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日本の原爆研究は。
戦時中の日本では、原子爆弾の研究は行われていたのでしょうか? 行われていたとして、どの程度まで開発が進んでいたのでしょうか?
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- hakasenoanta
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研究は行われていましたが日本で実現はする可能性は無かったでしょう。 大学で研究してる程度でしょう。しかも、戦争中だったので予算がさかれてはいません。 たしかに戦前からの研究で計算上、核爆発は起こると出ていたのですが、そんなものが本当に作れるかどうかというのは疑わしいものでした アメリカがマンハッタン計画を成功させるまで専門家ですらそれを絵物語のようにとらえていたのです。 そして、その疑わしい爆弾に当時の日本の国家予算の「20倍」もの予算をつぎ込んだアメリカはすさまじい国です。 因みにその20倍は一発あたりの価格です。思わず笑ってしまうほどの予算ですよね? 推測の域を出ませんが 原爆研究は戦後おこなわれているかも知れません。 日本は地震国家なので地下実験をしても不信に思われることは無いですし じっさいイスラエルは秘密裏の開発で88発もの原爆を隠し持っていました。
- chaff
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#2で回答したchaffです。 なんか、ヘンなことを書いてしまったのでつまらん事ですが補足します。 >因みに、理化学研究所は今の都立小石川高校の隣にあったそうで、現在はオフィスビルになっちゃっていますが今でもそのビルの地下には「仁科クラブ」なるナゾの一室があります(OBの親睦会でしょうか?)。開発もそこで行われていたのだそうです。 これじゃ、まるで仁科博士が地下の核処理施設で密かに核開発を行っていたみたいですネ。将軍様の国じゃあるまいし... 地下にあるのは「現在の『仁科クラブ』」です。 理化研は、地面の上で堂々と(かどうかは知らないが)研究開発をしていたとのことです。 こっちは「自信あり」と..
- multiband
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No5の補足です。 通常、原子炉の燃料では、U235はウラン全体の重量比にして、3~5%に濃縮したものをつかっています。残りは、全てU238(核分裂を起こしにくい)です。ちなみに、天然ウランでは0.7%しかありません。 ですから、U235が10%に濃縮されたていどで、しかもU3O8(酸化ウラン)の形態をとっていますので、U235の密度はかなり小さくなります。 原子爆弾では、U235の存在比を90%以上に濃縮し、しかも、ウラン密度の高い、金属ウランの形で使用されます。
- multiband
- ベストアンサー率28% (6/21)
No4の方は、原子炉と原子爆弾を混合していらっしゃいますね。原子爆弾では、中性子を減速させる必要はありません。周りが全て、核分裂性のU235ですから、熱中性子ではなく高速中性子でも十分に連鎖反応(核分裂反応が持続的に起こる状況。臨界ではない)を引き起こすことができます。 さて、仁科芳雄博士も同じ様な誤解をなさっていらっしゃいました。戦時中の日本の原子力研究は「2号研究」と呼ばれていました。 このなかで、博士は原子炉と原爆は熱中性子を利用すると述べています。そして、臨界量(=連鎖反応が継続して行われる状況でかつ、単位時間あたりの核分裂量が一定となる、核分裂性核種の量)は、計算により10%濃縮度(全ウラン量に対する235Uの割合)の10kgのU3O8が軽水に均質混合した体系であることを突き止めています。これは、明らかに原子炉であります。そして、博士は、原爆について、ウランの装荷量は、原子炉の臨界量を少し越えた程度と考えていたようです。装荷量の差が原子炉と原爆の違いと考えていたようです。 実際は、高速中性子を利用するため、減速過程は不要(軽水などの減速材は不用)です。また、博士は、原爆の開発は行ってはおらず、むしろ原子力は動力原として検討していたと証言しています。これは、熱中性子を利用すれば爆発的な連鎖反応は起こらないと云うことを理論計算から得ていたためです。
- poor_Quark
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原爆の原理である核分裂反応の実験において減速材の選定は重要な要素でした。1939年第二次大戦直前のドイツでは軍事利用を前提とした核分裂反応の研究が始まっています。減速材としてドイツの研究者が用いたのより効果的な重水でしたが、減速材にグラファイトを使ったアメリカの方が1942年に連鎖反応を成功させてしまいます。ドイツは結局連鎖反応に至る臨界質量のデータを得ることができませんでした。 核分裂反応の軍事利用に日本で最初に目をつけたのは、大日本帝国陸軍航空技術研究所の安田武夫中尉でした。彼の思惑は当時東京にあった理化学研究所の仁科芳雄のもとに届けられます。それは1940年、元号で言うと昭和15年頃のことです。この頃核分裂に関するある程度の研究結果は日本にももたらされていましたが、連鎖的核分裂に至る臨界量などの基礎データは全く手に入らなかったようです。なにせ頼りにしていたドイツですらハイゼンベルグら高名な科学者を持ってしても連鎖的核分裂反応には成功していなかったわけですから。 1941年4月に日本の軍部は正式に原子爆弾の開発を許可しましたが、8ヶ月後には真珠湾攻撃が決行され、これを機に、日本はアメリカや中国との本格的な戦争に突入していきます。日本の原爆研究は、理化学研究所が手がけた、ウラン235が臨界に至る確率を示す分裂断面積の測定により始まったと言います。しかしほどなく激化する戦争により当時基礎研究にすぎなかったこういった試みは、すぐにそれを存続するのが難しい状況になったのだと想像します。
- digitalian
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仁科芳雄博士が研究した原子爆弾についての参考資料です。 ・「科学者の楽園」を作った男 大河内正敏と理化学研究所 著:宮田親平 日経ビジネス人文庫 文庫版 2001年 ・栄光なき天才たち第6巻 第26話 理化学研究所 作:伊藤智義 画:森田信吾 集英社ジャンプコミックス 絶版
- chaff
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有名な話では、理化学研究所の研究がありますね。 "仁科芳雄 原子爆弾 研究"あたりのキーワードで検索するとワリとHITします。(たとえば↓) で、研究の進捗ですが、要するに 「道具はある。作り方も知っている。でも材料が無いので作れない。」 という状態だったとの事です。 因みに、理化学研究所は今の都立小石川高校の隣にあったそうで、現在はオフィスビルになっちゃっていますが今でもそのビルの地下には「仁科クラブ」なるナゾの一室があります(OBの親睦会でしょうか?)。開発もそこで行われていたのだそうです。
- shoyosi
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理化学研究所の仁科芳雄博士が中心になり陸軍航空本部の委託を受けて、1943年から本格的に原爆開発に乗り出したが国内外でウラン鉱石を探す一方、天然ウランの中のウラン235を濃縮する実験などが行われましたが、今次大戦中にはアメリカも完成できないと思い、予算、空襲などで途中で中止して殺人光線の研究中だったようです。 下以外に http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/50nen8.html