• ベストアンサー

アンナ・カレーニナ中の文章で

文章の意味が分からなくて困っています。 彼を冷淡で怠惰な信者から、最近ペテルブルクにひろまっていた新しい解釈によるキリスト教の熱烈な、強固な見方に転向させたのである。カレーニンにとってはこの新しいキリスト教を確信するのはいとたやすいことだった。もともとカレーニンという人物はリージヤ夫人やその他の同じ見解を抱く人々と同様に、 【想像力の深さというものが、つまり、想像によってよび起こされる観念がそれによって大いに現実的なものとなり、他の観念や現実との一致を求めるまでになる精神的能力の深さというもの】 がまったく欠けていたのである。彼には無信仰の者には存在する死も自分にとっては存在しないという考えや、自分はこの上なく完全な信仰をもっていて、その信仰度を判定するのも彼自身なのだから自分の魂にはもはや罪業というものはないし、自分はこの地上で完全な救いを味わっているのだという考えには、少しも不可能とか、不合理だとかいう点は認めなかった。 岩波文庫「アンナ・カレーニナ(中)」p.509より引用 今、この小説を読んでいます。 【】の前後の文は理解しているつもりですが、 【】間の文がいったいどういうものなのか分かりません。 わかり易く言い換えて教えていただけませんでしょうか。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Ganymede
  • ベストアンサー率44% (377/839)
回答No.4

簡単に言うと「カレーニンの考えは、強いけれども深くない」。 カレーニンはもともと「冷淡で怠惰な信者」だった。それが、いとも容易く「熱烈な、強固な」「新しいキリスト教」に転向した。その内容はご質問文の【】の後に引用されている(彼はこの考えを「確信」していたので「少しも不可能とか、不合理だとかいう点は認めなかった」)。しかし冷静に検討すると、【】の後に書いてあるのはずいぶん不合理な考え方である。 「信仰とはもともと不合理なもの」と思ってる人がいるかも知れない。しかし、この作品の時代(19世紀)ともなると、キリスト教神学も啓蒙思想などの影響を経て、合理主義と折り合いをつけるようにもなっていた。知識人であるトルストイは、理神論なども当然知っていた。 次に、想像力が深い、とはどういうことを意味するのか。それは「すぐれた小説」などにたとえられるだろう。小説なんてのは要するに作り話だが、深い想像力によって作り出されたものは、現実以上の現実性さえ帯び始める。読者それぞれの思いや現実世界と切り結び、相互に作用するものとなる。それに対し、ダメな小説は作者の想像力が浅く、独りよがりにとどまり、他者の観念や現実世界まで到達しない。 カレーニンもそれと同様である。彼は急に強い信仰を持ったとは言っても、独りよがりで(「その信仰度を判定するのも彼自身なのだ」)、「罪」や「死」に深く取り組むところまで行ってない(「死も自分にとっては存在しない」)。しかし、現実には誰にとっても死は存在するのだ。 このように「精神的能力の深さ」が欠けた人は、「冷淡で怠惰な信者」から一気に「熱烈な、強固な」信者へ転向することがある。不合理な話でも平気で信じてしまう。それに対し、欠けてない人ならば、想像力を働かせて異なる思想も斟酌し現実との一致も模索しながら、信仰を深めていくだろう。

erisu
質問者

お礼

!!!すごく分かりやすかったです! 背景にある当時の思想も踏まえて教えていただけて それで、「すぐれた小説」の例えが吃驚するほどすんなり理解できて分かりやすかったです。 「大いに現実的なものとなり」のところが特に分からなくて、いきなり何で現実なんて出てきたのか何のことなのかサッパリ分からず、ずっとそこを見てはしかめっ面をしていました。 現実よりも現実的な、といいますが確かに良い小説は作り物なのに読者をその世界に取り込んで本当に体感させたり翻弄したり、架空のものを真実にしてしまっています。教えていただくまで全然考えたことが無かったのですが、それが読者の現実の部分や感情と一致してしていたからなんですね! で、カレーニンは深く考える能力に欠けていたから、現実の自分の境遇や他にある思想を併せて考え信仰を噛み砕いて理解しようとはせず、実は不合理なのにそのまま鵜呑みにしてしまった。 熱狂的にはなったけれども信仰を取り込んで自分のものにはしていない、ということですか!それが「現実的なもの」や「現実のとの一致」だったんですね。 すごくすっきりしました。気分爽快です! 本当にどうもありがとうございました!

その他の回答 (3)

  • neriy
  • ベストアンサー率41% (46/111)
回答No.3

ご質問の文章の範囲内だけの解釈ですので、ご参考程度に…。 「想像力」の深さ つまり、 「想像によってよび起される観念(直接体験したことではない事柄)がそれ(想像力)によって大いに現実的なものとなり、他の観念や現実との一致を求めるまでになる精神的能力」の深さ がまったく欠けていた。 「つまり」で文が繋げられていることと、「それ」が何を指しているかを考えると、文の意味が見えてくるのではないでしょうか。 カレーニンが上記のような性格であるので、続く文で示されている「新しい解釈によるキリスト教」の特徴をすんなりと受け入れる下地があった。ということですね。 質問文中の【】内の文を一言で言うなら「洞察力」かなぁと思います。

erisu
質問者

お礼

それ、が指していたものが想像力だったんですね。 それを用いて他の概念や現実と一致させるのがカレーニンに欠けていた能力。 洞察力が欠けていたので新しいキリスト教をすんなり受け入れられた。 洞察力と表すとすごく分かり易いです! どうもありがとうございました。

回答No.2

   枝葉根幹 ~ 森を見ず、木を読もう ~   ── カレーニンは【想像力の深さ=想像による観念が現実的になり、 他の観念や現実と一致する精神的能力の深さ】が欠けていた。(↓) ── カレーニンは【想像力=精神的能力の深さ】が欠けていた。    上記のように省略し、骨組をイメージしてから、前後の修飾を参考に しましょう。書かれた順序どおりに、理解できないことがあるからです。  また、つねに作家の意見が正しい、と思わないことです。    外国文学は、原文が難解であるよりも、訳文が不可解な場合が多いと 思います。訳者は(翻訳料が枚数に応じて支払われるため)読者に分り やすく省略するよりも、なにもかも訳してしまうからでしょう。  

erisu
質問者

お礼

翻訳料が枚数に応じて支払われる、というのは初めて知りました。 豆知識が増えました^^。 いつもいつも書かれた順序どおりで、というわけにはいないのですね。 これからは少し別の方向からも見れるように注意してみようと思います! ご回答どうもありがとうございました。

  • bakansky
  • ベストアンサー率48% (3502/7245)
回答No.1

分り難いです。私なら読み飛ばしてしまうかもしれません。 カレーニンという男は、要するに通俗的な人物だ、ということでしょうね。 抽象的な概念を、具体的に自分の生活や人生に重ねて、それを生きるという姿勢が欠如した人物。 具体的には、「信仰」というものについて書かれたものでは? 彼は、自分は義しい(罪から開放された/罪に毒されていない/まともな)人間であると、自分をみなすことができる。 彼にとって「宗教」とは、社会的な慣習のようなもので、我が身を神の前に曝し、峻厳な評価をされるということを現実問題として想像することが出来ない。 「信仰」と自分の生活・人生とは、別もの、切り離し得るものという感覚の持ち主(しかし、自分は「信仰」を持っていると思っている)。 そのことを、「想像力の深さ」「精神的な能力」の欠如という言葉で言い表したものではないかと「想像」しますが、この部分を読んだ範囲なので、おそらく浅い読みになってしまったかもしれませんし、的確な解釈をするのは、私にはむつかしい。こういうことではなかろうかという、おおよその「感じ」です。あるいは、見当外れかもしれませんが、「一解釈」として。

erisu
質問者

お礼

…今になってやっと理解できました! 一番最初に既に答えを戴いていたのに、私の理解力が…(涙) 一度理解してみると、回答者様の回答は答えそのものだったのだと分かりました。 正しい答えを目の前にしておきながら、分かりそうで分かんない…組み合わせて考えてみようか…、などと不埒なことを考えて首を傾げてしまっていて、本当に申し訳ないです。 信仰と自分の生活・人生を切り離して考えているのに、自分は信仰を持っていると思っている それが、現実と一致できていないということだったんですね。 分かりました。お蔭様で本当に理解するに至りました。 どうもありがとうございました。

関連するQ&A