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啄木の歌 「あれ」と「なむ」
啄木の「一握の砂」に「しみじみと 物うち語る友もあれ 君のことなど語り出でなむ」という歌がありますが、一首の意味と「あれ」及び「なむ」の文法的解釈を教えてください(「あれ」は已然形でしょうか、命令形でしょうか。「なむ」は強意の推量か、または誂望でしょうか)。
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横からしゃしゃりでちゃいます。 まず「命令形の放任法」ですが、 数研出版「改定新版 読解を大切にする 体系古典文法」15ページには、 「活用形の名称と主な用法」の「命令形」で、「1 命令の意味を表す」とした後(「1」だけしかありません)、ページ下の補注等の欄の、 「3 活用形のその他の用法」で、連用形の中止法、連体形の準体法・連体形止めに続いて、 命令形…「てもかまわない」と許容や放任の気持ちを表す(放任法) との説明があります。 明治書院「精選 古典文法 改訂版」の「活用形の用法」の「6 命令形の用法」でも、 2 「そうなるのならそうなってもよい」の意の挿入句を作る--放任用法 との説明があります。 ご質問の啄木の歌の場合は、「放任」というよりは、 http://kuge.town-web.net/No03/No032/03212.htm の命令形の説明の中にあるように、「命令形の『願望』の用法」と考えるのがよいと思います。「友がありなさい」と強く命令するのではなく、「友があって(いて)ほしい」と命令に比べれば、やんわりと願う意を表しているのだと思います。 「永遠(とわ)に幸あれ」などと言う場合も同様に考えられると思います。非常に強く願っているなら「命令」ととれなくもありませんが。 次に「已然形止め」に関してですが、「詠嘆」だと考えると、「友がいるなあ」と、友がいることに感動することになりませんか。命令形と考え、No.2の方がおっしゃるように、友がいない状況で、それを望むととるほうがよいでしょう。 また、「なむ」ですが、「誂望」なら、その友だちに「君」のことを語ってほしい、という意味になりますね。 私には友だちがいるなあ(ありがたいことだ)。その友だちから「君」のことが聞き たい。 友だちがいてほしい。その友に、自分の「君」への思いを語りたい。 文法的にはどちらともとれなくはないですが、No.2の方のおっしゃるような当時の啄木の状況や、歌の深みを考えれば、私も「意志」説をとります。
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- tatsuoh
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疑問は疑問であり、反語は反語であり、詠嘆は詠嘆である。ただ、それを決めるのは作者であって、それを見極めるのを読解である。文法はあくまでも手段で目的ではない。文法が目的ならば、国語学という学問になる。 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを (古今和歌集) 百敷の大宮人はいとまあれや 桜かざして今日も暮しつ (新古今和歌集) あだ人は時雨るる夜半の月なれや すむとてえこそ頼むまじけれ (詞花和歌集) 古今集の小町の歌の【寝ればや】は、已然形+接続助詞「ば」+係助詞「や」 であるから、理由を表しながら、疑問で受けている。つまり、あなたを思いながら寝たから、夢にあらわれたのであろうかと自問しているのである。 已然形+接続助詞「ば」+係助詞「や」 の 接続助詞「ば」が欠けて、已然形+係助詞「や」の形になります。この係助詞「や」が、疑問にふれたり、反語にふれたりする。新古今の歌は、疑問にふれている例だが、これが一般的な用法である。 疑問や反語は、そのまま驚きの表現になる。現代語でも「愉しくない」というのは、愉しいのだ。「どうしてこんなに可愛いの」というのは、疑問ではなくて、可愛いという詠嘆である。こうしたことは、人間の感情の問題であって、文法の問題ではない。つまり、作者の思いが表現になるのであって、表現があってそこから思いが伝わってくるのではない。したがって、われわれは表現(ことば)を介して、作者の思いを読み解くしかないのである。 詞花集の歌では、作者が詠嘆で用いているから、詠嘆である。もちろん、新古今の歌も詠嘆である。 啄木の歌の読み違いも、啄木が何を伝えようとしているのか考えないことから生ずるのである。たとえば、【もぞ】【もこそ】が不安を表すのではなくて、係助詞「も」が、暗示されるものをしめすことがあるだけで、日本人は心配性であるため、不安が示されたにすぎないのだ。かくのごとく、哲学のない文法論議は不毛である。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。お説、ごもっともと思います。文学作品の鑑賞・解釈にとって文法は補助にすぎないこと、そのとおりと思います。反面、作品は作者から離れたものと考えることも大事で、作者の境遇や事情、立場(有名作家などの場合特に)に添い過ぎないことも大事であると常々思っています。お礼まで。
- Parismadam
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No.1です。早々のお返事を有難うございます。補足質問にお答えします。 ご質問1: <「あれ」は係助詞「も」との係り結びの関係というお答え、成る程と思いましたが、「こそ」と同じ関係であるという論拠となる文法書など教えて頂ければ幸いです。> 回答はいつも文法書を見ながら回答しているので、すべて頭の中に入っている知識から引き出しながら回答しています。 ですので、現在手元にはお薦めできる文法書は存在しません。日本に戻れば見つかると思いますが、現在こちらに持ってきているのはほとんど専門分野の書籍です。 ちなみに専門は国語ではありませんので、あまりそれに関する学術書はありません。回答欄にある「経験」というのは、大学時代大手予備校における国語の講師のアルバイトと、こちら(海外)のインターナショナルスクール(高校)で(請われて本職の空き時間に)国語の教師をした経験です。後者の経験中の参考書などは全て学校の図書館で補いましたので。 ただ、ご質問の論拠は古語辞典などにも見つかると思います。ちなみに古語辞典は金田一春彦のものを使っています。 1.「も」は元々「こそ」と同じように、語気・意味を強める強意の用法のある係助詞の働きがあります。 例: 「これを射も殺し、斬りもころしたらんは」(平家物語・6祇園) 「凡夫の所為とも覚え候はず」(保元・上) 2.一方「も」には、「こそ」と結びついて連語で「もこそ」+「已然形」の用法で使われていた事例が、平安時代からあります。 これは係助詞「も」+係助詞「こそ」の連語になります。 3.この場合の意味は「~するといけない」「~するおそれがある」などとなります。 例: 「からすなどもこそ見つくれ」(源氏・若紫) (現代語訳)「からすなどが見つけでもしたら(大変だ)」 4.ご質問の「も」はこの意味で使われていませんが、恐らくこの「語感」をそのままもってきて、「もこそ~あれ」→「こそ~あれ」=「も~あれ」という流れで使ったものと推測できます。 5.「も」も「こそ」もどちらも同じ「強意の係助詞」という働きがあるので、どちらを省略しても同じニュアンスと考えたのでしょう。 6.特にご質問の詩では、「こそ」を使うと現代語の「こそ」にある、「限定的な強調」のニュアンスに解釈される怖れもあります。 例: 「それこそ、私が言いたかったことだ」 それを避けるために、現代でも強意の用法のある「も」が使われたのではと思われます。 ご質問2: <「なむ」は眺望ということですが、それなら一般に「語り出で」は未然形の筈ですが> おっしゃる通りです。 1.ここは「終助詞」に引きずられて「命令終止」のニュアンスで早とちりしてしまいました。 2.願望の「なむ」は未然形接続ですから、「語り出で」は未然形になります。失礼しました。 ご質問3: <解釈について> 1.なお、No.2にある詩の全文を拝読すると、この部分は、既に回答のある「命令形の放任用法」だと思われます。詩の一部だけでしたので、全容がつかめませんでした。 2.そうすると、文脈・文意からすると、この「なむ」は 完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」+意志推量の終止形「む」 の連語だと思われます。なお「な<ぬ」には強意の助動詞の用法はありません。 3.そして、この連語には「可能性に対する推量」の用法もあり、「~することができよう」という意味になります。 例: 「殿の中には立てりなむやとのたまふ」(源氏・常夏) ご質問文の「な+む」=「なむ」は、まさにこの解釈がぴったりあてはまします。 4.以上を踏まえてこの詩の解釈は以下のように置き換えて下さい。 「しみじみと語れる友がいればなあ、君のことなど語るおとができるだろうに」 という、一種の仮定願望と意志・可能推量のニュアンスが混在した訳になります。 以上ご参考までに。
お礼
懇切なご回答、まことにありがとうございます。当方の力不足で十分理解できない部分もありますが、勉強させていただきます。お礼まで。
- tatsuoh
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あなたのお尋ねの歌は、啄木が函館の弥生小学校時代の同僚、橘智恵子に対するプラトニックな恋情を綴った連作である。 しみじみと 物うち語る友もあれ 君のことなど語り出でなむ 死ぬまでに一度會はむと 言ひやらば 君もかすかにうなづくらむか 時として 君を思へば 安かりし心にはかに騒ぐかなしさ わかれ來て年を重ねて 年ごとに戀しくなれる 君にしあるかな と続いている。怠惰な代用教員の啄木に、心をわって語り合える友がいるはずもない。したがって、願望の形で、「しみじみと物うち語る友もあれ」と表現しているのである。これは、命令形の放任用法と言って、さまざまなニュアンスを添えるが、命令は、基本的に願望の表れである。 秋の夜の 鋼鐵の色の大空に 火を噴く山もあれなど思ふ などと同じ用法と考えてよい。したがって、ここでは命令形と考えられる。ただ、【ときしもあれ】【ともあれ】というような表現は已然形で、【時もあろうに、その時に】【そのようなこともあろうが】というように、逆接に働くものもある。 そういう友がいてほしい。そうして、智恵子を君のことを語りたいというのだから、「な」は強意の助動詞と「む」は意志(推量)の助動詞と考えるのが妥当である。 こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ これも、いい仕事があってほしい、それなし遂げて死にたいというのだから、前述の歌と同じ表現スタイルである。
お礼
十分納得のいくご回答、まことにありがとうございました。 ・命令形の「放任用法」ということについては耳にしたような気がするのですが、これに触れている文法書、学習参考書等あれば教えてください。 ・形容詞の已然形では係り結びなどと関係なく、「哀しけれ」「嬉しけれ」などと、連体止めと同じように詠嘆的に使う場合があるように思いますが、ここでも(動詞ですが)已然形の詠嘆的用法ということは考えられないでしょうか。 以上、ご教示いただければありがたく思います。
- Parismadam
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はじめまして。 ご質問1: <「あれ」は已然形でしょうか、命令形でしょうか。> 已然形です。 1.ここは「友もあれ」の「も」が、古語の「こそ」に相当する係り結びの係助詞の働きをしています。 2.古語風に言えば「友こそあれ」となるところです。 ご質問2: <「なむ」は強意の推量か、または誂望でしょうか> 誂望です。 1.強意の推量はありません。推量なら、「な」+「む」になりますが、この用法でもありません。 2.誂望の用法の「なむ」は終助詞で、「相手に対して希望し、要求し、期待する意」を表します。ここでは、意味上から、「君のことなど語ってくれまいか」という、相手に対する依頼・要求をしているので、この用法になります。 3.なお、「語り出で」は「語り出づ」の命令形で、「語って下さい」と要求する意味になっているのです。 ご質問3: <「しみじみと 物うち語る友もあれ 君のことなど語り出でなむ」> この和歌の現代文解釈は、拙訳では以下のようになります。 「しみじみ打ち解けて話せる友達なのだから、あなたのことを話して下さい」 以上ご参考までに。
お礼
早速のご回答、ありがとうございます。 ・「あれ」は係助詞「も」との係り結びの関係というお答え、成る程と思いましたが、「こそ」と同じ関係であるという論拠となる文法書など教えて頂ければ幸いです。 ・「なむ」は眺望ということですが、それなら一般に「語り出で」は未然形の筈ですが、そうではなくて命令形であるという論拠を教えて頂ければ有難いです。 お礼とお願いまで。
お礼
大変よくわかるご回答で、まことにありがとうございます。命令形の「放任」の内容、また已然形止めとした場合の解釈について、納得できました。深謝いたします。