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「苦しかった日々」なのに、後で考えると「輝いていた日々」に思えるのは、どうしてですか?

タイトルの通りなのですが・・。 楽しかった出来事を後で思い出して、「あの時は楽しかったなぁ^^」と思い、いい気分になったり、苦しかった日々が、後で考えてもやっぱり「楽しくなかった日々」の思い出として残る、というのは分ります。その「事」を経験した時の気持ちと、後で思い返す時の気持ちが同じだからです。 ですが、中には、日常の生活よりも苦しかった日々、例えば、大怪我をして精神的にも限界の中で必死で治療した日々や、仕事で大変な時期に必死で頑張った時期などを後で思い出すと、その時はとても大変だったのに、とても輝いて思え、大事な経験、楽しかった思い出になっている事があります。 それはなぜでしょうか? 自分の過去を思い返してみて、「つらい経験なのに今から思えば輝いていた日々」として思えるいくつかの事は、「精神的に限界の中で、崩れそうになる気持ちを自分で支えて必死に笑っていた日々」だった様に思います。

みんなの回答

  • markx01
  • ベストアンサー率20% (12/59)
回答No.5

当然、基準は【現在】なので その経験を経て今がある。 辛く苦しい道のりを乗り越えた自分の根性を評価しているんだと思います。 その辛く苦しい日々が、明るい未来を切り開く工程だったのなら、 あるいは、耐え忍ぶ事で、辛い状態を脱出できる事を知っているのなら 【現在】は無事それを実現させた、または実現に向けた一歩を 踏み込んでいるんじゃないでしょうか? ところが、希望の無い苦渋の日々(イジメや借金増加中など)は 辛く暗い思い出しか残っていないはずです。 しかし後者の借金を、大我慢と大根性によって完済させたなら、 借金減少中の根性を自分で良評価するかもしれません。 他人の借金肩代わりなら尚更ですね。(輝いて には当てはまりませんが)

nomonomo2
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >辛く苦しい道のりを乗り越えた自分の根性を評価しているんだと思います。 なるほどです。 「その時」の事をすっかり忘れて日常の生活を送る中で、机の隅から「その時」に人からもらった手紙(というか、ノートに書いた走り書きですが)が出てきた時、大変だった「その時」がなぜかすごく輝いて思える不思議な感覚に、自分でも戸惑う程だったのを覚えています。 「その時」を乗り越え、「日常の生活」を送っていたからこそ、そう思えたのでしょうね。

noname#194289
noname#194289
回答No.4

頭の中の世界でも安定や調和がある方が望まれると思います。過去のことはすべて現在からの振り返りで評価されます。現在それなりに安定していれば過去のすべては現在の状態をプラスの形で形成していると考えたくなるのは当然だともいます。逆に現在苦しかったら過去のことはすべて悪く思われてしまいます。終わり良ければ全て良しということわざはそのことだと思います。

nomonomo2
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >終わり良ければ全て良し 自分もそう思います。 どんな出来事でも「良い思い出」として残すには、気持ちの上だけでも(「自分にできる事は全てやった」「よく頑張った」と思える)ハッピーエンドにする事が大事なのかもしれません。

  • dechimi
  • ベストアンサー率50% (1/2)
回答No.3

私もそれは大きな疑問でした。 しかし、大学で心理学の講義を取って、知りました。 「思い出は浄化するもの」なんですって。 その時はどんなにつらくても、後で振り返ると、割合的には「楽しい:普通:悲しい=6:3:1」にもなっているそうなんです。これは心が自動的に行なってくれるものです。人間って不思議ですね!

nomonomo2
質問者

お礼

>「思い出は浄化するもの」 なるほどです。 「出来事」が「思い出」となった時点で、感情の記憶が新たに作り変えられるのかもしれないですね。

nomonomo2
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。

回答No.2

苦しさというのはある種のたんぱく質とともに 脳に蓄積されるのですが、それが快感と神経回路が 出入りしているために、しばしば苦痛体験が快感 体験に変化することがあります。あとは、充実感 の差でしょうね。 「見られる」です。日本語は正しく書いてください。

nomonomo2
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 脳の構造に関係しているのですか。 充実感・・困難を乗り越えたという充実感ですね。

  • tabtab9
  • ベストアンサー率17% (19/107)
回答No.1

客観的に自分をみれるからです。 昨日あったことでも「まっすぐ家に帰っときゃよかったなあ」とか、 「もっと、ゆっくりすればよかったなあ」とか。 昨日でなくても、さっきあったことでもそうです。 その時、その場面の主人公は、『あなた』ですが、時間が過ぎて場面 も変わったとき、主人公である『あなた』も移っているのです。 それと別な見方ですが、「もしあのとき、まっすぐに家に帰ってい たら、今、自分はどうなっていただろう」ということを考えてみると、 『今、自分が生きているからこそ、それがわかる』ということを知る ことができると思います。 最後に偉そうな一言を言わせてください。 『生きてさえいれば、何とかなる。』 『夜がきて深くなっって、そうして必ず朝が来る』 『赤ちゃんは狭いところを通って広い世界に来てくれる。赤ちゃんが 狭いから無理だと思ったらそこでおしまいだよ。でも、赤ちゃんは 知っている。その向こうに広い世界が待ち構えているということを』 一言でなかったですね。あいすみません。

nomonomo2
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >客観的に自分をみれるからです。 なるほどです。 「精神的に辛い時期」に自分を客観視するのは難しいです。 でも、同じ「精神的に辛い時期」で、後で客観視してもやっぱり「辛い思い出」として残っているものもあります。 どうしてなのでしょうか? 今から思えば「輝いていた日々」となるものは、「精神的に辛い経験」+「自分の限界での努力」+「周囲の支え」があった様にも思えます。 「周囲の支え」に対する感謝の気持ちもあるのでしょうか。 ありがたいお言葉をありがとうございました。

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