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自分探しと自我の確立
私は洗礼を受けたばかりのクリスチャンなのですが、信仰に疑問を持ち、理屈っぽいキリスト教批判をして、牧師に相談しました。 もらった答えが「デカルトの発見した近代自我の常道であるところの自己から出発する思考は、どんなに突き進んでも信仰にいたらず、自分探しに終始します。救いを信じることから始めましょう」というものでした。 しかし私には、自我を超えて信じることも難しい上に、デカルトの「我思うゆえに我あり」さえも、それを前提にして、倫理や価値を見出していく自我を確立できずにいます。 生まれてから何十年間も、親や妻、周囲の倫理、価値を借りて生きてきたことに気づきました。親と絶縁後、昨年妻が亡くなり、しばらく時間を経て、気づくと道しるべを失ったように思います。日本人として、西洋における近代的自我さえ獲得できていなかったのでは、とも思います。 そういう悩みを哲学した方はいないでしょうか。何かこれから生きていくためのヒントを探しています。
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>「デカルトの発見した近代自我の常道であるところの自己から出発する思考は、どんなに突き進んでも信仰にいたらず、自分探しに終始します。救いを信じることから始めましょう」 牧師さんは、「自己から出発する思考」に対してあまりにも狭量すぎると言うか、やや過剰反応の誹りは免れないような気がします。 本当は、この「自己」の非実体性、虚妄性を明らかにすることで、デカルト的な「自己」から脱却する契機、すなわち信仰に向かうスプリング・ボードたらしめることができたかもしれないのに。 幸か不幸か、現代人を含む19世紀末半ば以降に生まれた人間の場合、たとえ「自分探し」の営為に底なし沼に陥る危険性が付きまとったにせよ、こうした試練を経ずして真の信仰を得ることができるかとなると、私には大いに疑問です。 真の信仰を得るためには、現代のわれわれとしては、一度は一種のニヒリズムの浄火をくぐり抜ける試練が必須なのかもしれませんね。 >私には、自我を超えて信じることも難しい上に、デカルトの「我思うゆえに我あり」さえも、それを前提にして、倫理や価値を見出していく自我を確立できずにいます。 19世紀後半、思春期のただ中にあったアルチュール・ランボーが恩師宛て書簡中に《Je est un autre.》(I is someone else.)と書いたとき、この少年の視線は、すでにデカルト的「自我」の殻を脱ぎ捨て、人間の知能が到達しうる地点のはるか彼方を凝視していたと思われます。 ランボーにとって真の「自我」があるとすれば、それは自然(世界、宇宙)と鋭敏に感応してやまなかった、神秘や謎に充ちた「我=他者(un autre)」に他ならなかったはずです。 こういう彼が、一時的に我こそ神の預言者、代弁者だと信じたとしても、彼は傲慢だったといった類の批判を誰がなしうるでしょうか。 もしかして、ランボーこそ最も神に近いところで生きたと言えるかもしれないのに。 >生まれてから何十年間も、親や妻、周囲の倫理、価値を借りて生きてきたことに気づきました。 こうと自覚のできる質問者さんは、すでに「近代的自我」の虜囚ではありませんし、思索する我を特権化せんとする妄執からも免れているのではないでしょうか。 ただ、私をも含めた現代人の場合、「自我」をこういう自意識や自己批評それ自体として捉えることで、つまり無限の反省する主体として再措定することで、「近代的自我」の限界を克服し得たように勘違いする恐れがなくもないですよね。 ここが受動的ニヒリズムの底なし沼に陥るかどうかの分岐点なのかもしれません。 >何かこれから生きていくためのヒントを探しています。 われわれは神から賦与された知能を最大限発揮できたにせよ、それはこの知能が到達した地点のはるか彼方に、この知能をもってしても如何ともしがたい未知の謎がチラチラ見え隠れするのをかろうじて感知するところに留まるのではないでしょうか。 そうと悟り得て、はじめてわれわれは自信をもって、自らを神に委譲するなり、神を否定するなりを選択できるのではないでしょうか。
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- wiz0621
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近代哲学は確かにデカルト先生から始まっているんですが、 それでも彼はキリスト教徒のままでしたし、神の座の存在を認めて いるんです。その思考はあくまでキリスト教の枠内で行われていました。 彼は始祖であっても、近代以降の思考すべてを一人で 構築したわけでは無いんです。宗教という呪いから人類を解放 したのは、その考えを受け継いだ多くの人々です。 そして、祖が同じであっても全て同じ結論に達したわけでもなく、 別の立場の思想が世の中には存在しています。 例えば。 宗教とは。死を賛美し、明らかな虚構・妄想により 権威付けを行う全くの呪いです。彼らが『福音』と称する書物の間に 矛盾点が多いのはそれが『弟子の著作物』であるからです。 救世主であることを否定した教祖の意思を、曲解し、捻じ曲げ、 自分の都合のいいように書き換える。共通するのはそれぞれの 弟子が自分の言葉の正当化の為に教祖を神と置いた点です。 その狡猾な保身と権力への執着の集積は、 まさに『禍音』とすら言えるのです。 ・・・という考え方に対して、キリスト教徒さんは必ず否定すると 思います。(しないと困ります。いや、ホントに。) 彼らの全ての前提を否定しているわけですし、そもそもこの文章には ある論述上のトリックがあって、正確ではないところもありますしね。 一方で、『我思う』という言葉があります。 "神の言葉"ではなく、"人間の言葉"です。(しかも性悪と評判の先生の。) そこに生じるのは"絶対"ではなく、"疑う余地"です。 この言葉により何が起こったのか。 それを耳にした多くの人が、その発想に対する無批判な賞賛だけを行った わけではありませんでした。加筆、あるいは批判、そして否定を行った のです。この一見相反する行為こそ、初めて各人の独自の意思や判断が 必要とされるのです。 これが、つまり『自我』なのです。 世に存在する倫理や価値というものは、まず考えを受け入れ、その上で その命題に対して肯定や否定を行うことによって成立します。他者との (深度ではなく範囲の)知識の差により、その解釈は違ったものになる ことでしょう。 もちろん、宗教家に自我が無いわけではありません。前述の宗教批判に 対する言葉に対して反論を持つからです。しかし、その疑い、反論する 対象に唯一の例外-教義-を置けと命じているわけです。あなたの考えを 神が超越しているのだから、あなたが及ぶべくも無いと。 ここに、ひとつの『自我』が死に絶えるのです。 私は、それは人の可能性の死滅でもあると考えています。 たとえ教祖や高僧の言葉であっても、完全に擁護・肯定できないのならば、 あるいは(神聖不可侵の教義に反することではありますが)否定しないの ならばそれを自我と呼ぶことは出来ません。 ここに必要なのは、考えを受け入れる器として、考えを測る物差しとして 存在するあなたの存在そのものであると思います。 宗教が生きることを罪と置き、死を幸福であると賛美するとしても。 あなたにとって死が悪いことであれば死を否定する。 これでいいのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 必要なのは「考えを受け入れる器として、考えを測る物差しとして存在するあなたの存在」とアドバイスいただきました。その結果が何であろうと自分の選んだ道というところでしょうか。 「物差し」欲しさに質問した私としては、少し突き放された感じもしますが、疑うことの意義や、無批判になることは自我の死を意味するということなど、かなり考えさせられるポイントを教えていただき感謝します。勉強になりました。
人は死ぬと肉体から魂が「幽 体 離 脱」して!自分の抜け殻とか周 囲を観察するという説がありますが、無意識にすること、理想概念でな い自律神経や感覚神経の作用的なものは本体(?)がさせているますが、 実は愛憎、美醜、善悪、正誤、自由、不自由、信じる、など概念が意識 に立ち上る時には自分を観察する自分が既に存在していて、自分を演じ させてその評価も自分が下しています。 なので概念は確立(した自己)があるのではなく「確立しているかのように演じるもの」です。 「自分が好き」ではないのでしょうか? 自分が好きとはどういうことかと考えていたのですが、「これをしてい ると楽しい」「あなたと居ると楽しい」「これって面白い~」というこ とで、自分の不足や悩み以外を楽しめ、その喜びを集めて、共有させた い仲間が居るなら、かなり自分が好きになれると思います。 理想的な自分探しを追求して極端な苦行で死ぬことはなくても、立派な 人とまで呼ばれなくても自分を好きには誰でもなれるし、そうなる生物 は自然にありふれていてあることで、必然であるしかない。 傍から見て「生きる意味探し」や「自己探求」などは、生身の人間より 名もない幽霊を探している人のようで、自然な生き方すら失いそうだと 思うのです。 演技力を付けるには崇高理想より経験値の多いことが有利で、失敗経験 の多さなら豊富な私ですけども(苦笑)悩んだり寂しいと心が痛むのは まだまだ発展成長していく証として自然の恩恵であると思ってます。
お礼
回答ありがとうございます。 「まずは自分を好きになること」をアドバイスいただきました。 たしかに、そうなれば悩みは限りなく小さくなるだろうと思いますし、それができる自信があれば、そもそもここで質問させていただくこともなかったかな、とも思います。私の悩みを言い換えれば、自分を好きになれない、ということでもあります。 しかし、自分が楽しむことを否定し勝ちな面も、たしかにあると思うので、意識的に楽しむことを大事にしたいと思いました。 ありがとうございました。
補足
回答ありがとうございます。 予想以上に、さまざまな角度から助言を頂き、ありがたい、そして興味深いと感じています。 前の方にもお知らせしたように、明日以降にお返事させていただきます。 ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.7です。 お応えを読みました。ありがとうございます。 ひとつの感触ですが そして結論からですが いまは哲学として進まれてはいかがですか。 どうもその道に向いておられるように思いました。 いま聖霊に後押しされて進むのも ご自分の力で――この場合は 知解力でだと思いますが――世界の認識を深めることをとおして進むのも あとになってみれば同じ道をたどってきたのではないかと・・・それはたしかに推量でものを言うことになっていますが でも・・・思える。こういうことなのかなぁと感じました。 わたしは 水による洗礼を受けていないキリスト者ですが(つまり自称のそれですが) かのキリストの神は ブッディストにもムスリムにも等しく雨を降らせると形容するかたちに帰着するでしょうから けっきょくは聖霊によるバプテスマがいまはなくても同じようなことになると考えます。 というふうにも――いささか 二股膏薬のごとく見苦しい判断が出てきましたが――考えます。 そのこころは クリスチアニスムに反するような・あるいは敵対するような立ち場にあっても 大きくは同じ生きるいとなみに属するであろうというところです。 あとはご自分のこころにも訊かれて決断されるとよいように思います。 こんな重大なことを二度のやり取りで言い放ってしまう自分に少し当惑しています。でもみなさんからのお答えもすべては助言であると受け取って進まれると思いますので 勝手に安心しています。 お応えによってはまた投稿いたします。 * 牧師さんは頼りになると思いますよ。
お礼
回答ありがとうございます。 こちらこそ、とても大事なことを安直にお聞きしているのですが、皆様からの助言はとてもありがたいです。 ご指摘のように、私も哲学(的な思考?)を通じて、疑い、吟味し、納得する道を選びそうな予感はしています。通る道は違っても、行き着く先は同じ生きる営みに属するというお話、興味深く拝読いたしました。 ありがとうございました。
補足
晩酌を始めてしまったので、とりあえずのお礼です。 ありがとうございます。 とても重要なポイントに関して、お話を伺っている印象です。 今日は、明日の礼拝に備えて早めに休みます。またお返事させてください。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 聖霊による洗礼は まだですか? 受けられるように待ちましょう。 風は気ままに吹くそうです。その風のことだそうです。 その息吹きを受けるなら 自我も確立します。わたしがわたしであると自覚できます。 ▲ 救いを信じることから始めましょう ☆ 《救い》とは何でしょう? ご存知なのですか? でしたら 《信じる》必要はありません。 風が吹き抜けたなら あぁ わたしは信じている・信じることができたと分かります。そのときを待ってみてください。 何をしたから風が受けられるのでもなく 何をやったから受けられないのでもありません。あなたの思考を超えています。それが聖霊です。 ◆ わたしはあわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者をいつくしむ。 ☆ とお読みになりましたか? 向こうから来るもののようです。 来ないひとには来ないでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 「精霊による洗礼」はまだです。というか、知識として知っていますが、本当のところ、よく分かっていません。 ☆ 《救い》とは何でしょう? ご存知なのですか? つい1ヶ月ほど前までは、恵みを受けるということも感じていました。それが今は「そう思いたかっただけなのではないだろうか」に変化しています。 ちなみに牧師からの正確な回答は 「救いを信じることから始めましょう」ではなく 「イエス・キリストから始めることです。神が、わたしたちにわからせようとなさって、啓示されたことから開始する方法が、われわれに与えられ、また勧められ命じられ、またわれわれにとって喜ばしき方法であると思います。」で、 かつ「長く時間がかかってもいいと思います。 牧師も、その道のりを、同伴します。」 と添えられていました。 ■来ないひとには来ないでしょう。 ここなんですよ。 もう来ないんじゃないか?という気持ちがあるんですよね…
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
心が不安定ですと、物事に集中することもできません。 牧師さんが‘救いを信じることからはじめよう’と言うのは心が安定するからではないでしょうか。 キリスト教では、神の前で懺悔し、そして神の救いを信ずること、それが救われる事になる。と言う教えでもあるかと思いますが、それを信じられれば、心は安定するのではないかと思います。 でも知識豊富で理性的になった現代人は、理屈で理解できないことは、なかなか受け入れられません。 私は仏教が肌に合うので、仏書から学んでいます。 そして今は心の不安定感はなくなりました。 心のよりどころを次のように受け止められたからです。 その心は、幼子が母親のみ胸にい抱かれて、安らいでいる世界、‘この幼子の世界’を人は神や仏に求めているのだと思えたときです。 こんな気持ちを神や仏に求めようと思えたら、不思議と迷いはなくなりました。 もちろん実生活においては、さまざまな悩みに直面しますが、‘自我の確立’と言ったような事柄に悩むことは今はありません。
お礼
回答ありがとうございます。 たしかに「理屈で理解できないことは、なかなか受け入れられません」 そして、いくら理屈をこね回しても、自分の拠って立つ場所、いわゆるアイデンティティー、あるいは倫理的な存在としての自分の確認、もできないように思えてきます。 やはり信仰に活路を見出すしかないのかなぁ、と思えてきましたが、まだ悩み続けるようにも思います。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
迷いの中の羊はどこまでも迷うのです。 その理由は心が迷っているから迷いから逃れられないということですね。 自我の確立も信仰も「我思うゆえに我あり」もつまるところ同じことなのですね。 それがわかるためには「心」に気づく必要があるのですね。 「心」とは、すなわち時々刻々と移り変わる「考え」のことですね。 あなたの時々刻々と移り変わる考え,これを「心の向かう先という意味で心の針」とも呼びますが、その針を特定の方向に固定できない状態を迷いというのですね。 また、逆説のようですがこの針は一点に止めてはいけないものでもあるのですね。唯一一点に止めてよい方向を「信仰」というだけなのですね。 あなたの心の針をあなた自身が制御する状態が、迷いのない状態、自我が制御できる状態(自我の確立)というのですね。 アドバイスとしては、天台チギの一念三千論(心の針は三千世界に通じる)でも読むと良いでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 「あなたの心の針をあなた自身が制御する状態が、迷いのない状態、自我が制御できる状態(自我の確立)というのですね。」 たしかに、そうなんだろうと思います。 「心」に気づくこと。「方向をそう定めて、考えてみます」で、また考えてしまったら、迷いは続くのですね。ちょっと難しいかな… 一念三千論は知りませんでした。ありがとうございました。
現代人は、脳の思考で、なんでも解決すると思ってますが、仏教では、自我を否定し、無我になれば救われると教えています。中国の老子は、脳の思考による人の知恵を、否定し無知をすすめています。人の心は、不調和世界の脳の自我と、調和世界の神の心である無我が、合体して出来ています。だから脳が思考してる時は、脳が、神の自然の情緒を遮断するので、ストレスが発生します。脳が休むと、人の心と神の心が交流するので、心が癒されます。だから人が幸せになるには、脳を自我を休める事が必要です。幸い日本には、脳を休める方法がたくさんあります。仏教では座禅があります。また日本の伝統文化は、脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを目的にしています。脳を休めると、神の心と交流するので心が癒されます。雅楽、平曲、文楽、能、狂言、日舞、演歌、民謡、茶道、華道、落語、短歌、俳句、源氏物語など
お礼
もう一度、良く読みました。 無我の境地になれとは言わないが、少し脳を休ませた方がいいですよ、と、そして仏教の考え方や日本の伝統文化をあげてアドバイスくださったのですね。 たしかに、考え抜いてドツボにハマっているのかもしれません。 回答ありがとうございました。
補足
説明が足りなかったようです。 私の言う自我には「倫理」や「価値」が含まれたもので、普通に社会と交流するための手立てのようなものです。例えばeyasi2012さんが「現代人は脳で考えるから休みが必要」と思っていらっしゃること自体を自我の働きと思っています。 また、私は、例えば仕事場で最近「何のために仕事をしているのだろう」と手が止まってしまうことが良くあります。振り返ると、以前はさまざまな理由がそれなりにあったのですが、それらが無意味に思えてきたのです。 実は、毎日複式深呼吸をして、ストレス解消を図っているのですが、リラックスしただけでは、「道」は見えてこないように感じて、何とかしたいと思っているのです。
No.2のつづきです。 読んでいると、戦後の日本の歩みと重なるように感じます。 軽武装と平和主義の枠組みを設定され、その中で薄い自我を発揮し 国際的に好かれるようになった。 ただ、国際情勢とアメリカが変質し軽武装と平和主義の枠組みが無効になり、途方にくれている。 個人的には、特定の国ではなく広い意味での国際社会に必要とされ貢献できる公共財的な国家になってほしいですね。 貧しくてもみんな好かれれば幸せなのが日本人と思いますから。 ヒントにでもなればうれしいです。
お礼
戦後の日本の歩み、似ているのかもしれませんね。 焼け跡で育ち、高度成長を担ったつもりが、定年になって、何もやることがなくなり、我に返ってみると、一体俺は何をやってきたんだろうと疑問に思うとか、ありそうですね。私の場合昭和30年代生まれなので、少し違いますが。 なんだか、古きよき時代の、例えば田舎の共同体の中で、それぞれ得意分野を活かしながら、助け合って「皆で生きてく」というような、戦前よりも以前、明治以前の日本文化が懐かしく感じられたりしますね。 少しほっとしました。ありがとうございます。
「我思うゆえに我あり」自体に誤りがあるらしいですよ。 最初に「我」を前提にしてますからね。 ですから、あまり自分を責めないでください。 あと、近代的自我ですが日本人の性質として薄いのでしょうね。 ただ、この性質は毒にも薬にもなりますから悲観することはないと思います。
お礼
デカルト流でなくても、とにかく、自分流の倫理とか規範を確立しないと、だらだら流されていくように思い、質問しました。 やはり、日本人には難しいのでしょうか。流されて行くように見えるのも人生ということでしょうか。 回答ありがとうございました。
あまり考えすぎないようにした方がいいように思います。パートナーを失うことは、人生の一部を失うことであり、人生の変化に戸惑うのは当たり前です。だからと言って、宗教や哲学に答えを探そうとしても答えは見つからないと思います。気持ちを楽にして、自然体で、やりたいことをやったらいいと思います。もっと身近に答えはあるのではないかと思います。
お礼
「パートナーを失うことは、人生の一部を失うこと」というのはよく分かります。十分苦しみました。そして元気を取り戻しつつある今、新たな問題、つまり「自我の確立」をずっと棚上げにしてきたことに気づいたというところです。 身近に答えが見つかるのかもしれませんが、今は神学に関する本、哲学に関する本、キリスト教だけでなく、仏教、ユダヤ教、イスラム教についても勉強しています。せずにいられないと申しましょうか。 回答ありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます。 疑いや自分探しには、ニヒリズムを通り越す試練がつきもの、というお話、ランボーを例に、我々人類の知力の果てへの指向といわゆる自我との対立のお話、そして私が近代的自我への囚われを超えていることへの示唆など、大変興味深く、そして勇気づけられるアドバイスをいただきました。 また、最後の3行ではそれ以上のもの(たとえそれが限界としても)をお示し頂いたと感じます。 ありがとうございました。