大学時代始めて恋をしました。 驚きました 遠くから背中が見えただけで他の人とは違って引き込まれる何かを感じました。 別にその時は肉体関係とかがあったわけでなないですが、その人とのセックスの想像は何もかも醜かったりいやらしかったりするものではありませんでした。 其の初恋の場合美人ではなくてもともかく性的な引力はあったということなのですが、   その魅力は理屈では語れない計り知れないものがあったということもできます。 でも、それが一方的な想いであることが判明して失恋に終わってからしばらくして、 今度は最大限のブスな女性とつきあう状況がきました。 私は差別はしてないつもりでした。 友としてです。  でも、あるとき彼女から結婚して欲しいと告白された時に、 私は恋を感じてない女性とは結婚できない。女性として何も感じない女性とは結婚できない。という差別感を自分が持っていることを知りました。 ちょうど、ちがう県に引っ越す理由があり、自分には自分の目的があると別れてしまいました。 嘘 ですよね。    穴があったらはいりたい正真正銘の嘘ですよね。 その後、今度は ある超美人との心の交流があったりした後ですが、客観的にはやはりかなりのブスかもしれない人との恋の中で、恋に落ちてしまえば(この場合錯覚ではなく、いつまでもということですが) 美人も色あせるほどの魅力を女性に感じてしまうという恋の不思議さは体験しています。 でも これってすべて、こちらがコントロールして、すべての女性の美しさを見て取れるようになったとか、引き出せるようになったとかいうことではまったく無いではないですか。 時は、34歳から5歳の頃、私はまだまだ、まだまだ未熟でした。 女性の美人、不美人という“一見ささいな事のように見える”ことですら、わたしにコントロールの及ぶ平等感の持てる存在では実際にはありませんでした。 私が其の問題を解決できたと思えるようになったのは、つい何年か前です。 東洋医学の気脈の世界を知ってからです。 医学自体ではなく、そこに感性の世界を見てからです。   たしかに、今ではいつでも女性の魅力をどんなブスであったとしても引き出せると思います。 そしていつでも恋に落ちることも どんな誰とでも出来ると思います。  でも、 たったそんな不平等感すら、 こんな歳になるまで変えられなかったのです。 こんな平凡な人間が、理屈はどうあれ、いざという極限のときに、どれだけ命自体を人にゆずれるのか、  なんとも想像がつきません。 女性の魅力についてのほうを最後まで書きますが、 総じて美人のほうが、心の魅力までより大勢の人にわかりやすいです。 二重に得です。 しかし、総じて 化けの皮がはがれやすかったりもしますけどね。  結局心の魅力というのは 恋という摩訶不思議な世界もありますし、それだけは誰にも大事とはいえますけど、 美容も女性には特に欠かせなかったりすると思います。   でも セクシーさにおいてもいやすべての女性の魅力においても 平等の理想はまったく不可能ではないことも 私は知ることが出来るところまで 悩んではきたのです。 命の重さの問題にも  人類はいつかその答えをすべてにおいて見つけるときは来るとおもいます。 その希望もこめて、理屈上の線引きにすぎない私の考えも書いてみました。 結局答えとなってないかもしれませんが、 参考になれば、

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー 女性の事に関しては共感できるどころが多々あります。 私もその件に関してはいろいろ葛藤したこともあります。 たしかに、そのとおりですね。 ご回答ありがとうございました。

noname#70164
noname#70164
回答No.12

つらつらと考えられていらっしゃるようですが、同じとして宜しいのではないでしょうか。 もし軽重があるとしたならば、一体誰がそれを定めるのでしょうか。 私は生きとし生けるものは全て等しい、と考えております。その私には、「命の重さ」と云う言葉がどうにも胡散臭くてなりません。 尚、死後に罪の重さを計られる、と云う考えを持った宗教は多くございますが、「命の重さ」と云う概念は最近のもので、未だ確立されてはおりません。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、なるほど。 基本的には人の命の重さは同じでしょうねー それを、人間が価値観で判断する。という事も 現実的にはありそうで、本当は同じなのかも 知れませんよね。 ご回答ありがとうございました。

  • markx01
  • ベストアンサー率20% (12/59)
回答No.11

人 と限定して考えるのはいかがな物かと思います。 人は人、1つの種類です。全ての生き物が平等に生存する価値 (命の重さ)があると思います。 極端に人間の考え方を逸脱した人は、現在死刑という処罰を受けますが それ以外の、やや不適格な程度であれば同じに思います。 動物として考えてみてはどうでしょう? 近いのは哺乳類。性格の荒いトラもいればおとなしいのもいます 狩の下手クソな豹だっています。それぞれの命の重さは違うと 感じますか? 私は同じだと思います 《強盗、強姦》を繰り返すごとに命の重さが軽くなるという考えは 個人的に「いないほうがいい」という観測観念からきているんであって 重さとは関係ないと思います。 何故か? 人間という種族の子孫繁栄に関し、どちらが繁栄に貢献するのか 結果が見えないからです。だから二者択一で罪人と善人どちらを救うかという選択肢があっても、平等な立場で審査しなければ ならないでしょう。 大集団で人間が生活すると、殺人を犯す 比較的重い犯罪を犯す。軽犯罪を犯す それぞれ%で決まっているようです。 どんなに善人で構成された大集団でも 若干の%変動はあっても、ほぼ同じ結果だそうです。 犯罪者が一掃されると、何故か善人が犯罪者になり また同じ%になるという。不思議な話ですね だから命の重さなんて、みな平等なんですよ 軽犯罪は、国民の殆どの人が犯した経験あるでしょうしね (1km以上の速度違反や立ち小便、人を馬鹿にする発言など) 少しくらいはいいだろう=犯罪犯したって構わないさ これが現代社会の構図です 一つの例です ◎目の前に知らない人が苦しんで倒れてて、重犯罪者であっても 見ていられず救助する。 ◎犯罪など無関係な人間だが、目の前の苦しんでる人間を救いもせず 見てるだけ。 さて 子孫繁栄にはどちらが的確か・・・? 長くなってしまったので 失礼しまする

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、そうですね。 善人の中からも必ず悪人がでて、知識人の中からも 必ず無知識人がでるように思います。 これは、どのレベルでも必ず落ちこぼれがでるように 集団の中での、ある法則があるのでしょうね。 その法則は人間が作ったものかも知れませんが。。 ご回答ありがとうございました。

回答No.10

 同じという言葉、違うという言葉、異なるという言葉。  これは相対関係、相関関係、比較関係でのことばですね。    何々と何々は同じ、違う、異なる。  この場合は、何々だ。何々のことでは何々だ。ということになるのでしょう。  そういうことでは解決にならないのが、人の命ということでしょうか。  つまり、かけがえがないという、意味です。  大事とかなんとかではない。  その当人にとっては、関係者にとっては、絶対にかけがえがありません。  社会、国家、軍隊においても、そう考え、扱うべきである。という底までであります。  なべて、かけがえないものとされなければならない。というそこまでで、現実には空所補填がだんだんになされていく。悲しみは永遠に続き、先ほど涙を拭いていた顔が大きな声で、快活に笑うことにもなる。  どんな空所もやがて埋められていく。  かけがえがないから、大事だとも言えそうですが。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー 軍隊で思い出しましたが昨日テレビで 「なでしこ隊」という特攻隊員のお世話を する、女子生徒のドラマがありました。 この特攻隊員の命はすべて同じ命ですね。 また戦争で亡くなられた方々もすべて同じです。 かけがえのない命ですよねー ご回答ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

人の命の重さは同じなのでしょうか? 昔から同じではないですね。それ故、「五逆の大罪」というのがありますね。大罪で人に関するものをあげると、仏陀、菩薩のような人、両親、などが普通の人より人の命の重さが重いんですね。誰しも親になれますから皆同じともいえないことはないですが、ご両親の命のほうが必ず子供より重いということですね。でもいつも親は子供の命を優先させますね。重いほうが軽いほうを大切にしてるんですね。昨今は軽いほうが重いほうをないがしろにしているのが多いようですがね。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、そうですね。 昔は、両親の命は重かったのですね。 実際に親殺しは死刑か無期しかなく、他の殺人より 重いとされていたのです。昭和40年中ごろまでは。。 ある時予想もつかない事件があり、いわゆる尊属殺と いう法律がなくなったのですが、でも、私自身は やはり親の命は一番重いと感じますね。 ご回答ありがとうございました。

noname#84124
noname#84124
回答No.8

>人の命の重さは同じなのでしょうか? 「命」は「命」です。それ自体に、あえて軽重を問うならば、他の御意見でも出ているように、人間の価値観によります。所詮、人間の価値観を離れて問うことは不可能でしょう。 >観光船で遭難したとき、社気的地位のある人が、自分は世の中で必要な人間なんだから先に助けろと主張したりするのを映画やドラマで観たことがある ああ、タイタニック沈没の時の…かな?日本人のイメージダウンに繋がったとか聞いたことがあるような。もとYMOのメンバーのお祖父さんにあたるとかね。 >そんなことくらいでは人の命はかわらないとも思える >強盗、強姦を繰り返して刑務所から出所してきた人間と、真面目一筋で生きてきた人間の命は、後者のほうが重くなければいけないと感じる ですから、これらいずれも質問者さんの価値観による判定です。 「自分は世の中で必要な人間なんだから先に助けろと主張」これも主張した本人の価値観。 「強盗、強姦を繰り返して刑務所から出所してきた人間」にとっては、そんな自分の命は、やはり重いだろう。たとえ殺人をやった者でも、本人にとっては殺した相手よりも自分の命の方が重いんでしょうね。 >人により命の軽重があったときの線引きはどこ ですから「人による」w ただ、個人のレベルを離れて視野に入れる規模が大きくなればなるほど、社会全体に及ぼす影響度と、その良し悪しが考慮されるはずですから、あえて線引きする場合、どのレベルで受け止めるかを、まず設定しなければならないでしょう。 個人のレベルに拘るならば、たとえば殺人犯自身や、その家族や恋人にとって生かしておきたい命かもしれない。しかし、殺されたのが自分であっても不思議ではない、云わば犠牲者にならずに済んだのは偶然に過ぎないような立場の他人ならば、凶悪な人間を生かしておくことは険呑ですから、生き長らえさせることに抵抗感が生じます。 同様に、人類全体に利益をもたらすであろう者を残したい、残すべきであるというのも、結局、人間の価値観からです。 自分の命を最優先するのだって「差別」でしょw 視点を置く位置によるんだと思います。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、そうですね。 命の重さは基本的に同じで、その中で状況や 人の価値観で軽重が決められる。ということですね。 タイタニックのとき、先ず子供やご婦人、次にお年寄り 最後に中年や若い男の順に救出されました。 一度にすべてを助けられるわけではないから、順番 つけなければ仕方がないのですねー もちろんこの順番には賛否両論はあるでしょうが、 私は普通だと思いますね。それが価値観ですね。 ご回答ありがとうございました。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.7

<<人の命の重さは同じなのでしょうか?例えば、強盗、強姦を繰り返して刑務所から出所してきた人間と、真面目一筋で生きてきた人間の命は、後者のほうが重くなければいけないと感じるのですが、どうなのでしょうか?>> 「命の重さ」の定義は「その対象となる生命が死んだとき、どれだけ他の一切生命にとって損失になるか」といった理解でよろしいでしょうか。 つまり「他者の生命にとっての、対象の生命の評価・価値」=「重さ」と言う理解でいのでしょうか。 個人的には「死」自体は単なるシステム的なものでしょうから、全生命別に差は無いと思います。ただ自分にとっての価値があるだけで。 <<観光船で遭難したとき、社気的地位のある人が、自分は世の中で必要な人間なんだから先に助けろ。と、主張したりするのを映画やドラマで観たことがあるのですが、これはある意味あっているようで、そんなことくらいでは人の命はかわらないとも思えるのですが、どうなのでしょうか?>> 助ける人の個人的な見解のなかで「この人は、どれぐらい生命に役に立つか」という概念の結果の選択ですね。 「どれぐらい生命に役に立つか」はその人の見解や心の状態によって変わりますね。どのぐらい物事を理性的に観れるかでだいぶ変わりますね。 地位だけで判断するのは個人的には微妙な感じがしますw <<仮に人により命の軽重があったときの線引きはどこなのでしょうか?社会的地位、金のあるなし、性別、年齢。。など、考えられると思うのですが、「人の命は同じではない」と思われてる方は、どの辺りの線引きでそれを考えられるのか、教えていただけば幸いです。>> 「命の軽重」=「助けるときの優先順位」ならば。 しいていうなれば、「心が清らか」で「多くの人の悩み苦しみを取り除く方法を知っていて、それを教えてくれる」こと。ですかね。生命の役に立つと言う基準で言えば。。。 社会的な位置、物質的に恵まれているか、年齢、性別では線引きできないと思います。 これらの項目をクリアしていても。「心が汚れていて」「多くの人を悩み苦しみに向くように行動してくれる」ならば。生命の役に立つと言う基準で言えば。。。優先順位も変わるかな。。。 と、僕の思いついた見解ですw

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー なるほど。そうですよね。 基本的に人の命はかわらないとしても、 仮にある学者の命が助かれば、かなり多くの人の 命が助かるというのでらえば、その学者の命は他の 人より重いかもしれません。 でも、その学者の命が重いというか、その学者の 持っている知識が重いのかも知れませんが。。 難しいところですねー ご回答ありがとうございました。

  • ap10
  • ベストアンサー率33% (453/1356)
回答No.6

そんなの「命の重さを量る価値観」によって違いますよ 個人的な見解では、「神様の目から見たら、快楽殺人犯だろうが聖人だろうがゴキブリだろうが同じ」 一般人から見れば「天皇」と「ヤクザやチンピラ」の命の重さは全く違うでしょう ご質問者様のおっしゃる「線引き」はこの価値観で決まります 価値観を一定化しないと「線引きされるライン」はズレて判断し難いと思いますよ ご質問者様得意のイケメン論を持ち出せば、イケメンは生きている価値がないでしょうし、自分からすればイケメンでもいい人はいっぱいいるって判断があります そこには価値観の差があり、イケメンに対する命の重さも違うでしょう

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー 私のイケメン理論も知っているのですか。 いや、私がどう思うとイケメンこそ生かされる のしょうね。美しいものは救われるのです。 天皇と一般人の命では、かわらないと思いますが 「ヤクザやチンピラ」なら少しくらい天皇や一般人 のほうが命が重いのかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。

  • tago9999
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.5

同じですよ~。 快楽殺人者でも 連続レイプ魔でも 男でも 女でも 若人でも 老人でも ヤクザ屋さんでも 医者でも 大統領でも 総理大臣でも 皆同じです。 だって皆 ご飯食べて(食べれない人も世界には居ますが) 子供作って(作れn 寝る だけの存在ですから。 もし、そこに命の重さや価値が違うと言う思考があるのならば、 それは個人(と言うよりは、DNAによる生態構成の範疇)の認識とは異なる『社会的集合意識体』によるものです。 まぁ、端的に言うと、「国」と言う「社会」による洗脳なのですが。 例えば、日本ではヤクザ屋さんと、医学部の大学生を全く同じ条件で殺すと、明らかに判決に差が出ます。 コレは「社会的な価値観」によるもので、ヤクザ屋さんはなかなか人を救えませんが、医者は人を救う機会が多いので、医学部の大学生の方が価値があると看做されます。 「社会」を構成する一員として優秀ならば価値が上がり、そうでないならば価値が下がる訳ですね。 そんな訳で 「前科無し」>「犯罪者」 「若人」>「老人」 「医者」>「ヤクザ屋さん」 みたいな命の価値観が生まれます。 ここで勘違いしないで頂きたいのは、これらの価値観はあくまで「後天的」なものである事です。 例えば、今、日本と言う平和な国に生まれ、「前科無し」>「犯罪者」だと思っている方も、生まれた国や環境によって、いくらでもその価値観は変わってくると言う事です。 異教徒を倒す事を正義とする、盲目的な宗教信者に生まれたならば、「犯罪者(同士)」>「前科なし(異教徒)」になるのは必然でしょう。 むしろ異教徒の方を殺す事を犯罪とすら思わない可能性すら有り得ます。 まぁ、基本的に生物として「自分や、その子供に害のある存在」を「敵視」する行為や思惑は間違ってはいませんので、「自分や、自分が一定の価値を認める存在に対して有益」な存在を「重く」見て、「自分や、自分が一定の価値を認める存在に対して害しかない」存在を「軽く」見るのは別段悪い事ではありません。 ただ、その価値観は酷く「偏って」おり、根本的な人間の価値とは全く関係が無いと私は思うのですが、如何でしょうか? 強盗、強姦を繰り返して刑務所から出所してきた人間と、真面目一筋で生きてきた人間の命。 社会的に見れば、現段階では確かに後者の方の方が、命に重みがあるのかも知れません。 ですが、僕からすればお二人とも同じ「人間」なので、そこに価値の違いはありません。 まぁ、後は人間何が起こるか分からないですし。 前者の方が出所後、ひょんな事から全人類を救った。なんて事も、ひょっとしたらあるかも知れません。 その時、社会的に見た彼の価値は、出所した時点よりもずっと高い筈です。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー おっしゃるとおりです。 人の価値観が左右するというのも確かにあります。 例えば、自国では英雄であるが、他国では犯罪者と いう人も歴史的にたくさんいます。 自国では英雄であるからその命は重いとしても、 他国ではその命は軽い。などです。 そういうのを考えると極論的には、人の命は同じ なのかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。

  • maxmixmax
  • ベストアンサー率10% (91/908)
回答No.3

誰から見た場合かにもよるのではないでしょうか。 例えば、犬を飼ってない人からすれば、 Aさん宅の犬と、Bさん宅の犬の命の重さは同じでしょうが、 Aさんからすれば自分が飼っている犬の命の方が重いでしょう。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、そうですよねー その人間の価値観ですね。 当然、自分の家族や愛犬のほうが重たいと 考えるのが普通ですよねー ご回答ありがとうございました。

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